3280.日本思想の根源(中国思想)



世界の主流思想は、一神教的な思想を貫きギリシャ的な論理を発展
させた欧米の思想である。しかし、自然と人間を別のものとして考
えることや論理中心であり、経験や感覚を重要視する中国的な思想
を排除してきた。それが欧米の行き過ぎた行動や自然破壊、人間破
壊になって現代の病根として、世界の文明的な衰退になっている。

日本は中国の影響を受けて、または中国の受け入れた思想や宗教を
中国を通して日本は受け入れている。そして、その思想や宗教を日
本風に解釈し直し、日本の思想として再構築している。この過程で
非論理の中国的な思想から論理性を入れた欧米人にも分かる思想に
転換されている。

このため、日本の思想を見るとき中国の思想や宗教史を知らないと
、日本の根元がわからないことになる。欧米思想の限界が明らかに
なり、新しい世界的な思想を必要としている。この指導的な立場に
日本はなると見ている。このため、日本の思想的な面をよく知り、
かつその発展系を見ることが重要になっている。

ということで、今回は中国の思想を日本がどうのように受け入れ日
本の思想としたかを見たいと思う。
                 津田より

0.中国思想の特徴
 全般的な中国の特徴を見ると、
0-1.科挙があり知識人がその科挙を受け、官吏になるために、思想
が世俗的で現実的な傾向になる。科挙での出題項目が法律や経理な
ど実学ではなくて、儒学と文学であったためであり、文化を官吏(
士大夫)で独占したことで、政治的になった。
   
0-2.祖先崇拝ではあったが、死者崇拝ではなく、現世利益が中心で
あり、このため、無神論に近い。

0-3.孤立語という中国語の構造的な問題から論理的な思考が欠如し
ている。語の位置だけで動詞でも名詞にもなる構造であり論理学で
は語を結びつけるセメントが重要であるが、それができない欠陥が
ある。

0-4.このため、論理的思考ではなく体験的直感を重視した。これが
、禅や浄土教を作り、中国全土で流行した。

0-5.現実的な儒学に対して、中国の哲学としては老荘思想、宗教面
では仏教が人間の生死などの面を担った。

1.天の思想
 中国思想の基礎は天の思想であり、時代を超えて生き続けた。こ
の起源は遊牧民族であろうが、非人格の神であり、天とは自然現象
や万物の法則であり、人間に宿る天性といった意味や運命と言う意
味での天命になっていく。そして、天命という言葉には運命と使命
という意味の二義が含まれることになる。

この天の思想から、日本では天皇が生まれる。道教から神道が生ま
れたことで天の思想は日本にも来ている。

2.諸子百家
 紀元前11世紀から始まった周は、前8世紀から春秋戦国時代に
なり、諸侯が群雄割拠の状態になった。周の支配体制は封建制であ
ったが、諸侯と婚姻関係を結び支配しようとしたが、世代が代わる
と、徐々に実力本位になっていく。戦国時代になり、多数のインテ
リ浪人が発生した。中国は広いので戦闘能力より政治・経済力のほ
うが重要であり、文人(インテリ)を重要視した。

2-1.孔子、孟子、荀子(儒家)
 孔子は常識の中にある真理を求めて、儒教としたように感じる。
偉大な思想家に共通である常識の否定がない。そこに特徴がある。
儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することに
より五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを
教え、孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられ、現在基本の
書となっている。中ほどであれという中庸なども重視した。このよ
うな道徳を基にした政治を目指した。

孔子の死後、儒家は八派に分かれた。そのなかで孟子は性善説を唱
え、 孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義
の思想を主張し、荀子は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。

また『詩』『書』『礼』『易』『春秋』といった周の書物を五経と
して儒家の経典とした。日本には江戸時代に庶民まで寺子屋で教育
された。この論語教育が日本人を礼儀正しい民族にしたとも言える。
しかし、戦後、論語を封建主義をして教育されなくなって、日本人
は劣化しているように感じる。

2-2.韓非子(法家)
性悪説の荀子に学んだとされるが、定かではない。韓非子の生国韓
はこの秦の隣国で強い影響下にあり韓が併呑されそうなので、自ら
の思想を形にして残そうと『韓非子』を著作した。そして、韓から
秦に派遣されたが、秦で韓非子は牢につながれ自殺した。

儒家と墨家の思想が客観的に真実であるかどうか検証不可能である
ことを指摘して、法律とその適用を厳格にしさえすれば、客観的に
政治は安定するとした。

戦国末期の列国は、従来の封建国家の組織では存立していけないこ
とを自覚したことで、新しい原理を探していた。それが法である。

秦の始皇帝に法家思想が採用された。しかし、秦はわずか15年で
滅んだが、焚書坑儒として他の諸子百家は滅んだ。

2-3.墨子(墨家)
墨子によって興った思想家集団であり、博愛主義(兼愛交利)を説
き、またその独特の思想に基づいて、武装防御集団として各地の守
城戦で活躍した。

2-4.老子、荘子(道家)
老子思想の原理は万物の根本を道で表わし、道とは全ての存在を規
定する原理であると同時に、それら全てを生み出した母なる存在で
もあると。人為を廃し自然であることが道に通ずるとし、このよう
な態度を無為自然といい、処世から統治まで全てに適用すべきとし
た。この中に「足るを知る者が富む」など寡欲も説いている。

荘子の思想は無為自然を基本とし、人為を忌み嫌うものである。荘
子は徹頭徹尾俗世間を離れ無為の世界に遊ぶ姿勢になっている。

2-5.陰陽五行思想(陰陽家)
陰と陽とは互いに対立する属性を持った二つの気であり、万物の生
成消滅と言った変化はこの二気によって起こるとされる。
五行思想(ごぎょうしそう)または五行説(ごぎょうせつ)とは、
古代中国に端を発する自然哲学の思想で、万物は木・火・土・金・
水の5種類の元素から成るという説である。

2つの理論が合体して陰陽五行説となり、その基本は、木、火、土
、金、水の五行にそれぞれ陰陽二つずつ配する。甲、乙、丙、丁、
戊、己、庚、辛、壬、癸、であり、訓読みにすると、きのえ、きの
と、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みず
のえ、みずのと、となり、五行が明解になる(かのえ、かのと、は
金)。しsて、八卦、風水などの易に使われる。

5世紀から6世紀に日本には暦法などとともに伝わり、律令により陰
陽寮という役所が設置された。その後、道教の道術を取り入れて、
陰陽道へと日本独自の発展をした。

3.秦・漢の思想
紀元前221年に秦の始皇帝が中国を統一する。秦は王朝による天
下支配の根本機構を確立した。封建制を廃止して、中央集権の郡県
制にして、官吏を任命して地方官として派遣する。明治政府が行っ
た廃藩置県を紀元前に行っているのだ。秦を次いだ漢王朝がこの体
制を整備した。官吏は一般の庶民でもなれる。法家だけでは支配が
出来ないと見て、儒学一尊の原則として固定した。

儒教は「修身斉家、治国平天下」であり、道徳の教えであり、もっ
とも官吏にはふさわしい思想であった。漢の武帝になって儒学一尊
の原則を確立したが、それまでは道家思想が全盛期であった。そし
て儒学では五経を制定する。

3-1.王充
虚妄的な儒学の尚古思想を一蹴し、合理的に物事を究めようとする
立場で、死後の霊魂の存在を否定して、善人が不幸な生涯を終える
としてもその不合理性を購うことはできないとした。このように儒
教の人生観の内に隠された悲劇性を明確にした。

4.六朝時代の思想
220年に後漢が滅んで、魏、呉、蜀の3国に分裂した。589年
隋統一までの370年間を六朝時代という。

仏教が中国に広まるのは、307年永嘉の乱以降であり、匈奴に追
われた漢民族が江南の地に逃げてきたときである。中華思想で仏教
をそれまでは受け入れなかった。しかし匈奴に追われたという打撃
で仏教の受容機会をもたらした。人間の内面に中心をおくインド仏
教が爆発的に広まった。仏教の根本思想が老荘思想の「無」に近い
「空」であることで理解できたようだ。

特に輪廻思想に共感した。人生は現世だけではなく、来世もあると
いうことと、前世の行為の善悪が現世の禍福をもたらし、現世の善
悪が来世の禍福を招くという因果応報の理に大きな衝撃を受けた。
この因果応報の理は儒教の絶望的な人生観を仏教で解決することに
なった。

道生が一挙に悟るという頓悟を主張した。中国人は論理が苦手であ
り、直感による体得ができるというので頓悟説が優位になる。

道教も六朝時代に成立した。神仙説や民衆信仰とが結合して体系を
整えたので、道家の思想ではない。

5.隋・唐時代の思想
仏教の黄金期であった。この時代、日本は遣唐使を送り、仏教を吸
収したが、絶妙のタイミングであった。唐時代は密教などのいろい
ろな宗派があったが、唐以後に残ったのは仏教の内、浄土教と禅宗
だけである。この2つは両者とも理屈がきらいであることで、もっ
ぱら念仏や座禅という実践を重んじたものである。

6.宋時代の思想
 宋は、士大夫が科挙で厳格に選出されて、士大夫の門閥貴族化が崩
壊して、また儒学が復興する。

6-1.朱子
 朱子は中国の宋代の儒学者である朱熹(しゅき 1130年 - 1200年
)の尊称。儒教の体系化を図った儒教の中興者であり、いわゆる「
新儒教」の朱子学の創始者である。

朱子はそれまでばらばらに学説や書物が出され矛盾を含んでいた儒
教を、程伊川による理気二元論である性即理説(性がすなわち理で
あるとする)、仏教思想の論理体系性、道教の無極及び禅宗の座禅
とは異なる静座という行法を持ち込み、道徳を含んだ壮大な思想に
まとめた。そこでは自己と社会、自己と宇宙は、“理”という普遍
的原理を通して結ばれ、理への回復を通して社会秩序は保たれると
した。「格物致知」といい、内外の理を正確に知ることが重要とし
た。

なお朱子の言う“理”とは、「理とは形而上のもの、気は形而下の
ものであって、まったく別の二物であるが、たがいに単独で存在す
ることができず、両者は“不離不雑”の関係である」とする。また
、「気が運動性をもち、理はその規範・法則であり、気の運動に秩
序を与える」とする。この理を究明することを「窮理」とよんだ。

日本でも、徳川幕府のイデオロギーとして尊重された。

6-2.陸象山
 陸象山の思想は「心即理」ということばで特徴づけられることが
多い。心を分析してその中に性・情や天理・人欲を弁別することを
良しとせず、心そのものが「理」であると肯定した。象山の思想を
心学と称する所以である。

7.元・明時代の思想
元時代の思想は不振であった。明になると、「格物致知」の朱子学
から知行合一の陽明学になる。

7-1.王陽明
朱子学を批判的に継承し、学問のみによって理に到達することはで
きないとして、静坐など実践を通して心に理をもとめる実践儒学と
した。

南宋の陸象山の思想を発展させて、「事物の理は自分の心をおいて
なく、それ以外に事物の理を求めても、事物の理はない」という、
心即理を明らかにした。また、天地に通じる理は自己の中にある判
断力(良知)にある(良知を致る=致良知の説)と主張した。また
、知と行を切り離して考えるべきでないという知行合一を主張した。

この陽明学は、江戸時代の日本にも伝えられ、幕末の倒幕運動の指
導者である大塩平八郎や吉田松陰らが、陽明学の心即理を理念にし
て行動した。

8.日本の思想は
孤立語主体の中国語と違い、日本語は微細な感情や論理を表現でき
る接尾語などを持ち、中国語に比べて論理や微細な表現ができる。
また、日本は貴族、その後の武士など固定された特権階級が支配し
たので、現実的な政治より人生をいかにいきるべきかという哲学的
な面の発展が中国よりあったのである。老荘思想の影響もあったと
思うが「徒然草」などの自然と人間を考察した独特なエッセーが出
た。

もう1つは、江戸時代では文字を読める日本人は80%以上であり
、中国や朝鮮と違い、江戸時代では一般的に論語教育がされていた。

このため、中国の思想が独自に発展して、商家から出た石田梅岩の
石門心学や農家から出た二宮尊徳の報徳思想など、いろいろな階層
から独自の論理を展開した思想が出てくる。

また、日本は中国の仏教を入れて、論理化している。禅では道元が
論理化しているし、最澄が持ち帰った天台でも密教化して、鎌倉仏
教に大きな影響をしている。

そして、日本の方が中国より仏教が盛んである。この伝承という意
味では、唐時代しか伝承できなかったという意味で、日本仏教は遣
唐使をジャストタイミングで送っている。日本では中国と違い、密
教、禅宗、浄土教、鎌倉仏教などが出て、中国に比べても多様な仏
教になっている。特に天台密教の摩訶止観が後世に大きな影響を与
え、石門心学ができ、現在日本人の勤勉さをサポートしている。

9.世界に向けて
このように世界的に理解可能な論理化が中国語と違い日本語はでき
る。中国流の直感と欧米流の論理をどちらもできることで、日本は
直感や経験と論理を橋渡しした新しい思想を生み出す母体を持って
いるように感じる。それが日本人が世界で活躍する知恵の源である
と感じる。

さあ、日本で世界に通用する知恵・思想を作ろう?


コラム目次に戻る
トップページに戻る