2945.夢によって方向付けられた突然変異



きまぐれ読書案内 ヘンノ・マルチン(Henno Martin) 著 「シェル
タリング・デザート(The Sheltering Desert)」
(Ad Donker Publishers, South Africa)


夢によって方向付けられた突然変異 : ドイツ浪漫派の進化論


 昨年南アフリカを訪問したときに泊めていただいたディーコン博
士の客室の枕元には、地質や考古学などに関する本が十冊ほど積ま
れていたが、これがどれも興味深い本ばかりであった。奥様が日本
からの客人のためにそろえてくださったのだという。

 その中に''The Sheltering Desert''という本があり、裏表紙を読
むと第二次世界大戦中に、ナチス政権に収容されることを逃れるた
めに二人の若い地質学者がナミブ砂漠で二年半にわたってロビンソ
ン・クルーソーのような生活をした記録だという。たまたまケープ
タウン市内で迷い込んだドイツ語専門書店の棚で同じ本を見つけて
購入して帰り、最近になって読んだ。

1 砂漠でのサバイバル

 この二人のドイツ人地質学者は、ナチスが政権をとって、ファシ
ズムへ、戦争へと突き進むドイツを逃れて、ドイツ領南西アフリカ
(現在のナミビア)で仕事をしていた。いよいよ第二次世界大戦が始
まると、ドイツ軍がマジノ線を破って破竹の勢いで進軍し、南西ア
フリカにも戦争のプロパガンダと熱狂がおしよせてきた。彼らは、
砂漠に隠れることを決意する。

 4日間かけて食料や銃弾やその他のものを準備し、1匹の犬を連れ
て、二人は1台の小型トラックに乗って砂漠に隠れ家を探す。そして
2年半にわたる砂漠でのサバイバル生活が始まるのだ。

 旧石器人が住んでいたとおぼしき洞窟に居を構えた彼らは、どう
やって水と食料を確保するかで頭がいっぱいになる。ピストルやラ
イフルという近代兵器を持っているだけでは、野生動物を仕留める
ことはできない。彼らは、徐々に旧石器時代人の心を取り戻し、狩
猟の緊張や仕留めた時の恍惚に酔いしれるようになる。

 そして、この石器時代の狩猟採集民の心をだんだんと取り戻して
みると、我々の文明というものが、進歩というよりは、誤りであっ
たのではないかという思いが浮かんでくるのであった。

 第二次世界大戦の愚かさの中で、彼らは人類が近いうちに滅亡す
るであろうという、後戻りのできない地点にいることを痛切に感じ
ており、そのような視点で、彼らは地球生命の発展史、人類史全体
を振り返った考察を交わすのであった。


「人類は1万世代にわたって、狩猟をして生きてきた。我々の文明の
基盤になっている畜産と農業が始まってからまだ200世代程度しか経
過していない。文明には、映画や本やいろいろすばらしいものがあ
るが、恐ろしく血なまぐさくて愚かな戦争ももたらした。

 星は輝き、砂漠と山を照らす。2つの明るいケンタウルス星が、
大きな時計の針のように、南の極を回る。大気は静まりかえってい
る。

 思うに、ブッシュマンやアメリカ・インディアンやエスキモーの
ような狩猟民族は、文明に触れないかぎり幸せであり、満ち足りて
いるに違いない。彼らは、危険や突然訪れる死や残酷な敵というも
のを、たしかなものとして知っている。しかし、この輝ける1940
年に、現代文明がこれらのものを文明人たちから取り除いたといえ
るだろうか。

 逆に、文明は様々な危険を増大させている。文明は著しい暴力や
愚かな破壊を増大させ、そうすることによって個々の人間から独立
を奪った。

 しかし、文明社会にあっても、狩人の古い本能は残っているから
、何百万人もの男たちは戦争と聞くと意気が上がるのだ。古い殺戮
の本能がよみがえってくるが、それらは今宵の戦いが私に与えてく
れた深い内面の喜びを与えてくれることはない。なぜならば、文明
という環境で戦闘を行うことは、彼らの本質にある尊厳を奪い取る
からだ。彼らはもはや生命を守り、維持するために、戦争任務につ
くわけではない。」(p78)

「もしかすると、我々の文明全体は、人類としての正しい発展から
逸脱しているのかもしれない。石器時代の狩猟採集民から受けつい
だ本能や感覚と根本的に相容れないのかもしれない。
 しかし、もしそうであるならば、どうしてそのように発展してし
まったのだろうか。」(p80)

2 夢によって方向づけられた突然変異による進化

 こうして、旧石器時代人の心を取り戻して、生物にとっては大変
に生き延びることが難しい砂漠の中で、環境に適応して生きている
植物や昆虫や動物を観察しているうちに、彼らは、進化はそれまで
に習っていたような適者生存や、ランダムな突然変異によって起き
るのではなく、生物が環境の中で苦しみながらサバイバルをしてい
る過程で、望ましい突然変異の方向性を夢見るようになり、その方
向で突然変異がおきるのではないかという考えにたどりつく。その
思考の過程を引用を紹介しながら簡単においかけてみよう。

(1) 痛みと喜びの感覚は、環境の良否を伝える判断結果


 「その秘密は、生活の基本的な特性の中にある」とヘルマンはいう。
 「空腹感かな。」と、私はいう。そんなに外れてないだろう。
 「いいや。空腹感は心理的状態のからみあった感覚だよ」
 「感覚か。単なる感覚なのか」
 「おそらく。しかし、感覚とは何なのだろう。喜び、空腹、疲れ
、恐れ。これらに共通するものは何だろう。これらの基底に共通に
あるものは。」
 「警告だ。たとえば喉の渇き。これは体が水を欲しているという
警告だ」

 「喜びは?」
 「喜びは、おそらく、人間あるいは動物が、環境と完全に調和し
ていることを意味する、もっとも単純な表現形式だ」
 「肯定的な感覚と、否定的な感覚との間に、基本的な違いはある
のだろうか。あるいはこの二つを含むことのできるより上位の概念
は? これでは議論が堂々巡りになるかな」
 「そうともいえない。おそらく感覚は、生命体に対して、状況が
良好かそうでないかを伝える判断なのだ。そうすると、判断を形成
する能力は、生命にとっての基本的な属性ということになる」
 「本当に基本的なのだろうか」
 「そうだよ。生命現象のない無生物と比較して、生物の特徴は、
活動するところにある。単細胞生物であったとしても、飛んでいく
ことや、外部に対して閉ざすことで、好ましくない環境を避けるこ
とができる。しかし、それがそのようにできるようになるためには
、感覚、言葉を変えるならば判断能力が必要とになる。そうでない
と、好ましいか、好ましくないか、知りえようがない」
 「そのとおりだ。しかし、もしそれぞれの感覚が判断を含んでい
るとしたら、人間に判断能力があるというのも、実はあらゆる生命
体がもっている原初的本能が発展しただけにすぎないのではないか。
 そうするとだ、もちろん可能性の話だが、どうして単細胞生物が
人類の到達した最高の知的能力を持っていないといえるかね。」
(p149)

(2) 自然淘汰ではなく、発生中のダイナミックな突然変異

 「偶然ではあるが、我々は自然淘汰によって進化するというダー
ウィンの学説を丸ごとひっくり返したことに気づいたかい。
 環境に適応していないものは皆死んでしまうという知的判断が自
然淘汰である。ある種において、新しい環境に適応することによっ
て、実に受身的に、かつ機械的にではあるが、発生の段階で淘汰が
行われるくらいに十分な個体数の突然変異を行ったとかんがえるこ
とはできないか。
 結局のところ、何百万年かけて発展する間に、何百万世代がこの
ようなプロセスを行いえたということは確かである。」

 「その活動というのは、目に見えるものだけかい。それから、あ
る特定の形態の生物が増加すると、淘汰と適応のプロセスが受動的
かつ機械的に発生するために、十分なだけの突然変異がおきている
ということかい。 だとすると、水晶はどうして飛ぶことを覚えな
いんだ」
 「水晶にとって変化の可能性はあまりに限られているからだよ。
しかし、胚の原子は多様性に飛んでいるから、何千倍、何百万倍の
可能性がある。おそらくここに生命体と無生物を分ける基本的な違
いがあるのではないか」

(3) 完璧な適応事例は、偶然の積み重ねとは思えない

 砂漠の中で哲学をすることはたやすいことではなかったが、我々
はこの話題にとりつかれてしまっていた。

 外の世界で行われている愚かな戦争は、我々に進化について全面
的な疑問を抱かせた。しかしながら、どういうわけだか、我々はこ
の偉大なる問題の解決まであと一歩だと感じていた。何度も何度も
、我々はすばらしい適応の事例にであった。たとえば、カマキリが
獲物に襲い掛かる用意をして待っているとき、灌木の枝や葉と見分
けがつかないのだ。あまりに完璧に周囲に適応しているから、運が
よくないとその姿に気づくこともない。

 それからバッタ。ここで石バッタという種は、あまりに住んでい
るところの岩に似ているため、飛んだときにしか見ることができな
い。 (略) これらのことが、本当に単なる偶然の積み重ねとい
うことがありうるだろうか。(p152)

(4) 人類の魂と文明

 「結局、何千世代にもわたって、我々の先祖は今我々がこうして
(砂漠で狩猟生活)暮らしているように生きてきた。そして過去の
2,300世代では、我々の根幹の本能にたいした変化はもたらさなかっ
た。要するに我々の魂は石器時代人のままなのだ。」

 君が言っていることは、現代人は自分たち自身の文明と調和して
いると感じていないということであり、それは正しいと思うよ。
 もしブッシュマンが都会で生活しなければならないとしたら、死
んでしまうよ。だけど我々はここでそこそこブッシュマンとして生
きている。(p154)

 我々は実にやすやすと原子狩猟民の生活に入ることができたので
、うすっぺらな現代人の皮膚の下に、「石器時代人の魂」をもって
いるという結論に達した。この魂は、現在の人類の導いている文明
社会と相容れないのだ。この矛盾は解消しうるのだろうか。人類の
破壊能力が徐々に増大していることをかんがみると、これは重要な
問題である。(p182)

 実際に、人類が発展の成果であること、そして人類がたどってき
た発展の経路が今日の人類のあり方と、将来どのようにあるかとい
うことの基盤となることは間違いない。しかし、我々は、人類が
これまでに通過してきた発展のどれほどを知っているだろうか。

(5) 人類を絶滅へと導くもの(p239)

 我々はもうひとつ理解した。生命の本能活動が固定化したり、物
理的適応の幅が狭くなると、痛みと喜びの両極によって判断を下し
、変化する創造力が失われて、その特定の生命形態は絶滅の時を迎
えているということを。

 人類の場合どうであろう。必ずしも本能のみによって導かれない
、ゆとりなく、危険な生活の中にあっても、人類は経験に学び判断
する能力をもちつづけ発展させてきた。このために人類は単なる動
物の枠組みを抜け出したのだ。判断力は人類においてその最高の表
現を発揮した。この真実は、我々に、人類の制度や行動を判断する
ための基準を与えてくれるだろう。

 疑いもなくそうである。人間から判断能力を奪おうとするもの、
どのような種類であろうとも画一的な本能行動を人間に強要するも
のは邪悪である。そのような傾向こそが、他の絶滅種に示されたよ
うに、人間を絶滅へと導くのである。大衆プロパガンダ、いかさま
広告、大衆パレード、大衆集会が人類をその方向に押しやっている
影響力であることは火を見るよりも明らかである。

 人類を自滅から救う可能性はないのか。


(6) 方向づけられた突然変異(p277)

 進化についての疑問は、なかなか証明することができない。我々
は偶然の突然変異は、十分にすべてを説明しきれないということは
結論づけた。
 一方で、獲得された性質や経験は、必ずしも次世代に受け継がれ
ない。
 では、急速におきる進化の実現を理解するために必要不可欠であ
る「方向づけられた(制御された)突然変異」はいったいどのよう
にして起きるのだろうか。もしかすると、夢に反映されるような無
意識の想像力のようなものが、方向づけられた突然変異を生むのだ
ろうか。

 考えれば考えるほど、そうであるように思えてきた。
 経験したことを知の器官に結びつけ、同時にその影響力を身体の
物理的(肉体的)状態に働きかける力がある。想像力と幻想とは、
生命体が記憶を生み出すかぎり存在していたことは疑いのないこと
である。結局のところ、それは一種の希望と恐れであるのだ。ある
生物種が何世代にもわたって同じような環境に住み、同じ希望と恐
れを経験したとすると、無意識の想像力がこれらの経験の中に新た
な可能性を意識して、それを現実のものとするために、方向付けら
れた突然変異を起こすというように考えられないだろうか。

 想像力は常に天恵のものであり、創造する力としてみなされてき
た。しかし、それは、人類がこれまで思っていた以上のものである
かもしれない。

(7) 人類の想像力の使い方における善と悪(p279)

 さて、これは人類にとってどのようにあてはまるのだろう。

 すでに確かめたように、人類の意識の発展と、経験から無限に学
び取る能力によって、人類は他のどのような生き物よりも、環境の
支配からの自由を手に入れることができた。

 この解放のプロセスは、人類の想像力にも適用され、結果として
善にもなれば、悪にもなることになった。

 しかし、何が善で、何が悪なのだろうか。

 生きるとは、判断することでもあるので、この問いに答えること
も可能である。我々はすでに進化の話題からひとつの重要な結論を
導きだしている。

 善とは、発展する容量(可能性)を拡大するものであり、悪とは
、つまるところ、絶滅へと向かう袋小路へと追い立てるものである。
 これが答えだ。


3 自然との一体化により仏教的世界観と通ずる生命観・価値基準
が示されている

 本書のすごさは、なんといっても、文明空間から逃げ出して、砂
漠という厳しい自然の中で、水と食料を自分で探し出し、動植物の
生態を近くで観察して、地質学者の目による自然観察や体験から、
宇宙・自然の法則を体得し、それを言語化しているところにある。
ここまで自然と一体化して行われた自然観察は珍しい。著者が見た
世界から、サラリと法則を引き出してくるのには恐れ入った。 

 そして、第二次世界大戦という愚かな人類の所業とまったく同時
代を深い絶望感をもって生きることによって、人類文明の発展は正
しかったのかという疑問、文明がどこでどうして間違って絶滅の隘
路を突き進むようになったのかという疑問、人類や生命の進化が
どのようにしておきたのかという疑問が、著者の意識の中核を占め
、その疑問に対する答えが繰り返し繰り返し行われた科学者同士の
議論の結果として提示されている。それは、シンプルだが独自な説
であり、読者をひきつけ、説得する力強さをもっている。

 一神教徒である著者だが、単細胞生物から人類まで同じ進化の法
則が貫かれているという点で、もしかするとキリスト教や一神教の
教義を超越してしまっているのかもしれない。これは、仏教の本覚
思想(山川草木悉皆成仏、山川草木悉有仏性)と相通ずるものがあ
るというより、まったく同一の思想であろう。 また、善悪につい
ても、善とは発展の可能性が拡大すること、悪とは絶滅へと向かう
ことと、極めて客観的で明快な基準が示されていることも興味深い
。道元らが口にする仏法もこれと同じではないか。人間が自分勝手
に都合よく考えることは間違っていて、自然の力こそがすべてを支
配しているのだ。

 70年近く前に、ナミブ砂漠で、著者が人類の自滅を予感したこと
は、着実に現実になりつつある。しかし、2(6)でいうように、
生命は想像の力で突然変異をとげて進化するのだとすれば、我々は
、文明によって混乱した思考を一日も早く捨て去って、邪悪な心を
排して、まっすぐで純な野生動物の心を取り戻し、美しい夢を心に
抱いてこれから生きていくことがもっとも大切ではないだろうか。
(2008.5.27)


コラム目次に戻る
トップページに戻る