3061.国家の性格について考える



国家の性格について考える

                              
                           日比野

1.中国の餃子事件の方針転換

試論として、国家の性格とその外交における対応について考えてみ
たい。今回はかなり単純化したエントリー故、たとえばの話として
話半分として読んでいただければ幸いである。

中国製冷凍餃子による中毒事件で、中国側が8月28日、日本の外
務省に対して、毒物が中国国内で混入した可能性が高いことを正式
に認めていたという報道があった。

なんでも、中国公安部日本に捜査情報を正式に伝達した際、冷凍餃
子の生産過程を含めて調査していることを伝え、中国の中毒事件の
被害者が天洋食品関係者の可能性があり、同社工場内での毒物混入
の可能性も示唆したという。またメタミドホスが原因であることも
認め、詳細な毒物分析を進めているそうだ。

また、関係者によると中国で起きた事件については、工場関係者が
個人的な動機で毒物を混入した可能性が高いという見方を中国側は
日本側に伝えてきたという。さらには、捜査を担当していた公安省
刑事偵査局の余新民副局長が更迭された。中国筋によると、「事件
処理の不手際の責任」を問われたようだ。 

これら一連の動きを見る限り、ようやく中国側も重い腰を上げて、
事件の解決を図ろうと動き出したようにみえる。

事件直後「板ばさみ(毒入り中国製餃子について 続編)」で事件
の始末のつけ方として、待遇に不満を持った従業員とか、天洋食品
に恨みをもった特定のごく一部の者による「犯罪」だった、と矮小
化して沈静化を図る作戦をとるのではないか、また、このキャンペ
ーンに安易に乗ってしまうと、食品メーカーが安全という名の板ば
さみに遭うことになると指摘したけれど、ほとんどこのとおりの展
開になりつつある。

案の定、食品メーカーは安全対策として、中国産食品そのものを避
けるという手に出た。農水省が6月9日に発表した輸入検査実績(
速報値)によると、5月の中国産野菜の輸入検査量は前年同月に比
べて49%とほぼ半分にまで減少している。それも、野菜の種類に
関わらず満遍なく減っているというから、単純に中国産というキー
ワードで拒絶しているのだろう。

これまで、日中の合同調査を進めていたけれど、中国は自国内でメ
タミドホスの混入はないと言い張って、少しも埒が開かなかった。
だけど五輪が終わって、日本の輸入量が減るという物理的インパク
トが明らかになってきた。そのせいかどうか分からないけれど、自
分に不利になったら途端に急激に態度を変えてくる。ご都合主義と
いえばそれまでだけど、そこには冷徹な国益の計算があって、単に
それに従っての行動にしか過ぎない。

ただ、その国益を求める行動基準は、他国の信頼を得ることなんか
ではなくて、ストレートに儲かるかどうか、自分に利があるかない
かという点に多少偏っているように見えなくもない。



2.中国の嫌韓感情に戸惑う韓国

「北京オリンピック開幕式のリハーサル場面が韓国のテレビ局で放
映されたことで、中国の努力を台無しにするものだとの反感が誘発
されたのに続き、四川大震災についての(韓国)ネチズンの悪意的レ
スが火に油を注いだ。放送やネチズンは民間外交官として威力を発
揮することもできるのに、国家間の信頼を損なうようなことが発生
しないよう、行動には慎重を期さねばならない」 

韓国ハンナラ党の党本部で開かれた最高委員会議において、中国を
訪問した際に行なった会談結果を伝えた孔星鎮(コン・ソンジン)最高委員
のコメント。

今回の北京五輪では特に顕著だったのだけれど、中国国内で嫌韓感
情が広がっている。たとえば韓国が出場する競技では、韓国ではな
く相手国の方ばかり応援し、韓国にはかなりブーイングをしたよう
だ。

こうした中国の嫌韓感情の背景としてまず、韓国人の中国に対する
態度に問題があるのではないかと、孔最高委員は指摘している。

五輪や四川地震だけでなく、中国で2000年以上の歴史を持つ「
端午の節句」(旧暦5月5日)を韓国が「江陵端午祭」との名前で
ユネスコの「世界無形文化遺産」に申請、選定させてしまったり、
中国伝統医学の「漢方(中医学)」を「韓医学」と名前を改め、世
界文化遺産の認定申請したり、はてや「漢字を韓国人の発明として
世界遺産に申請すべし」という進言までやっていたりしたことも過
去にはあり、それも影を落としている可能性は否めない。

不思議なのは、こうした問題を招き寄せたのは自分自身の態度にあ
るかもしれない、という論評がぽつぽつと韓国自身から出ていると
いう事実。

今でこそ、日本においても嫌韓流という言葉が市民権を得てきたけ
れど、これまで韓国はなにかにつけ、日本の植民地行為を謝罪しろ
とか、反省が足りないだとか、いろいろと注文をつけてきていた。
最近では竹島騒動が記憶に新しい。日本側がいくら事実を基に検証
しようと証拠をつきつけても、まるで聞く耳を持たない。

だけど、中国の嫌韓感情に戸惑いを見せ、自らを振り返る態度を一
部であっても示す動きがあるということは、韓国にとっては、事実
よりも感情の動きや発露がより大切であって、相手が感情に訴える
行動に出るに至って、ようやく相手の考えを認知するのではないか
、という疑念も湧いてくる。



3.戦略兵器としての言葉

中国と韓国の例で振り返ってみたけれど、中国は「利」、韓国は「
情」によって簡単にその態度が変わってしまっている。下手な外交
交渉なんかより、こちらを使ったほうがずっと効果があるようにさ
え見える。

日本人同士での交渉のように、信頼と誠実を基にした交渉を当たり
前だとし、それが他国との外交交渉にまで普通に適用される筈だな
んて思っていたとしたら、中国や韓国の態度にはとても違和感を覚
えるはず。

理路整然と事実と法に基づいた交渉で物事が進むつもりでいたのに
、毒餃子事件での中国の対応のように、どんなに事実をつきつけら
れても、自分は悪くないと開き直る態度や、韓国のように教科書に
竹島を記述するだけで、デモを起こして大使を召還するような態度
に遭遇すると、なんて自分勝手なんだろうと思ってしまう。

だけど、事実と証拠では全く埒が開かなかったくせに、「利」と「
情」を使うことで、彼らの態度は簡単に変わってしまう。とすると
、彼らにとって、言葉などは真実を語るための道具なのではなくて
、国益を追求するための「戦略兵器」にしか過ぎないのだと考えて
おくべきではないかと思えてくる。

彼らとの交渉の場で使われる言葉は、ただの戦略兵器なのだと思え
ば、黒を白と言い、やると言ってやらなかったりすることも、ごく
ごく普通のことで不思議でもなんでもなくなる。

日本人拉致問題や核開発問題での北朝鮮の発言と態度を見れば、そ
れは明らか。

日本人は、北朝鮮の拉致問題に対する対応に触れ、そのやり口を学
習してきているから、基本的に彼らの言葉は信用の置けないものだ
と思っている。先日拉致被害者の再調査をするといっておきながら
、福田総理が辞任を表明した途端、延期を宣言した。

彼らにとっては、拉致調査と引き換えの経済制裁の解除がどうなる
か分からなくなったから様子を見るという理由なのだろうけれど、
それこそ交渉時の言葉なんて、ただの戦略兵器としてしか思ってい
ないことを暴露してる。 



4.和の国

翻って、日本にとって、外交においても、その行動基準として大き
な影響を与えているものは何かといえば、おそらく「和」。自国も
他国も互いに不利にならないような落とし所を探っていくやり方。

日本は交渉事でも、完全勝利はあまり望まない。50:50のイー
ブンであればOK。40:60で自国が多少不利であっても、まぁ
いいかとばかり自分も世界も平和になれるならとあっさりと譲って
しまうように見える。

なぜかというと、日本の国民性や文化的に「和」の文化であること
は勿論なのだけれど、更にそれが高じて、日本が世界一であるもの
なんて殆どないと、日本人自身が思っていることも影響しているだ
ろうから。

この分野では自分達が世界一であって、世界をリードしてゆくのだ
、と思えればこそ、それを世界に普及させるためのルールづくりを
してみたり、強気にもなれる。だけどそうしたものがないときには
、それこそ周りの反応を伺いながら、大勢になるものに従っていく
ようになる。事大主義といえば事大主義。

もちろん、日本だって自分達が世界一だと思っている分野があれば
、途端に強硬になることだって十分有りえる。たとえば、米とか捕
鯨とか。こと食文化に関することになると日本は簡単には譲らない
ように見える。ギョーザ事件もその範疇にあると言える。

だけど、日本の外交の行動原理は「和」だとはいえ、「和」を守り
それを貫くためには、一度決めた決まり事はどこまでも守るという
誠実さが必要になる。決めたことをすぐ反故にするような国は信用
を無くしていくから、「和」を作る力は持てなくなる。

だから日本は必然的に交渉事の文言や言葉は真実を語るツールとし
て扱われることになって、それが故に国際的な信用を得ることがで
きた。
 


5.理の国

もうひとつ、利でも、情でも、和でもない行動原理がある。「理」
がそれ。国家理念というか何がしかの理念を基に建国されたような
国、人権を掲げたフランスとか、自由を掲げたアメリカとか。

アメリカの建国理念は、神に祝福された新しい理想の国を作るとい
う理念で、自由と民主主義という理念。それが建前となって国が作
られている。だからその言葉は建前であったとしても、自由と民主
を守るものでなくてはならず、それに沿ったものとなる。

自由が自由としてその力を発揮するためには、自由に対する責任が
果たされないといけない。皆が自由に好き勝手にふるまって、その
責任を本人が負うことがなければ、社会は無茶苦茶になってしまう
から。

また、理は合理の理でもあるから、その言葉の内容には、情の入り
こむ余地は少なくなって、もっぱら理に適ったものになる。

さらに合理の理は利にも通じていて、ここでは、数字的な利害得失
といったものにもシビアに判断を下すことになる。だけど自由と民
主という理に裏打ちされた利は合理ではあるけれど、同時に理念も
体現しないといけない。だから、理の国の言葉は、利であると同時
にその言葉には必然的に責任が伴う。結果的に言葉は真実を語るツ
ールとして使われることになる。

もともとの立ち位置と目的は異なっているのだけれど、「和」の国
の言葉も「理」の国の言葉もそれぞれの目的や理念を守るために、
どちらの言葉も真実を映すものとして扱われる。

これは、言葉を戦略兵器として扱う「情」の国や「利」の国とは決
定的に異なる点。
 


6.理和利情の外交

理と和、そして利と情のそれぞれの行動理念を持つ国同士が外交交
渉を行うとするとどういう関係になるかをそれぞれ6通りの組み合
わせで考えるとこうなるのではないかと思う。


@理の国vs和の国
 理の国は理念と合理を全面に押し立てて交渉に臨む。和の国はそ
の要求に対して、どこまで譲歩すればいいか、あるいは、理の国の
主張そのものに自ら掲げる理に反していないか、合理の理に矛盾し
ていないかという部分を探り、突っ込みをいれつつ妥協できるポイ
ントを探すことになる。無論どちらの言葉も真実を映すツールだか
ら、言葉による交渉は成立する。


A理の国vs利の国
 理の国には理念の理と利の理(合理の理)があるけれど、利の国
には利しかない。理の国にとっては、理念と利をともに満たす結果
が欲しいのだけれど、利の国は、理念を受け入れる素地に乏しくて
、理の国の説く、理念そのものすら自らの利に叶うかどうかみてる
。

よって交渉は互いの共通プラットフォームである利の部分で主に行
われることになる。この場合の交渉結果は、利の国がちらつかせる
利益という誘惑に、理の国がどこまで耐えられるかによる。その誘
惑の利が莫大であればあるほど、理の国が自らの理念とする理を打
ち捨てて、利の理(合理の理)を選ぶ可能性は高くなる。

この場合、理の国の言葉は真実を映すけれど、利の国の言葉は戦略
兵器だから、言葉のみの交渉成立は難しく、利を伴った強制力をど
う発揮するか、させるかという点がその交渉の成否を分けることに
なる。


B理の国vs情の国
 情の国にとっては、自分が満足するかどうかだけが基準になるか
ら、理の国がいくら、理念の理を説いても、利の理で誘導しても、
合理の理で説得しようとしても受け付けてくれるとは限らない。

基本的にこの二国間の関係では、共通プラットフォームは存在しな
い。だから、理の国からみれば自分の理や利に沿うように、情の国
をある意味適当になだめつつ、かれらの情を満足させてやる形を取
りながら、自分は実を取ってゆくという形になる。

この場合でも、情が満足している分には、言葉による交渉は成立す
るけれど、一旦情の国が臍を曲げれると、途端に過去の交渉は無効
だと騒ぎだすから、そのときの罰則規定なり、条項を盛り込んでお
いて、速やかに対処できる仕組みが必要となる。


C和の国vs利の国
 和の国と利の国が交渉する場合は、利の国がその利をちらつかせ
、時には押してくるのを、和の国がそれを受け入れた上で、和を創
り出すところの均衡点を見つける形が基本になる。利の国からみた
ら最初から受け入れると分かっているからどんどん要求できるし、
拒絶したらその場で一歩引いて妥結するも良し、そのような拒絶の
態度は和に反するのではないか、と殊更に攻め立てて恫喝するも良
し。

利の国ははっきりと言葉を戦略兵器として使っていて、時と場合に
よって自由に駆使する。利の国からみたら、和の国は理の国と違っ
て絶対基準を自身で持たない。その分、理の国と比べてずっとやり
易い。

尤も和の国だって反撃方法がないわけじゃない。たとえば、理の国
を相手にするときのように、相手の利の矛盾をつくやり方とか。以
前、中国に対して、日本が知的財産権の処遇を求めたことがあった
のだけど、そのとき、中国は漢字の使用料を真っ先に求めて来た。
日本は、平然とその条件を呑む代わりに日本由来の漢字・国字につ
いて、使用料を日本が求めると返し、話は無かった事に為ったとい
う有名な逸話がある。 


D和の国vs情の国
 和の国と情の国が交渉する場合は、情の国の気分・要求をどこま
で和の国が受け入れるかで成否が異なる。基本的に情の国はその時
、自分の気が済むかという基準だから、理も利もなく、感情だけ。

和の国は、理も利も度外視して、情の国の要求を丸のみするだけで
和の均衡点ができあがるから、譲れる範囲で譲ることになりがちだ
し、場合によっては形だけで譲って、自国の利益を計ることもでき
る。ただそうしたことが明らかになった場合には、情の国は更に憤
慨し和の国に情のレベルでの是正を求めることもある。不毛なサイ
クルが繰り返される可能性すらある。


E利の国vs情の国
 利の国と情の国での交渉は、互いに言いたいことを言い合うこと
になりがちになる。利の国はその利を武器として押してくるし、情
の国はその情を満足するように要求する。互いに交渉における共通
のプラットフォームがない上に、言葉は互いに戦略兵器としてしか
考えていないから、その場その場で都合の良いように言うし、聞く
ほうも都合よく解釈する。

だから、理の国と情の国の間での交渉結果は互いの国力差に大きく
依存する。ひらたくいうということを聞かないと酷い目に遭うぞと
いう恫喝めいた交渉になることもある。ただ、こうした交渉のやり
方を理の国や和の国相手にしてしまうと、言葉を介した交渉が出来
ない上に信頼もおけない国だとして相手にしてもらえなくなる。

 

7.理和利情と民主主義との関係

同じく、理と和、そして利と情のそれぞれの行動理念を持つ国と民
主主義との関係を振り返ってみる。


@民主主義な理の国
 民主主義というのも、一種の理。だから、国家の理と個人の理が
互いに相反してぶつかる場合は双方の調整が必要になる。尤も民主
主義は無論、民の考えを主とする理だから、この場合は個人の理を
優先することになる。また、個人の理といっても個人の考えは様々
だから、全体としての国家の理は多数決なり何なりで代表される全
体の民意を反映することになる。
もちろん、理の国が全体主義になってしまった場合は言うまでもな
く、個人の理よりも国家の理が優先されることになる。


A民主主義な和の国
 お互いの関係を重視して、妥協点・均衡点を模索しながら調和を
作り出す和の国は、互いの均衡点を探すという意味で既に民主的。
だから、和を重視する考えの上に民主主義を乗っけること自身にそ
れほど反発は起こらない。だけど、個々人の理があいまいであった
り理がなかったりする場合は、長いものには巻かれろとばかり容易
に周囲の意見に同調してしまう。事大主義に陥る危険を孕んでいる
。また和の国が全体主義になる場合は、周囲の意見がなんとなくた
だひとつの意見に集約するように世論誘導を行うことで達成される
。


B民主主義な利の国
 利の国が民主主義になる場合は、その判断基準、行動基準は明快
。利益を得られるか得られないか。金になるかならないかがその基
準になる。だからこの場合の行動はより利益を得るための目的合理
性に沿った行動になるし、非効率なものは叩かれて修正を余儀なく
される。国力の増強という意味では非常に効果を発揮するのだけれ
ど、その反面、利益をもたらす存在を優遇することになるから勝者
と敗者を明確に分ける傾向が出てくる。この傾向が行き過ぎると自
分のことや自国のことのみ考え、他国の利益や共存共栄といった考
えが無くなってゆく。その行き着くところは一人勝ちの世界。その
最後の勝者がその勝ちで得た褒美を社会に適切に還元できないと、
少数が多数を支配してしまうような社会になることだってある。


C民主主義な情の国 
 情の国が民主主義になった場合は少し厄介。ひとつひとつの判断
が情に流されるということを意味するから、健全な国家運営は難し
くなる。民主国家の場合だとさらにそう。たとえば、政府が他国と
の交渉で何かを譲る代わりに何かを得るといった、ごく普通の二国
間交渉を成立させたとしても、大衆がその譲った事柄に反発した場
合、それに対する説明に苦慮することになる。酷い場合には、国家
元首が罷免されることだってあり得る。この場合はよくよく国民が
冷静な判断を下せるように教育していかないと簡単に衆愚制に陥っ
てしまう危険を孕んでいる。
 


8.理の国の弱点

それぞれの行動基準の特徴とその組み合わせで考えてみると、民主
主義な理の国、あるいは民主主義な和の国の方が、まだ衆愚に陥い
る可能性はより低いようにみえるけれど、それでも理は理なりの、
和は和なりの弱点がある。

理の弱点は理に縛られること。理を奉じて理によって成立している
国は、その理が守られないとその存立基盤を失ってしまう。しかも
、その理が崇高であればあるほど、現実とは乖離しがちになって、
必然的に国家運営における国としての選択権が限られてゆく。

フランスは今、移民問題で悩まされているけれど、フランスは国家
として人権尊重という理を掲げて興った国だから、おいそれと移民
を排斥するわけにはいかない。それこそ人権侵害となって、国家存
立基盤が揺らいでしまう。

また、アメリカなんかでも自由の精神を掲げ興した国だから、これ
も自由と求めてやってくる人を拒むことはできない。たとえ建前だ
けであったとしても。

何がしかの理が確固としてある個人同士が集まった国家が民主主義
である場合は、民主を奉じるが故に、個々人の意思は尊重され、そ
の集積である民意に従う原則がある。

だから、国家意思を定める場合でも、互いに互いの理を全面に押し
出し、討論し、結論を出すというプロセスを得る。時には時間のか
かることもあるけれど、一度民意が定まったら、それは実行に移さ
れる。ここにおいて、民意と国家意思は理のレベルで合意がなされ
ているから、国家もその理を安易に覆せない。そのとおり行うしか
ない。そこに縛りがかかる。路線変更には再度民意を問わなければ
ならない。
 


9.和の国の弱点

理がそれほど強くない和の国では、互いの理が衝突する可能性は比
較的小さくなる。だけどそんな和の国にだって当然弱点はある。

和というのは調和だから、なにか理想調和というような、姿かたち
のある固まった何かがあるわけじゃない。調和は様々な意見や要求
の中から、集団全体としてバランスのとれた均衡点の上に存在する
もの。調和は、たとえ求めるべき、向かうべき目標であったとして
も、与えられた環境に対して、手を尽くして調和を実現した先にあ
る姿。結果としてあるもの。だから調和は個別の集団毎に存在する
し、集団をどの範囲まで考えるかで、あらわれてくる調和の姿も異
なってくる。

たとえば、右翼の範疇に入る集団の中での調和を考えてみると、極
右や中道寄りの右翼がいる中での調和がとれる均衡点がどこかに存
在する。これは左翼でも同じ。右翼の集団における調和の姿と、左
翼の集団における調和もどちらも調和には違いないけれど、互いの
姿は全然違ったものになるだろうことは言うまでもない。

だから、和を行動基準においた交渉は、どうしても相手の要求を聞
ける範囲では聞いてしまうという弱点を持つことになる。

福田前総理の外交路線は、外から見える姿から判断する限り、この
和を行動基準においた全方位外交だったといえる。この全方位型の
調和外交は、先にも述べたとおり、相手の要求を聞ける範囲で聞か
ざるを得ない反面、誰も敵にしないという利点がある。

福田前総理の全方位外交は、世界秩序が揺らぎ、嵐が吹き荒れる中
、じっと身を屈めてやり過ごすことで日本を守った。それもひとつ
の方法。

相手の要求を聞いても国益が確保できるのであればまだいいのだけ
れど、そうでない場合はよくよく注意して、譲れない部分は持って
いないと国益を大きく毀損することもある。聞けない部分というの
は、基準がはっきりしているもの、あるべき姿として明示されてい
るもの。

いろいろ見てきたけれど、もちろん、実際の国はこんな簡単に、ま
た極端に色分けできる訳じゃない。だけど、国家成立の根拠にまで
遡ると、やはりこういった色合いというものはあるように思う。理
を国家成立の根源に持つ国はやはり理を大切にするし、和を伝統的
に国家として保持している国はやはり考え方として和を基準にして
しまう。

当たり前のことだけれど、アメリカの覇権が衰退して世界が混乱期
に入りつつある今だからこそ、理と和、利と情それぞれの特徴と弱
点をしっかりと認識しつつ、今まで以上に慎重な国家運営の必要が
高まっているといえるのだろう。
 
(了)



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