2991.北一輝の国家観・政治制度についてのラディカルな視点



北一輝の国家観・政治制度についてのラディカルな視点
From:得丸

皆様、

先日の読書会でご紹介した『北一輝の人間像』の中で、嶋野三郎が
北一輝の国家観・政治制度観について語っていましたのでご紹介し
ます。


嶋野 北さんは、「自分が初めて東京へ来た当時は、ずいぶんいろ
いろな法律・歴史・経済の本を読んだものだ。ところが当時の日本
の学者は、政治制度なるものに万能薬的な力があるということを信
仰しておった。これは明治以来法律、法律で国を固めてきたせいだ
ろう。しかし最近自分は、政治制度の万能薬的な力の信仰は迷信に
過ぎぬ、と考えるようになった。君主政治とか、民主政治とか、共
産政治とか、政治制度にはいろいろあるが、その中の一つを絶対視
することは、西洋かぶれの偶像崇拝である。東洋には西洋の知らな
い新しいやり方がある。それは何かといったら、修身斉家治国平天
下の思想の宣伝である。外面的な政治制度よりも、個人個人の精神
の革命こそ政治制度に比してはるかに実効あるものであると思うよ
うになった」、北さんは、こういうふうに言われたのです。これは
実に卓見です。いままでそういうことを言った大学教授はいないで
すよ。それで、ぼくは、これは大したものだな、天才だなと思いま
した。

 それからほとんど毎日のようにぼくは北さんの家へ議論しに行っ
たものです。北さんはぼくに、西洋の国家思想についていろいろと
質問なさいます。昔から西洋にいろいろな国家思想がありますね。
古代ギリシャには、ピタゴラス、ヘラクレイトス、プラトン、アリ
ストテレスの国家思想、古代ローマにはキケロの国家思想、それか
らキリスト教の国家思想、さらに下ってマキャベリー、モーア、ホ
ッブス、モンテスキュー、ルソー、ヘーゲル、マルクスの国家思想
といったふうに。ところが、これらの国家思想はすべて政治制度の
万能薬的な力に対する信仰の産物にほかならぬ、というのが北さん
の結論でありました。
(有斐閣選書『北一輝の人間像』所収の嶋野三郎・末松太平・西田
初子対談より)


 日本(に限らないのですが)の企業におけるコンプライアンス体
質が旧態依然であることは、赤福・白い恋人・船場吉兆などの不祥
事を見れば一目瞭然です。
 彼ら経営者たちは、「つべこべいうな。ここでは私が法である」
という意識でいるから、平気で悪いことができるのです。
 この意識は、ほとんどすべての経営者(儒教朱子学的人間形成を
していない経営者)に共通するでしょう。
 それも無理はありません。
 西洋においても、中世の領主が、「処女権」なるものを主張した
ように、法とは権力の象徴であり、権力者は法を自由に制定し、ま
た、自己を法の支配の及ばぬ存在、法を支配するものとして規定す
るからです。

 日本国憲法も、アメリカという憲法制定権力との関係を論ずるこ
となくして、議論することはまったく不毛ではないでしょうか。


 箴言じみてしまい申し訳ありませんが、結局のところ、人類文明
史の枠組みの中では、法とは、権力を持たぬ人間に泣き寝入りを強
制するための言葉による暴力装置、であり、憲法とは、法の実態を
覆い隠すために国民の意識を錯乱させるための正常認識妨害装置で
ある、

 と結論付けてもよいのかもしれないと思いました。

得丸

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