3121.世界大恐慌の脱出方法



とうとう、本当に世界大恐慌になってきた。この大恐慌からはい上
がるためには、どうすればいいかを検討したい。  津田より

0.はじめに
今回の世界大恐慌も、1929年から始まる世界恐慌と同様な経緯
を経て、やっと回復に向かうのであろうが、前回の恐慌は42年か
ら始まる第2次世界大戦まで続くので、13年も続いたことになる。

日本の1990年代のバブル崩壊後の不況も2005年まで続いた
ので、15年も続いてやっと脱出するのであり、この手のバブル崩
壊後の不況から脱出するのには15年程度かかると見た方がいい。

しかし、15年は長いと世界の人たちは見るので、それより早く脱
出できないかということであろう。この方法を探ることであるが、
欧米の経済エンジンは壊れているので、その欧米の回復を待つこと
なしに、世界経済を離陸させることができるかという問題の立て方
になる。

証券化商品やデリバティブで大損したのは欧米の銀行であり、リス
クの取り過ぎは欧米の銀行であった。欧州の銀行はレバレッジを米
国の銀行より膨らませて、東欧や世界に貸し出している。この良い
例が、アイスランドの銀行であるが、これを同じことを欧州の銀行
もやっていたのだ。

このため、バランスシート不況は欧米の全体で起こっている。この
ため、もし、欧米経済が回復するのを待つと15年かそれ以上の時
間が必要になると見る。何を意味するかというと欧米経済回復なし
で、どう世界は生きていくのか、または欧米の覇権を肩代わりし、
次の世界のどう仕組みを作るかを検討することになる。

G20はその意味で、欧米中心主義の終わりを意味していることに
なる。まだ、世界支配の仕組みは欧米中心であり、このギャップが
当分続くが、どう欧米が中心でない世界を組み立てるかを考えるこ
とが必要なのである。

この検討をしようと思う。どうかお付き合いをお願いします。

1.1929年から始まる大恐慌
 まず、1929年から始まる大恐慌を見る必要がある。第1次世
界大戦が大きな歴史の転換点である。第1次世界大戦の戦費2600億
ドルの7分の1を負担した。この戦争で米国は英国に代わって世界一
の経済大国になる。米国は戦後、欧州への投資を通じて資金を流し
ていた。時代は「バックス・ブリタニカ」から「バックス・アメリ
カーナ」に変わって行った。

しかし、大戦後、輸出が急激に落ち込み、1921年には激しい不
況に見舞われる。23年から景気は回復して29年までは好景気に
なる。1920年代に経済の牽引車は住宅着工や企業の設備投資、
自動車などの耐久消費財であった。しかし、1926年にはフロリ
ダを襲ったハリケーンの被害で地価が暴落した。29年にニューヨ
ーク株式市場が暴落する。金融緩和を受けて、27年から株価が急
速に上昇して、3年で2倍以上も暴騰した。27年に欧州からの要
請で、米国の公定歩合を4%から3.5%に引き下げる。しかし、
29年8月に公定歩合を6%に引き上げる。この金融引き締めにも
かかわらず、当分投機的な動きが続いたが、10月19日に記録的
な下げになる。こうして、大恐慌が起こったのである。

1930年の上半期には景気は自立反転して回復に向かった。しか
し、中期から再び急速に悪化した。30年暮れに投資銀行と普通銀
行が倒産。29年秋には農産物価格が下落して、33年には半分程
度の価格まで下がることになる。工業製品も同様に価格が下がった
。このように深刻なデフレになり、各国は保護貿易主義的な対応を
取り始めた。ここで、関税引き上げ法であるスムート・ホーリー関
税法が30年に成立する。各国が報復関税を掛けたために、世界の
貿易量は1/3にまで落ち込んだ。

これと、29年までは、米国から世界に大量の短期資金が供給され
ていたが、29年のニューヨーク株式市場の大暴落で資金の引き上
げを起こし、経済運営が行き詰ることになる。31年1月にボリビ
アが債務不履行になり、ラテン・アメリカ諸国も同様になった。
5月にはオーストリアで最大の銀行が破綻した。32年にはドイツ
も戦時賠償のデフォルト、支払い停止を宣言したが、大手銀行の破
綻で、ドイツは金融恐慌になる。金融市場の混乱で欧州各国はポン
ド売り、金に換える行為に出た。1931年英国はポンドを支えき
れずに、金本位制から離脱。32年末には32ケ国が金本位制を破
棄した。そして、通貨切り下げ競争が起こる。このため、国際金融
のシステムが完全に秩序を失うことになった。

国際的な混乱で31年9月には米国の銀行が305行、10月には
522行が破綻した。33年3月にルーズベルトが就任したが、緊
急銀行法を成立し、健全な銀行を選択して経営を再開することにし
た。このため、8日間のバンク・ホリデーを実施した。4月には、
金本位制から離脱。

1933年、米国のGNPは29年の1044億ドルから約半分の
560億ドルになってしまった。工業生産(52%)、自動車生産
(14.5%)、輸出(30%)、輸入(30%)、農産物価格
(40%)。失業者は最大時1300万人、これは労働可能人口の
25%であった。
32年の英国失業者率22.5%、ドイツ30.1%、日本6.8%
であった。

ルーズベルトはニューディール政策で雇用の創出を行い、市民資源
保存団で各地の植林や水利設備の建設を行わせ、市民復業庁は臨時
的な公共事業拡大で職を与えた。TVAを行い、農業には補助金を
出し作付け制限を実施、産業界にはNIRAで一種のカルテルによ
って経済活動の調整を行った。

34年互恵通商協定法が成立して、国どうしが相互に関税の引き下
げを行うことであり、37年末までに16の国と協定を結んだ。
37年までは徐々に景気は良くなっていったが、37年にルーズベ
ルト政権が財政均衡予算にしたため、再度、景気は悪化してしまう
ことなる。この不況は世界に伝播していく。37年8月に公定歩合
を1%に下げる。38年には再度、財政政策を拡大した。39年に
景気が急に立ち直る。日本やドイツが戦争を起こしたことで、海外
からの兵器受注であったためである。

39年から44年の5年間で工業生産高は3倍になり、軍事産業の
GNPに占める割合は50%にもなった。

2.現時点での不況脱出方法
1929年から始まる米国の政策は、第2次世界大戦という通常戦
争がなかったなら、不景気から抜け出せなかった可能性がある。日
本のバブル崩壊後の経済運営も同様であり、景気回復の足取りは非
常に鈍かった。日本が抜け出せたのは世界が米国発のバブルで景気
が良かったために、外需に助けられた可能性が高い。

世界同時不況になり、この期待ができないことになっている。この
ため、新しい需要を作ることが必要である。日本国内でも派遣社員
や契約社員が削減されると、深刻な雇用問題が起きてくる。国内、
国外の需要が無くなり、企業業績も大幅に落ちてくる。

短期的には政府が雇用を作り、需要を喚起することが必要であるが
、これだけでは景気回復とはならない。世界的な視野で需要創造を
する必要がある。

新興国など資金があれば発展する可能性がある、国民が貧しいので
内需が拡大する国に焦点が当てることが必要になる。日本は周辺に
東アジア圏があり、ASEANや中国、中東などの経済成長を助け
ることで、市場ができる可能性があり、その市場開拓をすることが
もっとも必要である。

日本が高度成長した理由は、海外への輸出というより国内需要が旺
盛であったことである。この旺盛な需要は農村の圧倒的な人口があ
る程度豊かになり、その農民が耐久消費財を買ったことでできたこ
とである。保護貿易で農産物価格を上げて、農民の所得を上げたこ
とである。もう1つが、高速道路を作り工場を田舎に作ったことで
ある。これと同じことを中国やASEAN諸国に行えばいいだけで
あり、日本の体験が使えることになる。

中国企業は需要の掘り起こしを国内で行えばいいので、そう難しく
ない。10億人以上の中国農民層の需要が拡大すると、世界の需要
も拡大していくことになる。農民の所得を上げるために、品種改良
や制度などの見直しを日本は協力すれば、日本企業のチャンスも広
がる。市場としての中国ができることになる。

日本企業は、中国企業とは違う新技術を開発して高度部品を輸出し
ていくことである。中国の農産品は高くなり、日本への輸出はでき
なくなり、日本の食品も安全になる。

3.世界の仕組みを代える
新世界秩序を英国は言い出しているが、英国一国では力がない。
米国を利用して、自国の利益を確保していたが、その米国の力はな
くなっている。日本も同様に米国経由での外交しかしていないため
に、この両国は、行く道を失いかけている。英国はEUとは違い、
金融の規制強化は大きな痛手になり、日本は中国と組むと、中国に
力を奪われることになる。

このため、日本は東アジア共同体を推進するが、その他に英国と組
み、英国の力を使い、日本は存在感を出す必要がある。米国もその
中に組み入れていくことである。米国は中国に米国債を買ってもら
う必要があり、中国と組むしかない。中国も現時点では文化納得性
がなく世界の覇権国になれないために、米国を利用しようしている。

ドル基軸通貨であると、暴落の可能性があり、ドルに代わる世界通
貨の準備が必要になっている。1つが地域通貨の多極化であるが、
アジアの通貨バスケット制はユーロや湾岸通貨に比べて、難しい。

それなら、石油とリンクした湾岸通貨を世界通貨にしていく方が、
日本の次善の策となる可能性が高い。まだ、当分石油がエネルギー
の中心にあることは疑いのないことである。

日本は英国と組むことである。それは両国が似たような状況にある
ためである。近傍の大陸国家とは違い、文化が違いすぎる。両国が
組むと、その上に米国や中国やEUを乗せることができる。

日本の指導者は、考えるべきである。
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世界大恐慌の歴史年表
1914年〜1918年第1次世界大戦
1917年:ソヴィエト連邦が成立
1919年:パリ講和会議
1920年:国際連盟の発足(米国の非参加)
1928年:フーバーが大統領に
1929年:10月NY証取で株が暴落世界大恐慌が開始
1930年:6月ストーム・ホーレー法を施行
1931年:1月失業救済委員会、9月銀行倒産が急増
      12月失業者がワシントンを飢餓行進
1932年:復興金融公社(RFC)設立
1933年:3月ルーズベルトが大統領に
      3月銀行休業、金輸出禁止、
      4月金本位制離脱を宣言
      5月TVA公社設立、6月グラス・スティーガル法
      12月禁酒法撤廃
1934年:6月SEC設立、互恵通商協定法成立
1935年:8月社会保障法成立
1936年:ルーズベルト再選
1937年:日中戦争開始
1938年:公正労働基準法成立
1939年:9月第2次世界大戦始まる。米国の中立宣言
1940年:ルーズベルト再選
1941年:真珠湾攻撃で太平洋戦争開始
1942年:戦時生産局設立、軍事産業がGNPの半分に
1945年:ルーズベルト死去
      日本、ドイツの無条件降伏

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