3191.オバマ大統領の一字



オバマ大統領の一字 


                           日比野

1.オバマの一字

オバマ大統領の一字を考えてみたい。

「リベラルなアメリカがあるのではない。保守的なアメリカがある
のではない。あるのはただアメリカ合衆国なのだ。黒人のアメリカ
や白人のアメリカ、ヒスパニックのアメリカやアジア人のアメリカ
があるのではない。あるのはただアメリカ合衆国なのだ。」

いまや名言として語り継がれる、オバマ大統領の演説の中の一節。

オバマ次期大統領の演説は、分かり易く、格調高い言葉で綴られて
いる。

YOUTUBEで演説の動画などをみるだけでも、その人格の高潔
さが窺える。

オバマ次期大統領の一字は、自分自身のイメージを顕す「内なる一
字」と、表に見え、行動となってあらわれる「外なる一字」の二つ
あるように思える。

その内なる一字は「孤」。外なる一字は「共」。

単なる印象にしか過ぎないのだけれど、一見相反する概念のように
みえる「孤」と「共」が共存している。

アメリカを愛し、国民を愛し、彼らと共にあらんとする意識。それ
が自らの行動原理になっていると同時に、彼らを守るために、自分
の命を捨てているようなところさえ感じる。

孤高の士、プレジデント・オバマ。

チェンジの為には死んでも本望だというくらいの孤独と決意。

特定の団体のためではなく、特定の人種のためでもなく、特別の誰
かのためでもない、ただアメリカと共にあるという意識。

だれからも縛られないがゆえに、かなり思い切ったことをやりそう
に見える。
 


2.オバマ大統領の生い立ち
 
孤高の士、プレジデント・オバマ。

彼の生い立ちは、確かに「物語」としか思えないほどのもの。

オバマ次期大統領は、1961年8月、ケニアからの留学生だった
父とカンザスからハワイ大学に勉強にきていた母との間に生まれた
。2歳の時に両親が離婚、後に再婚した母とインドネシアで幼少時
を過ごしたのち、ハワイで小青年期を送る。

コロンビア大学卒業後は、シカゴへ移り貧困に苦しむ黒人たちに助
けを差し伸べるNPOのコミュニティグルー

プで働いた。

2000年に下院選挙に立候補しようとしたが、他の黒人候補に敗
れる。2004年上院議員の席が幸運にも空くチャンスに恵まれ、
選挙に勝利。見事に上院議席を射止め国政の舞台へ。

ワイキキの中流家庭に育ちケニア人学者の父を持った彼は、ハーレ
ムやデトロイトで育った同胞とは違うと感じていたという。

また、少年期は、特に肌の色の違いを感じることはなく劣等感も植
え付けられなかったのだけど、成長していくうちに自分が黒人であ
ることを嫌でも認識せざるをえなくなり、マリファナやコカインに
も手を出したこともあったというから、多感な青年期での体験がオ
バマ次期大統領の人格形成に大きく影響を与えたであろうことは想

像に難くない。

黒人だけど、白人のように育ち、かつ移民でもあるという、あたか
もアメリカを体現したような人物であるということ。

だから、おそらくオバマ次期大統領にとって、他者の存在は、その
肌の色であるとか、肩書きであるとか、財力であるとか、家柄であ
るとか、そんなものは全く意味をなさず、ただ相手の人格そのもの
がすべて。その人物が信頼に値するかどうかは、その人格そのもの
で判断されるように思えてならない。

国と国の外交交渉なんかを考えるとき、互いの立場や背負ってるも
のを守るために、駆け引きをすることは当然あることは、あるのだ
けれど、それ以上にカウンターパートナーとなる人物そのものの確
かさ、人格こそによって信頼を勝ち得るように思える。

言ってることと、腹の中で思っていることが違うような輩は、オバ
マ大統領のカウンターパートナーにはなり得ないのではないか。



3.ブッシュからオバマへ

オバマの一字である「孤」と「共」は、一見相反する概念のように
みえるけれど、それが共存できるかどうかは、おそらくその「共」
の範囲で決まる。

オバマが自身で共にあらんとしている「共」がどの範囲の人々や国
家を指しているかは、とても重要。

黒人を中心とするマイノリティなのか。

人種に関わりなく、ただアメリカ国民なのか。

それとも、アメリカとその同盟国なのか。

はたまた、全地球までその「共」の範囲なのか。

もしも「共」だと意識している何某かの範囲があったとしたら、そ
の「共」の共通利益を守るための働きをする

のは当然だとして、それ以外のところ、「共」の範囲外はどういう
扱いになるのか。

理屈上は対象外であって敵でも味方でもない存在になるのだろう。
自らに危害を加えるのであれば反撃するけれど、そうでない限りは
ほったらかし。

であれば、「共」範囲外の国家や人々からみればモンロー主義のよ
うに見えるだろう。その意味では内からみれば「共」であるけれど
外からみれば「孤」になっている。

余談ではあるけれど、ブッシュ前大統領の一字は何であったかと考
えてみると、ブッシュの一字はやはり「使」であったように思う。
これは、「使われる」という意味でもあるし、キリスト教でいうと
ころの「使徒」の意味でもある。

ブッシュ前大統領は、ネオコンや国際金融資本の操り人形だと散々
いわれてきた。確かにそういった側面らしきものがあったことは否
定しない。だけど、本人自身も神の使徒としての自分を意識してい
たところもあったのではないか。

ブッシュが本当に神のお告げを聞いたのかどうかはわからない。だ
けど、そのやったことは、アメリカのマーケットを拡大し、石油利
権とドル覇権の維持だったにせよ、表向きの大義として民主主義を
世界中に広めるというのがあった。やり方の善い悪いは別として。

ブッシュ自身はそれを自分のミッションだと思っていたのではない
かとさえ。

その意味では、ブッシュの「共」とする範囲は全地球であったとも
いえる。

果たしてオバマの「共」はどこまでをターゲットにしているか。

地域紛争に介入するかしないのか。する場合はその基準は何か。国
益の為なのか。「共」の為なのか。

これらをつぶさに観測することも、今後の世界を見通す上で大切な
こと。
 


4.パックスアメリカーナとスマートパワー 

「敵と話すことができるのが強い大統領だ」

2008年の米大統領選中にオバマが語った言葉。

オバマの言う強い大統領の定義の中には話し合いも含まれている。
話し合うという姿勢自体に受け入れるかどうかは別として、相手の
言い分を聞くという前提がある。だから話し合う相手は話し合いに
なった段階でそれなりの成果を期待する。

実際問題として、交渉事で片方の言い分だけが100%通るケース
は少ない。多少なりとも相手の条件を飲むことになるのが普通。も
し、世界最強の軍事力を持つアメリカが相手の言い分を少しでも聞
いた場合はどうなるか。逆説的だけれど、そのときは世界各地で紛
争発生確率が跳ね上がることになる。

クラウゼヴィッツは「戦争は外交の延長である」と言っているけれ
ど、双方の話し合いで決着が付かないとき、最後には殴りあいにな
る。

もちろん戦えば強い方が勝つのは当たり前なのだけれど、当事者同
士の殴り合いの最中に止めに入るものがいることは往々にしてある
。最初は口で、最後は力ずくで。

ただし、力で止めに入るには条件があって、その人は他の誰よりも
強くなくちゃならない。今のところそんな存在はアメリカだけ。

ブッシュ政権でのアメリカは、自由と民主主義の普及の名の下に、
世界中に干渉して圧力を掛けていたから、アメリカ以外の国は自分
勝手なことはやりにくかった。アメリカに睨まれたら、イラクのよ
うに潰されてしまう。

アメリカが世界の警察官を自任している限り、他の諸国はアメリカ
の正義に公然と叛旗をひるがえすことはできなかった。歯向かえば
問答無用でやっつけられてしまう。いい悪いは別としてパックス・
アメリカーナは保たれていた。

だから逆に弱小国や、経済的に困窮した国ほど核を持ちたがった。
アメリカ本土まで届く核を持てば、とたんにアメリカが折れて、交
渉に乗ってくれると分かっていたから。北朝鮮の一連の瀬戸際外交
を見ればよく分かる。

もし、オバマが世界各地の紛争に際して、最初から話し合う姿勢を
示したらどうなるか。何かが欲しい弱小国は、どんどん紛争を起こ
して、話し合いに持ち込んで、何がしかの取引や成果を得ることを
考えるようになる。わざわざ手間暇かけて核なんか持つ必要はない
。当事者同士で解決できない程度の紛争さえ起こせばいい。

1月13日の米上院外交委員会でヒラリー・クリントンは、新政権
の外交政策の基本理念として、「スマート(賢明な)パワー」を打
ち出した。軍事力などの「ハードパワー」だけじゃなくて、外交力
や文化発信力、経済力などの「ソフトパワー」も組み合わせた協調
主義外交に転ずると宣言した。

確かに軍事力といったハードパワーだけじゃなくて、文化などのソ
フトパワーも組み合わせるというのは、ハードパワーに頼るだけよ
りはまだ平和的。だけどソフトパワーは相手に浸透するまで時間が
かかるとう弱点がある。ソフトパワーはまず受け入れて、その良さ
を実感して、納得してからでなければ、なかなかその力を発揮する

ことはできない。

経済恐慌の最中、世界中生き残るのに必死なときに、それほど時間
を待つ余裕があるとも思えない。スマートパワーが紛争を何処まで
押さえ込むことができるのか、世界秩序をどう維持してゆくのかは
注目に値する。



5.誰がために戦う 

「防衛に関し、われわれの安全と理想が二者択一であるとの考えは
まやかしであり、否定する。建国の父たちは、想像を超える危機に
直面しながらも、法の支配と人権を保障する憲章を起草した。
 ・・・この理想の光は今も世界を照らしており、ご都合主義で手
放すことはできない。
 ・・・先の世代がファシズムや共産主義と対決したのはミサイル
や戦車の力だけではなく、確固たる同盟関係と信念であったことを
思い起こしてほしい。先の世代は、われわれの力だけではわれわれ
を守ることはできないし、その力で思うままに振る舞っていいわけ
ではないことをわきまえていた。軍事力は思慮深く用いることでそ

の力を増す・・・」

第44代アメリカ合衆国 バラク・オバマの就任演説より抜粋。

もしオバマが「共」とする範囲が全世界であれば、地域紛争に積極
的に介入しなければならなくなる。世界と共にあるためには、世界
全体の利益を考えないといけなくなるから。

ハードだろうと、ソフトだろうと、はたまたスマートであろうと、
何のためにその力を使うのかが重要なこと。

オバマの大統領就任直前にガザは停戦に漕ぎ着けたけれど、依然と
して世界はオバマの態度に注目してる。

紛争が起こったら、どのような立場で、何を基準として、どうやっ
て介入するのか、またはしないのか、そういったことを見ている。

日本にとってもひとごとじゃない。もし中国が台湾に侵攻、または
併合したとしたら、アメリカはどう動くのか。今から想定して対策
を考えておかなくちゃならない問題。

その意味でも、イスラエルのガザ侵攻に対してのオバマの対応を中
国はつぶさに観察していたに違いない。

アメリカは「台湾関係法」に基づいて、多数の新型武器を台湾に売
却しては中国の武力侵攻に対して牽制しているけれど、いざ武力侵
攻を受けたら台湾を支援するのか、中国との関係を悪化させてでも
台湾を守るのかどうか。

もし台湾を見捨てるようなことがあれば、日本も同じように見捨て
られることになりかねない。そのための布石は、今から打って置く
必要がある。見捨てられるだけならまだしも、けしかけられて戦争
の手駒にされようものなら堪ったものじゃない。

オバマは大統領就任演説で、防衛に関して安全と理想は二者択一で
はないとし、世界を照らしている法の支配と人権はご都合主義で手
放すことはできないと宣言した。そして、先の世代がファシズムや
共産主義と対決したのはミサイルや戦車の力だけではなく、確固た
る同盟関係と信念であったとも。

これを普通に解釈するなら、

「ファシズムや共産主義と同様、法の支配と人権を侵す新たなる脅
威とは、確固たる同盟関係と信念で対決する」

となる。つまり同盟関係国を「共」として、アメリカの大義に対し
て脅威をもたらすものとは対決するという意味になる。

もし、中国が台湾に侵攻・併合して、台湾が共産主義国家になって
しまったら、明らかに台湾の人々の人権を侵してしまう。そのとき
中国はアメリカにとっての脅威となる。

アメリカが台湾を守って中国と対決するということは、すなわち、
ある程度の犠牲を覚悟してでも「法の支配と人権」という理想を取
ることを意味するのだけれど、オバマはまた同時に「安全と理想は
二者択一ではない」とも言っている。

安全のために理想(法の支配と人権)を捨てる訳ではなく、また、理
想のために安全を捨てる(ファシズムや共産主義と対立して自らを
危険に晒す)訳でもないということ。だけど実際は結構難しい。言
うは易し行なうは難し。

理念では共産主義やファシズムは受け入れないけれど、現実には極
力話し合いで解決し、武力は「思慮深く」使うに留まるぐらいでは
なかろうか。

理想一辺倒でもなく、現実だけというわけでもない。アメリカのバ
ランス外交への転換。

オバマの一字「孤」と「共」。その意味と範囲をじっくり注視する
必要がある。
 
(了)



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