2894.意味論の研究が行われないわけ



意味論の研究が行われないわけ
From得丸公明

皆様、

地球環境問題にかかわって以来、言語学、とくに鈴木先生の意味論
にはいろいろと教えていただいています。
実は、環境省の役人も、環境NGOも、国連環境計画の職員も、「地球
環境問題」という言葉の意味を知らないのです。
地球規模で起きていることは、体験しようがないので自分の意識の
上に意味が構築されない。
意味をわかりようがないのです。地球環境問題は、食べたことのな
い異国の料理、たとえばセネガル料理のシェブジェンと同じくらい
、誰にとっても縁遠いのです。

その意味の壁を乗り越えたとき、人間は深い絶望に打ちひしがれます。
絶対の絶対の絶望。もう何をやってもよくならない。10万年の人類文
明の帰結。

恣意性の問題だけでなく、意味論としても、鈴木先生の研究成果に
は学ぶところ大きいですね。
------------------------------------------------------------
意味論の研究が行われないわけ

夕べの鈴木先生の会での僕の質問は「次からはもっとおもしろい質
問にしなさい」
とダケちゃん(ミクシー友達)にしかられました。まだまだですね。
反省もこめて今朝思いうかんだことを書きます。

二次会で、鈴木先生が、国語審議会をおやめになるときの話が出ま
したが、「勲章を欲しがるのは子供と軍人だけ」という芥川の言葉
を思い出して、いりませんときっぱりと断られたところは、さすが
に鈴木先生であると思います。

で、これこそが究極の意味論ではないでしょうか。

人に意味づけされないと落ち着かないのが現代人、
だからブランド品を買ったりして、カタログ雑誌をいらいらとめくる。
人並み?の消費生活を送ることで自分の人生に意味を求める。
国家に勲章をもらうことで、意味があったという錯覚にひたるのと
同様に。
でも、これはまったくむなしくて、、、
どんなにたくさん消費しても、落ち着かない、自分の心の中はさびしいまま。
そこが国家と産業の狙い目なのです。
国民が自分で自分の意味を見出して、満ち足りた生活を送られては困る。

意味は、自分の中に体験を作り出すこと、これが鈴木先生の意味論であり、
自分で体験して獲得したもの以外は、意味がない。
これはひとつの悟りであり、天上天下唯我独尊の境地。

だから鈴木先生の言語学は、国家や消費社会の狙いとは、真っ向から対立するの
かもしれません。

消費社会でおとなしく消費を続ける消費者、
消費の欲求に踊らされて、ひたすら買うことで人生の意味を錯覚し続ける、
羊のように制度に従順で、野獣のようにモノにむらがる、
エコノミック・アニマルになって生きるか、
ひとりで淡々と生きていてそれだけで満ち足りる鈴木教信者になるか、

言語学は、人生の意味をも決定づけるものすごい学問なのかもしれません。
だから、あれもやっちゃだめ、これもやることはならぬ、という束縛ばかりなの
でしょう。
鈴木言語学というのは、国家の思惑や締め付けからも自由な、孤高の言語学。
たくさんの学者が追随すればいいのに。

得丸公明
------------------------------------------------------------------------
3月26日に、詩の朗読会が開かれます(ご案内)
3月2日の「三鷹天命反転住宅で山本陽子の詩を朗読する」企画に対するご支援
ありがとうございました。

おかげさまで参加者13名、二次会参加者9名という盛況ぶりでした。参加して
くださったかた、本当にありがとうございました。

山本陽子の処女詩である「神の孔は深淵の穴」(1966年)は、30字×500行も
あり、読み通すのに80分もかかりました。

また、代表作である「遥るかする、するするながら■」(1970年)を再び読み返し
てみて、「神の孔、、、」の延長にきちんと位置づけられていることがわかりま
した。

当日は、山本陽子と同世代の詩人(本物の詩人)である田川紀久雄さんと坂井の
ぶこさんが、きてくださり、二次会にも参加してくださいました。二次会では、
坂井さんのアカペラで「朝日のあたる家」を聞かせてもらったり、田川さんと坂
井さんの掛け合わせで「雨ニモ負ケズ」を聞かせていただいたり、本物の詩人の
迫力も味わうことができました。

田川さんは、昨年末期がんを宣告されたのですが、あえて手術を受けずに、最低
限の治療と詩の朗読を続けることで延命されておられます。

その田川さんと坂井さんが今月26日に、詩の朗読会を開くというお知らせがあ
りましたので、ご連絡いたします。ご興味のあるかた、ぜひご参加ください。価
値あります。もちろん私も参加します。

田川さんはさきごろ亡くなられた釜が崎の詩人東淵修さんの偲んで、彼と京都で
一緒におこなったとき語った『新・伊勢物語』を語るそうです。

坂井のぶこさんは第一詩集『のぶこ』を語るそうです。山本陽子の処女詩に触発
されたのかもしれません。

最後に田川さんのブログ日記を載せます。ご病気のこと、山本陽子のこと、そし
て私の朗読会のことにも、わずかですが触れてくださってます。
http://rokurin-syoboo.cocolog-nifty.com/sigatari/

得丸公明

☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆
詩人の日記から

2008年3月16日 (日)

現代の病気は、ほとんど生活習慣病ではなかろうか。生活習慣病は、本当のとこ
ろ医師では治せない病気なのだ。治せるのは本人の自然治癒力である。私が、手
術を拒否したのは、胃を摘出することで、癌が治るという保障はどこにもないか
らだ。胃を摘出すれば、それだけ体力が衰える。まして腹から搾り出す詩語りで
は、胃を切ることは、語りの仕事を中止することを意味する。病院で感じること
は、医師だけに任せていると、癌患者は、ほとんど体力が弱っていき、最期は点
滴やいろんな管を繋がれて死を迎えることになる。
末期癌になった私は最低の治療を受けて、後は自然治癒力を付ける生き方をする
しかない。死を見つめて生きる生き方は、本当に人間らしい生き方なのだ。その
生を見つめる力を失わせるのが、今の医学の治療なのではなかろうか。何でも病
院に任せる生き方は、本来の人間の生き方に逆らった方向でもあると思える。
普段から、どう生きていくのかを考える習慣や環境の整っていない日本では、社
会の漠然たる流れに巻き込まれてしまっている。自分がどう生きて、どう死んで
いくのかを考える社会を生み出していけば、現在の医療費も軽減されていくので
はなかろうか。すぐ、身体がおかしいと病院にいく。病気は、自分が治すのだろ
うという気力が少ない。病院に行けば、病気はすぐ治ると思っている。若いとき
はそれで住むが、高齢になればそうは行かない。病院に行くことによって、本当
に身体が動かない人間になってしまう。病院で点滴を行って何ヶ月も寝たきれで
いれば、もうその人はもとの身体には戻ることができない。そして自己を考える
力も失せて、寝たきりの老人になってしまう。
現在末期癌になっても、それほど苦しむことのない生活を送れる。モルヒネで安
全に痛みをとれるからだ。今の私は、末期癌であったにも係わらず、元気に生き
ている。それは生きようとする自分の生命力があるからだろう。末期癌でも、進
行の癌でなければ、何も怖れることがない。楽しく人生を生きることを目指して
いれば、癌の方から逃げ出していくのだと思う。死ぬ時は、それhが寿命なのだ
と、思って諦めればよいことなのだ。今の医学はしの人の寿命を拒む方向にあ
る。だから医療費が無限にかかる仕組みになっている。自分の寿命と向き合う生
き方を学ぶことが体大切なのである。
今日は、天気がよかから三浦海岸まで行ってみようと思っている。河津桜がある
という。


2008年3月15日 (土)
10時ごろ病院から帰宅する。
病院でのこと。
医師が患者に治療の方針を何も話してくれないうと隣のベットの人が看護婦長に
強く抗議をしていた。確かに医師は話べたの人が多い。だからと言って何も話さ
ないでいるのはよくない。医師は話したつもりでいても、患者にその話が伝わっ
ていないのだ。話の内容を確認する作業を怠っているとしか思えない。
私と同じことに入院した患者が(彼も癌である)、再度入院している。食事も取
れず点滴の日々であるという。辛そうであった。何人かの癌患者が亡くなってい
くのを見ていると、心が苦しくなる。
帰ってみると、井原修さんから信州日報が送られてきた。『新・裏町文庫閑話』
で「詩語りに命を託す」が書かれてあった。感謝。(略)

今私の生命力を高めれくれるのは、ライブのお客さまである。そのお客を集める
のがなかなか大変だ。
そろそろ案内状を送らねばと思っている。今度は私は東淵修さんの偲んで彼と京
都で一緒におこなったとき語った『新・伊勢物語』を語る予定です。坂井のぶこ
さんは第一詩集『のぶこ』を語る。生まれてはじめて『のぶこ』を語るのではな
いかと思われる。この中の作品で「詩と思想」の新人賞を受ける。聴いてみる価
値がありますよ。ライブは三月二十六日東京ユマニテで行います。ご連絡頂けれ
ば案内状をお送り致します。

2008年3月14日 (金)
今日は一日入院日である。
花粉症にかかってしまっている。鼻血が三週間も続いている。今まで花粉症に
なったことはなかった。これはやはり抗癌剤のせいなのかも知れない。体力が
弱っている証拠なのだろう。寝ていても鼻が詰まって、ぐっすり睡眠が出来ない。
今年はメジロが増えているような気がする。私が小学生の頃は、山に行って鳥も
ちで小鳥を捕まえて飼ったことがある。今では小鳥を捕ることが禁じられている
から、子供達は小鳥を飼うことが少なくなっている。野生の小鳥を飼うのは難し
い。まず鳥かごを暗くして育てねばならない。特に雀はなかなかうまく飼えな
い。最近紅雀を見なくなった。自然と一緒に遊んでいると、いろんなことが学べ
る。それが人生の経験として生かされる。
川崎の南高の跡地は、小さな森を作ることだと思う。実のなる木を植えたりすれ
ば、小鳥達も集まってくる。このところ鳶の姿をよく見るようになった。扇島
(火力発電所)に植林をしたことが鳶を寄せ付けたのかもしれない。小さな森を
作れば、臨海工業地帯にも自然を感じられてくる。自然の中で生きれば、人の心
も豊かになる。豊かになれば、相手を思う心が生まれてくる。JFEバス停の横
の公園にも、いろんな小鳥があつまる。公孫樹や欅やその他の木が植えられてあ
る。それにここには人がほとんど来ない。小鳥の楽園でもある。雀が群れをなし
て集まる。その雀を見ているたけでも楽しい。雀は一番警戒心の強い小鳥だ。そ
してキジバトの夫婦が時々きて餌を探している。
先週河津桜を松田まで見に行こうと思っていたが、あいにく雨になって行けな
かった。今度の日曜日には三浦海岸に河津桜を見に行こうと思っている。城ヶ島
も近い。春を感じにゆきたい。自然を写真で撮ることも学たい。楽しく生ること
が癌患者には大切なことなのだから。

交通費もそれほどないから、あまり遠くにはいけない。詩語りの出前がなけれ
ば、遠距離はできない。いま姥ヶ森には早咲きの桜が満開だ。たった一本でも美
しい。

2008年3月13日 (木)
今という状況を掴むのは難しいものだ。この日本は何処へ向かって動いているの
かなかなかつかめない。豊かな中流市民も崩れてきている。アメリカのように富
めるものと貧しきものが増えて来ている。それだけアメリカが深く日本の政治や
経済に深く関わりあっていることを思い知らされる。役所でも貧しきものへの思
いやりが消えている。予算がないからなるべき生活保護を受けさせないようにし
ている。私が生活保護を申請しても受け入れてはくれない。何のためにお市民相
談課があるのだろう。
思いやりのある行政は、何処へ行ってしまったのだろうか。年金の問題にしても
しかりである。25年以上支払っていなければ、受けられないとそっけなく言わ
れてしまう。
詩人は、昔から貧乏が当たり前であった。しかし、私の周囲を見渡しても、それ
ほどの貧乏人は見当たらない。しかし不思議なことに、本当に生活に困っている
人が、操車場を応援してくれているのだ。これには頭が下がる。それに対して、
私は何も彼らにしてやれないでいる。そのことがとても悲しい。明日また一日入
院だ。それにはそれなりのお金がかかる。抗癌剤の治療をやめることは出来な
い。CTや胃カメラの検査を定期的に検査をおこなわなければならないからだ。
病院との関係を断ち切るわけにはいかない。末期癌の悲しみだ。今、抗癌剤の治
療は良好なのである。それほどの副作用もない。手の痺れや口内炎は仕方がな
い。そして毎日声をあげる中で今の身体の状態を維持してゆきたい。そうすれば
天童大人氏の企画する『詩人の肉声を聴く』に参加していけるからだ。操車場の
会員の中にも認知症に人を抱えて日々闘っている人もいる。そして夫が癌にかか
り治療を続けている人もいる。日々不安を抱えて生きている人がいかに多いか思
い知らされる。それなのに行政は、認知症や癌患者のケアにはほとんど手を貸そ
うとしないでいる。予算がないからだ。国は赤字を抱えているのだ。とまるで錦
の旗を抱えたような言い方だ。こんなにまで赤字国家を作り上げてきたのは政管
の癒着ではなかったのか。あまりにも余計な法人が多すぎる。貧しき者への視線
を忘れた政治家は、国民の恥でもある。思いやりのある政治がいつ生まれてくる
のだろう。それには国民一人ひとりの力が必要なのだ。そのためには学校教育を
見直す必要がある。企業のための教育ではなく、人への思いやるある教育を生み
出さなくてはならない。

2008年3月12日 (水)
癌は、病気と闘うことではなく、人間として最期まで生き抜く闘いでもある。病
院入院していても医師との会話がほとんどない。別に精神課でないのだから、医
師は患者にそれほど心をひらかなくても良いと思っているのかもしれない。患者
は、看護婦との会話より、医師との会話を望んでいるのだ。それなのに30秒ほ
どで終わってしまう。
最期まで人間として生きるとは、どのようなことなのか。言葉としては解るよう
な気がするが、実態としてどうすればよいのかわからないのが現状ではなかろう
か。時間の密度を高めること。そういわれても普通の人にはどうすれば深い密度
のある時間を得ることが出来るのだろうか。入院していると、無為な時間をほと
んどの人は過ごしている。テレビを観るか、寝ている状態がほとんどだ。読書に
耽っている人などほとんどいない。川崎は、労働者が多いからそうなのだろう
か。病院では、詩語りの稽古などできない。まず大声を出すことが禁じられてい
る。人間として生きるなら、自宅で生きる以外ない。私は一回でも多くの詩語り
を行いたい。しかし、現実には、出前の仕事はだんだんなくなってくる。自前で
企画して行えば、お客は集まらない。語りの希望も消えかけていく。でも私は自
分の詩語りをよりよいものにしたいと懸命に稽古に励んで生きている。誰も聞か
なくても、自分なりに満足する語りの世界を築きあげたい。そのことが密度のな
る時間を生み出している。そきに私なりの生き甲斐を求めている。
シューベルトのピアノ三重奏第二番を聴く。トリオ・フィンネの演奏は、削られ
てある楽譜が演奏されている。当事の出版社が、長いからといって削ってしまっ
たのだ。トリオ・フィンネの演奏は瑞瑞しい。
ショパンのピアノソナタ全曲をダン・タイ・ソンで聴く。今まで聞いた中では一
番良かった気がする。
音楽を聴くことは、こんなにも素晴らしいことかと痛感する。密度のある時間を
得ることが出来た。それにしても、ラジカセより、いいスピーカーが欲しい。
密度のある時間を作ることは、納得のゆく時間を作りあげていくことである。こ
の世に生まれてきた歓びを感じる時間を持つことが一番大切なのである。

2008年3月 7日 (金)
日本人は、日記を付ける人が好きだ。最近は、日記の変わりにメールを使う習慣
に若者達は変化しているのではなかろうか。私はほとんどメールを使わない。そ
れは人の心を縛る恐れがあるからだ。電車などで見る光景は、メールばかり気に
している人たちである。
癌に罹ってから、日記を付ける人が多いのは、それなりの理由があるし、意味も
ある。まず自分を見つめ直すのに役立つからだ。そして自分の心を癒す働きもあ
る。通常の状態で日記を付けるのとは、わけが違う。また、癌患者の日記を読む
ことで、他の癌患者に生きる勇気づけを与えることもできる。私も他の人の闘病
日記を読んで、いかに生きる勇気をもらったことか。とくに抗癌剤の治療を続け
て不安になっている時など、とても参考になる文章に出会うことがある。癌は生
活習慣病が原因であるといわれている。それならべつに手術を受けなくても直せ
るのではないかと思う。用はいままでの生活習慣を変えればよいのだ。ただそれ
だけでも、癌は小さくなる。まず無理をしない生き方をする。そして人生を楽し
く生きることである。楽しく生きることは、それなりに難しいことでもまたある
のだ。私の場合、詩語りの世界を深めてゆきたいという強い気持を持っている。
それは人生の意味をも深めることも意味している。そのことが楽しく生きられる
秘訣ではないかと思う。
昨日久しぶりに詩を書いた。一ヶ月何も書かないで自分を見つめていた。それも
また楽しい時間を過ごしたことにもなった。時々鬱に襲われることもあった。そ
れはいたし方がない。なんせ末期癌なのだから。鬱も自然体の一つの在りようと
思っている。今日は朝から下痢である。そして手の痺れもある。口内炎で舌や口
角などが痛んだりしている。それらの症状を素直に受け入れて楽しむことも必要
なのだ。癌と共に生きる方法を一つ一つ身に付けて生きていくしかない。
ショスタコーヴェチの交響曲八番をムラヴィンスキーの演奏で聴いた。凄い演奏
だ。寝る時は、モンテヴェルディの『聖母マリアの夕べの祈り』等を聴いている。

2008年3月 6日 (木)
昨日操車場の製本と、100冊発送を行った。そのせいか今日は気分が鬱状態で
ある。
最近森有正の経験と言う言葉が、語りを通じてわかってきた。以前は知識として
理解していたものが身体性と結びついてきた。それは毎日語りの稽古を続けてき
た結果、見えてきたのだと思う。語るときは、何も考えないで語るようにしてい
る。それは以前考えながら語ってきたことが、考えないでも身体が覚えている。
そのことが経験と言う言葉と結びついて語りにいくらか自信がつくようになって
きたのだと思う。経験と言う言葉が生きてくるのは、それなりの長い時間を要す
るものなのだろう。体験とはまったく異なったものである。伝統という言葉は、
まさに経験の世界である。人への愛も、培われてものが人の愛に普遍性をもたら
すものだと思う。学校の教育も、この培われた世
界を作ることに価値がある。それなのに、今の教育は、人の心を耕してくれな
い。知識だけの教育では、ますます世の中がおかしくなるだけだ。企業のための
教育のように思えて仕方がない。人間の価値を生み出す教育に改めてもらいたい
ものだ。
詩は魂の遍歴を描くのが大切なのに、つまらない日常の出来事をいくら描いても
人の心には響かないものだ。最近の詩誌を読んでいても、詩の空洞化が気になっ
てしょうがない。100万円もかけて詩集を上梓するひとたちの、人生は私には
理解できない。あまりにも豊かになりすぎているのではなかろうか。詩人達は金
持ちの集団だとおもわれてもいたし方がない。貧しきものは幸いなりと言う言葉
のように、詩人はつねに貧しきものでありたい。

2008年3月 5日 (水)
操車場10号が今日出来上がる。10号まで来たことに自分なりの驚きを覚える。手
作りなので、購入なされたい方は、年間購読をお願いいたします。
〒210−0852 川崎市鋼管通2−3−8 2F 漉林書房まで 
年間購読料 5000円
田川紀久雄が倒れた場合、その時点で終刊となる。

詩人の声は、才能など必要がない。必要なのは毎日努力を怠らないということ
だ。かえって不器用な人の程、才能が開花するものだ。上手く読むなどと思わな
いことだ。下手だからこそ、あれこれと考えて努力もする。そのに芸の面白さも
生まれてくる。味を身に付けることがなにより大切なことである。人明かりにな
れることも、その日々の努力があってはじめて可能なのだ。仏陀だって、40歳
まで厳しい修行をしてきた。その後は、人明かりになって旅を続けて仏教を広め
ていっただけのこと。先日の得丸公明氏の朗読だって、それなりの練習に励んだ
お陰で、聴くほうにもそれなりに聴けた。一時間三十分も声の力が落ちないで読
めたことはたいしたものであった。今の詩人達は、声を出すことの意味がほとん
ど解っていない。私は20年以上も声の努力を続けているが、まだまだ未熟であ
る。癌で途中で倒れても、行けるところまで詩語りに賭けて燃え尽きて死んでゆ
きたい。その決意が詩明かりを生む秘訣なのだ。今月26日にライブがありま
す。一人でも多くの方のご来場を望んでいます。

2008年3月 3日 (月)
昨日、「三鷹天命反転住宅で山本陽子の詩を朗読する」を聴きに出かけた。朗読
は得丸公明氏である。詩人でない人が山本陽子を朗読したことには驚きを覚え
る。それも天命反転住宅で行ったことは意義のあることだ。それも入場料無料で
ある。山本陽子の詩は、活字で読むより、音として聴いた方が解りやすい。得丸
氏は、丁寧に朗読を行った。その後二次会で、和気藹々と楽しく語り合った。気
持の良い出会いであった。山本陽子の全集の第二巻が五冊も売れた。詩人なら買
わないだろうが、建築家や美術家などに買って頂いた。その中の女性の一人が、
「遙かする、するするながら」を読むと癖になるといった話がでた。こんな会場
に山本陽子さんがいたら、きっと歓んだあろう。
朝起きたら、疲れがたまってちょっと辛かった。これからもいろんな人たちとの
出会いを積極的に求めてゆきたい。得丸公明氏に感謝。

2008年3月 1日 (土)
末期癌の告知されてから十ヶ月が過ぎた。昨日は四人部屋にとまった。看護婦さ
んたちの行動も入院当時からくらべて、より向上している。思いやる看護を身に
染みて感じるようになってきた。まだまだいろんな問題があるが、やはり生きが
いのある職場だと感じる。ここには患者日一人ひとりとの関わりが要求されてい
る。利益だけ考えていかねばならない会社とは訳が違う。患者は社会的地位など
まったく関係がない。みんな看てもらう患者として平等な立場にいる。本来の人
間社会の原点があると思える。
詩人は個の闇を追求する旅人でもあるが、やはり他者の痛みを知る人でありたい
ものだ。ドキュメントやルポタージュを読むことによって、いろいろと考えさせ
られることが多い。私は柳田邦男の著書によって、多くのことを学ぶことができ
た。現代詩は、詩を学ぶことではなく、多くの痛みを抱えた人たちとの連帯を学
んでいかなければ、詩はますます衰退してしまうだろう。詩人莫迦になってし
まって、社会からますます相手にされない世界に落ち込んでいく。それはいまの
詩壇そのものの姿でもある。私は心の自由の旅人でありたい。それは苦しんで生
きている人たちへの思いの旅でもあらねばならない。
明日、得丸公明さんの山本陽子作品の朗読がおこなわれる。楽しみだ。



コラム目次に戻る
トップページに戻る