3126.今後の日本外交は



中国が経済大国となった時、その隣国である日本が生き残る道を探
ることにする。中国は13億人も居るので、日本のGNPを抜かす
のは時間の問題である。       津田より

0.はじめに
 日本人は、中国人を嫌う傾向にある。同様に中国人も日本人を嫌
うことが多い。しかし、この2ケ国が徐々に経済力を持ち、世界の
中心に出て行くことになる。まるで、18・19世紀の英仏のよう
にである。

しかし、競争的な2ケ国はどうなるのか、非常に心配であり、かつ
日本としては、中国には負けられない。中国の下風に立つのはいい
気がしない。日本は、昔から中国とは相性が良くない。そして、現
時点、中国は独裁国家であり、民主化もできていない国に負けるこ
とを認めることはできないと思っている人が多い。感情的な反発を
している評論家も多く、評論雑誌もそのような反中的な評論家を重
視し、また、そのような雑誌が売れている。

このように大陸国家の近傍にいる国の国民は、大陸に大きな国があ
ると、その国に反発をすることが多いようである。歴史的にも参考
となる事例がある。

ここでは、18〜20世紀の英国とフランス・ドイツの攻防を見な
がら、その大陸近傍国が大陸国にどうのような外交戦略を持って対
応したかを見ようと思う。

今後の日本の外交を考える上で、大きな参考となると見る。検討に
お付き合いください。

1.18〜19世紀の英国史
イギリスが18世紀から自由主義的改革をおこなっていた。
17世紀に清教徒革命、クロンウェル独裁を経験している。そして、
1714年ハノーバー朝のジョージ1世は、あくまでもドイツの領邦国
家のひとつであるハノーバーの君主であり、ドイツの政治には興味
を持った反面、イギリスの政治に対してはあまり興味を持たなかっ
た。このためイギリスの政治は王の手から離れ議会勢力の大小に反
映された内閣の手に委ねられることになった。

1721年イギリスの初代首相として、ロバート・ウォルポールが21年
間政治の実権を握った。ここで議員内閣制が確立する。この当時は
フランスは絶対王政である。この当時から英国の海外進出が活発で
あり、フランスは出遅れていた。
それと、英国は18世紀の中ごろから産業革命が進展した。

1783年アメリカ独立したが、このとき、新大陸での利権回復の好機
と見たフランスが対英宣戦。1780年にはロシアのエカチェリーナ2世
の提唱によって武装中立同盟が成立し、ヨーロッパの中でも孤立し
た英国は苦戦を強いられた。

1804年にナポレオンがフランス皇帝に即位すると、ヨーロッパ各国
はこれを危険視し、対仏大同盟を結成した。1804年に対仏強硬派の
ウィリアム・ピットが政権に立ち反ナポレオン色を鮮明にしていっ
た。1805年、ナポレオンの大陸軍はアウステルリッツの戦いにおい
てオーストリア、ロシア帝国を打ち負かしたものの、海軍はトラフ
ァルガーの海戦で、ネルソン率いるイギリス海軍に壊滅させられた。
以降フランスの覇権は大陸に限定されたものとなり、ついにナポレ
オンはイギリス本土に攻撃の手を加えることは不可能となった。

1806年、イエナの戦い、アウエルシュテットの戦いでプロイセン王
国軍を、翌年フリートラントの戦いでロシア軍を大敗させると、フ
ランスは次の手としてイギリスをヨーロッパから孤立させるべく大
陸封鎖令を発動し、イギリスの経済的孤立を画策したが、これは全
くの逆効果で、かえってイギリスとの経済交流の場を喪失した大陸
諸国の方が疲弊する結果となった。

1812年のロシア遠征が失敗に終わると、大陸各国は一斉にナポレオ
ンに対して反抗に転じた。イベリア半島戦争でも1813年、イギリス
陸軍がヴィットーリアの戦いに勝利し、最終的にイギリスの勝利で
幕を閉じた。東では同年ライプツィヒの戦いでフランス軍が大敗、
1814年には連合軍がパリに入城し、ナポレオンをエルバ島へ追放し
た。

ナポレオン追放後のヨーロッパは、自由主義や民族主義を抑圧して
旧秩序の維持を目的とした反動的なウィーン体制下でスタートした。
これを国際関係下で維持するべく四国同盟とこれを補助する神聖同
盟が締結され、イギリスはオーストリア、プロイセン、ロシアと共
にこの体制維持に努力した。又ウィーン体制下では各国の勢力均衡
を図るために領土の交換が行われ、イギリスはオランダからセイロ
ンとケープ植民地を得、又ナポレオン戦争中維持した、マルタ島の
領有を認められた。この反動的な体制は国際的には1848年革命まで
維持されたと理解される。

英国はウィーン体制とは違う動きもした。第一点はフランス革命の
思想的影響を受け、ナポレオン戦争でヨーロッパ本国の影響が薄れ
たのを期に相次いで起こったラテンアメリカ、カリブ海諸国の独立
をイギリスの市場拡大を狙って支持したことである。第二点がギリ
シャ独立戦争を支持したことである。

対仏戦争終了後、ヨーロッパのみではなく各国植民地の地図は一変
した。フランスは当面の間、四国同盟によって封じ込められ、スペ
イン、ポルトガルの植民地は程なく独立した。産業革命によって得
た経済的優位性を得ていたイギリスはナポレオン戦争勝利によって
覇権を確たるものとしたのである。

中国に対しては、1840年から42年にかけてのアヘン戦争と、1856年
から60年のアロー号戦争をおこない、中国を半植民地化していく。
また、インドでは18世紀後半からイギリス東インド会社が領土を
拡大していたが、インド人の大反乱を鎮圧したのち、1877年インド
帝国をつくりヴィクトリア女王が、インド帝国皇帝となる。簡単に
言えば、全インドを支配下に入れたということである。

エジプトでは、エジプトの財政難につけ込んで、スエズ運河を買収
した。スエズ運河はイギリスのものになり、やがてイギリスはスエ
ズ運河の警備という名目で、軍隊をエジプトに駐屯させ、エジプト
を事実上支配するようになった。カナダ連邦(1867)、オーストラリ
ア(1901)、南アフリカ連邦(1910)などの自治領が成立した。

19世紀半ばから19世紀末にかけてのヨーロッパはイギリスのヘゲモ
ニー下にあり、概ね平穏であった。そのため、パクス・ブリタニカ
と呼んでいる。

この時期のイギリス帝国はまさに最盛期を迎えていた。ヴィクトリ
ア女王の統治の下、科学技術は発展し、選挙法改正により労働者は
国民となり、シティには世界中から資本が集まり平和理に各国に影
響力を行使することができた。しかし、フランスとのアフリカに場
所を移した植民地競争、新興国ドイツ、アメリカの追い上げ等、水
面下では次の時代に向けた動きが活発化していたのもまたこの時代
である。

19世紀後半になるとドイツの産業革命が急激に進展し、工業力でイ
ギリスに追いつく勢いを見せた。このためドイツとの対立が激化し
た。イギリスは対ドイツの安全保障策としてフランスと英仏協商を
、ロシアと英露協商を結んで三国協商とし、ドイツ、オーストリア
、イタリアとの三国同盟に対抗しようと試みた。1914年、サラエヴ
ォ事件によってオーストリア・ハンガリー帝国次期皇位継承者フラ
ンツ・フェルディナントが暗殺されたことを契機にして、ヨーロッ
パの大国間同士が争う第一次世界大戦に突入した。

イギリスはフランスに大陸遠征軍を派遣、フランス、ベルギー軍と
共に西部戦線でドイツ軍と対峙した。当初イギリスでもこの戦争は
比較的短期間で終了すると予測されていたが、緒戦のマルヌ会戦で
ドイツ主導の短期決戦計画が破綻すると両軍とも北海からアルプス
まで至る塹壕を掘ってにらみ合い、西部戦線はこう着状態に陥った。

アメリカが、長い孤立主義を破ってヨーロッパの戦争に参加するこ
とで軍事的に戦争には勝利した。しかし、長期間に及ぶ総力戦によ
って国力が疲弊した英国にも影が落ち始めた。特に新大陸の若い国
アメリカの助けなしで戦争を終えることはできなかったということ
は、19世紀から20世紀のはじめまで、ヨーロッパはもとより世界的
規模でリーダーシップを発揮し続けた英国が、その座から落ちてい
くことを示していた。

2.大陸近傍国の外交はどうすればいいか
 18〜19世紀の英国を見ると、大陸近傍国の行なうべき外交が
わかる。大陸国の海軍より強大な海軍を持っていることが重要であ
る。大陸に強国ができたときには、その周辺諸国と協定を結び、そ
の強国を包囲することである。

18世紀は英国にとっての強国はフランスであり、英国はドイツ、
ロシア、オーストリアと組んでフランスに対抗した。ナポレオン戦
争後にウィーン体制を引き欧州を固定化しておき、一方で欧州以外
の各地をスペイン、ポルトガルなどの旧勢力から奪っている。

19世紀になると、ドイツが大陸国で強大になり、このドイツに対
抗するために、ロシア、フランスと協定を結ぶことになる。第1次
大戦後に米国という新興国が出て、この米国との協調で世界支配の
体制を確立しようとしたが、失敗して英国は没落するが、第2次大戦
後も英国は米国にその影響力を残すのに成功している。

このように英国の外交は、その時、大陸で一番強大な国に対抗する
ために、包囲網を作り、大陸国でない強大国とは同盟を結んでいる。

日本も、戦後、米国という大陸国でない強大国と同盟関係を結び、
その強大な米国の影で経済を発展させてきた。しかし、今後米国の
時代が終わり、次の時代に移行することが確実になっている。

ここで、日本の強さを確認しておくことが重要である。日本企業は
世界に出て、その地で存在感を上げている。自動車の世界各地のシ
ェアを下記に示しておく。

昔は植民地が経済的な利得を生んでいたが、現在は各国に占める製
品の占有率が利益を生む。この海外での製品で利益が急増している。
日本は確実にそのサービスや製品とそれを作る工場を輸出して、そ
の利益で今後の高齢化社会を維持するしかないように見える。

昔から言っていた拡大日本である。とうとう、日本は遅れてきた中
国と競争することになる。18世紀の英国とフランスの関係に似て
いる。

3.日本の外交戦略はどうするべきか?
 基本は海軍力を中国以上にしていくことである。このとき、自国
だけでは難しいのであれば、米国や英国などの海軍国家と協力して
、大陸国と対応することである。

もう1つが、中国の周辺国家と協定を結び、友好国にして中国をけ
ん制することである。日本はこの意味で、インドやロシアと友好関
係を強化する必要がある。特にロシアとは北方領土問題を解決して
、平和条約を締結するべきであると昔から主張している。

中国とロシアの領土交渉がこのとき、良い例になる。紛争地域を半
分づつにして国境を制定している。この方法で早急にロシアとは平
和友好条約を締結しておくことである。日本の自己のみの主張をし
ていても、ロシアという相手があるので領土交渉の締結できない。
できないとロシアの実質統治があり、日本の歴史的に不利になる。
早く、半分で折れることである。

それより、中国に対するけん制になり、日本はロシアと中国を両天
秤にして、交渉ができることになり有利になる。

インドとも友好関係を築くことである。インド洋での中国海軍を抑
止するためには、インド海軍、日本・米国の海軍が協力していくし
かない。東南アジアには華僑が多く、中国にシンパシーを感じてい
る政権がある。その中ではマレーシアやインドネシアなどが日本の
方を重要視する可能性が高い。この諸国と海上防衛を話し合いこと
が必要であり、海上保安庁が警察として協力ができるのである。

日本は憲法9条があり、このような諸国に海軍力を提供できないが
警察としての協力はできる。18・19世紀の英国を見ると、日本
の進むべき外交が見えてくることになる。

どうか日本の為政者は、考慮をお願いする。
==============================
               日系メーカ台数とシュア
国名	    販売台数	シェア
----------------------------------------
インドネシア	411,291	    94.9%
パキスタン	191,791	    93.1%
タイ	    584,532	    92.6%
フィリピン	 98,033	        83.1%
台湾	        258,569	        79.2%
UAE	        186,627	        71.1%
サウジアラビア	238,843	        58.0%
ニュージーランド 57,445	        56.2%
豪州	        589,362	        56.1%
インド	        835,621	        42.0%
南アフリカ	272,703	        40.3%
アメリカ      5,988,802	        36.4%
中国	      1,703,611	        19.4%
ロシア	        514,646	        18.0%
ブラジル	191,039	         7.7%
韓国	         17,633	         1.4%

日系完成車メーカー12社 
地域別国別自動車販売台数合計
と市場シェア(2007年)
==============================
歴史年表
1642〜49年 清教徒革命
1649〜58年 クロンウェル独裁
1660年    王政復古
1688年    名誉革命
1689年    権利の章典
1702〜14年 アン女王
1703〜13年 スペイン継承戦争
1713年    ユトレヒト条約:スペイン継承戦争の講和条約
1714年    ハノーバー朝ジョージ1世
1721〜42年 ウォルポール内閣
1740〜48年 オーストリア継承戦争
1748年    アーヘンの和約:オーストリア継承戦争の講和条約
1775〜83年 アメリカ独立戦争
1789年    フランス革命
1793年    第1回対仏大同盟
1799年    ナポレオンが総統になる。
1799年    第2回対仏大同盟
1804年    ナポレオンが皇帝に
1805年    第3回対仏大同盟
         トラファガーの海戦、アウステルリッツの戦い
1814〜15年 ウィーン会議
1837〜1901年 ヴィクトリア女王
1853〜56年 クリミア戦争
1856年    パリ条約:クリミア戦争の講和条約
1858年    インドの直接統治
1860年    英仏通商条約
1863年    ビスマルクの執政
1867年    オーストラリア・ハンバリー帝国成立
1875年    スエズ運河株式買収
1877年    インド帝国成立(ヴィクトリア女王が皇帝に)
1878年    ベルリン会議
1882年    独奥伊三国同盟
1904年    英仏協商
1907年    英露協商
1914〜18年 第1次世界大戦
1919年    パリ講和条約、ヴェルサイユ条約成立
==============================
参考資料
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
世界史講義録  第94回  19世紀後半のイギリス
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-94.html

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