2919.憲法第9条問題への言語学的な接近



憲法第9条問題への言語学的な接近  : 忘れられた憲法制定権力論

 私は現在、三鷹天命反転住宅に住んでおり、新聞もテレビもない。
以下の論考は、4月18日の読売新聞朝刊の見出しと、同日の日本経済
新聞の切抜きをもとにしたものである。事実誤認があれば論考を改
めることも辞さないので、ご指摘を仰ぎたい。

1 敗北を勝利と喜ぶ奇々怪々

  4月17日、名古屋高等裁判所は、イラクでの航空自衛隊の空輸活動
を憲法違反として差し止めや慰謝料などを求めた訴訟の控訴審判決
で、空自の空輸活動は武力行使にあたり、憲法第9条1項に違反する
ことを認めた上で、差し止め請求の「訴えが不適当」であり、「利
益侵害は生じていない」ので慰謝料の請求を棄却した。
  原告の主張の論理は認めたものの、それが適応される状況ではな
いという判断によって、結論的には原告が全面敗訴した一審・名古
屋地裁の判決を支持し、控訴を棄却したのだった。

  驚いたことに、結論は一審と同じであるのにもかかわらず、つま
り空自のイラクでの空輸活動の今後になんの変わりもないのに、判
決文が違憲と言ったことを重要と受け止めた原告は、「歴史的な判
決」として事実上の勝利を宣言したという。控訴棄却なのに事実上
の勝利だとは、奇々怪々なことだ。
  違憲であるのに、なぜ差し止めることができないのかと悔しがる
のならわかる。違憲なのに止められないのは、敗北であるというべ
きではないのか。
  これはいったいどのように考えればよいのだろうか。原告が何を
求めていたのか、理解に苦しむ。原告は、イラクでの空輸活動の差
し止めを願っていたのではなく、その活動を「違憲」とひと言いっ
てもらえば気が済んだということだろうか。そうとしか考えられな
い。
  原告にとって、イラクへの自衛隊派遣の問題は、軍事あるいは外
交の問題ではなく、あるいは現地で実際に汗を流し、危険と背中合
わせに日々輸送任務に携わっている航空自衛隊員の安全や苦労でも
なく、あるいは彼らの安全を祈る留守家族のことでもなく、裁判所
が判決の中でそれを「違憲」と言うか言わないかという純粋に言語
学的な問題であったということになる。
  憲法条文を言語学的にとらえるとどのようになるのかについて、
以下で考えてみたい。

2 憲法第9条とぶぶ漬け:言葉の意味は文字面にはない

 日本国憲法第9条の条文「武力による威嚇又は武力の行使は、国際
紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2 前項の
目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
」だけを読めば、自衛隊の存在そのものが憲法違反ではないかと思
われるし、戦闘地域における後方支援活動も武力行使の一部とみれ
ば、空輸活動を憲法違反と考えられる。
 しかし日本の歴史をまだ深くは知らない小学生ならいざ知らず、
歴史的な文脈を無視してそこに書いてある条文の文言にのみこだわ
ることは、あまりに大人げなくはないか。言語学においては、「言
葉そのものは記号にすぎない」ので、言葉は意味を持たない。意味
は「個々の人間が、その記号にまつわるどのような体験や記憶を持
つか」ということにかかっている。
  つまり「条文にこう書いてあるから」と一般市民が言い募ること
に、なにがしかの意味があるのだろうか。結局、「違憲と言ったこ
とを評価する」という、まるで大勢に影響のないことで大騒ぎする
だけのことである。

  たとえば、京都のお茶漬けの例。京都で誰かの家にいって、「ぶ
ぶ漬け(お茶漬け)召し上がりますか?」といわれた時に、「はい、
お願いします」と答えたら、笑いものになる。「そろそろお暇いた
します」と答えるのが文明人なのである。京都人は、「ぶぶ漬け」
という記号に、「そろそろお帰りの時間では?」という意味を共有
しているのである。
  今回の判決を勝利だという人々は、「お茶漬けお願いします」と
いう答えをしたことに対して、本来であれば笑いものになっておし
まいとなるところを、たまたま家の人が「はい、わかりました」と
言った言葉に大はしゃぎしただけのことで、実はそのまま家からた
たき出されたのに気づかないでいるようなものだ。

  日常会話と法律用語は違うよ、という反論が出るかもしれない。
せっかくだから、法律とは何かについて、論じておくことにする。

3 法律学の中には立法学がない

 実は私は法学部を卒業しているので、法学士である。正直いって
、ご都合主義の解釈ばかりですぐに法律学がいやになり、政治学科
で法律科目はミニマムに履修して卒業単位を取得した。在学中に政
治学科にどうして民法第2部と第3部が必修なのか、おかしいと、有
志で立て看板を立て、カリキュラムの見直しを訴えたこともある。
  だいたい、大学1年のときの、教養学部の「法学」の試験問題が「
『悪法も法なり』について論ぜよ」というもので、私は「悪法は法
にあらず、悪法とわかった時点で直ちに改めるべきだ」と答えたこ
とを覚えている。
  そんな法律嫌いの私であるが、もし立法学という学問があったら
、やってみたいとつねづね思っていた。平等性、普遍性、絶対性を
体現する法律というものを作るための技術や思想、そういったこと
なら勉強してみたいと思っていた。
  ところが、そんな学問は、世界中の法学部を探しても存在しない
のである。不思議だなあと、長いこと思っていた。

  最近、日本の会社では、コンプライアンスといって、新たに倫理
規定を設けて社員にその遵守を要請する傾向にある。ところが、経
営陣は、社員には厳しいことを言い、求めながら、自分達はまるで
守らない。これはどうしてなのだろう。社長にコンプライアンス違
反が発生した場合、規定は空文、無力であり、社員を守らないのだ
ろうか。
  実は社長を始めとする経営陣は、自分たちは規定を守らなくても
よいと信じている。自分たちが法であり、法の支配の対象となるの
は社員たちだけで、自分たちはコンプライアンス規定の枠外、枠の
上に存在しているから、守る必要はないと考えているのだ。
  船場吉兆や、白い恋人や、赤福といった老舗の不祥事がすべて社
員ではなく、経営者の間違った行為や判断から生まれたのも、経営
者にそもそも遵法意識がなく、自分は王様だと思っていたからであ
る。

4 権力者の恣意性の発揮としての法

  ここではたと気づいたのだが、人類社会に立法学という学問がな
いのも、そのためではないだろうか。つまり、そもそも法律とは、
王様の意志を被支配者に押し付けるための一方的な強制であったの
だ。そのような一方的な権力関係が成り立つのは、法に従わないも
のは、警察や軍隊といった強制手段によって、制裁や処罰をするこ
とができたからだ。
  ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」の一場面を思い出す。

  ハンプティ・ダンプティが、威厳のある声で
「私が言葉を使うときには、その言葉は私が決めたとおりの意味を
持つのだ。それ以上でも、以下でもない。」といったとき、アリス
がいった。
「問題は、言葉にそんなにたくさんの違った意味を持たせられるか
ということだわね。」
「問題は、どちらがご主人様かということだ。それだけだ」とハン
プティ・ダンプティは答えた。(「鏡の国のアリス」)

 結局、法律とは権力者のわがままにすぎないのではないだろうか
。それを被支配者に、もっともらしく見せて、できるだけ素直に従
わせるために、王権神授説や天賦人権論などという神から権力者へ
の授権の擬制をつくりだした。だが、王あるいは民主主義体制にお
ける権力者は、法の本質が権力者の恣意であるということを理解し
ている。神ですら、権力者に権威を付与するための形式上のものに
すぎないことを知っている。だから、既存の法律の条文に相反する
新たな法律や制度を作ることを、一向にためらわないのである。

5 日本国憲法の制定権力

 ここで日本国憲法の問題に立ち返ろうと思う。

 1946年公布、1947年施行の日本国憲法は、第9条で武力行使と戦力
不保持を宣言した。自衛隊の前身となる警察予備隊が創設されたの
が1950年。これはともに占領軍の手による。あい矛盾する両者を制
定した法制定権力は、占領軍であった。
 にもかかわらず、米国による占領終焉後の日本では、自衛隊が違
憲か合憲かというイデオロギー対立状態が延々と、1994年の村山内
閣誕生時まで続き、内閣成立後の政策転換によりこの対立は一瞬に
して雲散霧消してしまった。それまでの自社ともに譲らないイデオ
ロギー対立はなんであったのだろうと、狐につままれたような気持
ちになったのは私ひとりではあるまい。
 自社によるイデオロギー対立は、憲法制定権力が日本にはなく、
アメリカ占領軍であったという事実を隠蔽するためではなかったか
という思いがよぎる。
 そして、このイラク派遣である。これも明らかにアメリカの要請
によるものである。アメリカは、自分が設立した日本の自衛隊をイ
ラクに派遣することが、自分が制定した憲法の条文に違反するとし
ても、何か不都合があるの、俺の勝手だろという気持ちでいるに違
いない。

 日本の自衛隊がイラクに派遣されたのは、アメリカがそれを望ん
だからだ。アメリカは、日本国憲法制定権力であるので、憲法第9条
に違反する行為であっても、それを通すことができる。会社の社長
が自分で決めたコンプライアンス規定を守らないのと同じである。

6 戦後民主主義の限界

  戦後民主主義は、それが民主主義ではないということを気づくと
ころにまで到達しなかった。敗戦の心の傷を引きずって、アメリカ
が用意したぬるま湯の平和の幻想に、長い時間浸かりすぎてしまっ
た。日本の現実、世界の現実から、できるだけ目を背け、憲法第9条
を、お守り札のように後生大事に抱えてきただけである。
  とくに今回の自衛隊のイラク派遣問題にあたって、旧来のままの
条文墨守の姿勢を貫き通し、なんの現実的な成果がないにもかかわ
らず、判決文の中で派遣は違憲という言葉があったことを評価する
という、きわめて不毛な態度を示すこととなった。
  これはひろく日本国民が、日本国憲法の制定権力を明らかにしな
いまま、議論を避けてきたことの結果である。
  イラク派遣は、憲法制定権力がアメリカであるのだから、仕方な
いことではないか。受け止め、派遣された自衛隊員の無事を祈る以
外にない。それよりも、いまだに憲法制定権力が日本を支配してい
る現実を重く受け止めて、これからの時代をどのように生きていく
のがよいかについての議論を始めてはいかがだろう。
(得丸公明、2008.4.20)



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