3024.原爆調査団



大分は、広島と長崎の中間地点
From得丸

皆さん、

今日は長崎原爆記念日ですね。

小学生だったころだから今から40年くらい前の記憶が突然よみがえ
りました。
大分市の郊外にあった祖母の家の二階の窓のところで、祖母が「長
崎に原爆が落とされたとき、この窓から見えた」と言っていました。

大分から長崎までは直線距離にして200km程度でしょうか。
そこで原爆のキノコ雲が見えたとしたら、それはそれは広範な地域
で見えたことでしょう。

そのとき、キノコ雲を見て祖母は何を思ったのか、残念ながら僕は
聞きませんでした。
長崎や広島で被爆しなかったが核爆弾の爆発風景を見た人たちは何
を考えたのでしょう。
戦争が終わってから生まれた我々は何を考えて生きればよいのか。
このあたりの議論は、まだ十分に行われてこなかったのではないか
なと思います。
核爆弾の時代を生きてきたひとりの人間として、今回「原爆の秘密
」を読んで、自分がいかに何も考えずに生きてきたかということを
反省しました。

原爆こそ人類の知能が間違った方向に発展したことを、もっとも如
実に示したのではないでしょうか。
原爆こそが我々の文明が善の基準から外れてしまっていること、人
類の知能の原罪性の証明ではないかと思うのです。

得丸公明
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原爆の秘密・国内篇
もしかしたら、日本人の中でも、広島や長崎に原爆が落とされるこ
とを事前に知っていて、事前に避難・疎開して助かった人もそれな
りの人数いるのではないかという思いがわいてきました。
鬼塚さんは、そのような証言を仕入れていたけど、本では紹介しな
かったということはないでしょうか。合宿のときに、聞いてみたい
と思いました。 得丸
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原爆調査団
From得丸

皆様、

たしか加藤周一の「羊の歌」だか「続・羊の歌」に戦後広島で原爆
被害者の調査に参加した話が出ていたと思って、検索をしたところ
、笹本征男さん(占領史研究家)という方のインタヴューが掲載さ
れているHPを見つけました。

「日本の特色は、関係者の内部告発がないということです。これだ
け屈辱的なことをやっておきながら、なんで恥ずかしいという一言
も出てこないのか…ひどい話です。」という笹本さんの言葉に共感
します。

以下、HPより一部だけ転載いたします。得丸


──引き合いに出して、ご本人はつらいかもしれませんが、加藤周
一さんが『羊の歌』で──当時は東大の血液学教室の助手だったか
な──その記述が少し出てきますね。命令を受け、派遣されていっ
た、調査の中で没頭する日々があったという記述が2ページくらいに
わたって出てきたと思いますけれども、それだけ読んでも、原爆調
査が誰が何を意図して行なったのかについては触れないままで、そ
の時の印象しか語られていませんね。それでもその記述はきわめて
例外的な、本当に稀な例だと思いますが、きっと彼のような立場の
人は膨大にいて、今おっしゃったように、本当はわかっていた、わ
かっているが故に口をつぐんでいる、という構造がずっと続いてい
るのだと思うんです。

(笹本)僕は本で加藤周一さんのことを書いていますから、僕の本
が出た後、おそらく何人もの人が加藤さんに接触を試みているでし
ょう、加藤さんは会うことを全部拒否しているはずだけどね。あま
り個人のことは言いたくないんですけど、せめて加藤さんしかいな
いんですね、原爆調査に従事した人でああいう風に語っている人は
。今年の3月10日の朝日新聞夕刊の連載「夕陽妄言」で加藤さんが、
いわゆる米軍の東京大空襲のときの随筆で、当時を回想していた。
その記事を強烈に覚えているんですが、加藤さんは医者として書く
んですね。当時米軍の空襲で戦災者が傷つけられて来ると、私は医
者だから治すために治療するんだと書いているわけですが、突然8月
6日の話になり、加藤さんは調査と観察のために広島に入ったと書い
ていた。治療のために入ったとは書かないんですよ。彼には僕の本
を送っているから、読んでいると思うんですよ。それでなおかつ、
調査と観察のために行ったと書くんです。

 国から命令されたとなぜ書けないのか。なぜそこまであなたを国
が縛るのですか、と僕は言いたいです。加藤さんでもそうなんです
。これが原爆調査問題の底深さです。そこには個人がいなかった。
個人の自由がなかった。ならばそれを認めなさいよ、もう。思想の
自由も学問の自由もなかったんだから、あなたは一つの部品として
動いたんでしょう、と。でも部品ではなく人間なんだから、もう声
をあげて下さい……。僕の加藤さんへの思いはこういうことです。

 だから僕は原爆調査に関わった人間の名簿を作って本に入れた。
あれは報告書を元にして作った名簿です。実際に参加した人間はあ
の数倍いますよ、あるいは数十倍はいますよ。延べにすれば何万人
ですよ。現地の陸海軍の兵士なんて入っていないからね、看護婦さ
んとか全部入ったら……。

 繰り返しになりますが、原爆被害国日本がなぜ、ここまで敵国ア
メリカ、原爆投下国アメリカに対して国家をあげて調査協力したか
という問題は、60 年経っても70年経っても語り継がなきゃいけない
問題ですよ。それまで日本帝国が行った全ての植民地支配、中国な
どへの海外侵略の総仕上げなんですよ、これは。その歴史があるか
ら、この原爆調査を日本側は本気でやったんですよ。

 あの原爆被害者の姿を見ていたら、敵が使うのをわかっていて報
告書を作って、果たして敵軍に渡せるものなのか。米軍が来て、報
告書を出せと言われたが、渡さなかったので米占領軍の軍事裁判に
かけられた人間がいたといったような話が一つでもあれば、僕はこ
んな本は書かないですよ。でもそうした日本側の抵抗は本当に皆無
なんです。

http://www.csij.org/archives/2007/02/interview5.html

http://www.csij.org/archives/2007/02/interview5_1.html

(ささもと・ゆくお 1944年島根県生まれ。中央大学法学部卒。
在韓被爆者問題市民会議会員。占領・戦後史研究会会員。著書に
『米軍占領下の原爆調査原爆加害国になった日本』(新幹社、1995)
。訳書に『占領軍の科学技術基礎づくり(占領下日本1945〜1952)』
(ボーエン・C・ディーズ著、河出書房新社、2003)。ほか論文多数。)

http://www.csij.org/archives/


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