3213.価値と貨幣について考える



価値と貨幣について考える



                                                      日比野

1.価値を規定するもの

価値と貨幣について考えてみたい。

WEB辞書によれば、価値というものは次の3つに定義されている。

T)物がもっている、何らかの目的実現に役立つ性質や程度。値打
  ち。有用性。
U)あらゆる個人・社会を通じて常に承認されるべき絶対性をもっ
  た性質。真・善・美など。(哲学)
V)商品が持つ交換価値の本質とされるもの。(経済)

ここでは、主にTおよびVの定義に立脚して考えてみる。

価値というものを「物がもっている、何らかの目的実現に役立つ性
質や程度」と定義した場合、まず考えるべきは、その目的が何で、
誰のためのものかということ。価値を必要とする主体は誰かという
こと。

たとえば、キャベツを例にとって考えてみると、その目的は一般に
は食べるため。そして誰のためのものかといえば、人間やキャベツ
を食べられる一部の動物や紋白蝶の幼虫のような青虫達のためのも
のということになる。

ところが、野菜嫌いや野菜アレルギーの人にとっては、キャベツは
食の対象から殆ど外れているし、キャベツに含まれている菜種毒
(アリルカラシ油)に対する耐性のない昆虫や幼虫にとっては、値打
ちがあるどころか自らを死に至らしめる悪しきもの。

物は、それ自身が持つ性質とその性質を何らかの形で発現または運
用することで、その価値が発揮されるけれど、そこには、誰にとっ
てのものか、何のためのものなのか、といった前提によってその中
身が規定される。

誰にとっての、何のためのものかという要素が、価値の中身を規定
するということは、ひらたくいえば、なんらかの「命」がその対象
の「価値」を決めているということ。

そしてさらに、その「命」の性質や嗜好の度合いによってもその「
価値」の程度は変わる。

先ほど、述べたように野菜アレルギーの人にとっては、キャベツは
あまり価値がないけれど、ベジタリアンにとっては「価値」ある存
在。
 


2.価値が内包する時間

命の性質や嗜好の度合いによって価値の程度も変わるといったけれ
ど、「価値」単独でその性質や度合いが変わることはないのかとい
えば、やはりある。

キャベツは最初から丸いキャベツの玉としてあるわけじゃない。秋
に種をまいて、育ててやって冬から春先にかけて収穫してやっとキ
ャベツになる。もちろんそれは人間にとってのキャベツの話。

キャベツを収穫しないでそのままにしておくと花が咲いて、種を作
って、枯れてゆく。枯れたキャベツはやがて腐って土に還って分解
される。

一年の時の流れでみた場合、人間にとっての食用のための「価値あ
る」キャベツは収穫期の冬から春にかけての期間、一年のうちのせ
いぜい四分の一くらいしかない。

これはありとあらゆる他の物に対しても、期間の長短はあるにせよ
同じことがいえる。

なぜかといえば、この世において全ての存在は流転して、永遠に同
じ状態であり続けることはできないから。諸行無常の原則。生生流
転の法則がそこにある。

つまり物の価値の中には、時間のパラメータが潜んでいて、時間の
経過によって価値のあり方が変わる性質がある。

人間にとって腐ったキャベツは食べられないけれど、ハエにとって
は食べられる価値あるもの。それは食べ物でなくても同じ。テレビ
や携帯電話だって何百年も使えるわけじゃない。

価値は自らの内に「時間」を内包している。人間は存在の流転のな
かで、そのごく一部を価値としているにすぎない。


 
3.価値の経験と発見

価値を価値として、規定するものは何かと言うと、経験と発見がそ
れ。

長い年月をかけての経験は、価値を価値足らしめる時と条件を決め
てきた。河豚を食べるときでも慎重に毒のある部分を取り除いたり
できるのも経験のお陰、あの堅い竹であっても筍の時であれば美味
しく食べられるというのもそういった経験があってこそ。

大切な経験は、人から人へ、子から孫へ知識として伝えられ、やが
て文化や伝統にまでなってゆく。

だから、経験の差によって文化や伝統は異なったものになるし、当
然価値の差は生まれてくる。

日本人にとって魚は食べる対象だけれど、牧畜民族のように魚を常
食しない人達にとっては魚は「食べる」という目的に沿った価値と
してみれば低くなる。カナダの人達は鮭を取ってもイクラは食べる
習慣がない。取れたイクラは犬の餌にするという。実に勿体無い。

また、価値には発見されて始めて価値を帯びる場合がある。たとえ
ば、昔は、壊血病や脚気なんかは単なる栄養不足か病気だとされて
いたけれど、ビタミンが発見されるとそれをふんだんに含んだ食物
、柑橘系果物だとか野菜だとかは、壊血病予防という価値を帯びる
ようになった。

今だと、いろんな健康食品や栄養サプリメントがそうだろう。亜鉛
なんて金属を普通は食べようとは思わないけれど、亜鉛は新陳代謝
に必要な反応に関係する多種類の酵素をつくる成分で、皮膚や粘膜
の健康維持を助ける栄養素だと発見されると、亜鉛は必要な栄養だ
から不足しないようにしっかり取りましょうと言って、亜鉛を多く
含んだ食品を勧めたり、サプリメントを作ったりする。

それまではこれこれにはあれを食べると良い、とかいった経験によ
るしかなかったものが、より選択的に有効成分を抽出することがで
きるようになった。

価値は発見によっても価値を帯びる。発見によって帯びる価値は、
経験による価値と比べて、より具体的・選択的な性質を帯びやすい
。特に科学的分析による発見はその性質上、純粋に原因となる成分
を特定するために、価値の対象を分類・選択してしまう。

味覚障害には牡蠣が良いという経験による価値の規定は、「牡蠣」
全部にその価値を与えるけれど、味覚障害には亜鉛が有効なのだ、
という発見による価値の規定は、牡蠣の中の「亜鉛」だけに価値を
与えるという違いがある。

亜鉛に味覚障害を改善する価値があるとまで特定できれば、牡蠣の
ほかに亜鉛を含む食べ物であれば同様の効果が見込めるから、亜鉛
を含む食品であれば、同じ価値が与えられる。選択の幅が広がる。
そういう強みがある。

発見による価値の規定は、同一の価値を帯びた別の物を探索・供給
できるという意味においてとても有効なもの。だけど、あまりこれ
に頼りすぎると、逆に経験でしか分かっていない価値を軽視してし
まうことがある。なぜだか分からないけれど効果がある、というも
のに対して懐疑的になってしまうきらいがある。科学的根拠がない
と信用できないという縛りを作ることになる。

臨床試験で効果が確認された医薬品には、政府の認可が下りるけれ
ど、民間療法は相手にされない。たとえ効き目があると分かってい
ても。
 


4.価値と値段

物の値段は価値そのものだけでは決まらない。物を作って店頭に並
べるまでの費用とそれを欲しいと思う人の財布との兼ね合いがもの
を言う。

物を作る為の労働価値にも、物を使うことで得られる効用価値にも
、どちらにも時間というパラメータが含まれていて、それらは更に
、時計の針で測ることのできる「客観的時間」と個人の使い方でそ
の密度が変わる「主観的時間」のふたつに分けられる。

物の価値を「客観的時間」と「主観的時間」の観点で眺めてみると
、物の価値における「客観的時間」とは何かというと、生生流転の
法則に依拠した、時間経過とともに価値のあり方を変えさせるパラ
メータ。

それに対して物の価値における「主観的時間」とは何かというと、
その物が如何なる効果・効用を持っているかという、経験や発見に
よって付加される価値のパラメータになる。

前者は、商品の賞味期限や有効期限によって表され、後者は商品の
味や品質、信頼性やブランドあるいは伝統といったもので表される
。

物が先天的に持っている価値および後天的に付加された価値が、値
段にどう表れていくかというと、自由市場においては、原則的に需
要と供給のバランスで決まる。

売る側は生産コスト以上で売りたいし、できればうんと儲けが欲し
い。だけど、同じ商品がふんだんに市場に溢れていれば、安いもの
から売れていくのが道理。

だから、市場の値段より高く売りたい人は、その商品が他のものよ
り違ったものであるということをお客さんに認知してもらって、安
売り競争の広場から脱出しなければいけない。平たくいえば、うち
のリンゴは他所のより甘いです、とか、他所のより日持ちしますよ
、とか言って差別化をする。

物の価値が内包する「客観的時間」をコントロールするためには、
生生流転の法則に逆らわなくちゃいけないし、物の価値が内包する
「主観的時間」をコントロールするためには、よりお客さんのニー
ズに沿った品種改良・新機能開発が必要になってくる。
 


5.時間を凍らせる

「客観的時間」を支配する生生流転の法則って何かというと、物が
腐るか、機能的に古くなって使えなくなるということ。人にとって
有益な期間を超えてしまうこと。

そして、「主観的時間」を支配するニーズの変化というのは、人々
が求め、欲しがるものが、その時代の要請や環境変化によって変わ
るということ。

だから、何かの商品を市場に出して売るということは、「客観的時
間」と「主観的時間」の二つのパラメータで変動する価値を如何に
して極大値に保つかとの戦いでもある。

生生流転の法則に対する戦いは昔から行なわれてきた。食べ物で言
えば、塩漬けにして保存食にしてしまうとか、冷凍してしまうとか
。

塩漬けは、食品の細胞中の水分を外に排出させて乾燥させたり、微
生物の繁殖を防いだりすることで、長期保存を可能にしているし、
冷凍も食品中の水分を凍らせることで腐敗を遅らせたりしてる。も
ちろん冷やせば微生物の活動も鈍くなる。

日本の消費者は結構眼が肥えていて、新鮮さに拘るところがある。
日にちがたったものはだいたい何処のスーパーでも値引きしないと
売れない。生生流転の法則に何処まで逆らえるかといった部分が売
価になって現われる。

食料品の売値の時間変化を考えた場合、「客観的時間」と「主観的
時間」のどちらのパラメータが支配的かと言うと、問題なく前者。
後者の主観的時間はその商品の効果や目的に依拠する価値。

生命維持には、食料が必要であることは大昔から変わらない。食料
品の主観的時間による価値は、新しい有効成分などが発見されて、
上がることはあっても、下がるケースは殆ど考えられない。食料は
人が食べるという行為を続ける限り必要とされるから、「たべもの
」という価値そのものは無くなることはない。価値が変動するのは
「新鮮さ」の部分。

ところが食料以外となると少し事情が違ってくる。たとえば、なに
かの製品や洋服なんかは物が腐る度合いが食品と比べてずっと緩や
かだから、1、2週間で腐ってしまって直ぐに使えなくなるという
ことはない。だけど、新製品が出回ることによって、一気にその価
値が減ってしまうことが多い。

型落ちであるとか旧式の製品なんかは、新製品が出るととたんに安
売りされるし、洋服だって、春物が出回り始める頃には、前年の冬
物なんかはバーゲンになる。

こうした型落ちによる価値の減衰というのは、食料品のように腐る
ことによる客観的時間による価値の減衰は殆どないのだけれど、そ
の代わり、その製品や衣服に対するニーズの変化による価値の減衰
が激しいことを示している。こちらは主観的時間のパラメータが圧
倒的に効いてくる。

だから、商品は、食料品のように鮮度を保つ努力も然ることながら
、流行やブームになっているうちに売り切ってしまう努力を求めら
れることもある。

つまり、できるだけ短い時間で品物を生産地から市場に供給すると
いった輸送手段の工夫によって価値の減衰防止をする努力。

時間をうまく凍らせた商品は、その価値を減衰させる速度が最も小
さくなる。

つまるところ、商品販売というものは、生ものであれ、そうでない
ものであれ、如何にモノが腐るのを遅らせて、また、如何にすばや
く店頭に並べて、時間経過による価値の損失を可能な限り防ぎなが
ら、ニーズのあるうちに売り切ってしまうかに知恵を絞る戦いだと
もいえる。
 


6.富の堆積

ある商品が市場に投入され、多くの人々に広く受け入れられると、
その商品は時間と共に市場全体に広がってゆく。

別の言い方をすれば、何某かの価値は、所有権の授受によって居場
所をかえながら、富となって社会に広がってゆくということ。

尤も、広がってゆくといっても生生流転の法則がある限り、その富
は未来永劫不変という訳ではなくて程度の差こそあれ、価値は時間
減価してゆくから、長い年月の間にはいつかは消えてしまう。

だから、国家や社会が豊かで富に溢れているというのは、何かの価
値が富として姿を代えて、時間減価によって完全に無くなってしま
う前に別の価値が次々と生み出され富に置換されて、社会にどんど
ん堆積している状態のこと。あたかも川の流れの様に、または風の
ように価値が何処までも吹き渡ってやまない中にあって、始めて豊
かさは存在できる。

そしてその豊かさには、河の大きさによる程度の差があって、どこ
まで周りが潤されるかは、河の水量できまる。つまりその価値を持
つ商品の生産力とその供給能力がどれだけあるかで富の広がる範囲
が変わるということ。

人間にとって、殆ど無限に近いほど供給される商品があった場合、
それが市場に完全に行き渡りさえすれば、それを欲する人なら誰で
も手に入れることができる。だけど数に限りがあるような商品の場
合はそれを欲する人同士での争いになる。希少価値を巡る争い。

そんなとき普通は、その価値の値段が上がることによって、調整さ
れることになる。ネットオークションの様に、一番高値をつけた人
がその価値の所有権を得る。公平といえば公平な方法。

だけど、そうやって手にいれた商品であったとしても、やはり、生
生流転の法則、諸行無常の法は働いていて、時間と共にその価値は
減価してゆく。ときには壊れることによって、またあるときにはも
っと価値のある新しい商品の出現によって。
 


7.市場が飽和するとき

価値は、それが供給され続ける限りにおいて、市場に普及してゆく
過程で富に置換されてゆくけれど、ある商品が市場に完全に普及し
尽くしてしまうと、それ以上の富への置換ができなくなる。

ぶっちゃけていえば、儲けられなくなってしまう。そうするとまた
次の価値なり製品なりを市場に出して、次の儲けを考えなくちゃな
らない。そのためには、次に示すように大きく4つの方法がある。


A)普及しつくした商品を、全部捨てるかぶっ壊すかして、また同
  じ商品を売る乱暴な方法。

B)市場をよくよく調査して、今までお客さんとして考えていなか
  った購買層に売るか、または、今までの市場の外側に新しく市
  場を拡大・設定してそこに売る方法。

C)普及した商品の機能や目的を包含し、さらにそれを上回る新商
  品を開発して、従来のお客さんに買いなおして貰う方法。

D)Cと少し似ているけれど、これまで全く考えも及ばなかったと
  ころにニーズを発見して、全く新しい市場を作り出して、そこ
  へ売る方法。


Aの方法の代表的なものは、戦争経済。どこかでドンパチやって、
建物を全部ぶっ壊してしまえば、また建て直すことで、需要を作り
出す。普及した商品を無理矢理消費させてしまう乱暴なやり方。

Bの方法は、安売り競争および市場開拓なんかがそれに当たる。商
品の値段が下がって手頃になれば、購買力の低い層にも買ってもら
える可能性が高まるし、マーケットを国内から海外に広げることで
市場そのものを拡大してより広く買ってもらうことを狙う方法。

Cの方法は文字通り新製品開発。今では携帯電話なんかは特にそう
。半年毎に新型機種を出して、同じお客さんに何度も何度も機種変
更してもらっては売り続ける方法。一般的には新製品には、従来品
より性能が上がったとか、新しい機能が付いたとかして、買い直し
たい気にさせて売る。

Dの方法は、いわゆるニッチ産業とか、イノベーションとか呼ばれ
るもの。今まで全く考えも及ばなかったところにニーズを発見して
売り込んでゆくやり方。またイノベーションも3の新製品開発と似
たところがあるのだけれど、こちらはもっとダイナミックに旧市場
そのものを無効にするくらいのインパクトがあるものを指す。

Cの市場には、投入された新製品を買いなおす人もいる反面、旧製
品を使い続ける人もいて新旧混在している。それはその商品の目的
に対する機能として、旧製品でも間に合う部分があって、それが許
容できるから。

だけど、Dの方法におけるイノベーションは、旧製品は全く役に立
たなくなって、新製品に代えないとどうしようもない場合になる。

江戸や明治初期の昔であれば、移動手段といえば、馬車とか人力車
とかだったけれど、自動車の発明によって、それらが無効になって
しまった。今では人力車なんて観光地でないと見られない。

Cの方法は現在ある市場の拡大又は塗り直しになるのだけれど、D
の方法は今ある市場の上に全く新しい市場を創造するという次元の
違いがある。

また、新しい価値の創造という面からみれば、AとBは従来の価値
をそのままなんとかして売ろうとする破壊または検地・開拓による
ものだから、新しい価値を創造している訳ではないのに対して、C
とDは従来価値とは違った価値でもう一度売ろうとする、改善・創
造によるものだから、まがりなりにも新しい価値を創造している。
 


8.規制と流行

「官僚は虫歯みたいなもの。抜いてしまったほうが国民はよほどよ
 いサービスを受けられる」

2005年に亡くなった、ヤマト運輸元社長の小倉昌男氏の言葉。

小倉氏は「ミスター・規制緩和」とも呼ばれ、今では当たり前とな
っている宅配便サービスを普及させるにあたって、当時の規制と戦
い、それらを打ち破っていった。

始めは関東地方から始まった宅急便がやがて全国に拡大していく途
上で、最大の障害となったのは、運輸省の許認可。山梨から松本ま
で配送するために、八王子・塩尻間の輸送路線の認可をとるときな
ど、山梨の輸送業者の反対運動もあって、政治家を使った圧力もか
けられた。

それに対して小倉氏は地元業者を何度も説得し、反対運動をやめて
もらうように促し、場合によっては、公聴会を開いて討論したり、
中には行政不服審査請求までしたという。

また、荷物の取次ぎ店になってもらうための認可や、輸送運賃に掛
かる行政の最低課金の体系変更など、実にさまざまな規制と戦って
いった。

新しい価値が創造される時、それが市場に登場する前には、既得権
益や規制がその障害となることがある。宅配便だけでなくて、同じ
ような例は他にも沢山ある。

もしも、まったく規制がない市場があったなら、生み出された価値
は、直ぐに市場に投入され、必要の程度に応じて広がっていく。余
計な規制がある市場と比べて、商品開発から市場投入までの時間の
ロスが極端に小さくなるから、あとから別の会社がそれを真似した
としても、真似っこ商品が市場に出回る頃には既にある程度のシェ
アを奪い取っている可能性が高くなる。規制のない市場はどちらか
といえばアイデア勝負、早いもの勝ちな市場であるともいえる。

また逆に、規制が新しい市場を無理やり作り出すこともある。これ
は今まで通用していた価値が突然規制によって無価値になって、別
の価値を必要とする市場が作り出されるケース。

たとえばテレビのアナログ放送停止と地上波デジタルへの切り替え
なんかはそう。地デジに完全移行したら、旧来のアナログ放送しか
受信できないテレビは一切番組を見れなくなるから、いっぺんにそ
の価値を失う。

さらに、規制とは少し形が違うけれど、服の流行なんかのように、
その時その時で、特定の価値が生み出され、市場を作り出すケース
もある。場合によっては公共事業なんかも含まれる。

規制とか流行による市場創造は、生み出されたときは一時的に大き
な市場として現れる面がある。それこそ服の流行は一年から数年単
位で切り替わっているし、地上波デジタルだって受像機への移行が
済むまでの間は、地デジ対応テレビの販売という、それなりの市場
が存在できる。

そういった、始めのうちこそ一時的な流行によって現れてくる市場
の中にも、広く普及して受け入れられ、長い年月に渡って生き残っ
てゆくものもある。伝統芸能や伝統文化の類がそれ。人々が完全に
必要としなくなって、見向きもしなくなるまで、規模の大小に関わ
りなくその市場は存続してゆく。

当然、伝統レベルにまでなる産業や商品は、その伝統を守る人々に
よって保護されることになる。伝統を守り抜く人々が持つ主観的時
間による価値減衰はとても緩やか。

だからそうした商品の価値は、もう一つのパラメータである客観的
時間による価値の減衰、生生流転の法則による価値の減衰の割合が
相対的に高くなる。勿論その伝統商品が食料のように腐るような性
質のものではなかった場合は、客観時間による価値の損失も殆どな
くなってしまうから、結果として、長年に渡って価値が殆ど変化し
ないものになってゆく。

こういった、人々の伝統にまで溶け込んで、受け継がれてゆくもの
は、その社会への供給および普及度合いに応じて富へと変換され、
その社会全体の豊かさ、共有財産として堆積してゆく。
 


9.貨幣の持つ2つの機能
 
何かの商品が市場に広がる過程において、その商品は売買行為によ
って所有権の授受が行なわれ、その対価として貨幣が支払われる。

貨幣には2つの機能がある。物の売買をするときの「交換機能」と
貨幣に記され保障されている価値の「保存機能」がそれ。

もしも貨幣に「交換機能」がなく「保存機能」だけしかなかったと
したら、買い手の現われない骨董品や宝石と同じで、いくら高額の
(保存しかできない)貨幣を持っていたとしても、それは持っている
ことしかできないモノ。文字通りの宝の持ち腐れ。

また逆に、貨幣に価値の「保存機能」がなく「交換機能」だけしか
なかったとしたら、その(価値を保存できない)貨幣は、二度と使う
ことができない「紙切れ」と同じ。その紙幣による売買行為は、紙
切れと交換で自分の価値ある何かを取られてしまうことになる。強
盗にあうようなもの。そんなの誰も使わない。

だから、貨幣が貨幣であるためには価値の「交換機能」と「保存機
能」の二つを兼ね備えていることが必要で、出来る限り交換しやす
く、保存も利くものがその材料として選ばれてきた。

昔は石とか貝とかが貨幣として用いられ、今では金属硬貨や紙幣が
用いられている。もちろんこれらは持ち運びやすく、かつ時間経過
によって、化学変化を起こしたり、自然に消えてしまわないもので
あるが故に用いられている。

貨幣が価値の交換や価値の保存の役割を持っているのに対して、モ
ノの価値そのものは「客観的時間」と「主観的時間」という時間パ
ラメータを持っていて、時間経過と共に価値が減衰してゆく宿命を
背負っている。

そのくせ、貨幣自身は超長期保存が利いて、時間経過による価値の
減衰は殆どと言っていい程ない。ここに問題が潜んでいる。

価値を持つ貨幣以外のモノは時間経過と共にその価値が減っていく
のだけれど、貨幣は殆ど価値の減りがないということは、貨幣を沢
山持っている人ほどいつまで経っても無くなることのない「永遠の
価値」を持っているということになる。これは売買行為においては
決定的に有利に働いて、価値の減衰をなるべく減らすための工夫を
不要にさせる。

「永遠の価値」は、永遠にその価値を持っているのだから、物が腐
るのを防いだり、ニーズの変化に沿った新しい価値の創造を必要と
しない。

もう少し細かくいえば、貨幣の「価値保存機能」が高ければ高いほ
ど、腐る心配をしなくて良いし、「価値交換機能」の適用可能範囲
が広ければ広いほど、つまり何でもかんでも買えるほど、新しい価
値の創造をしなくて良くなる。

どんなに時代が変化しようとも、大金持ちでさえあれば、何の価値
を創造しなくても、寝て暮らしていける。

こうした特権は、利子というものを加味して考えるとき特に顕著に
なる。
 


10.金利の特権
 
利子とは、貸借した金銭などに対して、ある一定利率で支払われる
対価。特にお金に対する利子を金利と呼ぶこともあるけれど、要は
、お金を借りたら、熨斗をつけて返すという決まり。今の世の中で
は、借りたお金を返済するときに、元金に利子をつけて返すのが当
たり前になっている。

この利子というものを価値の尺度から考えてみる。

売買行為において、貨幣で示される価値が、何某かのサービスなり
モノの持つ価値と等価でなければならないとすると、お金の額と価
値はその値打ちにおいてイコールであるということになる。

この前提で、お金を借りるということを価値という観点で見てみる
と、お金を借りた人は、借りたお金の額と同じ価値を「借りて」い
るということになる。

価値を借りるということは、当然時間によって減ってゆく「価値」
を借りるということだから、借りる期間が長ければ長いほど、借り
た価値は目減りしてゆく。だからお金を借りた人は、返すときには
、目減りした価値分だけ、上乗せした価値を用意しないと、借りた
ときの価値と同じにはならない。

元本を揃えるだけでも、返済すべき「価値」は増えているのに、今
の社会では、利子として更に「価値」を要求される。お金を借りた
人は、借りている間にうんと価値を創造しなくちゃいけない。結構
キツイ。

しかも利子には、単利と複利があって、単利は元本を変化させずに
利子を決めるけれど、複利は元本に利子を加えて次回の利子を決め
る。利子が利子を生むのが複利。

もしもお金を複利で借りた場合には、当然返すべき価値の総量はも
っと多くなる。利子が利子を生むように、価値が価値を生んで、し
かもそれらの価値全部が、一番最初にその価値を創造した元締めの
ただ一人に戻ってくるようなものでない限り、釣り合いが取れなく
なってしまう。

これが利子そのものが持つ価値への特権。だから金を貸す側は、最
初に「価値」を貸し出しさえすれば、黙っていてもそれ以上の減価
しない「永遠の価値」を手に入れる特権を得ている。
 


11.ゲゼルマネー
 
こうした貨幣の特権に対して警鐘を鳴らした人物がシルビオ・ゲゼ
ル(1862 - 1930)だった。

ドイツ経済学者であるゲゼルは、その著書「自然的経済秩序」にお
いて、通貨だけが減価しないために、ある程度以上の資産家が金利
生活者としてのらりくらり生きている現状を指摘して、その解決手
段として、自然通貨という概念を提唱した。

自然通貨というのは文字どおり、時間の経過と共に価値を減らして
いく通貨のことで、具体的には、スタンプ貨幣のように、一定の期
間ごとに紙幣にスタンプを貼らないと使えなくなる仕組みのこと。

たとえば、1万円があったとして、それを実際使うときには、一定
の期間が経過するたびに収入印紙のようなスタンプを貼らないと使
えないというもの。そのスタンプ(収入印紙)をたとえば100円と
すると、1万円使うために100円払わなくちゃならないから、1
万円だったものが差し引き9900円に減ってしまう。

当然減るのは嫌だから、持った人はスタンプを貼る時期がくる前に
さっさと使ってしまうようになる。結果的にお金はどんどん流通す
るようになる。

実際、1930年代にオーストリアのベルグルという町で、「労働
証明書」と呼ばれるスタンプ紙幣が使われたことがある。町長はじ
め、町職員の給料の半額をスタンプ紙幣で支払い、税金の支払いも
スタンプ紙幣で行えるようにし、また公共事業を行ってその賃金も
スタンプ紙幣で支払ったところ、町の人々は先を争ってお金を使い
、税金を支払って、見事経済復興を遂げた。

地域通貨とも呼ばれるこのスタンプ紙幣は、今でも形をかえて一部
地域で使われていて、素晴らしい効果を挙げている。

たとえば、1991年11月にアメリカのニューヨーク州イサカで
導入された地域通貨「イサカアワーズ」は、人口2万7千人ほどの
田舎町だけれど、1991年から1998年までに行われた取引は
1万件以上にのぼり、その経済効果は150万ドルにもなっている
という。

地域通貨のミソは、その地域だけにしか使えないこと。この地域限
定性は、当然「価値交換機能」の適用可能範囲を限定することを意
味してる。いきおい地域通貨はその「地域」だけで流通することに
なる。しかも時と共にその地域通貨は減価してゆくから、物凄い勢
いで使われる。お金が死蔵しない。

こうした減価して、かつその地域でしか使えない、という通貨は、
ある意味、昔の物々交換の考え方に近いものがある。モノ自身が持
っている価値が減衰する性質をそのまま貨幣にも転写して持たせた
もの。だから、従来の貨幣よりも、価値と貨幣の間のバランスが取
りやすい利点がある。



12.地域通貨とスイカ

地域通貨には、その発行方式によって大きく次の4つに分類される。

@紙幣タイプ(スタンプ貨幣・エコマネー): 集中発行方式
A通帳タイプ              : 分散発行・分散管理方式
B口座タイプ              : 分散発行・集中管理方式
C借用証書タイプ            : 個人発行方式 

@のタイプは、管理事務局などが独自の目に見える地域通貨を発行
するもので、供給量を管理できる利点がある。ゲゼルの提唱したス
タンプ紙幣はこのタイプに属する。スタンプ紙幣は、減価するお金
であり、手にした人は早く使おうとするため、地域の経済循環を加
速する効果がある。また、エコマネーなどのように時間を単位とし
てサービスの取引に限定した紙幣を発行し、一定期間が過ぎたらリ
セットされ、スタート時の額に戻るタイプもある。こちらは、地域
経済の活性化ではなくコミュニティの活性化を目的とするもの。

Aのタイプは、別名LETS (Local Exchange Trading System:
多角間バーター取引システム)とも呼ばれるもので、紙幣は発行せ
ずに、通帳を使うもの。個人は自身がサービスできるものを提供し
合ってそれらを相互に交換する。たとえば、英語が得意な人は英語
を教えるサービスを、大工が得意な人は大工仕事を請け負うとかい
った具合に提供できるサービスを登録してリスト化しておく、サー
ビスを受けたい人はその中からサービスを選んで、サービスを受け
る仕組み。もちろんサービスを受けた人は別の特技を提供する。交
換された物やサービスは、個人それぞれが持つ通帳で管理して、ト
ータルで貸し借りゼロにして帳尻を合わせるというもの。

こうした相互扶助的なサービス交換は、日本は江戸の昔から実際に
行っていて、隣近所同士で田植えを手伝ってもらったら、そのお返
しに田植えを手伝いにいくとかしていた。

LETSはいうなれば、日本の古き良き伝統の考え方を応用したよ
うなもので、提供サービスを可視化し、その程度を数値化すること
で客観性を持たせたものだといえる。

Bのタイプは、基本的にAと仕組みは同じだけど、各自に設けられ
た個人口座によって管理するもの。

Cのタイプは、@とは似ているものの、管理が全て個人に委ねられ
ている点が特徴で、個人間の物やサービスのやり取りを「無期限の
約束手形」を発行して管理するもの。

こうした地域通貨の試みは徐々にではあるけれど、日本でも行われ
ていてそれなりに効果を挙げつつある。

また、地域通貨なんて畏まって言わなくても、日本ではそれに近い
ものは昔から使っていたりする。地元の商店街で共通に使えるサー
ビスクーポンであるとか、チェーン店のポイントカードとか、JR
のスイカとか。

JRのスイカは、現金のいくらかをSuicaカードにチャージす
ることで、その範囲内で電車運賃を自動で支払う仕組みだけど、ス
イカはJR各駅に隣接しているキヨスクだとか、構内コンビニなん
かでもスイカで支払うことができたりする。

これなんかは、仕組み的には地域通貨そのもの。スイカはJR全路
線内で流通する地域通貨であるとも言っていい。

昨今定額給付金がどうのこうのと揉めているけれど、スイカのよう
なカードに1万円なり2万円チャージして国民に配ってやれば、簡
単に地域通貨として流通させることができる。

カードで管理するから、チャージした日から起算して何ヶ月ごとに
減価するようにもできるし、スイカの様にカードに現金をチャージ
できるようにしてもいい。そして、そのカードで支払うと消費税が
3%になるとか何らかのインセンティブをつけてやれば、みんな買
い物はそのカードでやるようになるに違いない。

こうしたカードに税のインセンティブをつけるやり方には多少のミ
ソがあって、スイカのように1000円単位とか5000円単位で
しか現金チャージできないようにしておけば、使い終わった後の半
端な額が残るから、それを無理やり使うか、時間減価によって消費
されることになる。結果少しだけど消費効果を押しあげることにな
る。



13.価値の本質

ゲゼルマネーや地域通貨のように、減価したり、特定の地域でしか
使えない貨幣のように貨幣の持つ価値の保存機能や交換機能に一定
の制約を加えるやり方は、財やサービスの対価は、貨幣そのもので
はなく、貨幣の額面に示されるところの財やサービスそのものなの
だという原則、すなわち価値と価値の交換であるのだ、という考え
に基づいている。

価値はそれ自身に時間を内包していて、生生流転の法則に則って、
生み出された瞬間から時間減衰を起こしてゆく。

また、価値同士の交換でも、その価値同士の距離が近ければ近いほ
ど、交換する媒体は「貨幣」以外のものでも通用する。それこそ田
植えの手伝いのように、お金を払う代わりに「労働」を交換するも
のとして使うことだってできる。相手がすぐ近くにいればこそ頻繁
に催促もできるし、逃げ出そうものならその場でふん捕まえればい
い。

売買行為というものをなんらかの価値同士の交換なのだと捉えた場
合、その価値の交換対象が目に見え、確実に受け取れる保障さえあ
れば、その媒体は別に「貨幣」でなくても構わない。貝でも石でも
手形でも。信用がそれを保障する。

だから、貨幣が価値交換の媒体として機能する範囲は、その貨幣価
値を「保障」なり「補填」なりできる存在、元締めなり胴元なりの
力が及ぶ範囲と殆ど同じになる。ひらたくいえば、国や政府といっ
た強権を持つ存在の主権の及ぶ範囲がそれ。

価値交換の契約が取り交わされたとき、一方がそれを履行しなかっ
た場合に懲らしめてやる存在があって、それを皆が信じるからこそ
「交換」という行為が成立する。

ゆえに、ゲゼルマネーや地域通貨といった考えは、通貨を減価させ
たり、契約を結んだ対象者同士の距離を狭めることで、価値の交換
契約を円滑に行って、できる限り価値交換を公平に行うための手段
のひとつだと言っていい。

なんらかの価値が市場に投入され、それらを人々が使うとき、その
価値に内包された時間は開放されて価値は富に転換してゆく。その
転換した富が、その社会や国家に堆積して溢れんばかりになってよ
うやくその社会は豊かになる。

だけど、その豊かさというものは、その富を多くの人々が享受でき
て初めて成立するもの。その価値の価格がタダに等しいほど安く、
皆の共有財産にまでなっている状態であってはじめて、その社会は
豊かであるといえる。一部の富裕階級しか富に転換した価値を使え
ない社会は「富はある」けれど「豊か」ではない。


価値の本質は与えきり。

価値の本当の姿は慈悲そのもの。

破壊ではなくて創造してゆくものが価値の本質。


これを忘れたときに、戦争経済やら、金融マネーとやらが蔓延るこ
とになる。

永遠の価値は特定の誰かのものじゃなくて、みんなのもの。それは
いつでもどこでも在って、最初から与えられているもの。

永遠の価値は必要十分以上に供給されるものであってこそ輝きを帯
びる。

慈悲は天から広くあまねく地に降りそそぎ、決して止むことがない。

そういった何時でも何処でもふんだんにあって、簡単に手に入るも
のは、その労せず手に入れられるが故に値段がつかない。空気や太
陽は誰にもなにも求めない。ただ与え続ける。

だけど、それらに価値がないわけじゃない。

光が届かない暗黒の土地には人は住めない。

空気がない星では人間は生きられない。

だけど太陽も空気も人間に対価を要求しない。価値の本当の姿はこ
こにある。

だから、なんらかの有用な商品が市場に完全に広まって、類似商品
も出たりして、極端に安くなって儲けが全然無くなってしまうこと
は、商品を売る側にとっては辛いことかもしれないけれど、それは
その商品の価値が富という慈悲に姿を変えたということ。価値が本
来の姿を取り戻したということ。

もしもプラスの金利に積極的意味を見出すとすれば、それは成長を
促し、価値を創造し湧出させるドライブの役割。価値創造を促す存
在。

人間の活動が、金利の負担を超えて、次々に価値を創造してゆくと
き、その価値は富に姿をかえてゆく。その価値が見返りを求めなく
なったとき、それは慈悲となって社会に満ち溢れてゆく。

価値が本来の姿を取り戻して地に満つるとき、豊かで祝福された世
界が現れる。


(了)


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