3222.人類と科学と信仰と



人類と科学と信仰と
From: tokumaru 

みなさま、

今日のタンパク質の話と関連して、ノーバート・ウィーナーと、フ
ランソワ・ジャコブの言葉をご紹介します。

得丸


ノーバート・ウィーナー「人間機械論(第二版) 人間の人間的な利
用」(みすず書店2007年, 原1950)の結語

 科学は、人間が自由に信仰をもつことができるときにのみ繁栄す
ることができる一つの生き方である。われわれが外から課された命
令に基づいて従うような信仰は、じつは信仰ではなく、そのような
擬信仰に依拠する社会は、健全に成長してゆく科学を欠くために化
される麻痺によって結局は崩壊せざるをえない。

フランソワ・ジャコブ「ハエ、マウス、ヒト 生物学者による未来
への証言」(みすず書房、2000年, 原1997)「結論」より

 科学はつぎのようなタイプの問いを検討することができない。
生命の意味とはなにか? すべてはどのようにして始まったのか?
 われわれは地上でなにをなすのか? というような問いである。
科学はそのような問いになにもいうことができない。それに答える
にはどんなジャンルの科学が発達すればいいかすらわからない。
ある一分野がすべて、科学的探究から除外されている。この世の起
源、人間の条件の意味、人間の「宿命」にかんする分野である。
そうした問いがつまらないからではない。わたしたちの誰もが、い
ずれ自分にその問いを問うのである。しかし、カール・ポパーが
「究極的」と呼ぶそうした種類の問いは、宗教や形而上学、そして
詩に属するものである。(略)

 二十世紀という、この科学的探究の世紀最大の発見は、わたした
ちが自然について実は何も知らないということであろう。(略)

 わたしたち人間は核酸と記憶、欲望とタンパク質のとんでもない
混合物である。二十世紀は核酸とタンパク質に大いに関わった。
二十一世紀は、記憶と欲望の解明に全力を集中することになるかも
しれない。しかしはたして、そのような問題は解決できるであろう
か? (結語)


以上

コラム目次に戻る
トップページに戻る