3019.山の辺の道(三輪王朝)から



三輪王朝から飛鳥へ、そして現在へ   Fより

山の辺の道周辺には家が今もある。葛城に比べるとこの高台は水量
が少ない。高台には古墳や天皇陵があり、その盛り土を作るために
周りの土を取ったことで環状の池ができる。これが溜池になってい
る。葛城の里に比べて、高台の水が少なく、その分水田が少なく畑
がある。

このため、物部氏は低地の沼地を開墾している。箸墓が低地にある
ことと水抜きの池を作っていることで分かる。この低地は沼地が多
いのだ。大和は基本的に、沼地の葦原なのである。

ここでも、縄文時代から大神一族が三輪山麓に住んでいて、そこの
低地に物部一族が江南の地から来て、水田を作ったのであろう。
このため、神武天皇が大和に来る前から居たのでしょうね。しかし
、三輪より葛城の方が水田の開墾が容易なために経済力が上がり、
当初は葛城が優勢になったのだ。貧弱でも鉄を葛城は持っている。
物部氏は葛城王朝に当初は抵抗したが、大神氏を裏切って葛城王朝
に帰順する。8代孝元天皇は物部氏の娘をもらう。

その後、大神神社は三輪山が御神体であるが、そこに大国主神を祭
り、新羅系の出雲と同盟関係を結んだ。その証拠として、大神神社
にも出雲と同じ大縄を掛けた鳥居が主の門にある。もちろん、普通
の鳥居もあるが、ここにも出雲との同盟を優先した神社の形になっ
ている。このような外交力の勝利があって北方系葛城氏を圧倒した
のだ。

出雲と提携して、朝鮮の鉄を手に入れることができ、武器の質でも
葛城軍の武器に勝り、勝ったように感じる。丹波の海部氏が力を持
ったのも了解できる。丹波が輸入ルートになる。そして、このよう
に初代皇統から蘇我氏までを含む葛城系と物部・中臣等の物部系の
争いの由縁となり、以降の歴史を血で彩ることになる。

また、崇神天皇は筑後から来たと言うが、この王朝は物部氏と同じ
南方系の江南の民で、北方系葛城氏から奪還した王朝なのでしょう
ね。物部氏にはアミニズムに近い雰囲気を持ているのも、南方系で
あったからではないかと感じる。景行天皇は四方に制圧軍を送り、
征服する。そして、九州にも行くが大きな抵抗もなく平定している。

そして、応神王朝で再度北方系の政権になり、葛城氏が復権して権
力を持ち、百済から来た蘇我氏や東漢氏と組んでいる。瀬戸内を通
って貿易をするために、新羅系の出雲は必要がないし、丹波の海部
氏も必要なくなる。丹波は水銀がでるために海部氏は没落しない。

その後の継体天皇に葛城氏は反対して、蘇我氏に寝返りを打たれて
没落することになる。このため、継体天皇は両方の系を立て、聖徳
太子は両系列の融和を推し進めていて、和を強調した17条の憲法
を作るのである。飛鳥に都を作る理由も両系列の中間地帯に置くた
めであったように思う。しかし、ここは沼地であり開発は大変であ
ったでしょうね。数天皇の時代を要しているし、飛鳥京は初めて、
瓦屋根になる。また、この当時は外国からの使節団も奈良盆地まで
船で来たようだ。新羅と組んだ528年磐井の乱が起こり、この鎮圧を
している。

葛城氏系は百済と組み、江南の民・物部氏は新羅と組んでいる。飛
鳥で見る酒船石や亀形石造形は南方系の物である。神道は、道教の
神道派の宗教に縄文時代のアミニズムと新羅から来た秦氏の東方キ
リスト教の要素を足したものである。秦氏があまり権力に近づけな
かったのは、物部氏と組んだからであろう。

大化の改新で中臣(物部氏系で後に藤原氏)が最終的に権力を取る。
663年の白村江の戦いで敗れて、新羅系が優勢になることで実現した
のだと見る。そして、仏教と神道を併用した。平安時代に日本化を
推し進める。これも江南の民の子孫であり、北方系の中国文化から
の離脱や中国が嫌いな日本人の感覚になっている。894年には遣唐使
も止める。

江南から追い出された血が、そうさせているのでしょうね。そして
、秦氏は裏から政権を支える役割を担うようになった。修験道を創
始者である役の行者(役小角)は鴨氏(葛城系)の出であり、この
ため危険だとして伊豆に流される。両系の戦いはいろいろと日本の
古代史に影響を与えているようだ。

759年にできた唐招提寺は南伝仏教そのものであり、鑑真和上は揚州
から来た。揚州はアジアと結ぶ貿易港であり、中国の南伝仏教のメ
ッカである。ベトナムの寺院はハスを大切にしているが、唐招提寺
を見て、ベトナムのフエの寺院と同じ感じがした。森が多く、ハス
を大事にしているなど、植物が多い。

これに比べて697年に創建された薬師寺は、北伝仏教である。境内は
広く砂利を引きつめられている。木が境内にほとんどない。あでや
かな大きな建物が建っている。奈良西の京に、北方系寺院と南方系
寺院が並んで建っていることになる。

そして、京都と見ると木が多い南方系寺院が多くなる。慧能の禅宗
も南方系仏教である。日本人は南方系文化を受容してきたのだ。
これも平安時代以後、南方系の藤原氏が権力を握ったことによる。


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