2944.コミュニケーションとは何か



コミュニケーションとは何か


                           日比野

1.コミュニケーションできる条件

コミュニケーションをする意味について考えてみたい。

まず、コミニュケーションを行う意味について考える前に、そもそ
もコミュニケーションが成立する条件について整理してみると、お
そらく次のようになるだろう。


1.外部との通信インターフェースがある
2.入出力情報を認知または認識する為の共通データベースがある
3.時間と空間を共有している


1.はコミュニケーションを行うための外部通信機能、人間であれ
ば、五感を持っていて、それらが機能しているということ。

2.は文字どおりコミュニケートされた内容を理解するためのコン
テクストを互いに持っているということ。

3.は、彼我の意志を互いに五感で検知できる状態にあること。但
し、互いに同じ時間や場所にいなければならないということを必ず
しも意味しない。


人間と動植物との間で明確なコミニュケーションが成立しがたいの
は、1.の五感機能が完全に共通ではないことと、2.のコンテク
ストが異なるから。

五感が共通でないというのは、人のように具体的な言葉を喋れなか
ったり、身体構造が人間と異なるために、人と同じ動作や表情を作
れなかったり、同等・同質の性能を持っているわけではないという
こと。

犬は人間よりずっと鼻が利くし、蝙蝠なんかは超音波を聞くことが
できる。魚の目の視界は180度もある。そもそも見ている世界が
違う。異世界に生きているようなもの。

また、コンテクストで考えてみても、たとえば感情を表す動きも動
物と人間とでは異なる。犬が尻尾を振るのはたいてい相手に親しみ
を覚える時だけど、猫がしっぽを振るのはいらだった時や、攻撃の
前触れと言われている。種によってコンテクストのデータベースか
らして異なる。

だから、動植物とコミニュケーションをとろうとおもったら、まず
五感などの外部通信インターフェースを共通にして、さらに種ごと
にコンテクストのデータベースを用意しないといけない。最近にな
って、鳴き声によって犬の気持ちを翻訳するバウリンガルという商
品が開発されたりしているけれど、要はこれら1、2の問題をクリ
アしてやっと実現できるもの。

人間同士のコミュニケーションであれば、1.の五感は共通だから
基本的にクリアしている。だけど、2、3となると少々条件がつく。


2.のコンテクストでは、言語や動作の持つ意味であるとか、人種
や言語圏、文明圏で少しづつ異なってくる。同一文化・言語圏であ
れば、これもクリアしているのだけど、他言語同士だと、最低限ど
ちらか一方が相手の言語やそのコンテクストを知っていないとなか
なかコミニュケーションは成立しない。

さらに3.の時間と空間を共有しているという条件は、ひらたく言
えば相手と話ができる場が出来ていて、かつ双方が話を聞く体勢に
なっているかどうかということ。

たとえば、仕事か何かで、隣に席を並べていたとしても、互いに話
そうという体勢になっていないと会話はできない。一生懸命目の前
の仕事に集中している人に話しかけても、後にしてなんて言われる
だけ。電話を取次いでも、後で電話しますなんて返されることもよ
くあること。

また、面と向かって話ができたとしても、相手がうわのそらであっ
たら、いくら話しても通じない。目の前に姿はみえど、心ここにあ
らず。互いの存在空間は共有されていない。

更には、相手が話を聞いてくれたとしても、話す内容の五感へ変換
と逆変換を通じたデータの減衰やコンテクストのズレに起因した誤
解の可能性もある。

だから人間同士であってもコミニュケーションを成立させるために
は、1,2,3を全てクリアして始めて成り立つことになる。

それほど、相手とコンタクトしてコミュニケーションを成立させる
というのは稀有なこと。そうやって、やっとのことで情報発信した
としても、相手が同意してくれるとは限らない。

 

2.理解と共感

理解と共感は別のもの。理解したあとの判断として、共感か、場合
によっては拒否することもある。

コミュニケーションで得られるものは相互理解であって、相互信頼
じゃない。相互信頼はずっと先。コミュニケーションで行われるこ
とは、情報の伝達のみであって、伝達された情報に対する価値判断
は別に存在する。

自分が伝えたい何かがあって、自分からその情報をアウトプットし
て、相手がそれを検知して受信するまでがコミュニケーションの範
疇。

その内容について良い悪いという評価を出す主体はあくまで相手。

コミュニケートされた内容についての判断は100%相手の主観に
委ねられる問題であって、こちらからは一切の干渉はできない。だ
けど往々にして人は、相手から好意的反応が返ってくることを期待
してる。

しかも、好意的反応を貰って初めてコミュニケーションが出来たな
んて、自分に都合良く考えたりもする。

自分が発した情報に対して、「好意的な反応」を期待する行為は、
本当は自分ではコントロール不可能なもの。その成否はある意味博
打と同じ。

にも関わらず、好意的反応が来た時だけ、相手とコミュニケーショ
ンできたと考え、否定的反応が返ってきたときにはコミュニケーシ
ョンが成立しなかったと思ってしまう。

確かにコミュニケーションの原義であるラテン語の「communicatio
(分かち合うこと)」に照らし合わせれば、自分の意見が受け入れら
れない状態というのは、ちっとも分かちあってないじゃないかとも
思えるのだけど、分かちあったものは「自分の発した情報そのもの
」であって、あなたに対する好意じゃない。

尤も「好意的な反応」が返ってくる確率を上げる方法がないことも
ない。それは、自分と趣味嗜好や価値観が似ていると思われる人と
だけコミュニケーションを取るという方法。

内輪の同好会的仲間とだけコミュニケーションを取れば、自分と同
じような考えをしてくれるのだから、そのとおり、なんて手を叩い
て共感してくれる。否定的反応が返ってくる確率はうんと低くなる
。

たとえば、ネットなんかでの非営利な繋がりでは、仕事と違って個
人の好みを行使する為のハードルがとても低い。好きな人とだけ付
き合っても誰も文句は言わない。

 

3.言葉は幸・不幸を創造する

言葉は幸・不幸を創造する。

言葉の価値やその意味合いは、一旦発言されてしまったら最後、発
言者は最早コントロールできなくて、発された「言葉自身の意味」
とその言葉を聴いた「本人の主観」の二つで、幸・不幸が決定され
る。

「言葉自身の意味」と「本人の主観」には、幸・不幸を決める係数
としての大小関係があって、どちらが大きいかというと、桁違いに
「本人の主観」が大きい。「本人の主観」が殆どといっていいくら
い大きな差がある。

どんなに強権を使ったとしてもガリレオの心まで天動説にはできな
かった。本人の心を他人が左右することは出来ないから、当たり前
の話。

だから「本人の主観」の係数が1の場合、つまり、言葉自身の意味
をそのまま本人が受け取る場合において、ようやく「言葉自身の意
味」をそのまま相手に伝えることができる。

本人の受け止め方には、大体一定のパターンがある。それは、こう
いう文脈やこういう言い方をされた時は、こういう意味なのだ、と
いうコンテクストのデータベースがあって、それに基づいて判断さ
れるから。

でなければ、そもそも皮肉というものは存在し得ない。


 ・・・おめでとう(^^)
と
 ・・・おめでとう(棒読み)


とでは意味が異なるものとして通用してる。少なくとも日本語圏で
は。

だから、たとえば、言葉を受け取る本人が天使のように素直で、本
人の主観係数が限りなく1に近い場合を除いて、言葉による幸・不
幸の生成要因は、


受け取った主体の判断>>言葉の意味


という図式が成立する。

どんなに言葉を尽くしたところで、受け取る主体の判断が勝ってし
まう。ひねくれ者には何を言ったところで、ストレートに受け取っ
てはくれない。

よく映画や漫画なんかで、天使が人間界に現れて織り成すドタバタ
劇なんてものがあるけれど、大抵は天使は心が美しくて清らかだか
ら、悪意なんて全く知らないという設定になっている。

だから皮肉表現なんかが全然通じなかったり、悪意の言葉をぶつけ
られると驚愕して泣き崩れてしまう場面などが出てくる。これは天
使のように心が清らかであるということは、主観係数がいつも1に
なっていて、言葉をそのまま受け取る、言葉を自分の主観で歪めな
いということを意味してる。

こういった天使の心のありかたに対して、誰も異議を唱えないとこ
ろをみると、天使の心ってそうあるべきだ、という暗黙の了解が人
間社会のコンテクストとして存在していて、それを皆が認めている
ことを証明してる。
 


4.天使のコミュニケーション

天使の心を持つということをひとつの理想としている人にとって、
受け取った言葉を自分の主観で歪めないということは、天使になる
ためのひとつの条件。

受け取った言葉を自分の主観で歪めないということは、言葉を受け
取るという行為そのものが正しいものでないといけない。

そのためには、まず、受け取る行為自身に歪みがあってはいけない
。言葉を五感で、主に視覚と聴覚を通じて認知して心に届けるまで
の間で、情報を減衰させたり、歪めてはならぬという前提条件があ
るということ。

こういった言葉を正しく受け止め、正しく考えるプロセスを仏教で
は苦しみを滅する為の修行の道として説いている。八正道がそれ。

八正道とは釈迦が説いた苦しみから離れるための八つの正しい道。

「正見」・・・正しく見る
「正思」・・・正しく思う
「正語」・・・正しく語る
「正業」・・・正しい行為を行う
「正命」・・・正しく生活する
「正精進」・・正しく道に精進する
「正念」・・・正しく念ずる
「正定」・・・正しく定に入る

釈迦は、これらを完成することで苦しみから逃れ、涅槃に入ると説
いた。

だから、言葉の意味の減衰や変容がなく、主観で内容を歪めること
もなく、さらに幸福を作り出してゆく理想的なコミュニケーション
というものは、対象を見て、思って、自分が語る内容がすべて正し
いということと同じ。

それは、上述した八正道のうちの正見・正思・正語の3つを実践す
ることに他ならない。

天使のコミュニケーションとは、仏教的にいえば、正見・正思・正
語にのっとったものであるということを意味してる。



5.ありのままに見る

ごく普通の意見や会話って、世の中に対するもの、いわゆる俗世の
話題がほとんど。宗教的信条なんかに基づいた告白とか個人的価値
観はそうそう人前でおおっぴらにやるものじゃない。教会とか寺院
とかで話すこと。

だから日常会話においては激しい対立はなかなか起こらないのが普
通。だけど日本/日本語においては少しナイーブになる。

日本語で、何かの発言に対して、「おめでとう」といわれた場合、
主語を抜かれてしまうと、それが自分に対してなのか、その意見に
対してなのか、厳密なロジック的には分からない。

本当は、その意見のどの部分に対してなどど、正確に切り分けて主
語をつけないとロジックとして成り立たない。ある程度までは、文
脈や話した人の表情で分かるとはいっても限界はある。でも日本で
はさほど問題視されない。なぜかといえば、俗世的価値観も個人の
価値観も一体だから。最初から区別する必要がない。

日本的価値観の構造では、聖なる価値観も俗なる価値観も一体だか
ら、たとえ俗世の話題であってもそれはそのまま個人的価値観であ
る「聖」の部分にまで繋がっている。

日本では、「その人の意見」=「その人の人格」だという暗黙の了
解みたいなものがなんとなく存在してる。本来は別のものであるの
だけれど。

だから、誰かから意見を否定されてしまった場合、そのままその人
の個人的価値観までも否定されたように感じてしまう。人格否定さ
れたと思う。たとえ言った本人がそのつもりでなかったとしても。

受け取った情報を主観で歪めるというのであれば、そもそも自分が
なければいいじゃないか、という考えも理論的には可能。歪めてし
まう可能性をもつ主体がなければ、歪みようがない。

だけど、考える主体である自分自身まで否定してしまえば、人はた
だの受信したものをそのまま送信するだけの通路になってしまう。

情報を歪めるものは、間違った心。私心(わたくしごころ)。自分に
都合の良いように考える心。偽者の自分。

だから、本当の意味で正しく見るというのは、そういった偽者の我
(われ)を取り去った心で受け取らなくちゃいけない。だけどそれ
は、決して自分がないということじゃない。己を空しゅうして、執
着を断った心でありのままに見るということ。

なにかに執着していれば、目に映った像はそれに引きずられてしま
う。そこから離れた心で情報を受け取るのが、正しく見るためには
大切なこと。
 


6.学ぶということ

透き通った心で、ありのままの姿を見つめようと努めることで、コ
ミュニケーションにおける情報の減衰や変容は極限にまで減らすこ
とができる。そうして始めて、相手が伝えたかった内容をストレー
トに心へ送り届けることができる。

そこから先は、己の心の領域。心で受け取ったものを如何に判断し
ていくか。どういう意味づけをしていくか。

そこは完全にスタンドアロンな世界。外部からの何者も侵入できな
い自分だけの世界。

他人は自分の心を支配することはできない。それは人から学ぶため
。

自分の心に完全な自治権が与えられているということは、外から入
ってきた情報を何者にも制約されず、自分だけの判断で、それらを
取捨選択できることを意味してる。

だから、「学ぶ」という行為が可能になる。

もし自分の心が、これしか考えるなとか、思い浮かべるなとかいう
具合に他者からコントロールされるのであれば、単なるあやつり人
形であって主体性のかけらもない。そこには学ぶという行為が存在
する余地はない。

このような世界では人は永遠に成長できない。それどころか、悪人
に操られて犯罪を犯してしまうことだってあるかもしれない。なら
ば他者からコントロールされることによる害悪を回避するために一
切のコミュニケーションを無くしたほうがいい。

自分の主体的な意思だけで、入ってきた外部情報に意味づけをし、
取捨選択できるということは、実に素晴らしいこと。

コミュニケーションにおいて、自分は相手に影響を与えることが可
能であるけれど、最終決定権はどこまでも相手が持つ。互いの自主
性は保障されている。

互いにコミュニケーションをとることで学び合うことができて、な
おかつ自主性を失うことがない世界であってこそ、自分は自分の意
思でどこまでも向上することができる。

だから、自分の心の完全な自治権が確立している限り、コミュニケ
ーションそのものが人間の成長の可能性を約束している。

 

7.智慧を蓄える

自分の感動した体験かなにかを他人に伝えるとき、それを共感して
もらえるかどうかは、伝え方にもよるのだけど、一番大きな要素は
、伝えた相手も同じような体験をしているかどうか。

似通った経験をしている場合、その話題になると話は盛り上がるも
の。だけどそういった似た経験であっても、そのストライクゾーン
は案外狭い。

小さな子供を持つ母親同士の井戸端会議なんかでは、子育ての話な
んかはよく出るだろうけれど、子供の性格や行動なんてひとりひと
り違うから、子育てという限定された話題であっても、同じ経験に
はならないこともある。

下の子の夜泣きが酷くて寝られない、なんて言ったとしても、聞い
た相手の子供が夜泣きせずにぐっすり寝る子だったら、その経験が
ないから共感も湧きにくい。大変だね、と同情されることはあるに
しても。

子育てのように、多くの人が体験するような事柄でさえ、共感のス
トライクゾーンが狭いのに、それが世相や高度な抽象概念なんかの
話題になったらもっと狭くなる。針の穴を通すほどのコントロール
がないとストライクにならない。

本人の意識の問題といったらそれまでだけど、その意識をどこに向
けるかということ自体、相手の心の自治権に委ねられている事柄。
外からは手が出せない。

針の穴を通すくらいの精密なコントロールを持つということは、投
げたいところにきちんと投げ分けられるということ。さまざまな経
験や学びを通して、話題や知識を沢山蓄えているということ。

たしかに直に経験することに比べて、学びを通して得る知識は、体
験することと比べて共感できるという意味では見劣りするかもしれ
ない。体験して始めて分かる肌触りであるとか、感触を知識だけで
掴むのは難しいから。

だけど、知識として知っているということは、仮想体験のデータベ
ースを持っているということだから、相手の体験を理解する上では
大きな力になる。

体験も知識も全く何もない事柄について、コミュニケーションを取
ったとしても話の内容すら理解できなければ、その情報を分かち合
うことさえできない。

そして、もっと重要なことは、学んだ知識を生きた知識、いわゆる
智慧に転換していくこと。本当に理解したことは自分の言葉で一言
ででも、何時間でも話すことができる。本当にその事象の本質を理
解しているからできること。

たとえ相手の話の内容を自分が体験していなくて、知識としてしか
知らないことだったとしても、その知識が智慧にまで高まっていれ
ば、相手の話を智慧のレベルで共感することができる。

この作業を経ていない知識は、「学ぶ」という行為をとても浅いも
ので終わらせてしまう。智慧にまで転換しない知識は、汎用性に乏
しくて、他人に伝えたときにもそのストライクゾーンの狭さゆえに
、相手の共感を呼び起こす可能性が低くなる。

智慧と呼ばれるものは、そんなに種類があるわけじゃない。物事の
本質だから、表面的にはいろいろある事象の奥底に埋まっているの
だけれど、その内容はたいがい同じだったりするもの。

長い年月の風雪に耐えてきた古典が、いったいどれくらい残ってい
るかを考えてみれば、それは明らか。

だから、智慧にまで高まった知識は、その汎用性の広さから、相手
の共感を呼ぶ可能性が高くなる。それは相手の智慧と共鳴している
姿。

相手から伝えられた情報から、何かを学んで、それを智慧にまで高
めて、自分の心の内にストックしてゆく。正思、正しく思うという
ことは、本当はこういうことなのかもしれない。
 


8.幸福を創る力

智慧を沢山持っている人は、それだけ他人に貸し出しできる知識を
沢山持っている。その知識は智慧にまで転換しているから、相手の
共感も呼ぶし、なにより相手の悩みを解決できる力を持っている。
救済力がある。

もしも、いつも智慧の言葉だけを喋るような人がいたとしたら、話
すこと話すことが、多くの人の共感を呼び、救い、幸福を作り出し
てゆくことになる。もはや仏陀の域。

言葉ってそれだけの威力がある。現実に幸福を創造できる。それは
、あたかも言葉にて世界を創った神にも等しき力。

釈迦は修行の果てに人は仏になれると説いたから、その意味では、
人は神の属性を内在している存在ともいえる。

だから、おそらく正語、正しく話す究極の姿はここにまで行き着く
はず。そんなことまで意識して話している人はそんなにいないだろ
うけれど。

こうした観点で、理想的な正見・正思・正語において交わされるコ
ミュニケーションを考えてみると、それはまるで天使の世界のよう
に見えるはず。


その目で見るものは、個性という自分が学ぶべき世界であり、


その心で思うものは、智慧という宝を得られた悦びであり、


その口で語るものは、他者を勇気づけ、救う力が与えられている。



確かに、悦びに満ち溢れた世界。天国そのものと言っていい。



だから、自分とは異なった他者という存在が居て、


自分の心は100%自分でコントロールできて、


自らの言葉によって幸福を創り出してゆける。



ということは、慈悲以外のなにものでもない。

これほどのことを、コミュニケーションをすることで実現できる世
界に私達は生きている。

天国は自分の心の中にある。

 
(了)


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