2906.相互信頼とは何か



相互信頼とは何か


                           日比野

1.十七条憲法

日本における相互信頼性とはなにかについて考えてみたい。

相互信頼性とは何かを考える前に、社会秩序を保つ上での「律法」
について考えてみる。

律法というのは明文化された法律。日本で明文化された律法といえ
ば聖徳太子の時代にまで遡る。かの十七条の憲法がそれ。

十七条憲法で主に説かれているのは、群臣、今でいうところの官僚
の心得だけど、その目的は「和」という言葉で群臣を天皇の元でま
とめようとしたこと。明確な罰則規定まで書いているわけではない
から、厳密にいえば法律とは言えないかもしれないけれど、少なく
とも行動規範となる考えを示したことは確か。

十七条憲法で面白いと思われる点は、既に当時から様々な価値観を
まとめて規範にしようとしていることが窺われるところ。価値観の
建て増し構造の原型がそこにある。

聖徳太子の時代はちょうど仏教伝来の時期。仏教の礼拝をめぐって
蘇我氏と物部氏の対立抗争の末、蘇我氏が勝利をおさめ、仏教が日
本に広がっていったけれど、そこに至るまでの軋轢や抗争の激しさ
が、皆を糾合し、まとめてゆくための法を必要としたのかもしれな
い。

十七条憲法の一部を書き下し文で振り返ってみる。



「一に曰く、和をもって貴しとし、忤(さから)うことなきを宗と
せよ。人みな党(たむら)あり。また達(さと)れる者少なし。こ
こをもって、あるいは君父にしたが順(したが)わず。また隣里に
違う。然(しか)れども、上和らぎ下睦びて、事を、論(あげつら
)うに諧(かな)うときは、事理おのずから通ず。何事か成らざら
ん。」 

「二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏
と法と僧となり、則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰、万国の
極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を
貴ばざる。人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能
(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(
まが)れるを直(ただ)さん。」

《中略》

「四に曰わく、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本
(もと)とせよ。それ民(たみ)を治むるの本は、かならず礼にあ
り。上礼なきときは、下(しも)斉(ととの)わず、下礼なきとき
はもって必ず罪あり。ここをもって、群臣礼あるときは位次(いじ
)乱れず、百姓(ひゃくせい)礼あるときは国家自(おのずか)ら
治(おさ)まる。」

《中略》

「六に曰わく、悪を懲(こら)し善を勧(すす)むるは、古(いに
しえ)の良き典(のり)なり。ここをもって人の善を匿(かく)す
ことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。それ諂(へつら)い詐(
あざむ)く者は、則ち国家を覆(くつがえ)す利器(りき)たり、
人民を絶つ鋒剣(ほうけん)たり。また佞(かたま)しく媚(こ)
ぶる者は、上(かみ)に対しては則ち好んで下(しも)の過(あや
まち)を説き、下に逢(あ)いては則ち上の失(あやまち)を誹謗
(そし)る。それかくの如(ごと)きの人は、みな君に忠なく、民
(たみ)に仁(じん)なし。これ大乱の本(もと)なり。」

《中略》

「九に曰わく、信はこれ義の本(もと)なり。事毎(ことごと)に
信あれ。それ善悪成敗はかならず信にあり。群臣ともに信あるとき
は、何事か成らざらん、群臣信なきときは、万事ことごとく敗れん
。」


《中略》

十七に曰わく、それ事(こと)は独(ひと)り断(さだ)むべから
ず。必ず衆とともによろしく論(あげつら)うべし。少事はこれ軽
(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ
)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。故(ゆえ)に
、衆とともに相弁(あいわきま)うるときは、辞(ことば)すなわ
ち理(ことわり)を得ん。



一条の「和をもって尊しとなす。さからうこと無きをむねとせよ。
」は古来の日本的和を規定しているし、二条の「篤く三宝を敬え」
で仏教を尊ぶように謳っている。

しかも同じくその二条で、「人、はなはだ悪しきもの少なし。よく
教うるをもて従う。三宝によりまつらずば、何をもってか枉(まが
)れるを直す。」と性善説を説くと同時に、教育によって正すこと
ができるとしている。その教育は仏法である、と。

そして、四条では「群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもっ
て本(もと)とせよ。」と礼節を説いている。また、六条では、「
人の善を匿(かく)すことなく、悪を見てはかならず求iただ)せ
。」と「勧善懲悪」を説くとともに、九条で「信はこれ義の本なり
。事ごとに信あるべし。それ善悪成敗はかならず信にあり。」とし
、「勧善懲悪」の根本には信頼関係がある、としている。

最後の十七条に至っては、「それ事はひとり断(さだ)むべからず
。」として大事なことは多くの人に相談すべきであると説いている
。天皇中心の中央集権的国家を目指しながらも、かなり民主的な考
えを取り入れている。

こうしてみてくると、一条と二条で、和が最も尊いものであり、そ
の前提となるであろう全ての人は善きものである、という考えにさ
らに人間教育の柱として仏教を建て増ししている。そして更に四条
と六条で儒教的礼節を建て増ししている。



2.建て増し構造を保証した第十条

十七条憲法には、価値観の建て増しという日本的価値観の構造の原
型が見て取れるといったけれど、その建て増し構造を成立させた理
由はその憲法自身の中にある。第十条。

十条はこう説いている。



「十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)
を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざれ。人みな心あり、心お
のおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非と
す。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼
必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理(こ
とわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)
の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると
雖(いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独(
ひと)り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。」



自分と他人の意見が違っていても怒ってはいけない、人それぞれに
考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある、しかし彼
も我も共に凡夫なのだ、そもそもこれがよいとかよくないとか、だ
れが定めうるのか。相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違
いがあるのではないかとおそれさない、として相手を責める前にま
ず自らを反省せよと規定している。

ここにはもはや一神教的な「我のみ正し」の考えは微塵もない。

この十条によって、新しい価値観や考えに相対しても、無碍に否定
することなく、価値観の建て増し構造を可能にしていったのではな
いだろうか。「われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。
」という考え方が基礎にあればこそ、いかなる意見も一応とってお
くという行動に繋がってゆく。

特に「かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえってわが失(あ
やまち)を恐れよ。」に至っては、これまでとどんなに違った考え
であっても、その都度自分が間違っていないか反省するということ
だから、日本的な譲り合いの精神そのものと言っていい。むしろ、
この太子の十七憲法以降に日本的精神が明確に形作られたと理解す
べきなのかもしれない。

 

3.十七色の縦糸

日本は開国と鎖国を周期的に繰り返しては、他国の文物・思想を輸
入しては咀嚼していった。

これを縁起のレイヤー構造で説明すると、開国の時期には、上位レ
イヤーである思想レイヤーと経済レイヤーを開放して新しい価値観
を受信して、鎖国の時期にその受信した情報を下位レイヤーである
、地域共同体・血縁レイヤーに伝達していったプロセスといえる。

それは開国の時期に、上位レイヤーの横糸に全く新しい色の糸を織
り込んでは、鎖国して上位・下位レイヤーの縦糸にその色を織り込
んでいった姿。

そのとき織り込んでいく新しい糸が、一神教的な「我以外神なし」
の価値観では、従来の縦糸を邪教として排斥し、排除して、縦糸を
切断することがある。

一神教の価値観に席巻された国では、それまで持っていた糸、特に
縦糸は切断されて、一神教の糸に替えさせられた。縦糸の途中で分
断され、まったく別のものになっている。我以外神がいないのだか
ら当然といえば当然。

太子の十七条憲法の頃は、ちょうど仏教と神道の糸同士が結びつい
ていった時代だけれど、仏教自身も平和的な宗教だったから、繋い
でみたら結構相性が良かった。うまくいった。

これによって、日本の縁起レイヤーの縦糸は単色の糸ではなく、様
々な色の糸を編みこんでゆく多色のより糸構造を持つようになった
。

その後の鎖国と開国の繰り返しの中で新しい価値観を取り入れては
、その都度新しい色を織り込んでは縦糸に加えていった。

戦国の開国期には、キリスト教伝来による縦糸の切断の危険はあっ
たのだけど、切断される前に鎖国して、一神教的「我のみ正し」を
回避した。日本の伝統的縦糸は守られた。日本の縁起レイヤーの縦
糸は太子以来、十七色の縦糸を保持してる。
 


4.日本人の法感覚

日本人の法感覚の淵源はおそらく聖徳太子の十七条憲法にまでさか
のぼる。その感覚は何々が唯一絶対正しいというものではなくて、
価値観が建て増し型で多様性を持ち、よくよく皆で相談して決める
というもの。西洋のキリスト教的倫理観による絶対規範を基準にし
たものじゃない。

唯一神による絶対的規範がない社会やコミュニティである日本社会
で規範になったのは何かというと「穢れ」の意識。

日本社会には、法律という目に見える罰則とは別に「穢れ」という
目に見えない規範が存在する。

この「穢れ」という規範は、日本人のコミュニティに対する禊意識
と密接に関係している。その基本は他人との関係を調整するところ
の秩序維持。

「穢れた」というのは明文化された律法などの絶対基準によって判
定されるのではなくて、相手との関係を阻害した、いわゆる「和」
を乱したという行為によって判定される。絶対的ではなくて相対的
な判断基準。

「穢れた」人は、いったん「和」から離脱して、山に籠って禊をし
て、穢れを祓い終わった頃に再び「和」に復帰する。あくまでも「
和」の維持が第一の社会。
 


5.空気を読むという法意識

日本は個人の価値観と社会的規範、つまり「聖」と「俗」が分離し
ていない社会。

「聖」の部分は家庭内教育や伝統的価値観で形成されることが多い
から、縦糸がおもな役目。「俗」は社会規範、社会を治めていく規
範だから横糸が担う。

日本の縁起の糸は横糸から新しい色の糸が繋がってきても、そのま
ま縦糸の中に織り込んでしまう構造を持つから、最終的には「聖」
の縦糸も「俗」の横糸も同じ色合いのより糸になってしまう。もち
ろん鎖国の時期の長さによって縦糸・横糸の色の調整具合は異なる
。鎖国の時代が長ければ、縦糸も横糸もすっかり同じ十七色のより
糸になるし、短ければ十分に同じ色にならないこともある。

十七色の縦糸を持つということは、その場、その場の状況に合わせ
て、最適な色を選択して調和してゆけるということを意味している
。「聖」も「俗」も。

そこには絶対的な明文化された基準は存在しない。あるのは歴史の
中で道徳・倫理的に正しいだろうとされている、ありとあらゆる価
値観を建て増し構造で組み立てられた規範の群れ。

それら規範の群れの中から、その場その場に合わせて、議論の流れ
や正当性はどの辺にあるかを見極めながら、最適な色の価値観・規
範を持って対応するというのが日本人の法感覚。

規範そのものでさえも民主的に決定する、規範の民主化を社会的に
適用して運用している国民であるともいえる。十七条憲法の第十七
条が今も生きている。

その場の状況で最適な落とし所を探っていって、バランスを取って
ゆく感覚。絶対的基準なんて元からない。その場その場で規範の「
重心」を見てゆく。

ここで大切なのはどの規範を選択すべきなのかという問題。日本人
の価値観の建て増し構造で運用されている価値観群は、長い歴史の
中で残ってきて正しいとされているものだから、原則どれを選んで
も大して不都合は起こさない。ただ状況や場によっての最適解があ
ることはある。

いずれにせよ、その場に応じて価値観を選択できるのが日本人だと
いう感覚が基本。いわゆる「空気を読む」という行為。

だから日本人にとって民主制というのは、もともと「空気を読みな
がら」合意形成していたプロセスを目に見える形にしただけの、あ
る意味自然な行為なのかもしれない。

こういったその場その場で規範を相手との関係を見ながら柔軟に変
えてゆく法感覚は、外国人からみるととてもわかりにくいはず。

ある高名なイスラムの学者は、日本に長年滞在し研究した結果こう
述べた。「日本には目に見えない規範がある」

 

6.相互信頼性とは何か

相互信頼性とは、社会生活を成立させる要素、規範を互いに尊守す
るだろう、という暗黙の了解。

法律で定められた規範は目に見える形で、また同時に国内に広く普
及し運用されているものだから、人々は法律ぐらいは守るだろうと
いう了解がある。法律を犯せば罪に問われるのだから、普通はしな
い筈だ、と。

だけど、世の中は法律だけで成り立っているわけじゃない。

法律が想定していなかった出来事や、マナーに類することまで法律
は手を伸ばしていない。そこを統制するものは、インフォーマルな
規範。モラル。

フォーマルな規範は法律として明文化されるから誰にでも分かる形
になるけれど、インフォーマルな規範は個人の価値観に従って「戒
」となる。それらの「戒」は個人が自主的に定めるもの。だからそ
の「戒」を社会的モラルとして成立させる為には、そのモラルに対
する共通のコンテクストを持っていることが前提となる。

インフォーマルな規範は目に見えない。だから一見わからない、そ
れを認識する道具として、個々人のアイデンティティがある。普通
、一般の宗教・宗派なんかだと、教義というコンテクストが存在す
る。だからそれを元に相手のコンテクストは類推できる。

誰それはムスリムだから毎日お祈りするのは当たり前だ、とか、彼
は敬虔なクリスチャンだから、毎週教会にいくんだな、といった言
動に対する受け入れ準備が可能になる。

そうした細かいアイデンティティの確認と実際の社会生活でのすり
合わせを続けていくなかでだんだんとマナーレベルでのモラルが形
成されていく。それは結構時間がかかるもの。

たとえば、今の自由主義経済を成立させているルールは「契約の尊
守」だったりするのだけれど、これを宗教的な教義に置き換えると
「嘘をついてはならぬ」という教えになるだろう。

約束を守るとか、嘘をつくな、というのは、どんな宗教・道徳律で
も説いているから、これはどんな価値観でも共通なコンテクストに
なっている。無神論の国は別として。

だから、契約という考え方とその尊守という規範は、律法において
も戒においても世界共通のルールとして機能してる。「嘘をついて
はならぬ」という教えは、実は今の世界そのものを支えている。

社会の信頼性というものを考えたときに、インフォーマルな「戒」
の内容と明文化された「律」の内容が一致しているときにその「律
」に対する信頼性は高いものになる。

幾ら、「律」で縛っていても、その内容が「戒」からかけ離れてい
たら、ばれなきゃいいとか、つかまらなければオーケーだと考えて
その「律」を平気で犯しかねない。そこに信頼性はない。

だから社会における相互信頼性は「律」と「戒」の二つで形成され
るけれど、特に「戒」の部分、インフォーマルな規範の部分がどれ
だけしっかりしているかで決まってくる。


 
7.契約と均衡

今の社会で「契約」という考えはとても大きな意味を持つ。キリス
ト教圏でもイスラム教圏でも「神との契約」というインフォーマル
な「戒」が脈々と流れているから。

日本人からみれば、外人は契約にうるさいし、仕事でも契約したこ
としかやらなくて気が利かないって思うこともあるけれど、さもあ
りなん。「神との契約」が根本にあるから一字一句そのとおりにす
る。むしろそのとおりにしなければならない。気を利かせて余計な
ことまでやるなんてとんでもない。

日本人が持っている価値観の建て増し構造の中では、「契約」とい
う概念はあまりない。規範の絶対的基準がないのだから、契約すべ
き条項がそもそも存在しない。

なのになぜ、「契約」を基本とする近代民主主義経済活動が日本で
も成り立っているかといえば、社会の「和」を保ってゆくためには
必要最低限のモラル、特に約束を守るということが求められるから
。

日本には商売上の契約なんかにおいても「和」を保つというインフ
ォーマルな規範があって、それを具体化する上で、建て増し構造の
様々な価値観の中からその場に最適なものを取り出して適用してい
る。

だから「和」を保つためには、契約外のことまでその場の空気を読
み取ってサービスすることもあれば、必要とあれば、契約だけをし
っかり守ることで信頼を得たりもすることもできる。

では「和を保つ」という事こそが、明文化した規範であるかといえ
ば、そうでもない。

「和」とは絶対的な形があるものではなくて、相手や周囲との関係
のバランスを取って全体として調和して成り立つもの。その場その
場でつりあいのとれる均衡点に存在するもの。

それは、神と結んだ「契約」のように固定化したものではなくて、
いくらでも移動できるもの。

だから日本の社会における「戒」や法感覚には、やっぱり価値観が
建て増し構造になっていることが基本にあって、それが日本社会の
モラルを成立させる要素にもなっている。

自分が十七色の縦糸を持っているのと同じように相手も十七色の縦
糸があるはずだ、という前提があって、その上で相互信頼性を保っ
ている社会が日本。

だから、日本社会における相互信頼とは、国民全体を覆う社会的均
質性がないと成立しない。その均質性とは、もちろん建て増し構造
の価値観を皆が持っているということ。



8.相互信頼性を破壊するもの

開国して新しい価値観が入ってくるとき、その入り口から社会的均
質性は崩れてゆく。古くは仏教伝来、戦国期のキリスト教伝来の時
期、明治の開国から今の時期なんかはそう。縁起の織物の一部に違
う色の糸が入ってくる。

昨今、日本においても相互信頼が崩れているのではないかと思われ
る事件が多々起こっている。これらを縁起レイヤーの各層ごとに整
理してみると下記のようになると思う。


 思想レイヤー   :政治思想の対立、ブログ炎上など
 経済レイヤー   :偽装問題、年金問題、食品安全性問題等
 地域共同体レイヤー:少年凶悪犯罪など
 血縁レイヤー   :家庭内暴力・無理心中・自殺・幼児虐待等    


確かにこれだけをみると相互信頼性などないかのように見える。

これらの問題は全レイヤーで起こっているのだけれど、検討すべき
はこれらの問題が相互信頼性の崩れに起因するものかという事と、
その原因が没コミュニケーションによるものかどうかという事。

相互信頼性が崩れているかどうかは受け手側の行動で決まる。すな
わち縁起の糸で結ばれている相手からの通信を遮断したり拒絶した
りしているかどうか。

相互信頼が失われている状態というのは、自分の期待に対して、相
手はそれに応えることはないだろうという主観的判断。互いに互い
をあてにしていない状態。

だから、たとえば、経済レイヤーで起こっている偽装問題や安全性
の問題にしても、これらの問題自身は相互信頼を破壊するかもしれ
ない原因であって、相互信頼が破壊された結果じゃない。

昨今の毒餃子問題で中国産冷凍食品が一斉に敬遠されているけれど
、そういった自衛行動となって始めて中国産冷凍食品に対する信頼
性が崩れた結果となる。

思想レイヤーでのブログ炎上を取ってみても、炎上そのものは、炎
上ブログの管理者の社会に対する信頼性を失う原因になるかもしれ
ないけれど、本当に失ったかどうかは、本人がブログを閉鎖して、
新しいブログの開設すらしなくなったとか、ネットをやらなくなっ
た、といった具体的な遮断や拒絶、あるいは自衛行動に出たとき結
果として現れたことになる。 



9.縁起の糸の結び直し

相互信頼性が崩れた状態というのはいってみれば、縁起の糸が切れ
たりほどけているようなもの。糸が切られた対象は村八分みたいな
状態。

どこまで糸が切れたら相互信頼が崩壊したと判断するかは難しいの
だけど、そのレイヤーが機能しなくなるくらいまで相互信頼の喪失
による糸の切断がある、というのもひとつの目安。

どこまで機能しているかという観点から、日本のレイヤーを見てみ
ると各レイヤーそのものはまだ機能を保っている。

各レイヤーで起こっている問題は、日本の縁起の織物全体に及んで
いるわけじゃない。

上位レイヤーについていえば、偽装問題も食の安全問題についても
、建築基準法の改正が行われたし、賞味期限問題で散々叩かれた、
赤福なんかも箱に賞味期限を大書するなどして出直した。こうした
動きは切れかけた縁起の糸をもう一度結び直す修繕行為。

赤福の再販売時には、地方からもお客さんがわんさか押しかけて、
あっという間に完売したというから、赤福の縁起の糸はまた繋がり
つつあるのだろう。

また、毒餃子問題についていえば、中国産のみならず、原産国表記
義務のない冷凍食品が一斉に敬遠されて、冷凍食品は村八分。今は
それを扱うメーカーに対する信頼性が問われてる。

その一方、手作り餃子をみんな作るようになって、餃子の皮が一斉
に売り切れてしまったり、品質重視で国産だけを使っていたような
餃子専門店なんかは売り上げを伸ばしてる。

だから食の安全問題はどの縁起の糸が安全で、どの縁起の糸がそう
でないか、より分けている段階。信頼できるものと出来ないものの
判別と選定が行われてる。

縁起の糸はたとえ一度切れたとしても、切れた原因に対してきちん
と対策することで、また結びなおすことが出来る。

その意味で対策が不十分ではないか、と皆が思っているのは、たぶ
ん年金問題。社保庁の不祥事は国への信頼を失う原因となった。そ
れだけが原因ではないけれど、中には年金不払いという「自衛」行
動に出ている人もいる。ただ、皆が皆そうしている訳ではないから
、年金の縁起の糸は全て切断されたわけじゃない。対策を本当にき
ちんとすることで、また切れた糸を結びなおすチャンスは十分にあ
る。
 


10.下位レイヤーの大切さ

本当に注意しないといけないのは下位レイヤーの状態。地域共同体
・知人レイヤーと血縁レイヤーがしっかりしているかどうか。

この下位レイヤーがほどけることは、国の歴史や民族のアイデンテ
ィティの喪失を意味する。上位レイヤーは、国家だとか会社だとか
思想だとか抽象性・汎用性の高いものだけれど、下位レイヤーは、
個人の生活そのものに根ざした個別的・具体的なもの。だからこの
下位レイヤーに流れているものほど、アイデンティティの土台とな
りやすい。生活に根ざした風習や文化なんかはそう。普段意識なん
かしないほど、いつも触れているもの。

日本は上位レイヤーで輸入した思想を巧みに織り込んで十七色のよ
り糸を紡いできたけれど、その十七色のより糸は長い時間をかけて
下位レイヤーに浸透してゆく。縦糸で流れるものは国の歴史や民族
のアイデンティティ。下位レイヤーはとても個人的属性が強い、生
活に土着したものだから、いったん下位レイヤーにまで浸透した情
報は上位レイヤーの状態に関わらず長く保持される。

故郷を失ったユダヤの民は2000年の長きに渡って、ユダヤ人と
してのアイデンティティを失わなかった。上位レイヤーである国が
なかったにも関わらず。

だから、下位レイヤーの、中でも縦糸の強靭さは民族的アイデンテ
ィティに大きな影響を与える。

その意味では、日本の下位レイヤーもひとつの危機を迎えていると
いえる。

少年凶悪犯罪や幼児虐待や自殺は社会の抑圧や閉塞感を表している
と良く言われるけれど、閉塞状況なんて昔も今もどこかしらでは存
在するもの。鎖国の時期は文字どおり国ごと閉塞状態にしていた。

だから、抑圧されたり閉塞したから、これらの問題が起きたという
よりは、抑圧や閉塞を自己解決できなかった結果として起こったと
みるべき。ひらたくいえば、悩みを解決できなかったということ。

悩みっていうのは、要はどうすればいいか分からない状態のこと。
出口が見えないことだけど、悩みの解決には、大きく分けて二つあ
る。

ひとつは金で解決する方法ともうひとつは智慧を借りてくるという
方法。
 


11.智慧とお金

お金の威力ってけっこう凄い。たいていの悩みなんて、お金があれ
ば解決できることがほとんど。なぜかといえばお金は価値を貨幣換
算して詰め込んだものだから。貨幣価値は別の価値に容易に転換で
きるから問題解決の力を持っている。


お金は「時間」を買える。

お金は「空間」を買える。

お金は「労力」を買える。

お金は「情報」を買える。

お金は「モノ」を買える。


生活上の悩みの大半って子育ての時間がないとか、勉強部屋が欲し
いとか、家事労働が大変とか、収入が少ないとかいったもの。お金
さえありさえすれば殆ど解決できたりする。それだけの余裕があれ
ば済む話。

だけど、そんなにお金に余裕のある人なんてそんなにいないから、
悩みの解決には「智慧」を借りてくるしかない。

自分の頭ではどうしても解決の糸口が見つからないことって良くあ
るけれど、経験のある人にとっては案外簡単に解決できたりするも
の。

自分ではどう頑張っても智慧が出なかったとしても、人様の智慧を
「借りて」くればいい。

智慧の借り賃ってとても安い。しかもお金を支払わなくてもいい。
支払うのは感謝。智慧って布施の商品の典型的なもの。

問題解決のための智慧を借りてくる条件として、大切なことが二つ
ある。

ひとつは縁の糸を縦横無尽に張り巡らせて、いろんな人の智慧にア
クセスできる縁があること。もうひとつは智慧を貸してあげてもい
いよと思わせる人柄と普段のつきあいがあること。

何かにつけてマメにコミュニケーションをとっていて、していただ
いたことに感謝できて、それを行動に表せるような人こそ助けてあ
げたいと思うのが人情。



12.コミュニケーションで得られるもの

コミニュケーションで得られるものは、相互理解。相互信頼はその
先の話。

確かに理解の度合いが進めば進むほど信頼感が増すのは確か。だけ
どそれは、相手のアイデンティティや考え方に筋が通っていて、自
分がそれを許容できる場合。

たとえば、なにかの事情で生活苦に喘ぎ、何度か窃盗かなにかで捕
まった経験がある人がいたする。そんな人とコミュニケーションを
した場合を考えてみると、たとえその人の事情は理解できたとして
も、自分の家の鍵はしっかりかける筈。

また、話すたびに内容がころころ変わって一貫しない人とはどんな
にコミュニケーションをしたとしても信頼度は低い。

だけどそれでも、コミュニケーションをすることで、相手の事情を
理解することはできるし、考え方の傾向や性格なんかを知ることは
できる。

だから、コミュニケーションによって縁起の糸が繋がっていって、
相互理解が出来れば出来るほど、それだけ智慧の貸し借りができる
関係になる可能性は大きくなる。

こういう問題だったら、あの人なら良い智慧を貸してくれそうだ、
といった具合に縁起の糸を芋づる式に辿っていって、智慧の在り処
に到着することができる。

そういった智慧の貸し借りと感謝の対価を払うことを繰り返すこと
で、理解は信頼にまで高まってゆく。人の恩義を裏切るのはなかな
か難しいもの、恩義にはなにかで報いようと考えるのが普通。そう
であってこそ「和」は保たれるし、地域共同体の一員として受け入
れられる。

地域共同体や血縁レイヤーがしっかり機能していると、個人の問題
解決の助けになるのは確かなこと。

下位レイヤーが活性化して、常に相互の通信が行われている状態で
あれば、相手が何かの問題を抱えてして悩んでいたとしても、その
変化をいち早くキャッチできる。問題の初動で対処できる。

問題が大きくなってからでは、どうにもならない場合もあるから、
下位レイヤーの活性化は、なにかの問題が社会問題化する前段階で
治療してしまうといった予防的効果があるといえる。
 


13.十八色目の糸

相互信頼性が高いというのは、相手の行動や言動を信じて(予測し
て)行動しても不都合が起きないということ。西洋は契約という考
えでそれを担保しているけれど、日本は自分も他人も日本的価値観
構造を持っているが故に、最適な選択をするであろう、という前提
で相互信頼が成り立っている。

日本におけるコミュニケーションは単に相互理解という意味だけで
はなく、その場に応じて最適な色を適用して対応できるかという値
踏みを行っている面もある。この人は空気が読める人かどうかを確
認してる。でないと同じ十七色の糸が流れているか分からなくて、
安心できない。

日本人同士では、たとえばアメリカのように連邦憲章に従うが個人
の価値観は別だ、というように、縦糸と横糸の色が違って当たり前
という前提はない。自分も相手も同じ十七色の糸だと思ってる。

日本の縦糸は長い時間をかけて他国の価値観を横糸から折り込んで
いったけれど、今のような開国の時期になると、どうしてもいろん
な原色の横糸が入ってくることは避けられない。

だから同じ日本人であっても、さまざまな価値観や考えの影響をう
けて、考え方の幅が広がってくる。価値観の多様化といえばそれま
でだけど、日本の縁起の織物の先端は、色がぐちゃぐちゃになって
いて、必ずしも調和されてはいない。

過去の日本は開国したあとで鎖国して、取り入れた色を馴染ませて
、縦糸におりこんでゆく期間を設けていた。

だから不調和な色の織物を調和させ再構築するのであれば、十八色
目の糸を織り込んでゆく時間、つまり、更なる価値観の建て増しの
期間の確保とそれを受け入れてこれまでどおり適用できるかの見極
めが大切なポイントになる。



14.現代の開国の問題

これまでの実績から見る限り、日本はその十八色目の糸を巧みに縦
糸に織り込んで、新しい考えとして建て増ししてゆくであろうと予
想されるのだけれど、当時と今とで違っている点がある。

ひとつは、グローバル化が進んだことで、新しい価値観の普及およ
び均質化のための鎖国、価値観においての鎖国をすることが非常に
難しいということ。

純粋な意味での鎖国をする為には、自国内で完結した自給自足が完
備していないといけないし、他国から攻められないだけの武力も持
っていなくちゃいけないから、現代社会ではすでに非現実的な話。

であれば、せめて価値観だけは鎖国できないかと試みたとしても、
制約は一杯ある。

価値観の鎖国をするということは、他国文化や思想を受け入れない
という事。邦人の海外渡航は厳しく制限されるし、輸入品も検閲し
ないといけない。それこそ外国との接点は出島でも作って制約する
しかない。やっぱり今の世界ではナンセンスな話。

もうひとつは、日本国民の多くが上位レイヤーで活動するに伴って
、世界と沢山の繋がりができて、世界の考えやその影響をダイレク
トに受信するようになってきたこと。もっと言えば親密な友人関係
をつくって、下位レイヤーレベルで海外と繋がる人も多くなってき
ている。

昔は、海外との接点は上位レイヤーが殆どだった。そこで活動する
人々だけが漢書や洋書を輸入して学んだり、珍しい舶来物を見ては
、新しい価値観に触れることができた。当時は今ほど上位レイヤー
で活動できた人はいなかったし、海外の事物に直接触れることが出
来た人はもっと少なかった。それは、縁起の織物に織り込んでゆく
糸そのものが比較的少量で済み、織り込むレイヤーも上位レイヤー
に限られていたことを意味してる。

だからこれまでの開国と鎖国の繰り返しによる新しい価値観の吸収
には段階があった。上位レイヤーの変化と下位レイヤーの変化には
時間的ズレがあって、鎖国してからゆっくりと下位レイヤーに浸透
させてゆけるだけの時間的余裕があった。日本の風土や伝統に馴染
まない価値観は、下位レイヤーへ浸透させる間に少しずつ修正して
いけばよかった。

価値観の鎖国がうまくいかないと、日本の「和」の社会は、その「
和」を作ってゆく時間が持てなくて崩れてゆくし、上位レイヤーで
活動する人がほぼ国民全員に近いほど多くなると価値観のズレや混
乱は加速してゆく。

 

15.普遍的価値

今や世界各国の上位レイヤー同士では、物凄い量の相互通信が行わ
れている。もちろんグローバル社会になってきたから。

今の世界では、膨大な通信の中にあって、その内容をその都度咀嚼
できないと価値観の消化不良を起こしてしまう。

そんな文明・文化のコスモポリタンの中に長くいると、相反する価
値観の間で社会の混乱を招くことがある。そんなとき往々にして起
こるのは、半ば強権的に「これが正しいのだ」と規定して皆がそれ
に従ってしまうこと。

価値観の通信遮断ができない現代社会にあって、十七色の縦糸を持
つ日本が今後も同じように新しい色を織り込んでいけるかどうかは
分からない。

特に世界で普遍的価値として通用している価値観と対峙したときに
それに飲み込まれてしまわないかという問題がある。

これまでに作り上げてきた日本的価値観そのものが、世界という視
点からみて、普遍性を持ちえるかどうかの洗礼を受けることになる
。

日本的考えの中にはとても優れたものがあり、世界に発信すべきも
のが数多くあると思うけれど、日本文化が世界中に広く発信される
ようになったのはごくごく最近の話。

これまでの歴史上、日本が開国して、上位レイヤーを他国と接続し
た時期があるといっても受信専門が中心。積極的に発信までしてこ
なかった。

今の開国は受信もするけれど発信もする双方向の情報通信。だから
発信した日本文化に対する反応が返ってきて漸くその価値は明らか
になる。

日本の「共生の思想」を世界標準にしようとして、いのちを大切さ
を訴えたとしても、アラブ人に砂漠を指差され『何処に命があると
いうのだ』と嗤われたときに私たちは返す言葉を持ち合わせている
のだろうか。

また、縁起レイヤーの双方向通信では、自分は相手に影響を与える
と同時にまた、自分も相手の影響を受ける。

今のように上位レイヤーを常時開放し続けて、国民の殆どが上位レ
イヤーで活動できている状態では、特に互いの影響度合いとそれに
よる変化は大きくなる。

日本文化を世界に発信していくことで、確かにその影響は現れてく
るのだろうけれど、下手をするとその結果がでる前に、日本的価値
観がグローバル価値観に飲み込まれて消えてしまう可能性だってあ
る。

鎖国して文明文化をじっくり熟成する期間が持てないまま開国を続
けていると、世界的普遍性を持つ考えに飲み込まれてしまうかもし
れないことも見据えておかないといけない。それが良いか悪いかは
別として。

日本的価値観の構造を世界レベルに飛躍させるためには、本当の意
味においては、全世界の思想を束ねてしまえるくらいの巨大な建造
物が必要なのだけど、その前に日本の価値観の建築物のどの素材が
世界レベルで理解されるのか、どれが今後も使っていけるのかの見
極めが必要になってくる。

それには、まず、個々人が日本とは何かということを、世界の目か
ら見て考えてみることも必要なのだと思う。


(了) 


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