3027.日本文化の起源について



葛城の里から始まるシリーズの三弾としては、日本文化の起源を考
える。              Fより

仏教史において南伝仏教と北伝仏教があり、南伝仏教は禅や密教な
ど実践的な仏教で、北伝仏教はどちらかというと理論中心の仏教に
なっている。中国民族は1つではなくて、南部と北部では民族が違
う。南部の民族は日本と同じように農耕民族であり、実践的で協調
性豊かな人たちで、北部の民族は騎馬民族の狩人たちで理論や建前
を重視する。南部は道教で、北部は儒教のように違う。

現在、インド直伝のチベット密教があるが、このチベット密教は非
常に理論的である。このため、欧米諸国やモンゴルなど北方民族に
も受け入れられている。しかし、日本密教は南伝密教であり、理論
的というより実践的である。

日本でも、江南の民である南方民族の物部氏が道教を持ってきて、
その後に移住する葛城氏が北方民族で北伝仏教を持ってくる。

この証拠に、崇神天皇の物部氏も神武天皇の葛城氏も両方とも天津
神であるとしている。これは、鴨氏や大神氏など日本土着の縄文人
を国津神としているので、海外から来たことを示していることにな
る。

この二者が戦いになるのは、文化が違うからである。源氏と平家な
ど、後世にもその影響を見ることができる。小泉元首相と福田首相
にも、その違いを見ることができるくらい、この二者の文化は違う。

この北方仏教に反対したのが、物部氏である。物部氏は道教・神道
派の信仰に縄文人の信仰を混ぜて作った神道を推進していた。しか
し、北方仏教に反対できなくなると、南伝仏教を推進することにな
る。

このため、日本の奈良に様相が違う、北方仏教である唯識(法相宗
)の薬師寺、東大寺と南方仏教である実践を規定した律宗の唐招提
寺が並んで立てられたのであろう。

平安時代は物部氏系の藤原氏が権力を握るために南方仏教である密
教が重要視されたのだ。しかし、密教は南方仏教であったことで、
北方民族国家・唐では衰退することになる。

密教の天台宗と真言宗が中心になり、鎌倉時代には禅宗が盛んにな
るなど南方仏教が盛んになっている。それに比べると北方仏教であ
る華厳宗や唯識の法相宗は日本では盛んではない。韓国は北方民族
であるので、今も華厳宗のお寺が多い。

そして、天台宗で、心を空する手法として、常座三昧と常行三昧の
2つがあるとした「摩訶止観」ができ、それが武士道の理論的な支
えとなり、江戸時代に鈴木正三により、常行三昧の方法として農作
業など仕事にも応用できるとして仕事即行の考え方を発見し、石田
梅岩が仏教の修行から生活の思想に転化させるということになる。
このように日本文化は南方文化の影響が色濃く出ていることになっ
たのだ。

このため、中国南部、ベトナムやカンボジアなどに行くと懐かしい
思いをすることになる。ミャオ族、ベト族の文化に触れると日本人
のルーツという思いもするが、その根源を知りたいとして、このコ
ラムでは世界史的な観点で日本を見ようとしてきた。やっと、仏教
史から世界史的に見た日本文化の根源にたどり着いたようだ。

もう1つ、中国は北方民族が南方民族を支配しているし、韓国も同
様であるので、理論や感情をむき出しにした荒い文化であるが、日
本は、先に来た江南の民が最後に権力を奪い返して、やや南方文化
に片寄ってはいるが、北方文化の良い所も取り入れた日本文化に
なったようだ。そして、平安時代に北方民族である中国と断絶して
、日本文化の発展を遂げることになったのだ。


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