2852.日本建国史2



記紀を素直に読みましょう     himiko 

私が推測する日本の歴史の経緯は

出雲の意宇国が出雲を統一。
→出雲による日本海沿岸覇権時代。高天原(御所市)が大和を統一
 し、やや遅れて勢力を拡大。
→出雲優位のもと、出雲王朝と大和王朝の間に政略結婚・同盟(出
 雲・意宇国主の娘が、大和の火明命に嫁ぐ。また、火明命の叔父
 ・穂日命が、出雲・意宇国主に仕える)
→大和が勢力を拡大し出雲を従属させる。意宇国主が娘婿の火明命
 に出雲の勢力圏の統治権を譲渡する。(出雲国譲り)
→火明命、天照国照彦火明命となのる。大和大王アマテルの誕生。
→火明命、兄弟の火瓊瓊杵尊を日向・高千穂に派遣。熊襲平定のた
 め。
→火瓊瓊杵尊から3代は日向の知事として君臨。その間、火明命の
 系統が大和大王。
→大和で内乱。日向分家の神武が大和宗家を助けるためにかけつけ
 る。(神武東征)
→大和内乱鎮圧の功績を評価され、神武は大和の磐余に居住。そこ
 で、大和宗家(火明命後胤)を助け・執政として活躍。

→大和宗家(火明命の嫡流)が祭祀、分家筋の磐余執政家(神武皇
 統)が政治を行う。
→しかしながら、やがて、磐余執政家(神武皇統)が権力を振るう
 ようになり、やがて、大和宗家を脅かすようになる。
→両者の間に権力闘争が勃発。(倭国の乱)
→磐余執政家(神武皇統)の太瓊尊(孝霊天皇)は、皇女の倭迹迹
 日百襲媛命を巫女として祭祀を掌握。大和宗家から祭祀の長の座
 を奪う。(卑弥呼共立)
→磐余執政家(神武皇統)の五十瓊殖尊(三巻入彦・崇神天皇)の
 代で祭祀と政治の両方を完全に掌握。彼は完全な大和の皇帝にな
 る。その頃には、大和宗家は尾張へ追放、尾張氏を名乗る。
→しかしながら、その後も、いくつかの祭祀では、以前、尾張氏の
 ほうが嫡流とされ、権威をある程度は保持した。前方後円墳とは
 少し違う前方後方墳を作ることも尾張氏のプライドと権威の表れ
 だった。大和の始祖は天照国照彦火明命であり、その直系の尾張
 氏には権威が会ったのである。
→神功皇后、継体天皇、天武天皇など、皇位継承でもめた天皇の即
 位にあたっては、かならず尾張氏の支援があった。(氏長者・尾
 張氏の信認?)
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古代日本の権力推移     himiko

大まかに答えると
出雲王朝
→大和王朝初期(火明命系・尾張氏の先祖)
→大和王朝初期以降(火瓊瓊杵尊系・神武皇統)
という変遷があって、

まず、古事記の作る段階では、壬申の乱で尾張氏の支援で勝てた天
武天皇が係わっており、天武天皇は尾張氏の祖である火明命時代の
業績を隠している。天武天皇にとっては、あらゆる面(家系の面、
経済的な面など)で尾張氏は目の上のたんこぶだったのか?

次に日本書紀を作る段階では、これは日本の正史であり、大和王朝
が革命されるのを防ぐために、大和が出雲に行った実質的な革命と
いう業績を隠している。

で、ここで重要なのは、記紀の編纂者は、そんなに大きな嘘はつい
てないということだ。つまり、過去にあった出来事を明確には捏造
していない。ただ、都合の悪かった記述を書かなかっただけなので
ある。だから、なんとなく意味不明な記述が増えたのだ。なるべき
全部の事柄について書いたのなら、意味が繋がってくるものを..
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欠史八代と倭国乱〜両統の並立・対立     himiko 
   
倭人伝には「元々倭国には一人の男王がいて、80年くらい続いて
、その後、歴年争いが起こって、卑弥呼を共立した」というふうに
記載されています。これは、おそらく、記紀にある欠史八代のあた
りでしょう。

おそらく、神武東征以降は、祭祀(権威)は火明命系、政治(権力
)は火瓊瓊杵尊系という役割分担があったのでしょう。いうなれば
、祭政分離(政教分離)政策であり、室町時代の天皇(権威)と征
夷大将軍(権力)の関係にも似ており、また、兄弟で分かれた二つ
の家系の並立・対立については、南北朝時代の持明院統と大覚寺統
の関係にも似ているように思います。 
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大和の始祖・天照(アマテラス)は元々は天照(アマテル)だった
                        himiko  
   
崇神天皇から垂仁天皇にかけて色々あったみたいで。崇神天皇とい
えば、初めて天皇らしい天皇になった「御肇国天皇」と呼ばれた天
皇。それ以前の天皇は「欠史八代」と呼ばれることで有名。そして
、崇神天皇は治世6年、天照大神を恐れて宮中の外に祀ることにし
た天皇。

私本日本書紀
崇神紀・大物主神の神託
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki/syoki032.html

しかし、その崇神天皇が治世6年に女神・天照(アマテラス)を祀
ったであろう神社は、なぜか男神・天照(アマテル)である「天照
国照彦天火明命」が祀られている。記紀の記述と微妙に違う。この
アマテルとは、尾張氏の祖先で、神武天皇の曽祖父ホノニニギの御
兄弟。 

鏡作坐天照御魂神社
http://www.geocities.jp/engishiki01/yamato/html/031203-01.html

垂仁天皇の時に伊勢神宮が建立されるが、その時に母方に尾張氏が
いる皇女が重要人物の一人として登場する。(渟名城稚姫命は先帝
の崇神天皇の皇女。母は尾張大海媛。)

私本日本書紀
垂仁紀・伊勢の斎宮
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki/syoki042.html 

これって、天武天皇の時代以前は、天照国照彦 火明命を、大和の始
祖・天照(アマテル)として祀っていた証拠じゃないのか?つまり、
女神アマテラスって、天武天皇が古事記を編纂する時に新しく作り
出した神様。だとしたら、なぜ、崇神天皇は疫病が流行したのを、
この天照国照彦 火明命の祟りだとして恐れたのはよく理解できます。

しかも、崇神天皇の前は、欠史八代とかいって、記紀には記載が殆
ど無い。そして、その欠史八代の系図の途中には倭迹迹日百襲姫命
という卑弥呼と噂される女性が登場する。おそらく、神武皇統は尾
張氏の先祖から祭祀を掌握するために、一族の女性を巫女として祭
祀を奪ったのでは?と推測できます。 
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倭人伝の正始8年(西暦247年)=日本書紀の崇神治世10年 himiko

私の推測の基点にあるのは
倭人伝の正始8年(西暦247年)=日本書紀の崇神治世10年
というのがある。

倭人伝では
邪馬台国・卑弥呼VS狗奴国・卑弥弓呼の戦い
→その直後、卑弥呼急死
→その直後、卑弥呼の大きな墓が作られる。

日本書紀では
大和国・百襲媛命VS許乃国・武埴安彦命
→鎮圧直後、百襲媛命急死
→その直後、百襲媛命のために箸墓という大きな墓が作られる。


次の日本書紀の記載と倭人伝の狗奴国の卑弥弓呼の乱のあたりの記
載を良く比べてみてください。おそらく、同じことを書いてあるん
だと思います。
↓
日本書紀
武埴安彦の反乱
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki/syoki033.html
箸墓 
http://www.loops.jp/~asukaclub/syoki/syoki034.html

倭人伝
狗奴国との戦いや卑弥呼の墓の近辺の記述。 
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi10.html


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