2848.詩とは、寺の言葉である



詩とは、寺の言葉である
From: 得丸公明

皆様、
新年あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願い申し上げます

昨年は、仏教修行の修学旅行でインドに行き、その勢いで南アフリカの現生人類
が生まれた洞窟に行き、読書の会の夏合宿で保田與重郎を読み、荒川修作の三鷹
天命反転住宅で14泊暮らして洞窟生活を体験し、そこで山本陽子の詩を思い出
し、人類のことばの発生過程を想像し、石牟礼道子さんの「苦海浄土 第二部 
神々の村」を読み、本居宣長の「紫文要領」を読み「もののあはれ」について考
えるという、移動や体験もさることながら、すさまじい精神的な旅を行った年で
した。

忘年会では、山本陽子の「神の孔は深淵の穴」の1行目から93行目までの朗読
をさせていただき、ありがとうございました。全体で499行ありますので、約
5分の1でしたが、昨年末から正月休みを使って、山本陽子について考えている
ところです。

詩と仏教というのは、関係なさそうで、実は大いにあります。 そもそも、詩と
いう言葉は、言べんに寺ですから、寺の言葉です。

詩人というのは、宗教人と同じくらい、人類の過去や現在や未来について、考え
ている人種なのだと思います。本来は、お寺で、そのような話をするべきなので
しょう。

しかしながら、仏教は、教祖や宗祖は、詩人のように、悩み苦しみ、修行して遍
歴して、悟りに到達するのですが、いったん教会や寺院の建築ができあがって、
信者がそこに行けば宗教的恍惚感も味わえるようになると、後継者がサボり始め
るようです。

そのような状況を批判したのではないかと思える山本陽子の詩「よき・の・し」
をご紹介します。
1967年の「あぽりあ」2号に掲載されました。

お楽しみください。

得丸公明


よき・の・し


あらゆる建築をうちこわし、
いかなることばを
あとにのこすな、
すべてをもえつき、
もやしつくせ、
全けき白さをひっさらって
        死のとりでをひとこえよ
よきをひだにふくみのみ
さまざまなる夜をはらめ、
       死のこちらには死がひそみ
       種のうちには絞られた精気、
       濾過した夜に
       血清があった
やさしく勇気みついかりを決して決して
あとにおとすな、
よきのうちに苦しみがあり、
苦しみのあいだに割れ目あり、
黒き旋転に露しとろうと
決して それをそれとおもうな、
       死がすべてをけし去っていて
        全けき ものつれ去るとも
       飛ぶときには
      軽ろきがいた、
     残した埋(も)れ木は 焼ぽっくいで
    残した種は 鳥がついだ
あとをうがち、あなあしため
したたりおとした数千の、
透明な肉をすいつくし、
決して決して
環えるな
いのち白い霧吐きだすたび
星をえて 光りしない
血を亡脈に黒ずませ
こころのかたどり、雲をちぎり、
冷気ちらし、空を去らす

突破するたびに数千の綱が壁をつくった
       壁はからみ しとねつき
       頭のなかに 垂直がある
       光こごらせ 結晶がある
       にごいもてはなつ海をよび
       海泡のつぶて くだけちる

かつて死んだひとりの男がいて
おまえに置言(ごと)を手渡したら
その言葉を地に埋めよ
かつてすべてが刃向かっていて
おまえの仄を噴き出したら
汗に黒さびた金属(かなもの)を
ずきずきと踏み 風にはなて
     かつて死んだひとりの男がいて
     かってにしやがれと呟いたとき
     かってなき塩の結晶が造った
     朝の食卓にピケルスがあった
     かつてあったひとつの種が
     身をやくたねをもとめたとき
     木々は交れり火花散した
かつてある禁忌が衣、ばさりおとし
     かってなきことについて
     かくてかってにあるときには
魔術がひとをかなしばりする
いまは
いまわのきれなるかた、
僧侶の裸体に手濡れつくし、
身体にこれ小鐘がなると、
あけ方に骨きしむ勤行がおこる、
しぜんてきしぜんがしぜんするあいだは、
ひつぜんすべては、
おまえがうみだした卵ばかりだ

      あらゆる魔術を変身しつくし
      いかなるひとも
      あとにのこすな
      あらゆる大陸をわたりはなら
いかなるもの、いかなるあし、いかなる、は
をも 露に尽きさせ 冬にくだけ
あとに あとをのこすなら
おまえは死を譲り渡す、
あとにのこしてきたものが
無をおまえに譲り渡す、
廃跡は、いつ いかなるともにあった、
それは いつ いかなるときになかった、
それは いま だけにある
かつて現在というものがあるときに
廃墟は未来のものであり、
かつて現在というものがあったあいだ
過去は未来の廃墟であり、
かつてなかった過去の過去は
いま だけにある、
死のむこうにはなにがあるか
死のむこうにはなにがないか、
なくてあるものは
いま だけにあり
死は生のうちにひそみ、
無をおまえに譲り渡す
否、やさしく勇気あるいかりを決して
決してあとにおとし、あるものとなしてはいけない。
冷却したすべて
というものには
    死の数否ひそみ
    冷い凝乳に
    悪はうせる
朝の立売りには昨日という、
いまわの過去が巻きパンとともにやってきて
さらばということばをいくらかだけはかせ、
夜の冷気までに死はちかんしていた
決して決して
あとをおとすな、
あとに、
全けき白さをひっさらって
        死のとりでをのりこえよ
もし、ということばはらむなら、
決して決して
ならばとは
いうな、
もしをもしものものからやかれよ

(「山本陽子全集 第一巻」より)



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