2846.日本建国史



ここでは、日本建国史を見よう。    Fより

神社を調べて、日本古代史を見ようとしたが、himikoさんから大き
なアドバイスを貰い、現時点での日本建国史を見ておこう。その上
で、夏に18切符を使い、格式の高い神社を見ようと考えている。

延喜式によると、天孫降臨の高天原は葛城王朝の所在地であろう奈
良県御所市高天となる。有力豪族葛城氏、鴨氏の所在地である。葛
城王朝の神は金剛・葛城の神でもある。金剛山は高天山と呼ばれて
いた。この山の中腹に、古社である高天彦神社が鎮座し、高皇産霊
神を祀っている。この社の背後に神籬山がある。この神は遠い古代
に日本に渡ってきた神である。その記憶は対馬の高御魂神社にその
御神体がうつほ船に乗って漂着した霊石であるとの伝承が残ってい
る。九州では筑紫、豊の国に今でも多く祀られている。鴨氏の領地
に葛城氏が九州から移り、神武、綏靖、安寧天皇の三代は鴨氏の娘
を妃にして、葛城王朝を建てた。『後漢書』倭伝は、『安帝永初元
年(西暦107年)、倭国王帥升等献生口百六十人、願請見』とある。
このため、AD100年頃に葛城王朝ができた。


葛城王朝しては、神武天皇を初代とし、欠史八代の8人の天皇が続
く、9人の王朝を比定する考えである。この葛城王朝は、奈良盆地
より出た一族で、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族
であった第10代崇神天皇によって、滅ぼされる。しかし、この王朝
の所在地は、250年頃の崇神王朝では箸墓古墳(卑弥呼の墓と推測)
は説明が付かないので、三輪地方になる。次の崇神王朝と同じ場所
になる。

170年頃の倭国の大乱とは権力の移行に伴う権力闘争であったことと
、丹後経由の鉄交易と瀬戸内経由の鉄交易の主導権争いという面も
あったようだ。丹後経由の鉄交易が潰される。239年卑弥呼朝貢、卑
弥呼没後混乱したが、266年台与朝貢などから崇神王朝は250年頃に
はできていた。

崇神王朝は大和の三輪地方(三輪山麓)に本拠をおいたと推測され
三輪王朝ともよばれている。三輪地方にある古墳の編年などから大
型古墳はその時代の盟主(大王)の墳墓である可能性が高いことな
どから推測すると、古墳時代の前期(3世紀の中葉から4世紀の初期
)に奈良盆地の東南部の三輪山山麓に大和・柳本古墳群が展開し、
渋谷向山古墳(景行陵に比定)、箸墓古墳(卑弥呼の墓と推測)、
行燈山古墳(崇神陵に比定)、メスリ塚、西殿塚古墳(手白香皇女
墓と比定)などの墳丘長が300から200メートルある大古墳が点在し
、この地方(現桜井市や天理市)に王権があったことがわかる。

さらに、これらの王たちの宮(都)は『記紀』によれば、先に挙げ
た大古墳のある地域と重なっていることを考え合わせると、崇神に
始まる政権はこの地域を中心に成立した推測でき、三輪政権と呼ぶ
ことができる。三輪政権は、初期大和政権と捉えることができるし
、邪馬台国として中国の史書に記述されることになる。

350年頃できた応神王朝は天皇の宮と御陵が河内に多いことから河内
王朝ともよばれている。河内王朝(応神王朝)は、宋書に倭の五王
が10回にわたり遣使したという記事があり、それが傍証となり、倭
の五王が河内王朝の大王であったことはほぼ間違いないとされるこ
とから、個々の大王に関しての比定は諸説あるとしても、王朝全体
の実在の可能性は高い。河内王朝は、瀬戸内海の海上権を握ったこ
とと奈良盆地東南部の有力豪族葛城氏(葛城王朝の末裔)の協力を
得たことが強大な河内王朝をつくったと考えられる。葛城氏は丹後
の海部氏と関係していた。

また、大阪平野には、河内の古市墳群にある誉田御廟山古墳(伝応
神陵)や和泉の百舌鳥古墳群にある大仙陵古墳(伝仁徳陵)など巨
大な前方後円墳が現存することや、15代応神は難波の大隅宮に、16
代仁徳は難波の高津宮に、18代反正は丹比(大阪府羽曳野)柴垣に
、それぞれ大阪平野の河内や和泉に都が設置されていることなどか
ら、河内王朝時代に大阪平野に強大な政治権力の拠点があったこと
がわかる。

継体王朝(近江王朝)の継体天皇は応神天皇5代の末裔とされている
が、これが事実かどうかは判断がわかれている。近年ではやはり継
体天皇は地方に根付いた皇族の末裔であり、地方豪族の連合を背景
に勢力を伸長させた継体天皇をヤマト王権側が迎え入れようとした
、とする考えの方が有力である。

(参考)
日本建国史
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/
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ヤマト王権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
7世紀のヤマト王権の勢力図ヤマト王権(やまとおうけん)とは古墳
時代に倭国王といくつかの有力氏族が中心となって成立した王権・
政権である。主に奈良盆地を本拠とした。

1.成立期
弥生時代においても帥升や卑弥呼などが倭国王として中国の史料に
記されているように、倭国と呼ばれる政治的な結合が存在していた。
その結合は必ずしも強固なものではなく、同等の力を持った政治勢
力による同盟関係だったと推測されている。しかし、奈良盆地に日
本列島における最大規模の政治拠点が構築されていたことが纏向遺
跡の発掘により次第に解明されつつある。倭国王・卑弥呼が居住し
た邪馬台国の所在地をめぐっては九州説と畿内説とが並立しており
結論は出ていないが纏向遺跡は邪馬台国の有力な候補地となってお
り、仮に纏向遺跡が邪馬台国だったとするとおそくとも弥生時代末
期の時点でヤマト王権の原型が形成されていたことになる。

対して、古墳時代に入ると規格化された前方後円墳が奈良盆地に発
生し、急速に九州から東北まで普及していることから各地の政治勢
力に一定の支配力を及ぼしうる政治権力が奈良盆地に成立したと考
えられている。前方後円墳には畿内から吉備(山陽)、筑紫(北九
州)など各地の墓制(→弥生時代の墓制)が採り入れられているた
め、これらの地域勢力が連合し統一的な政治勢力となったことの反
映だとされている。最初の前方後円墳は3世紀前葉〜中葉に出現して
いるのでヤマト王権の成立をこの時期に求める説が有力だが、この
時期はまだヤマト王権に先立つ王権の段階(プレ・ヤマト王権)だ
ったとする見解もある。

各地域の勢力が連合してヤマト王権となっていく過程はまだ解明さ
れていない。弥生時代後期に倭国王だった卑弥呼を中心とする政治
勢力(邪馬台国)が各地の勢力を服属させ、もしくは各地の勢力と
連合してヤマト王権を築いたとする説のほか、邪馬台国を滅ぼした
別の勢力がヤマト王権となったとする説などがある。遅くとも3世紀
中ばまでにヤマト・吉備・筑紫などの諸勢力が糾合し、初期ヤマト
王権が形成されたと考えられている。

ヤマト王権の王統についても複数説が提出されている。卑弥呼−壱
与の王統を継承しているとする説、壱与で王統が断絶し新たな王統
が発生したとする説、初期ヤマト王権の王位は世襲ではなく有力豪
族間で継承されたとする説、初期の王統は途中で断絶して4世紀前期
ごろにミマキイリヒコ(崇神天皇)が新たな王統を開始したとする
説などがある。


2.展開期
前方後円墳の分布は4世紀後葉前まで、主に畿内〜瀬戸内海沿岸(吉
備など)〜北九州(筑紫など)に集中していた。そのため、ヤマト
王権の支配権もそれらの地域を中心としていたと考えられる。しか
し4世紀後葉になると、東北(仙台平野・会津地方など)から南九州
(日向・大隅など)まで前方後円墳の分布が急速に拡大しており、
ヤマト王権の支配権がそれらの地域へ伸展していったことの表れだ
とする見方がある。

この時期と前後して4世紀中葉(350年頃)からヤマト王権(倭国)
は朝鮮半島との交易を開始した。当時の倭国には鉄鉱の産出がなく
、朝鮮半島から鉄原料を輸入した。朝鮮半島の任那(加羅)は鉄の
産地だった。輸入した鉄資源をもとに鍬・鋤などの農業用鉄製品が
製造され、農業技術の革新・開墾の活発化などが起こり4世紀後葉か
ら5世紀にかけて倭国の農業生産力は大きく向上した。これにより、
経済力をつけたヤマト王権は鉄資源を求めて朝鮮半島へ経済的・軍
事的に進出し始めた。ヤマト王権(倭国)は百済と連携して朝鮮半
島南部への出兵を頻繁に展開し、このことは高句麗が遺した広開土
王碑にも記述されている。また、朝鮮半島南部を中心にいくつもの
倭独特の前方後円墳が発見されており、中国の史書からも倭への朝
鮮半島南部の支配権を認める記述があることから朝鮮半島南部(任
那)は大和王権が統治していた地と有力視されている。ヤマト王権
と朝鮮半島諸国との交易が活発化した背景には、北方の高句麗から
圧迫を受けつつあった百済が対抗のために近隣諸国(新羅・加羅諸
国)と連携を強めていたことが挙げられる。この結果、ヤマト王権
(倭国)と朝鮮半島諸国との関係・通交が活発化したのである。ヤ
マト王権が東北から南九州まで全国的に展開したことは、この朝鮮
半島諸国との活発な関係・通交が密接に関係していると考えられて
いる。

4世紀後葉より以前ヤマトの王の墓はヤマト(奈良盆地)に営まれて
いたが、それ以降は河内平野に築かれることが多くなった。このこ
とから王権の基盤がヤマトから河内へ移動したとする説、王権の基
盤はヤマトだが海外通交の窓口となる河内を開発したとする説、
それまでの王統が断絶して新王統が成立したとする説(河内王朝説
)、などが提出されている。日本書紀の記述などから少なくとも
オオササギ王(仁徳天皇)は難波に本拠を置き河内平野を開発した
ことが判っており、当時の河川改修痕跡(難波の堀江)や堤防痕跡
(茨田堤)も残存している。

5世紀に入ると、ヤマト王権の王は中国王朝へ朝貢を始めた。修貢し
て倭国王に冊封された王が中国史書に5名記されていることから、
これらの王は倭の五王と呼ばれる。朝貢を行った理由・背景は明確
にはなっていないが、おそらく朝鮮半島南部諸国(任那・加羅)に
於ける利権争いへの参入を有利に進めるためであろうと考えられて
おり、実際に中国史書には倭へ朝鮮半島南部の支配権を認る内容を
記している。中国や朝鮮半島諸国との通交・人的交流などにより技
術や文化を持った多くの人々が渡来し、ヤマト(倭国)へ貢献した。
渡来人(帰化人)は養蚕、機織り、製陶、建築などの先進技術や
『論語』に代表される中国文化、文筆・出納などの実務技術をヤマ
ト(倭国)へもたらした。ヤマト王権はこれらの渡来人や全国各地
の豪族たちを徐々に組織化していくとともに(部民制の形成)中央
の豪族層を大臣・大連を頂点として系列化していった。これにより
、5世紀ごろには簡易な官僚制が形成されていたとして、それまでの
王の権威を権力の源泉としていた「ヤマト王権」から王を中心とす
る政治組織が権力を担う「ヤマト政権」への転換がなされたとする
見方もある。

この期間のヤマト王権(ヤマト政権)を代表するのがワカタケル王
(雄略天皇)である。ワカタケル王に比定される倭王武が中国へ送
った上表文にはヤマト王権が各地を征服していった様が記述されて
いるが、考古史料からは倭国内部に独自性を持った首長層が多数存
在していたことが示唆されている。このことから、当時の実態はヤ
マト王権が他の首長より優越はしているが強い支配関係にはなく、
ヤマトと他地域の連合政権的な性格だったと考えられている。日本
書紀の記述から、5世紀後半には吉備や播磨、伊勢などの首長がヤマ
ト王権へ対抗するなどの動きがあったと推測されており、そうした
中で登場したワカタケル王は強化した軍事力をもとに各地の首長へ
の支配力を強めていった。


3.転換期
そうしたワカタケル王の努力に関わらず5世紀後半から6世紀前半に
かけて王統が数回断絶し、中国王朝との通交も途絶した。5世紀後半
の475年、高句麗の南下によって百済は南方へ移動したが、この事件
は百済と友好関係にあったヤマト王権(倭国)にも経済的・政治的
な影響を与えた。ヤマト王権は百済との友好関係を基盤として朝鮮
半島南部に経済基盤・政治基盤を築いていたが、半島における百済
勢力の後退によりヤマト王権が保持していた半島南部の基盤が弱体
化し、このことが鉄資源の輸入減少をもたらした。そのためヤマト
(倭国)内の農業開発が停滞し、ヤマト王権とその傘下の豪族達の
経済力・政治力が後退したと考えられており、6世紀前半までのヤマ
ト王統の混乱はこの経済力・政治力の後退に起因するとされる。

そうした中で6世紀前期に近江から北陸にかけての首長層を背景とし
たオホド王(継体天皇)が現れヤマト王統を統一した。オホド王の
治世には北九州の有力豪族である筑紫君磐井が新羅と連携してヤマ
ト王権との軍事衝突を起こした(磐井の乱)がすぐに鎮圧された。
しかし、この事件を契機としてヤマト王権による朝鮮半島南部への
進出活動が急速に衰えることとなった。またオホド王の登場以降、
東北から南九州に及ぶ地域の統合が急速に進み、政治的な統一がな
されたとする見解がある。

その後ヤマト王権は対外指向が弱まり、内向性が強くなった。朝鮮
半島から暦法など中国の文物を移入するとともに豪族や民衆の系列
化・組織化を漸次的に進めて内政面を強化していった。又、王族や
有力豪族の間で紛争が多数発生するようにもなった。こうした中で
6世紀末、幾つかの紛争に勝利した推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子ら
は強固な政治基盤を築きあげ、冠位十二階や十七条憲法の制定など
官僚制を柱とする王権の革新を積極的に進めた。これによりヤマト
王権という政治形態は解消され、古代ヤマト国家が形成されていく
こととなる。


4.王号
ヤマト王権の王は中国王朝や朝鮮半島諸国など対外的には「倭国王
」「倭王」と称し、国内向けには「治天下大王」「大王」「大公主
」などと称していた。考古学の成果から5世紀ごろから「治天下大王
」という国内向けの称号が成立したことが判明しているが、これは
この時期に倭国は中国王朝と異なる別の天下であるという小中華主
義意識が生まれていたことの表れだと評価されている。


5.ヤマトの範囲
元々ヤマトの範囲は奈良盆地東南部つまり天理市南部から桜井市北
部の東辺の地であったと推測されている。そこには三輪山山麓部の
纏向古墳群には最古級の前方後円墳である箸墓古墳があり、また天
理市の南部に所在する初期ヤマト政権の大王の墓を含むと推測され
ている大和・柳本古墳群がある。

平安時代初期に編集された『和名抄』に、大和国城下郡に大和郷(
於保夜末止)が記されている。その地は大和神社の付近と推測でき
、もとはその周辺をヤマトといったのに始まるのではないかと考え
る人も多い。

その地域を根拠地として政権が成立したことから、その政治勢力(
王権)をヤマト政権と呼ぶようになった。

なお、ヤマトは奈良盆地全体を指すこともあった。その後、ヤマト
王権の支配権が及ぶ範囲をヤマトと呼ぶようになった。
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纏向遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

纒向遺跡(まきむくいせき)は、奈良県桜井市、御諸山(みもろや
ま)とも三室山(みむろやま)とも呼ばれる三輪山の北西麓一帯に
広がる弥生時代末期〜古墳時代前期の遺跡群を指す。

遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2キロメートル・南北約1.5キロ
メートルに及び、面積は300万平方メートルに達する。古墳時代の始
まりを告げる遺跡であり、今日、邪馬台国畿内説を立証する遺跡で
はないかとして注目を浴びている。

1.発見
現在の名称で呼ばれるまでは、1930年代は太田遺跡として扱われて
いた。小規模な遺跡群の一つとして研究者には認識され、特に注目
をあつめていなかった。しかし、1971年に行われた県営住宅、小学
校建設の為の橿原考古学研究所がおこなった事前調査により、幅5m
、深さ1メートル、総延長200メートル以上の運河状の構造物が発見
された事により、注目を集めることになる。その後も、さまざまな
出土品が広範囲にわたって確認された。1977年の第15次調査以降、
調査主体が橿原考古学研究所から桜井市教育委員会へと移り、現在
も調査を継続している。


2.主な遺構
唐古・鍵遺跡の約10倍の規模をもち、藤原宮に匹敵する巨大な遺跡
で、多賀城跡よりも大規模である。また、都市計画のなされていた
痕跡と考えられる遺構が随所で確認されている。

矢板で護岸した幅5メートル、深さ1メートル、総延長200メートル以
上にわたる巨大水路の発見。 
底からは湧水がみられ、内部は大きく分けて3層に分かれている。径
約3メートル・深さ約1.5メートルの一方が突出する不整形な円の土
抗が約150基発見された。 
掘立柱建物跡と、これに附随する建物跡。 
弧文板・土塁と柵列を伴ったV字形の区画溝 
導水施設跡 
遺跡内に点在する古墳。(大和古墳群) 
現在は確認できない埋没古墳が多数ある可能性あり。 

3.主な遺物
朱色に塗った鶏形木製品 
吉備地方にルーツを持つとされる直線と曲線を組合わせて文様を施
した弧文円板(こもねんばん)と呼ばれる木の埴輪。 
絹製の巾着袋 
瓦質土器(1996年に土器片の発見。胎土成分組成の分析により、
2001年に国内で類例のない事が確認され、朝鮮半島内の技術で作ら
れたものと判明した。) 
ミニチュアの舟、木製鏃、搬入土器 
石見型楯形(いわみがたたてがた)木製品 
日本全国でつくられたとみなされる遺物が出土しているが、なかで
も東海地方の物が多い。


4.纒向遺跡の主な古墳
纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳、纒向石塚古墳、東田大塚古墳、
箸墓古墳、ホケノ山古墳 
木製品の年輪年代測定などから、纏向石塚古墳は、遅くとも225年頃
までには築造されていたことが判明している。


5.評価
・邪馬台国畿内説の最有力候補地
搬入土器の出身地割合 関東系:5%、東海系:49%、近江系:5% 
北陸・山陰系:17%、河内系:10%、紀伊系:1%、吉備系:7% 
播磨系:3%、西部瀬戸内海系:3%  
弥生時代末期から古墳時代前期にかけてであり、邪馬台国の時期と
重なる。当時としては広大な面積をもつ最大級の集落跡であり、一
種の都市遺跡である。 
出土土器全体の15%は、駿河・尾張・近江・北陸・山陰・吉備など
で生産された搬入土器で占められ、製作地域は、南関東から九州北
部までの広域に拡がっており、人々の交流センター的な役割を果た
していたことが窺える。このことは当時の王権(首長連合、邪馬台
国連合)の本拠地が、この纏向地域にあったと考えられる。 
伝承では倭迹迹日百襲姫命の墓とされる箸墓古墳があり、これは、
墳丘長280メートルに及ぶ巨大前方後円墳である。 
倭迹迹日百襲姫命はまた、邪馬台国の女王卑弥呼とする説がある(
肥後和男『邪馬台国は大和である』秋田書店)。
以上の点から邪馬台国畿内説の有力候補地と見なされている。

・ヤマト政権発祥の地
『記紀』では、垂仁天皇・景行天皇の磯城瑞籬(しきみずがき)宮
、纏向珠城(まきむくたまき)宮、纏向日代(まきむくひしろ)宮
が存在した伝えられ、さらに雄略の長谷(泊瀬)朝倉宮、欽明の師
木(磯城)島大宮(金刺宮)なども存在した。 
『万葉集』にも纒向の地名がみられる歌が数多く詠まれている。 

・特異な遺跡
纒向遺跡は大集落といわれながらも、人の住む集落跡が発見されて
いない。現在発見されているのは、祭祀用と考えられる建物と土抗
、そして、弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、物流のためのヒ
ノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)などである。遺跡の性格
としては居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まったり、箸
墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための聖地と考える学者
も多い。 

・脚注
^ 大正時代の笠井新也は卑弥呼をモモソヒメに、弟王を崇神天皇に
あてた。根拠は1.崇神天皇の崩年干支が戊寅年で卑弥呼没年に近い
、2.モモソヒメは三輪山の神との神婚伝説や、「日也人作、夜也神
作」の説話などからも一種の巫女であることは明らかで、「鬼道」
を能くしたという卑弥呼の姿によく似ている、3.モモソヒメは崇神
天皇の叔母にあたるが、外国人(陳寿)からみれば、甥と弟ほどの
誤りは許されるであろう、というものであった。この説に対しては
懐疑的な意見が多いが、考古学者のなかには、最古の巨大前方後円
墳が箸墓古墳であることから、箸墓は卑弥呼の墓ではないかとする
見方がある。ちなみに箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160mであ
り、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」
の記述に一致している。 


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