3013.考古学から見た古代



古代史を見ていると、考古学の果たす役割が大きい。  Fより

この夏休みを利用して、奈良に行こうとして本を読んでいる。今回
は、纒向の遺跡群、葛城、飛鳥などを見てこようと思う。現時点で
は、奈良市内には入らないつもり。斑鳩には行くかもしれないが、
時間がないようだ。今回は推古天皇以前の時代に焦点を当てたい。

しかし、考古学的に大きな古墳を立てた纒向遺跡群が重要である。
大和朝廷が、3世紀に奈良桜井にあったことは確かになっている。
同時代には九州の古墳は少ない。特に邪馬台国と思われている宮崎
や鹿児島、佐賀、福岡などには大きな古墳がない。

そして、この纒向の古墳形式・文化的な特徴が、全国に拡散してい
るので、ほぼ間違いなく崇神天皇から始まる王朝である大和朝廷が
全国を統一したことが分かる。出雲との関係がありそうなのは、そ
の古墳形式が同時代の吉備の国と同じである。出雲は違う。しかし、
大神神社の祭神は大物主の尊であり同じである。出雲は吉備、越前
などを従えていたことが知られている。このため、大和朝廷は中国
地方と北陸地方、近畿地方を抑えていた。そして、古事記によると
崇神天皇は全国を制覇する指令を出している。

そして、14代仲哀天皇は九州で熊襲に襲われ死んでいる。527年の
磐井の乱を経て、九州は平定されることになるのでしょうね。九州
は大和朝廷として一番、扱いにくい地域であったように感じる。
九州諸国連合国家は、その絹など技術力が高く中国の文化を持って
いるために、大和朝廷の朝鮮文化をあまり必要としないし、モノ的
にも魅力がなかったのでしょうね。

このため、三輪王朝は九州地方を支配化にしていなかったことで、
伽耶の鉄を出雲から日本海経由で貿易をしていたように感じる。
それが丹波の海部氏が力を持っていた理由のようだ。元伊勢の動い
た地域はこの三輪王朝の支配地域であると見る。

このような考察から、この三輪王朝より前の葛城王朝は奈良の地方
政権の可能性が高いと現時点では考えている。

応神天皇から始まる河内王朝は瀬戸内海貿易が開始できたので、難
波が重要になったことで河内に王朝を置いたのでしょうね。このた
めには、九州はその時点までに朝廷が支配したことになる。

すると、邪馬台国の九州説は、卑弥呼が魏に220年代に朝貢して
いるので、同時代に纒向に大和朝廷があり、その後、景行天皇の九
州征伐で倒される運命にあった国のことになる。倭国大乱は九州地
方の話になり、景行天皇の九州征伐かその後の征伐で邪馬台国は滅
亡することになる。卑弥呼などの邪馬台国の民族の特徴は刺青や朱
の顔など南方系の特徴があり、大和朝廷は北方系の特徴がある。
というように、古事記の記述と魏志倭人伝の記述が違うことになる
ことの理由が分かる。

ミャオ族と同根の江南からの移民は九州にそれぞれ小国を立てたが、
3世紀から4世紀に大和朝廷に負けたことが分かる。朝鮮の伽耶国
からの移住者は、九州に先に移住している江南の民がいて、場所が
なくて、仕方がなく瀬戸内の取ったりの大和に移住するしかなかっ
たのでしょうね。

しかし、そこには縄文の先住民しかいないために、すぐに場所を確
保できたようだ。高鴨神社の元宮が対馬にあることがそれを現して
いる。

もう少し、古代を勉強してから奈良に行くつもりである。

コラム目次に戻る
トップページに戻る