2879.考えること伝えること



考えること伝えること

                           日比野 

1.知性と五感

考えることと伝えることについて考えてみたい。

考えたことを誰かに伝えたりして交流することを、俗にコミュニケ
ーションと呼ぶ。

コミュニケーションはラテン語の「communicatio」に由来していて
「分かち合うこと」がその原義だという。

誰かとコミュニケーションするとき、何かの対象を分かち合うこと
が必要になるけれど、その前に、人は対象をどうやって認知してい
るかということについて整理してみる。

人間は外界とのインターフェースとして、いわゆる五感を持ってい
る。視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五つ。

これら五感を通して、外界と接触している。


だから、何かの対象を人から人に伝えてコミュニケートするために
は、その対象をこれら五感のどれかに置き換える必要がある。でな
いとその対象を発信も出来なければ、受信も出来ない。

何かを伝えたい人は、自分が伝えたいものを、目に見える形にした
り、音に変換したり、匂いや味や手触りに変換したりして、外部に
発信してコミュニケートする。

自分の伝えたい何かって、そのときの自分の心のかたち。だから、
その表現は知性の八つの種類のどれかによってなされていて、それ
をさらに自分自身の五感のどれかに変換して外部に送信する。

逆に、受け取る側は自分の五感で受信したものを、知性の八つの種
類のどれかに変換して心のかたちとして受信する。

知性の八つの種類とそれらに対して主に使われる五感を対応させて
みると、大体下記のような関係になると思う。 

        
1.言語的知性  :視覚・聴覚
2.絵画的知性  :視覚・触覚・(味覚)・(嗅覚)
3.空間的知性  :視覚・触覚
4.論理数学的知性:視覚   
5.音楽的知性  :聴覚
6.身体運動的知性:触覚・視覚
7.社会的知性  :五感全部
8.感情的知性  :五感全部

※身体の運動・表現行為は触覚として分類
※華道・料理といった表現は絵画的知性に分類


この中で社会的知性や感情的知性といった、社会生活を営みや人間
関係を保つ為の知性には五感全部を使う。なぜかといえば、生命維
持の為。平たく言えば身の危険を避けるため。

毒ガスとか毒のある食べ物なんかは見た目では分からないし、音も
ない。怪我をしても痛くともなんともなければ放置してしまう。そ
の怪我が元で死に至ってもその時まで分からない。

それに対して、社会的知性や感情的知性以外の知性、いわゆる主に
文化芸術活動において使用される知性は必ずしも五感全部を必要と
していない。

もちろん、華道や料理のように、自分の芸術性を香りや料理で表現
することもあるし、それらの受信には、嗅覚や味覚を使うことにな
るのけれど、大抵の文化芸術活動は、視覚と触覚、聴覚あたりが中
心。
 


2.指向性と置換性

文化芸術活動におけるコミュニケーションって、なにかの形ある作
品や記号に置き換えたものを媒体として行われる。だから受け取る
側は、ほとんどが視覚と聴覚でそれらを検知することになる。

それら五感で検知できる、形あるものの中で、最も汎用性の高いも
のが文字を主体とする「記号」。

特に不特定多数の人とコミュニケーションをとろうと思うと作品そ
のものより記号に変換した方がより多くの人に伝達できる。

なぜそんなに記号が使い勝手がいいかというと、記号は置換性と指
向性が高いから。

芸術作品のような「形ある」ものは実際に現物を持ち運びしないと
相手に見せたり聞かせたりできない。だれど記号や文字なんかは何
にでも記録させられるし、持ち運びや伝達しやすい別の記号に変換
してもOK。とても扱い易い。

たとえば、紙に記号や文字を沢山書いてなんらかの情報を記したと
しても、紙なら折りたたんで小さくしてしまえる。また、電子デー
タに変換・圧縮してCDROMかなんかに納めたりすれば、持ち運
びも簡単。

文字・音声・画像データの他の記号への置き換えなんて、そこら中
でやっている。テレビや電話などでは画像や音声といった、視覚・
聴覚で検知できる情報を一旦、電気信号に置き換えて伝送して、ま
た元に戻す処置をしている。糸電話ですら音声を糸の振動に変換し
て、相手先で逆変換してる。この記号の持つ他の媒体への置換の容
易性が、使い勝手の良さを保証してる。

記号は揮発しない。

香りや味や音は空気を媒介にして伝わるから、そのままだと拡散し
て薄まってしまう。香りを遠くの人に送りたいと思っても、手元の
香りは相手には届かない。香りをカンヅメにして送るか、相手に来
てもらうしかない。美味しい料理だって同じ。基本的に長距離伝送
には向かない。

昔は音声だってそうだった。CDやテープの無い時代は、名曲を聴
きたければ、直接演奏を聴くしかなかった。音が記号化できたのは
最近の話。音をデジタル化して、記号化してようやく、電話やラジ
オ・テレビなどの媒体に乗せることができるようになった。

普通の社会生活と違って、文化芸術活動におけるコミュニケーショ
ンって、だいたいは五感の一部を使って行われている。限定された
インターフェースでの交流からはまだまだ抜け出せていない。

 

3.文字記号

世界中や日本国内でもネットブログで様々な記事がアップされてい
るけれど、その媒体はもちろん文字。文字記号。

文字は記号として伝達媒体として働くけれど、揮発しないし、他の
記号にも容易に変換できるから、昔から情報伝達の主役だった。

文字は形あるものや、形のないものを文字「記号」に置き換えるこ
とで、コミュニケーション媒体の主役を担っていた。

だけど、最初に触れたように、コミュニケーションを行うには、心
のかたちを五感で検知できるデータに変換して相手に届けて、その
相手がまた五感で受信して心のかたちに逆変換して受け取るプロセ
スがある。間に文字記号の変換処理が入る。

たとえば、ある人が心に[りんご]を思い浮かべたとする。それを文
字として記事に書いたとすると、心に思い浮かべた[りんご]は、言
語的知性の働きで文字情報としての「リンゴ」に置換される。

文字情報の「リンゴ」は記事として送信され、その文字をみた人は
文字情報としての「リンゴ」を視覚によって捉え、言語的知性の働
きで文字情報の「リンゴ」を、その人のコンテクストに基づいた
[りんご]として認識する。

双方の変換処理において、そのベースとなるのが、個人個人のコン
テクスト。

「リンゴ」という文字情報を見て、赤い林檎を思い浮かべる人もい
れば、青林檎を思い浮かべる人だっている。

発信する側が赤い林檎をイメージして「リンゴ」という文字を伝達
したとしても、受け取った側のリンゴに関するコンテクストが「青
りんご」しかなかったとしたら、当然「青りんご」として認知され
る。

リンゴという情報が、伝達において、「赤い」リンゴから「青い」
リンゴに変容してる。

これでコミニュケーションが成立するかどうかは、文脈とか、話す
内容による。

沢山ある果物の中のひとつとしての「リンゴ」であれば、「赤く」
ても「青く」ても余り齟齬はないかもしれないけれど、どのリンゴ
が美味しいのかとかなんて話題であれば、赤リンゴや青リンゴ、は
てはリンゴの品種まできちんと区別したほうがいい。

だから文字情報だけでのコミュニケーションにおいては、双方のコ
ンテクストをデータベースにした、変換・逆変換のプロセスが入る
から、それぞれのコンテクストにズレが生じないように、なるべく
文章には気をつけるべき。
 


4.日本語は論理的か

よく日本語は外国語と比べて論理的でないとか、いやそうでもない
とかいった議論がある。

論理って、前提と結論とその間を結ぶ理由の塊のこと。その塊が連
鎖したものが文章。

だから、前提と結論と理由をきちんと記述することさえできれば、
それは論理的な言語ということになる。

その意味で最も厳密な言語はおそらく数学。

前提は何々と定義して、その前提を足したり引いたりして、ひとつ
の結論を導き出す。その論証過程は数式として残される。

これを言語に当てはめてみれば、個々の前提や結論を示す「項」に
あたる部分が主語や目的語。「演算式」にあたるものが述語。「仮
定条件」や「限定条件」を示すものが修飾語になるだろう。

だから論理的でない言語というものがあるとするのなら、それは、
前提となる概念や結論をどう頑張っても記述できないとか、足した
り引いたりする、いわば演算式にあたる概念を表す単語がない言語
ということになる。

もし、主語や目的語、述語が存在しないとか、主語なら主語だけし
かなくて、述語がない言語があったとしたら、その言語では論理は
作れないことになる。だけど日本語には主語も述語もみんなきちん
とあるし、抽象概念を表す名詞や動作・作用を表す動詞もちゃんと
ある。

だから、日本語に対して、論理的でないというときは、書いた文章
の内容が論理的でないというだけであって、日本語自体が論理的で
ないというわけじゃない。



5.日本語の表現

論理的でない文章ってなにかというと、数式におきかえて考えてみ
ると、「項」に複数の意味があって、どの意味なのか特定できない
とか、「項」と「項」を繋ぐ演算式が間違っていて、どう計算して
もその答えにはならないとき。矛盾した文章。

前者は表現の曖昧さにつながり、後者は論理が飛躍しすぎていると
言われる。

表現が曖昧になるというのは、文脈からその表現がどの意味を指し
ているのか特定できないということ。だから、特定するためには修
飾語で補って、前提条件や仮定条件、さらには限定条件をつけて特
定しないといけない。

日本語の特徴として、よく主語が省略されるけれど、それは主語で
示される概念の「項」が抜けていることを必ずしも意味しない。項
が抜けたら思考の演算式は綴れない。

日本語における主語って場や状況で規定される。文脈とか、語尾変
化だとか、敬語表現だとか。

日本語には男言葉や女言葉があって、全く主語を抜かしても誰が喋
っているのか大よそ分かるようになっている。昔ならさらに武家言
葉とか町人言葉というのもあった。

さらに語尾変化、いわゆる動詞で、相手に問いかけているのか、自
分が話しているのか区別したり、敬語表現で彼我の関係も表現でき
る。

日本語はよく、動詞の中に主語が含まれているとか、動く虫の視点
だ、とか言われるけれど、言葉の論理演算式を綴っていく視点でみ
ると、多分それぞれの思考の演算式を書くページを分けているのだ
と思う。

たとえば人物Aの言葉を1ページ目に書いたら、人物Bの言葉は2
ページ目に書くという具合に、暗黙の了解を作って、文章を綴る。
だからわざわざ主語をつける必要がない。その人物専用の個人ペー
ジを用意する。

同じページに複数の人物の会話を載せると、いちいち誰々といった
主語をつけないと分からないのだけど、日本語、特に日本語での会
話表現だと、最初の状況、場面設定さえきっちり設定できれば、あ
とは主語無しでも誰が話したのか表現できる。なぜかといえば、主
語以外の文章に人物属性や互いの関係を書き込めるから。

 

6.会話におけるキャラ設定

日本語では、人物属性は、男言葉、女言葉に代表されるように文章
表現で使い分けできるし、互いの関係性も敬語表現で分かる。

さらには、しばしば省略される主語でさえも、使おうとすれば、同
じ人称、特に一人称の表現が多様だから、それと語尾表現を少し使
い分けるだけで、キャラ設定すらできてしまう。

たとえば、ある人物の発言した意見にその他の人物が一様に賛同を
示す場面を想定してみる。


「○○は△△だ」

1.「わたしもそうおもいます」
2.「おれもそうおもうぜ」
3.「あたしもそうおもーう」
4.「ぼくもそうおもう」
5.「あたいもそうおもうな」
6.「わてもそうおもうで」
7.「わたくしもそうおもいますことよ」
8.「わしもそうおもう」
9.「わいもそうおもうでごわす」
10.「おらもそうおもうだ」


これらを英語で書くと、全部I think so.になってしまう。実際の
翻訳では、同じ意味で別の表現の単語に置き換えるのだけれど、日
本語のような人称や語尾表現のバラエティさはない。

上記の例では、日本語で10通りの表現が可能。しかも、誰が男性
女性で、どんな性格か、場合によっては、その人物の体つきまでイ
メージできてしまう。

だから、たとえば、ライトノベルかなんかで、まるまる台詞だけの
ページがあっても、人物設定と敬語表現だけで区別できてしまう。

なぜここまでキャラ設定できてしまうかというと、こういう言葉を
使うのはこういう人だとか、こういう言葉を使うのはこういう時な
のだ、というコンテクストが日本人の間で共通認識としてあるから
。

上記の例でいくと、1,3,5,7は女性、2,4,6,8,9は
男性だと分かる。しかも、1,2は主役キャラ、3はちょっと幼い
感じ、4はクールでかっこいい系のキャラか少年だろうし、5は姉
御肌のキャラで、6はちょいと軽いが抜け目のないタイプに感じる
だろう。7はお嬢様系で、8は年配・じいさん。9は九州男児系の
キャラで、10は東北の人。

こういった性格分けは多分にマンガやアニメの影響が大きいと思う
のだけど、日本では暗黙の了解としてすっかり通用してる。

日本語では、言葉の表現だけで人物キャラの設定が出来てしまう。
だから、落語という芸が成立する。

もちろん噺家は、言葉表現だけではなくて、仕草や声色といった芸
の力で人物描写や情景描写をしてゆくのだけれど、日本語のもつ同
一の意味であっても多様なキャラを表現できる力が大きな要素を占
めているといっていい。もし仕草だけで表現できるというのなら、
それはもはや落語ではなくてパントマイム。ラジオでも落語が成立
するのは、日本語表現の豊かさそのものを証明してる。

こういった、言葉のちょっとしたニュアンスだとか、動作に込めら
れた暗黙の意味なんかは、文化・伝統として日本社会に流れていて
、生きている間に自然と身につけられるもの。

ただ、それが逆にこういう言葉を使うときはこういう立ち振る舞い
をしなければならない、という無言の圧力になることもある。

今ではそれほどでもなくなったけれど、最近までは、女性が男言葉
を使ったりすると違和感を持たれていた。女らしい言葉遣いをしな
さい、と。いうなればコンテクストの呪縛。

半ば冗談だけれど、今はいなくなって廃れてしまった武家言葉を政
治家・官僚が使うようになれば、彼らの意識も変わるのかもしれな
い。
 


7.概念の伝達

日本語は場や状況設定を行う、すなわち思考の演算式をどのページ
に書くかといった初期設定を決めてしまえば、言葉をどんどん省略
しても会話が成立する。

昨日のエントリーでいえば、10人おのおののキャラの思考の演算
式は10枚の紙にそれぞれ独立して書き込まれる。

読み手は主語がなくても、文章表現で何ページの演算式かを読み取
って、主語を補う。結構複雑で柔軟な思考プロセス。

肝心な場や状況設定を文章で行うときは、しっかりと描写して書き
込んでいかないといけないのだけれど、いくら書き込んだところで
、文字情報はあくまで記号。

だから、それを受け取った側は自分のコンテクストを元にして逆変
換を行うから、発信側が元々持っていたイメージが変容してしまう
危険から逃れることはできない。

そういった変容を最小限にするのにテレビをはじめとする映像メデ
ィアがある。映像情報は発信側のイメージをそのまま伝える。記号
としての要素がないから受け手側も視覚と聴覚でとらえた映像情報
を記号から逆変換する必要がない。

映像情報では受け手のコンテクストに依存した変容がおこらない。
だから不特定多数の相手に、ほとんど同じイメージ情報を同時にか
つ変容させずに伝えることができる。これが映像メディアが持つ印
象操作の力が強い理由。

そんな映像情報にも弱点はある。香りと味と手触りと抽象概念がそ
れ。これらはまだダイレクトに伝送できない。

料理番組をみても、その料理の香りはしないし、味もわからない。
湯気が立っているのをみて、温かそうだとはわかっても、どれくら
い熱いのかまではわからない。

映像は形やイメージを伝えることができるけれど、逆にいえば、世
の中に存在する形あるものしか映像化できない。抽象概念は目に見
える形がないからお手上げ。

だから、嗅覚、触覚と味覚情報や、抽象概念をその場にいない人に
伝えようとしたら、やはり一旦記号に変換してから伝えるしかない
。
 


8.ソムリエの表現能力

「子供の頃、近所のおばあさんの家に入り浸ってたことがあるんだ
けど、その時にごちそうになった、干し柿を思い出した。」

人気漫画「神の雫」で、フランスワインのジゴンダスを口にしたと
きのセリフ。

ソムリエは、嗅覚や味覚情報を的確な文字情報に変換できる名人。
本人しか体験できないワインの味と香りをさまざまな表現を駆使し
て記号化する。

香りや味を表現するために、他の皆が知っているものに置き換えて
表現する。飲んだ本人しか分からない感覚を、他の多くの人が持っ
ているであろうコンテクストに置換することで色や味や香りを伝え
る。

色なら、黄金色や琥珀色。香りであれば、グレープフルーツやシナ
モンの香りとか。

それでも、シナモンの香りと表現したワインの香りは、本物のシナ
モンの香りと100%イコールという訳じゃない。

だけど、実際に味わったことのない人に伝えようと思うと、多少情
報が劣化したとしても多くの人が知っている記号に置き換えたほう
が伝わり易いのは明らか。

同じように、文章でも、少数の人しか理解できない難解な概念を多
くの人に伝えようとしたら、多くの人が共通して持っているであろ
う別の記号に置き換えなくちゃならない。

だけど、何かの記号に置き換たとしても、そのコンテクストを持っ
ていない人には、その表現では伝わらない。ベルガモットの匂いを
かいだことのない人にベルガモットの香りといってもわからない。
そんなときは、まったく別の表現を使って伝えようとするもの。

だから同じ対象をあらゆる角度からみて、言葉を重ねて表現するこ
とは、より多くの人に伝えるためには大切なこと。もちろん誰でも
知っていて端的に全てを表現できる言葉があればいいけれど、そん
な都合の良い言葉なんてそうそうあるもんじゃない。自分で作らな
い限り。

ソムリエの表現能力って、自分の五感で捉えたものを、一般大衆が
共通して持っているコンテクストに巧みに変換できる能力といって
いい。似たような能力は文学者や小説家にもある。
 


9.哲学の文章

文章もジャンルによっては、難解なものがある。たとえば哲学書な
んかの類(たぐい)。

哲学がわかりにくいのは、難解な表現や、そもそも意味の分からな
い単語が沢山あるから。

哲学って抽象概念をよく扱う。目にみえなくて、形もないから五感
で感知できないものがほとんど。直覚的に捉えられない。

哲学者は、思索の果てに、新しい概念を発見する。それは、数式の
ように思考のプロセスをたどっていけるもの。あるいは、電子回路
のように思考を回路化したもの。時としてその回路規模はとてつも
なく巨大になったりもする。

だけど、やっとたどり着いたその巨大な概念を、そのままの長大な
思考の演算式のままで扱うのは大変。だから、使いやすいように自
分でその概念を一言で表す言葉を造語して、コンパクトな単語レベ
ルの記号に置き換える。

だけど、そうやって造語した単語は、生まれたばかりのマイナーな
もの。他の多くの人が知っているわけじゃない。その単語の中には
ぎっしりと思考の論理回路が詰まっているのだけど、造語された単
語を始めてみた人には、その中の回路は読めない。

また哲学って結構厳密。客観性が求められるから、思考の演算式そ
のものにも拘る。式の「項」にあたる単語そのものに複数の意味が
あるなんてとんでもない。だから単語に修飾語をいっぱいくっつけ
て、限定条件を付加していって「項」をただひとつの意味にまで絞
り込んでゆく。

だから哲学の文章には、マイナーなコンテクストを要求するような
特定概念を示す造語が沢山あって、さらに修飾語がいっぱいくっつ
いたような構成になってしまう。読みやすいわけがない。


 
10.たとえ話の利点と欠点

ネットの世界では、表現者の自由度が高いために、自然と類は友を
呼ぶようになる。同じ趣味思考の人たちだけで、コミュニケーショ
ンが盛んになって、「ネット魚群」を形成するようになる。

文章は誰を対象にしているかで、その内容や表現は当然異なってく
る。

既存メディアとの対抗メディアとして考えるのか。同好の士を求め
るための書き込みなのか。それとも自分用のメモなのか。

誰を対象としているかというのは表現においては大切なこと。

何かを伝えるにしても、哲学のような抽象的概念を伝えるのは難し
い。そんなとき威力を発揮するのがたとえ話。たとえ話はイメージ
を想起させる。

たとえ話で扱われる事象は、動植物や自然とか人間社会の営みとか
、誰でも知っている事柄。

たとえ話って、伝えたい概念を広く一般に知られているコンテクス
トに置換すること。だから高度な抽象概念も分かりやすく伝えられ
る利点がある。

抽象概念をたとえ話に置換する場合に大切なことは、本当に伝えた
いことは何かということを規定すること。哲学的抽象概念を、たと
え話にいつも100%置換できるとは限らない。

要するにこういうことなんだ、というくらい単純化して本質をつか
みださないとうまく例えることはできない。たとえ話に限定条件な
んて無いのが普通。

哲学的概念を数式のように厳密に表現しようとすればするほど、思
考の演算式を厳密に追いかけていって、ひとつひとつの項の定義と
条件を明確にする修飾語をつけなくちゃいけない。

なになにが、これこれで、こうした場合に、云々かんぬん・・と思
考の演算式をそのまま例えられても、たとえ話なのか何の話なのか
さっぱり分からない。

だから、たとえ話を使うときには、その哲学概念の一般的部分をつ
かみだして、それを中心に据えて例えることになる。その代わり概
念の減衰、変容は避けられなくなる。
 


11.菩提と救済

「上求菩提 下化衆生(じょうぐぼだい げけしゅじょう)」とい
う言葉がある。

上に向かっては精進を積んで悟りを求め、下に向かっては衆生を救
済せよという仏教用語。仏道修行者の心得。

考えることと、伝えることの関係の鍵はここにある。

考えること、上に向かって悟りを求める気持ちが強くなれば、思考
はどんどん厳密になって、その表現も「正確さ・適切さ」を大切に
してゆくようになる。

逆に伝えること、より多くの人に伝えたい、救済したいという気持
ちが強くなれば、思考概念の多少の減衰・変容には目をつぶってで
も分かり易さを求めるようになる。

わかりやすさを求めるあまり、「正確さ・適切さ」をおろそかにす
るのは哲学に対する裏切りだ、と考える人は、上に向かって悟りを
求める気持ちが強いのだろうし、思想は相手に伝わらないと意味が
ないんだ、と思う人は、多くの人に物事の本質を伝える気持ちが強
いのだろう。

だから、哲学的に思索を極めたい人は、思考に厳密さを求めて、思
想を後世に残すし、現世に影響を与えて世の中を良くしていきたい
人は、表現にわかりやすさを求めて、世の中に広く伝えてゆく。

だけど、たとえ厳密さを求めて、しっかりとした思想を残したとし
ても、その表現があまりにも難解であれば、後世の人が理解できな
いあまりに、いろんな解釈を行って、その思想が曲がってゆくこと
もある。

その一方で、わかり易さを求めて、思想を簡素化・単純化しすぎて
しまうと、時代が下っていくにしたがって、思想の中身が失われ、
後世の人々を救う力は失われてゆく。

哲学ってもともとは、この世のみならずあの世も含んだありとあら
ゆる事象がなんであって、何のために存在するのか、という世界の
本質を知の働きを通して探究する学問だった。

ルネッサンスの画家ラフェエロによる有名な『アテナイの学堂』の
中央にはプラトンとアリストテレスがいるけれど、プラトンは指を
天に向けているのに対し、アリストテレスは手のひらで地を示して
いる。哲学は天も地も探究の対象だった。

本来の哲学は、天も地も、この世もあの世も知ることで、認識力を
高め、なぜ生きるのか、どう生きるべきなのか、と心にダイレクト
に反映する学問であったはず。

とすると、その探究姿勢はやはり「上求菩提 下化衆生」であるべ
きなのだと思う。

難しいことだけれど、思想を練るにあたっては、どこまでも厳密に
考え、表現するときにはどこまでも分かりやすくする。それが思想
表現における「上求菩提 下化衆生」。

考えることと伝えることは表裏一体であって、思索においては厳密
さを、表現においては分かり易さを求めるべき。それは自分の認識
を限りなく悟りに近づけ、他の多くの人によき影響を与える救済の
道。

考えることと伝えることとが、「上求菩提 下化衆生」によって結
びついたとき、思想は最大の力を発揮する。


(了)


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