3157.籠神社と天橋立



12月29日から青春18切符で、籠神社と天橋立に行ってきまし
た。その報告。     Fより

籠神社は、三輪王朝と出雲の中間にあり、出雲の鉄をここから大和
の三輪に運んだことと、両国の提携を象徴する神社になって、天照
大神を三輪王朝の始祖である崇神天皇の御代に大和國笠縫邑から御
遷座になり、以後四年間御鎮座になったという。それだけ出雲との
同盟が重要であったのだ。

その当時の出雲国は日本海側の越後までを支配していた。昔は日本
海側が船交通の要所であり、ここを抑えていることが日本を押さえ
ることになっていた。朝鮮からの物資も日本海を通らないと日本に
来ない。三輪王朝が大和朝廷になれたのも出雲国との同盟と国譲り
があったことによっている。

なぜ、出雲は同盟関係を結んだかが疑問であった。このため、籠神
社に来たが、三輪王朝には揚子江から来た道教の神道派の宗教の中
心地であり、尊敬される存在でもあり、その主祭である卑弥呼がい
たことでそうなったように感じる。

もう1つが、王権と神権の分離が起こっていたことで、権威と権力
の分離があり、その権威を求めてその当時の国造が大和朝廷に領土
の安堵を保証してもらうために来たのだ。この王権と神権の分離は
、日本ではその後、天皇が神権を取り、王権は藤原氏などが出てき
て政治の安定ができた。この大和朝廷と同盟国の間に天照大神を安
堵の証拠として巡幸したのではないでしょうか?

そして、出雲国は、治水工事など米作の技術でも優れていた。この
出雲の豊作の神である豊受大神を祭っていたのが籠神社であり、同
盟で天照大神が来て、そして出雲の神である豊受大神を伴い、伊勢
神宮に移ることになる。この同盟関係が大和朝廷にいかに重要で
あったがわかる。

現在の籠神社の広さは大きくないが、昔は天橋立が参道であったこ
とから、その広さが分かる。また、本殿高欄には五色の座玉と呼ば
れる宝玉が飾られているが、これも伊勢神宮以外には見られないも
のだそうで、籠神社の格式の高さを伺い知ることができるようだ。

また、「籠明神祝部海部直等之氏系図(通称・海部氏系図)」は、海
部氏の始祖彦火明命から平安初期に至るまでの当主名と在位年月を
書き記したもので、これは現存する日本最古の系図であり、系図と
しては唯一国宝に指定されている。

この中に、卑弥呼や太与などが記述されていて、海部家自体が当時
の天皇家と深い関係にあったことが分かる。この海部家は丹後国造
に任命されている。

籠神社の奥宮である真名井神社には、磐座がある。これは大神神社
と同じで、神が降りた場所とされて、向かって右側が豊受大神(天御
中主神)の磐座、左側が天照大神の磐座とされている。

真名井神社の石碑は建立当初、上部に六芒星(籠目紋)をあり、籠
目紋は「ダビデの星」とも呼ばれ、イスラエルの国旗にも描かれて
いるマークであったため大騒ぎになったため、現在は三つ巴紋に変
更している。

籠神社の記述は終わるが、12月のこの時期、日本海側はさぞや寒
いのでないかと厚着をしていったが、暖かで雪ではなく雨であった。
傘松公園に行ったが、雨で天橋立が霞んでいた。

天橋立の観光地ということでユースホステルの食事ではなくて、お
いしい食事をと思い予約しなかったが、天橋立についた夜6時には
店が閉まっていて食事ができない。困ってタクシーの運転手に夕食
ができる店まで連れて行ってもらった。観光地であるが、夜は寂し
い街である。ここには観光客は止まらないので、そうなるのだとい
う。

籠神社と天橋立

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