3125.キリスト教の原罪思想は本気だったのか



キリスト教の原罪思想は本気だったのか

キリスト教の原罪思想は本気だったのか、口先だけだったのだろう
か?

 二乗して負になる思想嘘なれどさらに二乗し自然に戻せ

・ 情報通信モデルにおける心と意識の分離

 このところ、情報理論の巨匠クロード・シャノンの論文にいくつ
か目を通し、さらにサイバネティックスを提唱していたノーバート
・ウィーナーの論文にもいくつか触れた。

 人類の言語のデジタル性については、アメリカの遺伝子学者ハン
ス・ノルが、言語もDNAと同じ仕組みで、もっとも基本的な部分はデ
ジタルにできていて、単語とイメージの結びつけはアナログ式パタ
ーン認識によって行われているといっている。

http://www3.interscience.wiley.com/journal/104524929/abstract?CRETRY=1&SRETRY=0

 遺伝子の基礎を学びながら、今この論文を読んでいるところだが
、人類の言語のデジタル性こそが、人類の文明の発展の理由であり
、同時に、それが文明の行き過ぎによる人類の滅亡を引き起こして
いるということは、ますます間違いないことのように思っている。

 これまで心や意識についてさまざまな考察が行われてきたが、私
は心と意識を明確に分けて考えることが重要ではないかと思う。

 心とは、およそすべての生物がもちうるものであり、食物を消化
し栄養として取り込むときにおきる電子現象である。これは言語を
必要としない。
 腹が減ったときに機嫌が悪くなったり、虫の居所が悪くなるのも
、このためだ。

 一方で、意識とは、言語活動であり、人類だけがもつものである
。心が動物的で素直であるときに、意識は計算したり常識を働かせ
て、時として心を裏切ることも行う。
 心にもない嘘を言うのは、意識の現象である。
 心というアナログで、リアル(現実)な存在が、言葉というデジタ
ルな符号に置き換えられるときに、イマジナリー(虚数部)なもの
が追加されて、言葉がコンプレックス(複雑、複素数)になる現象が
、嘘だと思っている。

・ キリスト教における原罪意識とは何なのだろう?

 どうしてこんな小難しいことを考えているかというと、今日、イ
ギリス人のスペース・サイエンティストによる気候変動の講演を聴
講し、講演の後で質問をしたからだった。

http://eastasia.britishcouncil.org/public/event.aspx?country=japan-jp&eventname=ICCuniverse&Event_ID=04cc2561-a3ae-40f8-9aca-7c0006487ac8

 私の質問は、講演の内容とはほとんどかみ合っていなかったが、
どうしても聞いてみたいと思っていたことだった。

「水俣病の患者や研究者は、水俣病は水銀をタレ流したチッソが悪
いのではなく、人類の文明の原罪であると言っている。
 われわれ日本人は、そもそも原罪という思想をもっていない。
 キリスト教徒であるならば、地球環境問題は原罪であると聞いて
、どのように思うか」

 講師の答えは、「私は原罪を信じない。地球環境問題についても
、楽観的に考えている」というものだった。

 講師の答えも、質問とかみ合っていなかったといえよう。日本に
、原罪の思想をもたない日本人に、環境問題を原罪であるとして受
け止めている人が実際にいるときに、私は原罪を信じないというこ
とは、水俣の人たちが言っていることの重みをまるで理解していな
いということではないだろうか。

 これでは、キリスト教思想も、日本の戦後民主主義思想と同じよ
うに、嘘の思想だということにならないか。

http://www.milestone-art.com/MILESTONES/issue81/htm/p7tokumaru.html

 今日、キリスト教は原罪をつきつめて考えることによって、地球
環境問題のロスタイムを生きているわれわれ人類に、生きる指針を
与えてくれないのだろうか。

・ 田母神発言について

 11月21日金曜日の会の二次会で、田母神元空幕長の歴史認識
のおかしさが指摘され、そんなものを擁護してどうするつもりかと
お叱りを受けた。

 私も、日中戦争から第二次世界大戦へと続くすべての軍事行動を
コミンテルンの陰謀であるかのように書いてある部分はいただけな
いと思っている。しかし、それなら史実や歴史認識の問題として議
論をおこせばよいのに、日本社会党の村山首相の見解と違っている
のはけしからんというのでは、批判になっておらず、あまりにお粗
末な対応ではないかと思う。

 むしろ、私が田母神発言を擁護するのは、それを突き詰めて考え
たときに、はじめて戦後民主主義の嘘が暴露されると思うからであ
る。

 すなわち、たとえばイラクやアフガニスタンの戦場に自衛隊員が
出動したときに、もしかしたらゲリラやテロリストかもしれないが
被侵略国民である現地の民衆に銃を向けるのか、同盟国ではあるが
侵略者であるアメリカに銃を向けるのかという二つに一つの選択を
つきつけられることを期待しているからである。

 このとき、われわれにできることは、3つある。
1 アメリカの側に立ち現地の人々を殺傷する側に立つこと
2 アメリカの意向に反するが現地の人々を守る立場に立つこと、
あるいは
3 武器を捨てて素手になり、何もしないがアメリカ兵と現地の
人々の間に割ってはいること

 引きこもりの一国平和主義の戦後民主主義は、このような場合を
まったく想定してこなかった。

 自衛隊がイラクやアフガニスタンの危険地域に駐留して、このう
ちのどれかの選択を迫られることは、戦後民主主義が、本当に思想
と呼べるにふさわしい思想であるかどうかを試す試金石であるとい
えるだろう。

 ちなみに、3は、昨年の夏合宿で読んだ保田與重郎の絶対平和論
である。ここまで戦後民主主義に命をかけたときに、それははじめ
て思想とよべるにたる思想になるのではないだろうか。

(2008.11.23, 得丸公明)

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