3255.報道と選択について



報道と選択について


                           日比野    

1.WBC後遺症

報道とその選択について考えてみたい。

侍ジャパン戦士にWBC後遺症が襲い掛かっているという。

イチローは3月30日の試合で眩暈を覚えて途中交代。そして4月
3日には、胃潰瘍でDL(故障者リスト)入りしてしまった。

阪神の岩田稔投手は凱旋帰国後、左肩痛に襲われ、ヤクルトの青木
は、筋肉痛と発熱でオープン戦を2試合連続欠場。そして岩隈は調
整登板なし、ぶっつけで開幕を迎えるという。

ことほど左様に国際試合というものは選手に負担を強いるのだろう
。今回のWBCでは真剣に準備して戦ったのはアジアのチームくら
いで、辞退者が相次いだアメリカは全然本気ではなかったと言われ
ている。勿論、代表選手自身は真剣に闘ったに違いないのだけれど
、あそこまで辞退者が出たというのは、公式戦への影響を考えての
ことであるのは疑いない。

それに対して、メジャーは少し趣きが違うようだ。松坂に関しての
興味深い記事があったので少し引用する。


 アメリカから伝えられたショッキングなニュースだったのが、WB
 C2大会連続MVPの栄誉に輝いた松坂の先発3番手降格。しかし、松
 坂は覚悟していたフシがある。スポーツ紙記者の話。

 「球数を厳しく制限されていたのに、松坂はキャッチボールに見
 せかけるなど、隠れるようにして投げ込んでいた。それをわれわ
 れ、日本のマスコミが書いたのですから、球団サイドに伝わらな
 いはずがない。3番手は言ってみればペナルティ。個人主義の国
 だけに逆らえばどうなるかを、チームメートに示さなければなら
 ない。松坂は日の丸のためなら、それでもいいと腹をくくってい
 たでしょう」

 WBCの主催者は、米メジャーを統括するMLB。だから、投手に関し
 ては球数制限や登板間隔など厳しい制約があった。投手の肩を消
 耗品と考える大リーグならでは。そこに、長嶋茂雄氏が言うよう
 な“フォー・ザ・フラッグ”はない。

引用先 内外タイムス URL:http://npn.co.jp/article/detail/00269195/


ここで興味深いと筆者が感じたのは、球数制限があったにも関わら
ず隠れて投げ込んでいた松坂がペナルティとして先発3番手に降格
したこともさることながら、隠れて投げ込んだ事実を日本のマスコ
ミが書いたこと。

さて、マスコミはWBCで松坂が隠れて投げ込んだ事実を書くべき
だっただろうか、それとも書かずに伏せておくべきだっただろうか。



2.『避諱』という概念
 
葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰わく、『吾(わ)が党に直躬
(ちょくきゅう)なる者あり。其の父、羊を攘(ぬす)みて。子こ
れを証す。』

孔子曰わく、『吾が党の直(なお)き者は是れに異なり。父は子の
為めに隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の内に在り。』

《葉県(しょうけん)の長官が孔子に、「私の村にはとても正直な
人物がいて、父親が他人の羊を盗んだ時にそれを告発しました」と
言った。
孔子は「その人物を正直とは思いません。父は子のために隠し、子
は父のために隠す、これが本当の正直というものです」と答えた。》

『論語 子路第十三の十八』より


儒教の根本に忠・孝・礼・仁は良く知られているけれど、そのほか
にも“避諱(ひかん)”という重要な項目があるという。
 
“避諱”とは、恥となる物事を隠すこと。それも自分の恥ではなく
て他人の恥を隠すことを言う。 
 
『日中戦争―戦争を望んだ中国、望まなかった日本―』の著者でも
ある林思雲氏によると、中国の伝統的な考えでは、偉大な人物の恥
部や優れた人物の失敗はできるかぎり隠蔽するのが道徳的な行いだ
という。それを理解できない日本人は、中国人は嘘を平気でついた
り事実を誇張すると言うのだ、と。

ここで先に触れた、松坂に対するマスコミ報道について振り返って
みる。実は、松坂が隠れて投げ込んだ事を日本のマスコミが報道す
ることの是非は、この“避諱”に関係している。

松坂が隠れて投げ込んだ事を報道したマスコミを是とする人は、個
人の判断で契約違反をした咎は個人で追うべきだし、それを包み隠
さず報道するのはジャーナリストとしての責務であるという西洋的
価値観を持っていることになるし、報道を控えるべきであったと思
うのならば、意識するしないに関わらず、その人は中国的“避諱”
の考えを持っていたということになる。

もちろんどちらかが一方が100%YESで、もう一方は完全にN
Oとはならないことだってあるだろう。もし何割または何パーセン
トかの割合で、伏せても良かったんじゃないか、と思うのならば、
同じ程度の割合でその人は中国人的要素を持っていると言っていい
のかもしれない。

更には、この隠れて投げ込みした報道についてマスコミは松坂に謝
罪すべきだ、とまで考えるのであれば、それはかなり中国人の思考
や行動様式に近いのだと思う。

果たして、今の日本人はこの設問に対してどういう反応を示すだろ
うか。

もし、ほんの少しでも“避諱”を理解できるのであれば、その分だ
け中国人を理解するよすがにはなるだろう。それを受け入れる、受
け入れないは別として。


 
3.避諱を既成事実にするとき
 
避諱も度を過ぎれば当然反発を受ける。避諱の内容が国家の利益を
損なう内容であれば尚更そう。

避諱はどこまでいっても嘘とゴマカシに過ぎないから、真実を突き
つけられるととても困る。だから避諱を貫き通そうと思えば、真実
を知る相手を黙らせるか、避諱した嘘を嘘のまま認めさせるしかな
い。

相手がどうしてもこちらの言うことを聞かなければ、避諱を主張す
るだけ主張しておいて、相手の反論を一切聞かずに認めないように
するか、そういう話は後世の知恵に任せようとかなんとか言って先
送りしたりする。

そのまま知らぬ存ぜぬで放置するだけなら、まだ可愛いものなのだ
けど、往々にして自分に都合の良いように『避諱プロパガンダ』を
やって既成事実にしてしまうことがあるから始末が悪い。

それに対抗しようと思ったら、『避諱プロパガンダ』が行われる間
中、ずっとこちらも『真実プロパガンダ』を行う必要がある。

先ごろ、来日した中国共産党の宣伝担当でナンバー5の要職にある
李長春政治局常務委員が、3月30日に日本の通信社・新聞社・テ
レビ局14社の社長ら首脳と懇談し、両国国民の相互理解に向けて
「良好な世論を作るよう努力してほしい」と求めたと報道されてい
る。

「相互理解」と「良好な世論」は別のもの。相互理解できたからと
いって、互いの関係が良好になるとは限らない。

たとえば、毒餃子事件なんかは典型的。中国側の自分たちは悪くな
いと最後まで言い張った一連の対応は、あれも一種の「避諱」だと
解釈することもできる。

仮に、あの対応を「避諱」なのだと理解できたとしても、毒入り食
品なんて、命に関わることだから中国食品は危ないという世論が出
来上がることは正当なこと。どう言い繕おうと中国食品を扱う食品
メーカーはそれを払拭する努力をしなくちゃいけないことに変わり
はない。

世論は、世の中に流れている情報から形成されるけれど、あくまで
もその主体は国民であって情報を流す側じゃない。だけど国民の圧
倒的多数は記者ではないから、普通は流される報道以外で、判断す
る材料を得ることは難しい。その情報が偏っていると、下される判
断も当然偏ってしまうことになる。それだけマスコミの責任は重い。

だからもし、李長春氏の良好な世論を「作れ」という要求をマスコ
ミが飲んでしまったら、それは都合の悪いことは隠して、都合の良
いことだけ報道する、いわゆる「避諱」報道をしてしまう可能性を
高めることになる。

4月1日の「人民網日本語版」によると、李長春氏は日本のマスコ
ミに対して、「両国間の協力の強化にプラスとなるニュースを多く
報道し、両国の戦略的互恵関係の推進にプラスとなる情報を多く提
供すること。」などと具体的な要求をしたという。

日中関係の強化にプラスとなるニュースとは一体何なのか、という
定義をはっきりさせないことには何とも言えないところはあるけれ
ど、少なくとも「プラスとなるニュースを多く報道し云々・・」な
んていう注文は、裏を返せば都合の悪い事は報道するなということ
。だから、事実上「避諱」報道を要求しているのと殆ど変わらない。

今回はこうした李長春氏とマスコミ各社の懇談があったという報道
がなされたからまだ良かったものの、たとえば「良好な世論を」と
いう李長春氏の要求があったことや、懇談があった事実自体を隠さ
れて、報道されなかったらどうなっていただろうか。

少なくとも中国関連情報に対する、国民の警戒レベルが上がる可能
性は無かったであろうことは想像に難くない。


 
4.ネット工作

朝日新聞社内のパソコンから2ちゃんねるの掲示板に、部落差別や
精神疾患への差別を助長する内容を含んだ投稿がされていることが
分かって少し騒ぎになっている。

朝日新聞も調査の結果その事実を認めて謝罪しているけれど、発端
はどうやら「2ちゃんねる」側が、朝日新聞社からの書き込みを規
制したことにあるようだ。

普段、差別問題を取り上げ、インターネットでの中傷被害を記事に
して、匿名に乗じた小心者が振り回す言葉の暴力だとネットを非難
していた当の新聞社が、中傷書き込みを行っていたことには、開い
た口が塞がらないのだけれど、今回の問題はネットにも工作活動が
行われる、または行われていた可能性を浮き彫りにした。

もちろん、これまでにもネット界隈、特に2ちゃんねる内には特定
の工作員が暗躍してるんじゃないか、とは言われていたのだけれど
、それを裏付ける形になってしまった。

李長春氏の良好な世論を作れというマスコミへの要求と、朝日新聞
社内からの荒らし行為発覚が同日に報道されたのは偶然の一致にし
ては少し出来すぎている感がしないこともないけれど、同じ時期に
これらがセットで出てきたら、メディアが特定国の意図を受けて、
工作活動するんじゃないかと、報道に対する警戒心が出てくるに決
まってる。

もし、本当にメディアがネット工作を行なっていたとなれば、報道
機関はますますその信頼を失うだろう。

ただひとつだけ、評価する部分があるとすれば、「良好な世論を」
という李長春氏の発言を隠さなかったことと、朝日新聞が2ちゃん
ねるへの荒らし行為を自社内で調査して、それを認めて謝罪したこ
と。

意図してなのかそうでないのか分からないけれど、表に出てきた現
象だけ見ていても、なにかギリギリのラインで思想工作にブレーキ
が掛かっているようにも思えてくる。

もしかしたら、水面下で激烈な思想戦が行なわれているのかもしれ
ない。
 


5.公私混濁からの脱却

林思雲氏が述べている「避諱」を表しているとされる論語の「子路
第十三」のやりとりをもう少し詳細に見ていくとあることに気づく
。公(おおやけ)と私(わたくし)の問題がそれ。

葉公と孔子のやりとりは、親と子という肉親の間柄での話。公私で
いえば、極めて「私」に近い領分での例。

このやりとりは、親子のような極めて私に近い関係の中で、どこま
で厳格に公のルールを適用すべきかどうかの問題に帰着してゆく。

たとえば、子供のおやつのクッキーを親がひとつ食べてしまって、
それを見た子供が裁判所に訴えたとする。法を最高に厳格に適用す
るならばこうしたこともあり得るのだけれど、親子関係を壊してま
でもそこまでやるべきなのかどうかという問題。

孔子の言いたかったことは、いわゆる家族愛であって、互いに支え
あって生きてゆくことが大切だということではないだろうか。

だけど、こういった「私」に関わる家族愛としての「避諱」は、そ
の人がどこまでを「家族」と思うかによってその適用範囲が変わっ
てくるという問題を抱えている。

もちろん、家族の中には親子であっても勘当して別れ別れであった
り、兄弟喧嘩なんかして互いに憎しみあっているような、血は繋が
っていても全く別人のような関係もある。そうした関係の中ではク
ッキーひとつで本当に訴えられてしまうことだってあり得る。

だから、家族愛としての「避諱」の適用範囲は、自分にとって他人
をどこまで「身内」と考えるかによるのだけれど、極端な話、知り
合いなら誰でも身内だとするなら「私」が「公」全体にまで拡大さ
れて、公私の区別はなくなってしまう。

現実には、そこまで極端な例はないだろうけれど、例えば、国家指
導者や高名な学者、オリンピックの金メダリストなんかの様に国民
的英雄になると、自分は知っているし、世界に誇れるし、気分がい
い。

だからそうしたヒーローと自分は本当は会ったことすらないのに、
勝手に自分の身内だと思ってしまうことだってあるかもしれない。
ここまでくると、公私混同というか、自分と他人がごっちゃになっ
た「公私混濁」のような状態。

そうしたとき、自分が勝手に身内と思い込んでいるヒーローが、不
祥事を起こしたりなんかすると「避諱」の情から守ってあげようと
嘘をつくかもしれない。そんな心理が働く事は理解できなくもない。

だけど、そうした勝手な思い込みによる「避諱」が社会全体に蔓延
すると、売買行為などのように自他の関係を明確にする「契約概念
」が成立する余地はどんどん無くなってゆく。「避諱」は契約を前
提とする現代の資本主義社会にはあまり馴染まない。

林思雲氏によれば、今の中国人は、虚言は現代社会と両立しないと
いうことに気がついていて、近年“誠信(誠実と信用)”というこ
とがしきりに言われているという。そして、中国人の思想や思考様
式は次第に避諱から離れる方向へ発展し、“誠信”へと近付きつつ
あると締めくくっている。

だけど、避諱から離れて誠信へ向かうためには、いかにして公私の
区別をつけるか、本当の意味での個の確立を如何に作っていくかに
かかっているように思う。
 
(了)



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