3060.忘れえぬ人々ー上島英義博士



忘れえぬ人々ー上島英義博士 


博士と私

私は残念ながら上島博士にはご生前、たった一度しかお逢いしたこ
とがない。お嬢様の吉住佳代子様を通じて、玉砕のパラオ戦場の奇
跡的生き残りの軍医であったことを知り、私はパラオの取材で、奈
良県宇田野郡曽爾村のお屋敷にに伺ったことが一度だけある。

確かビデオを回していたかもしれない。博士はそのころはまだお元
気で、その品の良さと穏やかなお姿が今も目に残っている。しかし
当初期待したほどの成果は得られなかった。正直、もっと生々しい
戦場秘話を期待していたのである。

 吉住佳代子様によると、この頃になりようやくお父上はパラオに
ついての重い口を開かれ始めたという。我々では推し量ることので
きぬ無惨で、悲しみ深い体験だったのであろう。しかしその後、佳
代子様はパラオ資料やパラオ関係者探しに奔走された。パラオには
戦没者慰霊祭に何度も出かけ、学生のゼミ旅行を引率した私として
も多少協力させていただいた。

また、私共有志がパラオのペリリュー神社に国歌君が代の「さざれ
石」を奉納させていただいた際、もちろんわが村瀬登総代長はじら
氏子崇敬者らの寄付金もたくさん頂戴しているが、とても現地まで
は体力的にもちそうにないお父様の代わりにと、お嬢様の佳代子様
から多額の寄付金を頂戴した。

そういう理由でパラオ土産にと、日米双方の兵士が死闘を繰り返し
血で海岸が真っ赤に染まったという「オレンジビーチの砂」を一掴
み、佳代子様を通じてお届けした。

 曽爾観音

 わたしはパラオ取材が目的であったが、妹を含む何人かは上島家
の広い邸内の築山に立つ、曽爾観音と云われる八角観音堂の金色に
輝く観音様に参拝することであった。この観音様が私にとって後々
とても深い関わりを持つ観音様だとはつゆ知らずお参りした。ご生
前の上島英義博士にはその後一度もお会いしていない。残念なこと
に再会は一昨年3月、上島博士(享年91歳)のお葬式であった。

 しかし、この度、上島博士の思いと私が強い心の絆で結ばれるこ
とになる。この観音様と厨子が縁あって水屋神社境内隣地に遷座さ
れる。この平和祈願の観音様はすでに多くの熱心な崇敬者に支えら
れ、芸術的にも大変評価が高い観音様である。

今年、4月18日観音様の日。期せずして譲渡依頼があり、私は水
屋の杜の一角、境内に隣接した宮司家の私有地ならばと即時にお応
えした。

厨子の砂

 話はここで終わらない。

この観音様の厨子に、一握りの砂が納められていた。これは私が以
前、パラオ土産にお届けした「オレンジビーチ」の砂であった。

ああ、上島博士は、パラオの戦友やアメリカ兵、いや世界平和を祈
り、戦没者たちを慰め、弔らわれていたのだな。そしてその深い思
いを私共に託されたのだなと、胸の張り裂ける思いであった。

この観音様とこの度新築される六角観音堂は、私にとっては単なる
平和祈念するお堂ではない。日本兵約12,000、
米兵10,000以上の具体的なパラオ戦没者慰霊の御堂である。
現地にはまだ日本兵5,000のの英霊の遺骨が眠ったままである
。これは上島英義博士の平和への切なる思いが込められた観音様な
のである。

久保憲一


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