2999.報道について考える



報道について考える


                           日比野

1.毎日新聞英語版サイトWaiWai問題

「毎日新聞の英語版サイトが酷すぎる」問題を受けて、報道につい
て考えてみたい。

毎日新聞の英語版サイトWaiwaiの記事が問題になっている。これは
、毎日新聞のライアン・コネル (Ryann Connell)氏が、『週刊実
話』や『週刊大衆』等から、刺激的なエロ記事ばかりを「クリエイ
ティヴに」翻訳して、毎日新聞英語版「WaiWai」にて、01年4月
から08年6月まで、原則として毎日、計2561本、7年以上に
渡って配信されていたという問題。

その記事の低俗さもさることながら、問題とされているのは、


1)真偽不明なエロ記事や反日記事が、事実確認もされることなく
  報道されていたということ。中には引用記事と明らかに異なっ
  た訳出をして報道していたケースもあり、実際に引用元である
  「サイゾー」自身が記事内容を否定している。

2)誤報道、または捏造にも当たるような記事を、新聞社の公式サ
  イトで、かつ配信媒体が英語版という、日本人のように「週刊
  ○○」の記事だから半分以上作り話だねといった、引用元週刊
  誌情報のリテラシーがないであろう英語圏の読者向けに配信さ
  れていたこと


毎日新聞は当該「WaiWai」コーナーの閉鎖とおわび文掲載、関係者
の処分を発表したけれど、その内容がまた読者の怒りを増幅させた
。

お詫びはあくまで、「WaiWaiの英訳記事は低俗過ぎる」ことに対し
てお詫びしただけで、誤報や日本を誤解させている可能性には一切
触れていないし、関係者の処分はといえば、昇格人事をさせた上で
の減俸や賞与の一部カットだから本当に処分なのか疑問が残る。

7月2日には、毎日新聞本社前で抗議デモがあったし、毎日新聞ス
ポンサー各社への抗議や不買運動が広がっているという。また、日
本人を侮辱したとして、神戸簡易裁判所に毎日新聞を提訴した人も
いるようだ。
 


2.偽装報道

毎日新聞本体のWEBで7年もの長きに渡って、こうした誤報道を
流し続けていて、それでもただのゴシップなのだから実被害はない
だろうとするのは相当に甘い考え。

エクアドルの在留邦人の中には、この誤報道による危険を指摘する
声も上がっているようだ。

昨今、企業経営において、コーポレートガバナンスや、コンプライ
アンスが叫ばれ、各企業が取り組んでいる。

雪印や吉兆を例に取るまでもなく、いまや製品の信頼性というもの
について厳しく企業姿勢が問われるようになった。

日本のような先進国では、企業間競争が激しくて、代替品がそこら
じゅうにあるから、対応を誤ってしまうとたちまち売り上げに響い
てしまう。だから、クレームについてはきちんと対応するのは当た
り前。一度でも対応を誤ってしまうと企業イメージはがくんと落ち
る。

製品の不具合は目に見える形で不便を与えることが殆どだから、対
策・対応も明確にできるのだけど、問題は目に見えないものに対す
る認識。この認識が甘いと対応は後手後手になってしまう。

「waiwai」記事の翻訳は、イギリスのタブロイド誌のスタイルをう
まく真似たスタイルで、典型的なタブロイドスタイルに書き直され
ているから、割り引いて読んでいれば問題ないのではないかという
反応もあるようだ。

だけど「WaiWai」の低俗記事が、たとえタブロイドスタイルであっ
たとしても、事実確認も十分でないものを公の新聞サイトで報道し
てしまう行為は、当の新聞社本体の信頼を自ら傷つけることになる
。

あたかもニセモノを正規品のパッケージに入れて売っていたような
もの。精神的な毒餃子を食べさせていたのと変わらない。

それほど毒記事を出したいのであれば、「どくいりきけん よんだ
らしぬで」とでも書いておくべきであって、品質を偽装したり、誤
解を招くようなパッケージにして販売するのは企業倫理を問われて
しかるべき。毎日新聞という信用をバックにして、さも事実である
かのように、問題ないかのように流していた責任は重い。

目に見えないからといって、精神的公害がなくなるわけじゃない。
目に見える形で被害が出てきてからではもう遅い。

だから、この問題は毎日新聞社という企業としてのコンプライアン
スが問われているのであって、昨今喧しい食品偽装と同じ根っこの
問題といえる。


 
3.恥と穢れ

「他のどこでもおそらく、タクシーの後部座席に落ちた輝く携帯電
話や地下鉄のドアにもたれかかった誰のものか分からない傘、歩道
に落とした札束は永遠に無くなってしまいます。・・・しかし、こ
こ東京では、これらの品々やその他何千もの落し物は、警視庁の遺
失物取扱所に行くまでに多分見つかるでしょう。」

ニューヨークタイムスの「Never Lost, but Found Daily: Japanes
e Honesty」の記事からの抜粋。

先般、届けられた財布の中に偽造の外国人登録証が入っていたこと
から逮捕された中国人がいたけれど、日本の中には公徳心が文化と
して根付いている。海外からみても拾ったものは届けるという日本
の美徳は驚きを持って受け取られるようだ。

日本は「恥の文化」だと良く言われるけれど、人目をいつも気にし
ていて、それで善悪を測るようなところがある。その奥には「穢れ
」を嫌う思想があって、自らが穢れているかいないかということを
、他人の反応を通じて推し量っている。

「穢れる」ことは厭うべきこと。嘘や盗みは「恥ずべき」こと。そ
んな考えが日本人の中にはある。清らかさを外にも、自分の心の内
にも求めるから。

モラルを正すということは、何が正しいのかが分かっていることが
前提。それは究極のところ、国家・民族としての「あるべき姿」ピ
ュシスに従うというところに行き着く。

モラルはその社会で一般的に通用する道徳律だけど、当然時代や価
値観の変容によっても影響を受ける。だけどその時代で通用してい
るモラルからかけ離れた考えは軋轢を生み、モラルを破壊するもの
と受け取られる。

今回の毎日事件は「穢れを祓う」という、日本人一般に広く浸透し
ている日本文化・日本的価値観に対する破壊行為だと受け止められ
ているように思う。だから、記事が書かれた意図や目的を殊更に追
求することなく、記事内容そのものに対して敏感に反応しているの
ではないか。あの記事こそ日本人を穢している元凶なのだ、と。

もちろん、一部に見られるマスコミに対する不信感や、不二家、吉
兆などで企業モラルを散々叩いたくせに自分のことは知らん振りと
いう、ダブルスタンダードは許せないという感情的なものもあるだ
ろう。

日本の場合は、昨今崩れてきたとはいえ日本人としての「あるべき
姿」というものが社会に根付いていて、かつ均質性が高い国民だか
ら、一旦火が点くと止められないところがある。特に「穢れを祓う
」という日本人なら誰でも標準装備しているであろう価値観を攻撃
したのだから、ほぼ全ての日本人の心を傷つけた可能性がある。

今回の記事に対する抗議行動は、日本人の心の奥の院に踏み込んで
しまったが故に、一過性のものでは終わらないかもしれない。



4.モラルとカルマ

昨年から食の安全性は一種の社会問題にまでなっている。賞味期限
差し替え、毒餃子、産地偽装。発覚初期の段階で、製品に問題ない
として、対応を誤った企業はことごとく廃業にまで追い込まれてい
る。

デフレ下で合理化が叫ばれ、企業努力をつづけてきたけれど、企業
モラルを破壊してまでの合理化を社会は許さなかった。

長い目でみれば、低い企業モラルは不経済でもある。企業モラルの
低下は質の低い製品に繋がり、クレームとなって返ってくる。当然
社員の士気も下がる。本当は不景気の時ほど、やる気がでるように
モラルの高い話を積極的に報道すべきなのだけれど。

今回の毎日新聞のwaiwai問題発覚後、スポンサー各社への問い合わ
せや不買運動が高まっている。続々と毎日新聞への広告が引き上げ
られているという説もある。既に毎日新聞のWEBには、自社広告
しか載せていない。

現在のような情報化社会では、ひとつの情報が広く、瞬時に拡散す
るから、それに対する反応もすばやく返ってくる。いままで問題に
ならなかったのは、国内では殆ど読まれることのなかった英文記事
だからであって、一旦国内報道された途端、激烈な反応を呼ぶこと
になった。

抗議行動はいまやネットからリアル世界に広がっていて、衰えを見
せない。毎日新聞社を潰せという声まである。

一部には、毎日新聞社内でもこの問題を知る者は少ないし、販売店
を含めて殆どの人はいい人だから、これ以上苛めるのは止めようと
か、もう当該コーナーは閉鎖しているしお詫びもしているからもう
いいじゃないか、という声もあるけれど、それに与するにはあまり
にも多くの業(カルマ)を重ねたと言わざるを得ない。

四川大地震で見られたように、天災は善人悪人を選ばない。その地
に居たというだけで、被災する。いい人も悪い人も関係ない。

あれほどのことを止めることができなかった、知らなかった、最早
それ自身が業(カルマ)となってしまっているように思えてならない
。

尤も、業(カルマ)という観点からみれば、該当コーナーは閉鎖した
だけで、記事の内容そのものについては謝罪も訂正もしていないか
ら、自ら作った業(カルマ)を刈り取ってるわけじゃない。

今は、その業(カルマ)の報いをスポンサー企業が代わって受けてい
る状態。でもいつまでもそれで済むわけが無い。最終的には毎日新
聞社本体がその業(カルマ)を刈り取らなければならなくなるだろう
。



5.判断力の根源

報道は、ニュース・出来事・事件・事故などを取材し、記事・番組
・本を作成して広く公表・伝達する行為であり、言論の一種である
と定義されている。

広く公表するだけなら情報伝達網さえあればいい。今ならネットや
携帯メールでも十分な筈。だけど、報道を言論の一種だと定義する
と別の面も考慮しないといけない。論説の部分がそれ。

情報を分解すると、未加工の一次生データ(報)とそれに見識を加味
した「情報」の二つに分かれる。

一次データは、現場に直接赴き、見聞した事象そのもの。これを他
の人々に広く伝える場合には、紙媒体や電子媒体といった情報網で
伝達すればよいのだけれど、ただ伝達するだけなら、五感に正確に
訴えるという条件さえ満たせばいい。

尤も、一次データといっても、その人の立ち位置や主観によって一
次データが変容したりノイズが載ったりすることもあるから、一次
データだからといって100%客観的な情報とは限らない。

だから、その分メディアに立つ側は、なるべく客観的に全方位に事
象を見て伝達しなければ、偏った印象を形づけることになりかねな
い。意図的にやると印象操作になる。報道する側は物凄く責任を負
っている。

正確な一次情報は現地に行きさえすれば良いというものじゃない。
機密情報や政府内会合なんかで直接取材できないことなんていくら
でもある。より正確な情報や隠された情報を取材するために、時に
は組織と戦ったりしなくちゃならないこともある。

マスコミは行政、立法、司法の三権を監視する、第四の権力として
の役割も担っているから、時には民意を代弁したりするし、実際に
権力と戦ったりもしている。

だけど、権力や組織との戦いは、民主化の度合いによってその程度
は変わる。実際にはありえない話だけれど、たとえば政府の機密情
報も含めて、100%情報開示された社会があったとしたら、マス
コミが代わって報道する必要はなくなってしまう。

そんな社会における報道は、情報そのものを広めるよりも、その情
報が如何なる意味を持つかという見識の方がより重要な意味を持つ
ことになる。

判断力の根源は、正確な情報と因果律に基づいた確定予測。正しい
情報がなければ正しい判断が出来なくなるのは当然のこと。正しい
情報があって、それが後にどんな影響を及ぼすかを見通して、その
結論が導かれて始めて判断が可能となる。

人々への情報伝達媒体が多岐に渡るようになった現在では、情報伝
達媒体の選択肢が増えたことで選択の自由を促し、結果、情報の民
主化を促すことになる。

特に情報の双方向性と特徴とするネットが普及して、これまで情報
を受け取る一方だったサイレントマジョリティは徐々に声を上げ始
め、サイレントでなくなってきている。

だから、言論そのものは多くの人々によって吟味され、その結果や
意見が目に見えるようになってきた。普通の情報なら誰でも知って
いる。本当に知りたいことは、真実と暴露と高い識見。

 

6.知るべきこと 知りたいこと

「国政は主権者たる国民の信託に由来するものであり、国民は主権
者として国政を知る権利を有する。国民の知る権利は、国民主権と
表裏一体をなす、至高の基本的人権であるといわなければならない
。

民主主義のもとにおいては、国民の知る権利は最大限に尊重せらる
べきであって、国家機密のごときも主権者たる国民の前には原則と
して存在を許されないものであり、極めて例外的に、国民の利益の
ためにのみ最少の限度において認められるにすぎない。

基本的人権の擁護を使命とするわれわれは、国民の知る権利の擁護
に全力を尽くすとともに、国家機密保護法制定のごとき逆行的傾向
を断固阻止する。」

1972年(昭和47年)5月20日 日本弁護士連合会 第23
回定期総会・国民の知る権利に関する宣言にはこう記されている。

一般人にとって「知るべきこと」と「知りたいこと」は同じとは限
らない。人によっても違う。よほど政治的意識が高くない限り、普
段の生活で主権者として国政を知る権利を意識することはないし、
ましてや行使することはもっとない。

特に日本のように平和な国では、政治を意識しなくてもそれなりに
生きていけるから、知りたいことはもっぱら自分の生活が中心。永
田町の話題なんて知ったことじゃない。

それだけに、政治・政策が直接国民生活を脅かすことになろうもの
なら大変。ガソリンが上がったとか、食料品の値上げだとか、そう
いうのには敏感に反応する。

政治的意識が高くない人は往々にして、問題に対するその理由と背
景についての追求が弱くなるきらいがある。それらしき理由を聞か
せられたら、なんとなくそんな気になって、大概のことなら「ショ
ーガナイ」となってしまいがち。

ガソリンの問題だって、先ごろの暫定税率のゴタゴタがあって、よ
うやく暫定税率が25%もあったなんて認識されたくらい。しかも
暫定が34年も続いてた。値上げ続きの小麦の値段だって、輸入小
麦を日本政府が一括して買い上げて、国内小麦農家を守るための補
助金分を上乗せして価格が決められていることなんて、まだまだ一
般の人には知られていない。国際価格が急騰しているから値上げす
ると聞かせられたら、仕方ないねと納得してしまっている。

そんなとき、実はそうじゃない、これこれこういうカラクリがある
から、ガソリン税のように上乗せ価格を調整すればいいんだ、など
と世論を喚起するのもマスコミの役目。ともすれば、知りたいこと
だけ知ろうとしがちな大衆に向かって、知るべき真実を報道するの
がマスコミの仕事。社会の公器としての役割のひとつ。

それを可能たらしめるのは、マスコミと庶民の間に存在する情報格
差。特にあらゆる情報の殆どを政府とマスコミが握っていた昔であ
ればとくにそう。

 

7.グリッドコンピューティングな2ちゃんねる

コンピュータの情報処理方式の中で代表的なものに、集中処理と分
散処理というのがある。

集中処理とは、1台の大型コンピュータに複数のクライアントを接
続し、クライアントからの要求処理をすべてそのコンピュータで行
う処理形態のこと。

集中処理では、全ての情報および処理が1台の大型コンピュータに
集まるから、運用管理やセキュリティ対策がしやすい。その反面、
すべて1台で処理しないといけないから、同時に多くの処理をした
場合、パンクする危険がある。その場合はぶら下がっている端末は
全部使えなくなる。

それに対して分散処理は複数のコンピュータやプロセッサを利用し
て、分散して計算処理を行なう方式。遺伝子解析や気象予測、暗号
解読などの超々大規模な計算なんかをやろうとすると、高性能のス
ーパーコンピュータが必要になるし、処理そのものにも莫大な時間
がかかる。だから、処理を分割して複数のコンピュータを並列動作
させることで処理時間を短縮しようというのが、分散処理方式。

最近では、インターネットなどを通じて膨大な数のパソコンやサー
バのCPU空き時間を集めて、少しずつ処理を分担することで巨大
な計算環境を構築する「グリッドコンピューティング」と呼ばれる
分散処理方式も登場している。

この集中処置方式と分散処理方式の差は、丁度、既存マスコミと、
ネット住民、通称「2ちゃんねらー」の関係に相当している。

既存マスコミは、普通記者が集めて、記事にしたものを編集・選択
して一本のニュース番組や新聞にして報道する。情報を本社編集部
に全部集めてから「編集」という名の集中処理をする。

それに対して、2ちゃんねるやミクシィのような大規模なネット掲
示板では、個人が掲示板に情報、時には意見募集やOFF会などの
リクエストを出して、それに賛同した人が次々とそのリクエストに
答えたり、必要な情報を付け足したりしてゆく。

これは、個々の端末から、情報処理のリクエストを出して、それに
賛同した別の端末、個人がその処理の一部を行っていくという分散
処理のプロセスと同じ。分散処理を行う個々人は自分の空いた僅か
な時間をそれに当てることしかできないけれど、全体としてみれば
、個々のCPU空き時間を集め、少しずつ処理を分担するグリッド
コンピューティングシステムにとても良く似ている。

唯一違うとすれば、分散処理方式では、全体の処理を分割してそれ
ぞれのプロセッサに割り当てる、メインプロセッサがあるのに対し
て、ネット掲示板にはそれがないこと。

リクエストされた処理にたいして、処理してもいいよと思った個人
だけがそれぞれ勝手に処理を始めるから、複数の個人が互いに同じ
処理をしてみたり、逆にまったく処理されないプロセスも出てきた
りもする。

だから、ネットでの分散型情報処理って、実は物凄く非効率な処理
システムではあるのだけれど、何せ、端末の数にあたるネット使用
者が何千万人の単位でいるから、多少の非効率など物ともしない。
壮大な無駄を数の力でカバーしている。

 

8.日本というフィルタリング

今や、マスコミと庶民の間に確かに存在していた情報格差はネット
によって埋められつつある。

それでも、一個人の経験や取材なんて多寡がしれているからマスコ
ミとは全然勝負にならないのだけど、莫大な個人という端末数を背
景にした、大規模掲示板という情報集積装置の存在がそれを覆そう
としている。

ネット掲示板は基本的に誰でも何処でも書き込みできて、読むこと
ができるから、その情報収集および情報発信の端末にあたる無数の
個人は、それこそあらゆる分野のあらゆるところに存在してる。少
なくとも自分周辺の一次情報や個人的見解については書き込むこと
ができる。

なにかの報道に関しても、その当事者や専門家がそれは違うとネッ
トワークに直接情報をあげることが起こりうるから、間違った報道
にはすぐさま訂正が入ることになる。

その反面、ネットは個々人の経験や能力がバラバラだから、情報の
処理時間も処理結果もバラバラになる。そしてそれがそのままネッ
トにアップされるから、なにか一つのテーマに対する情報を集積し
ていっても、全く正反対の結論があったり、様々なノイズが入り込
んだりしている。

ネットの世界では、知るべきことも知りたいことも、そして悪意の
情報もごちゃごちゃに存在してる。当然デマも混じっていたりする
。

だからネットから情報を得るときには、受け取る側の価値観や倫理
観および情報に対するリテラシーがしっかりしていないと、容易に
扇動されてしまう。ネットは匿名性が高いから、個人が特定されに
くい反面、本音が出やすい。それ故に民度の高さが要求される。

なぜかといえば、ネットを利用する個人にとって、ネットから引っ
張ってくる情報は、その本人にとって「知りたいこと」が主なもの
であって、「知るべきこと」が中心にくることはあまりないから。

どの情報をフィルタリングして抽出・共感するかは、個人の価値観
や倫理観に委ねられている。ゆえに情報リテラシーがしっかりして
いるネット使用者が多ければ多いほど、個人の価値観や倫理観の多
様性が増せば増すほど、ネット全体の意見を統一させることは難し
くなってくる。

仮にネット上の全体意見が一致することがあるとすれば、極めて限
定的で単一の情報しかネットに存在せず、それに対するリテラシー
がない場合か、ネット使用者全体に共通する問題や価値観に訴える
情報が流れているかのどちらか、又は両方しかない。

それに対して、マスコミを介して流される情報は、知るべきことや
大衆が知りたいと思っているであろうことを、編集者や会社が忖度
して選択・抽出するから、基本的におかしなものはこの時点で除去
することができる。

間違った情報に対するフィルタリングという観点からみれば、ネッ
トは個々人の価値観や倫理観に委ねられるのに対して、マスコミは
その報道機関としてのスタンスや社是によってフィルターを統一す
ることができる。

要は、情報に対してエンドユーザーでフィルタリングするか、元栓
の部分でフィルタリングするかの違い。

今回の毎日新聞社のwaiwai問題がここまで大きくなったのは、大手
マスコミである毎日新聞社として、フィルタリングした情報が、日
本的価値観である「穢れを祓う」部分に反していたということと、
ネット使用者達の殆どが「穢れを祓う」という価値観を持っていて
、それに従って情報をフィルタリングしていたということにある。

毎日新聞社は「反日」というフィルターを通して記事を流し、それ
を知った多くの日本人は「日本」というフィルターを通して、それ
をいけないものだと判定した。

 

9.告白する自由

知るべきことと、知りたいことはその人の立場によって変わるもの
。左翼の人は左の情報を好むだろうし、右翼の人はその反対。

政府は、国を維持して繁栄させるために、国民に知っておいて欲し
いことを知ってほしいと思っているし、マスコミは権力が暴走しな
いように監視して、中にある真実を伝えたい。

それぞれがそれぞれの立場で、情報の発信と取捨選択している。だ
から本来はそういった性格の情報が世の中に飛び交っていることを
皆が理解していることが望ましい。

更には、情報は主体的に自分で選び取るものであって、自分が発信
した情報には自ら責任を負うのだ、という原則が各人に浸透してい
ないと、あっという間に情報の洪水に流され、扇動されてしまう。

その情報を選びとったり、発信したりする根源にあるのは、個人と
してはその人が持っている価値観だし、社会や国としてはその集団
における「あるべき姿」ピュシスになる。

それを構築するのは、まず教育、その後は経験と学習。

日本には日本人としての「あるべき姿」があって、それを皆が共有
することを是とするならば、そのような社会にしなければならない
し、そのような社会を維持しないといけない。

ここで大切なのは、「告白の自由」の保障。さもないと、日本人の
「あるべき姿」を是としない人を理解する機会を奪ってしまうこと
になりかねない。

自分はどうしても日本人としての「あるべき姿」を認めることがで
きないのです、と「告白する自由」が保障されていなければ、その
人は社会的に抹殺されてしまう。そうではなくて、日本人の「ある
べき姿」を何故認められないのか、どういう姿があるべき姿だと思
うのか、などと相互にコミュニケーションを取ることが保障されて
始めて「あるべき姿」の変容可能性が保たれる。

今現在通用している「あるべき姿」が、未来永劫変わらない保障は
ないし、それでいいのかどうかも分からない。古代日本人が持って
いた「あるべき姿」と現代日本人の「あるべき姿」は違っているか
もしれない。

だから、今回の毎日問題は、報道の品質という面において企業とし
てのコンプライアンスが問われ、記事の内容において、日本人とし
てのあるべき姿である「穢れを祓う」という価値観を否定している
が故に、これほどの抗議を受けているのだと思う。

今回の問題で確実に言えることは、少なくとも日本人としての「あ
るべき姿」を受け入れられない人がそこにいたということ。

だけど、いくら毎日新聞社が、日本人としての「あるべき姿」を受
け入れられないからといって、日本人全員がそうだとは限らない。

だから、社会の公器としての大手マスコミが、今現在共有されてい
る日本人としての「あるべき姿」を否定するのであれば、そうと宣
言し、既存のあるべき姿を受け入れている人たちに配慮しないとい
けない。

たとえば、この意見は社としての独自意見であって、日本全体を代
表するものではない、と宣言してから報道するとか、この論に対す
る意見を広く受け付け、オープンな議論を行うとか。

そうした「告白の自由」があって始めて、情報を受け取る側も、な
ぜそうなのかを問い、熟考し、互いにより良い「あるべき姿」を求
めてゆくことができる。

グローバル時代を迎え、海外との交流が盛んになるにつれて、彼我
の文化的・宗教的価値観の差に十分留意しながら、互いの理解促進
の助けとなる報道を行うこと。それがグローバル化時代での報道の
あり方だと思う。

マスコミは、自らの情報フィルターの性質を広く一般に宣言して、
高度な見識を持って客観報道に努め、一般大衆は高度な情報リテラ
シーを身につけようと努めつつ、良心に恥じない情報選択を行う。

高い見識と高い民度。これがマスメディアとネットとの共存の鍵に
なる。

(了)


コラム目次に戻る
トップページに戻る