3005.人生を賭した短歌を読むと、生活短歌は空しく感じてしまう



人生を賭した短歌を読むと、生活短歌は空しく感じてしまう
From得丸


各位、

角川「短歌」8月号に6首だけ紹介されていた高橋京子遺歌集を読
んで、久々に感銘を受けました。
結局、全人生を賭けた詩の重さだったのでしょう。

得丸公明

きまぐれ短歌時評 − 悲しみをえらびとって生きる 
--- 高橋京子遺歌集『月の頬』の魅力 ---

 英国の詩人ウィスタン・H・オーデン(1907~1973)が、一九五六年
にオクスフォード大学の詩学教授に就任したときの講義は、次のよ
うにしめくくられている。

「あらゆる詩がなさねばならぬことが、ただひとつあります。その
存在と生起をほめたたえることのできるすべてのものを詩はほめた
たえねばならないのです。」
                  (『オーデン詩集』より、小沢書店、1993年)

 私と短歌の付き合いはまだ浅いが、このオーデンの言葉にしたが
って、何かをほめたたえる歌を作るように心がけてきたし、そのよ
うな歌を求めてきた。
『短歌』8月号の「歌集・歌論を読む」で紹介されていた高橋京子
遺歌集『月の頬』がいったい何をほめたたえているのか、はじめの
うちはわからなかったが、とにもかくにも心が惹かれ、繰り返し読
んだ。本誌紹介の6首だけをもとに語ることが的外れになりうるこ
とは承知の上で、あえて歌集を読まず、歌人を知らないまま、感じ
たことを述べてみたい。

 鳩のなく声にめざめて鳩のなく声に眠りぬふるさとに病み

 一・二句と三・四句の対句は、十二文字中八文字まで同じであり
、ふるさとの静かだけどちょっと退屈な日常を描いている。その環
境を、賞賛あるいは弁護するのでもなく、かといって不平や愚痴を
もらすわけでもなく、淡々とありのままに描く。歌人はふるさとに
抱かれるように、ふるさとの音世界と一体化して死の床にあった。
そこに病気への不安や人生でやり残したことへの未練はない。透徹
した悟りの境地が一首の魅力をひきたてる。

 逝きて日々うら若くなりわがうちに住むかのひとの少年となり
 悲しみは樹木のごとき少年を慕う少女の髪よりこぼる

 亡くなった年長の「かのひと」は、歌人の心の中で若返り、少年
の姿となっている。
「悲しみは」の初句は、そのままストンと結句「こぼる」につづく。
5、75、77の安定した息遣いで、少女の悲しみは一枚の絵のよ
うに描きだされる。
「樹木のごとき」とはよく言ったものだ。木はたくましく、頼もし
く、太陽に向かって枝を広げる。新緑、夏の繁茂、紅葉、冬の裸木
と、年中様相を変えていて、見ているだけでも楽しい。さらに、樹
下にいる人を、夏の暑い日差しから守り、冬には木漏れ日で包み込
んで保護する。唯一の欠点は、地に根を張っているために、その場
所を動くことができないことだ。
「かのひと」は、仕事上の上司、それも父親くらい年長の人だった
か。歌人は「かのひと」が亡くなってからふるさとに帰り、病を得
たのだろう。何の病気か知らないが、歌人にとってみれば、後追い
自殺に近かったと思われる。
 紹介されている6首とも、きわめて平易で一般的な言葉だけがえ
りすぐられている。せつなく悲しい自身の体験を、誰もが慣れ親し
んでいる言語空間に解放するためだ。その結果読者は、歌人の悲し
みをわがことのように共有できる。
 たとえば私は「悲しみは」の歌を何度か口ずさんでいるうちに、
ふと、なぜ「髪よりこぼる」のだろうかという疑問がわいてきた。
そしてこの疑問を抱えたまま生活していると、おもしろいことにい
くつも答えが湧いてくるのだ。もしかすると歌人は、読者が抱いた
疑問を自力で解決することまで想定していたのだろうか。
(答1)こぼれたのは、本当は目から涙がであって、歌人は自分が泣
いている場面を描きたくなかったから、あえて後ろ姿の自分を詠ん
だのだ。
(答2)いや、シャワーを浴びていた歌人は、自分の髪からポトポト
としたたる湯滴を涙と見たてて全身で泣いていたのだ。もしかする
と、シャワーではなくて夕立の中、歌人は大木と一緒に雨にあたっ
ていたのかもしれない。
(答3)いやいや、歌人は、慕っていた人が亡くなって、生きる希望
を失った日から、自分の黒髪を喪服だと思って生きていた。だから
、日々、一瞬一瞬に、悲しみは歌人の髪からこぼれていた。
 もはや何が正しいか確かめようもないが、様々な解釈が読者の日
常で生まれえるのも、一般名詞、一般動詞だけを使った平易な文体
が功を奏しているといえよう。

 ひとたびの生涯なれば思わるることより思うことをえらびき
 婚礼につづかぬ恋をえらびしに死しても父とともに眠らず
 きみの子を夢みし日々もすぎゆきぬきみの子なれどきみにはあらず

 おそらく歌人は、同年代の男性の求愛も受けた。だが、自分の思
っていない相手と世間並みの生活を求めるより、ひたすら自分の心
に忠実に生きることをえらんだのだ。
 夫婦生活も子供を産み育てることもできない恋愛で、親にも勘当
同然に見放されて申し訳ない気持ちもする。だが、一個の生命体と
しての自分の心が躍動する道を選ぶことが正しいという本能の命ず
る声を聞いたのだろう。これもまた、ひとつの悟りである。
 実際に、平家物語や近松心中物のように、主人公たちの悲劇の死
が最後に予定されている物語こそ、大きな感動をもたらすではない
か。悲劇のどこが悪いのか。余分なものに心を奪われることなく、
本心の自分を見つめて、勇気をもって自分の人生を生きよう。歌人
にはじめからこの覚悟があったから、どの歌にも迷いや後悔がない。
 歌人は、悲劇の人生をみごとに生ききった自分をほめたたえてい
るのだ。世俗的な価値観を捨てて、おのれ自身を生きぬく。自由な
心で、勇気をもって生きれば、どのような厳しい時代の中でも、人
生は充実することを歌集が証明している。
 私は、二〇編の詩を書き残して四十一歳で亡くなった詩人山本陽
子(1943-1984)を思い出した。その処女詩「神の孔は深遠の穴」(発
表1966年)は、三十文字で約五百行ある長編だが、その最後の十行を
、歌人高橋京子に捧げたい。「無限の落下は無限の上昇に限りなく
接近する」ことを彼女は示してくれたと思うからだ。そして、あな
たは見事に飛びましたよと、ねぎらってあげたい。

  絶望によってむすばれて、しかもおのれはつねにひとりであるこ 
とは、すばらしいことである。そこにはめくるまめく高みと、骨を 
きしませる深淵があって、人間が、おのれ自身となることのできる 
広大無辺な空間をやどしているからである。人間が飛ぶことができ 
て、しかも飛ぶことを拒絶する、それもすばらしい試みでありーー 
なぜなら水平から、垂直に落下していけるのだからである。無限の 
落下は無限の上昇に限りなく接近する。 
 ただ 飛ぶことを すべての人々が、おそるおそるではあっても、 
いま はじめなくては、人間が飛んでいく彼方もない。人間が飛ぶ 
ときにのみ、空間は創造されてそこにある。
 (「神の孔は深遠の穴」第490行〜499行、山本陽子全集第一巻より、
    漉林書房,1989年)
==============================
Re: 現代という芸術39 生理学的エンコーダー・デコーダー
From: Tako8
夏に相応しい得丸様のメール、考えることで暑さを霧散させようと
いう狙いでしょう。考えることによる恍惚感に浸れてこそ、霊長類
としての人間の存在意義の存する由縁でしょうか。

でも、20日の日刊紙によると、魚類のガマアンコウと言う種に「
発声のための脳の仕組みをもっていたようだ」と4億年の時間の中
に分かれて進化して今の言語と言語を操る器官が、、。そう思えば
、今の言語論などのくみして居る時間など無いのでは。

難しいのは、この考える根元も言語、記号的であれ、連結抽象的で
あれ、基本は言語で考え始めている、そして伝達は人体を流れる電
流、その流れ具合がスムーズか、はかばかしくないか、脂肪の多い
細胞液かそうでないか、その液の温度は?

因みに、道具を使える人間、次々新しいものを発明しています、
これからも止まらないことでしょう、特に地球環境危機を目前に知
恵が湧いてくる気配です。

知恵は個人でも社会でも追い込まれた命の瀬と側で生まれます、多
くは遣り過ごす悪知恵が大半です、それは現代の犯罪の構成要件を
見れば明らかです。しかし、犯罪の中にも永遠に生かすべき知恵も
有りそうです。

今日の日刊紙の女性週刊誌の広告に、有名俳優が「僕はエコを守る
ために子どもを作らない」と、とても不思議な人類の未来を感じさ
せる、仕掛けが隠されているように思えてなりません。 
==============================
Re: 現代という芸術39 生理学的エンコーダー・デコーダー
From得丸

皆様、

さきほどの記事、一部訂正します。物理博士に内容をみてもらったら、
以下のように訂正したほうがいいと言われました。「」の中が訂正済みです。

 ハダカデバネズミには18種類、チンパンジーには30種類の鳴き声がある。
これらは、「時間領域もしくは周波数領域に描かれた線状パターン」である。

この物理学の博士いわく、

「全部無線通信と対応がつきますね。

 エンコーダ・デコーダ ⇔ 脳
 モデム ⇔ 発声器官・鼓膜
 空中線 ⇔ 口・外耳
 電波 ⇔ 音波

 誤り訂正のようなことも脳でやっているのでしょうか。」

問題は、ここです。誤り訂正機能が脳にないということです。
そもそも我々の言語が無線通信と同じくらい複雑で不安定なシステム
であるという自覚がないので、誤り訂正が必要であるという意識に
至らないのです。

自分が聴いたと思ったことが本当に話者の言おうとしたことなのか、
自分が口にすることが、本当に正しいことなのか、あるいは本当に
相手に正しく伝わるのか、という部分については、言語学の研究は
十分ではないと思います。

得丸




コラム目次に戻る
トップページに戻る