2899.意味論の研究が行われないわけ



意味論の研究が行われないわけ
From得丸公明

鈴木先生の会での僕の質問は「次からはもっとおもしろい質問にし
なさい」と友達にしかられました。まだまだですね。
反省もこめて今朝思いうかんだことを書きます。

二次会で、鈴木先生が、国語審議会をおやめになるときの話が出ま
したが、「勲章を欲しがるのは子供と軍人だけ」という芥川の言葉
を思い出して、いりませんときっぱりと断られたところは、さすが
に鈴木先生であると思います。

で、これこそが究極の意味論ではないでしょうか。

人に意味づけされないと落ち着かないのが現代人、
だからブランド品を買ったりして、カタログ雑誌をいらいらとめくる。
人並み?の消費生活を送ることで自分の人生に意味を求める。
国家に勲章をもらうことで、意味があったという錯覚にひたるのと同様に。
でも、これはまったくむなしくて、、、
どんなにたくさん消費しても、落ち着かない、自分の心の中はさびしいまま。
そこが国家と産業の狙い目なのです。
国民が自分で自分の意味を見出して、満ち足りた生活を送られては困る。

意味は、自分の中に体験を作り出すこと、これが鈴木先生の意味論であり、
自分で体験して獲得したもの以外は、意味がない。
これはひとつの悟りであり、天上天下唯我独尊の境地。

だから鈴木先生の言語学は、国家や消費社会の狙いとは、真っ向から対立するの
かもしれません。

消費社会でおとなしく消費を続ける消費者、
消費の欲求に踊らされて、ひたすら買うことで人生の意味を錯覚し続ける、
羊のように制度に従順で、野獣のようにモノにむらがる、
エコノミック・アニマルになって生きるか、
ひとりで淡々と生きていてそれだけで満ち足りる鈴木教信者になるか、

言語学は、人生の意味をも決定づけるものすごい学問なのかもしれません。
だから、あれもやっちゃだめ、これもやることはならぬ、という束縛ばかりなの
でしょう。
鈴木言語学というのは、国家の思惑や締め付けからも自由な、孤高の言語学。
たくさんの学者が追随すればいいのに。

得丸公明

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人はなぜ人を殺してはいけないのか

皆様、
かつて小浜逸郎の「なぜ人を殺してはいけないのか」という本をと
りあげたことがあります。
そのとき、私はまだ本覚(=野生動物の時代の本能)理論を知らなかっ
たのですが、今ならこの問いにこう答えるでしょう。

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人はなぜ人を殺してはいけないのか

人が人を殺してよいのは、殺人が合法であるのは、犯罪者を死刑に
するときや、戦争で敵の兵隊を殺すときです。これは文明的な枠組
みの中で、殺人が正当化されているということです。

人類は、およそ10万年前に、南アフリカのクラシーズ河口洞窟に住
んでいました。(13万年前から6万年前の居住跡が確認されている)

おそらく、この時代に、洞窟生活によって、真社会性(つまりアリ
やミツバチのような階級社会を作る性質)となり、毛皮を失ってハ
ダカになり、さらに、音声言語を身につけました。これが文明の始
まりです。

文明とは、ハダカだから、自然の中では生きていけないので、洞窟
のようなシェルターを作って、その中で生活をすることを基本にし
ています。狭い、空間的な制約の中で、さまざまな掟が生まれ、仲
間意識・同族意識と余所者いじめ・攻撃が始まったと考えられます。

同じ種に属する動物を殺す、同族で殺しあうのは、人間と、ハダカ
デバネズミくらいでは。
(ハダカデバネズミは同族でも匂いが違うと殺してしまいます。上
野動物園できいた話)

どちらも洞窟で暮らす生き物です。(人間の家やビルは、人工に作
った洞窟です)

つまり、洞窟の文明生活が人類に殺人を強制するようになった。狭
いところで生き延びるには、統制が必要であり、個体数の制約もあ
ります。
たぶん、イジメも洞窟時代に身についた文化でしょう。

でも、文明を始める以前の本来は、人類も野生の動物(サル、猿人
)だったわけです。

その当時の人類は、仲間を殺すなんてことはしていなかったと思わ
れます。

つまり、我々が人を殺すようになったのは、文明生活の中で身に付
けたことでしかなく、それはある意味、文明の原罪なのです。

人間が本来持っている野生の本能の中には、人を殺すという欲望も
強制もありません。

だから、自然に生きようと思えば、人を殺してはいけないのです。
いくら戦争や死刑が合法的な殺人であっても、それが気持ちよく受
け入れられないのは、それらが文明という人間にのみ通用するもの
でしかないからではないでしょうか。

得丸公明
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もののあはれの定義:「物の哀れ=自由x純粋x今x自然」
From得丸公明    

昨年の本居宣長以来、もののあはれの定義を試みています。

「物の哀れ=自由x純粋x今x自然」というのはどうでしょう。

実は、昨年11月から短歌にちょっと興味をもったのだけど、いったいどうやっ
て勉強すればいいのかがわからなかったので、とりあえず片っ端から、只で投稿
できるところに投稿してみました。いわゆる「下手な鉄砲も数打ちゃ当たるか
な」というやり方です。

その結果として、宇多津町の平成相聞歌に、「枕辺の着信灯をわが身よりあくが
れいづる魂と見よかし」が入選したことはすでに報告しました。

その後、現在発売中の四月号の角川短歌では題詠「交差点」のところで、「交差
点日当たりのよいところだねも少しここに立つてゐやうか」 が選ばれました。
(p211、です。立ち読み用)
(誌上「ゐようか」となっているのは私の投稿時のおくりがなの誤りだと思う)

また、やはり現在発売中のNHK短歌四月号の高野公彦選課題「破る」の佳作の
ところに小さく、「文明をやがて自然に返さむと舗装破りて野草芽吹けり」が選
ばれています。
(p82だったかな。立ち読みしかしてないので、記憶に頼ってる)

もののあはれとは、「自由(自発的, spontaneous)、純粋(pure、他念なし)、今
(now, this moment)、自然(反文明, 反経済、反産業、反利潤、natural,
anti-civilization, non-artificial、uninstitutional)」。

とくに文明のにおいをできるだけ払拭したいと思っています。

携帯電話も、電話機という文明の利器してよりも、それ単体で見るならばまるで
命をもっている蛍のようではないかというところがミソ。

交差点も、車が曲がるところ・停まるところというよりも広い空間が目に付き、
太陽からの直接の日差しとして体に語りかけてきたのでした。

こう考えてみると、上の3つの歌は、どれもまだ稚拙な素人の投稿にすぎないけ
れども、自由・純粋・今・自然という、私の定義するもののあはれの条件は満た
しているかなと思うのです。

得丸公明




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