2843.コンテンツと規制について



コンテンツと規制について


                           日比野   

1.規制の対象

先ごろ、総務省が、現行の通信、放送関連の法律を「情報通信法(
仮称)」として一本化して、2010年の通常国会に提出する方針
を明らかにした。インターネットのコンテンツを、「政治的な中立
性が保たれているか」や「公序良俗に反していないか」といった観
点から規制しようというもの。

総務省の報告書では、放送とネットのコンテンツについて、社会的
な影響力の大きさに応じて段階的に規制する枠組みを作るよう提案
があったとしている。

経団連や、日本新聞協会などは今のところ「ネット上の情報規制に
は原則反対」との見解を表明してはいる。

規制は何のためにあるかといえば、それらを使う多くの人が安全に
利用できるため。そのためには、最低限のルールくらいは決めてお
かないといけない。言ってみれば、交通ルールのようなもの。

一般道路のように、大勢の人が共通で使うものについては、最低限
のルールの設定はむろん必要。上り下りで左右どちらの車線を走ら
なきゃいけないだとか、赤信号では停車するとかいう決まりごとす
らないと、そこら中で事故が起こる。危なっかしくて、とても走れ
ない。

だから、規制だとかルールだとかは、普通は共通インフラに対して
かけるべきもの。



2.インターネットの交通ルール

今の日本のネット事情は高速通信が当たり前。ブロードバンドって
、よく高速道路にたとえられていたけれど、そのとおり。情報の高
速道路。そのお陰で重かった画像データとかも手軽に送受信できる
ようになって、便利になった。

ブロードバンドをはじめとするネット網を高速道路にたとえると、
ネットコンテンツはそこを走る車になる。そこで適用される交通ル
ールってなにかといえば、ネット通信規格。

車を使う人にとって困るのは事故や渋滞・混雑。情報は電気信号だ
から、命に関わることはないのだけれど、大量のデータを送付する
ことによる混雑や渋滞と、データが消失するといった事故に相当す
るものがある。だけどこれらはもうほとんど解決してる。

インターネットの通信規格はTCP/IPと呼ばれるパケット交換
方式。これは、送りたい情報を「パケット」とよばれる情報のかた
まりに分割して、これらのパケットを、送り先の相手に近いほうの
交換機に向けてバケツリレーで順次転送してゆく方式。

パケット交換方式は、回線を一人占めしないから、すべての人が同
時に通信回線を共有して使うことができる。渋滞や混雑を緩和する
ための交通ルールになる。

車でいえば、道幅を全部塞ぐくらい車幅があって、長さも何千メー
トルにもなるような、まるで貨物列車のようなトレーラーは走って
はいけない、というルール。そんなのがあると他の車が走れなくな
るから当たり前。

また、車の事故に相当する、データ転送中に、たまにおこるデータ
の消失、パケット損失なんかにも、TCP/IP規格はエラー訂正
機能を持っていて、再送パケットを受け取るまで、他のパケットを
止めておいて、再送パケットを最優先に受け取る仕様になっている
。

事故を起こしたら、救急車がすぐ飛んでこれるように、その他の車
は道を空けて、救急車が通り過ぎるのを待っているのと同じ。

今は、ネットの中を走る「情報の車」の台数がどんどん増えて、送
り先を書いてあるナンバープレートの数が足りなくなってきた。だ
から桁数でも増やさなくちゃとかいって次世代通信規格が検討され
ているくらい情報が飛躍的に増えていっている。

ネットコンテンツは「情報の車」だから、その性能やボディスタイ
ル。色やオプションなど様々。それは車に乗る人、ネットコンテン
ツを見たり書いたりする人の好み。

ネット内を走る「情報の車」そのものの性能や仕様は、ネットの道
を占有したり、パケット損失を起こしたりする事とは全くの無関係
。「情報の車」は決してネットインフラじゃない。


  
3.コンテンツと媒体

「情報の車」は、個々人のPC端末で読まれたり、書いたりされて
その意味を持つ。だからコンテンツの持つ価値は、個人によって異
なるもの。同じコンテンツであっても、興味のある人にとっては重
要な情報だけれど、さして興味のない人にとっては、それほどの価
値は持たない。

だから、社会的に影響力のあるものというのは、「広く一般的に普
及している」という意味と、それを見た多くの人がなるほどそのと
おりと「納得して共通理解になっていく」という意味の二つがある
。前者はネットインフラの部分だし、後者はコンテンツの内容その
もの。

前者的意味においての、「広く一般的に普及している」という意味
での社会的影響力は、情報インフラに属する部分だから、情報媒体
の問題になる。

ネットが普及する前はテレビが、あるいは今でも、第一の情報媒体
だけれど、それ以外にも新聞や雑誌、書籍といったものがある。

更に宗教団体をはじめとする各種団体、企業、井戸端会議にいたる
までの人的ネットワークも一種の情報媒体といってもいいだろう。

後者的意味においての、「納得して共通理解になっていく」という
意味での社会的影響力は、内容そのものが納得できるかどうかだか
ら、その真偽や価値、重要性の判断は情報を発信する人と受け取る
人双方に委ねられる。

だから、「政治的な中立性が保たれているか」とか「公序良俗に反
していないか」とかいうものは、個々人の価値観の判断に委ねられ
るものであって、一意に決められるものじゃない。もちろん長い歴
史や伝統で社会的に合意形成されていった、道徳観というものは確
かに存在するのだけれど、それこそいわゆる公序良俗と言われるも
の。

もし、これらを規制できるものと考えているのであれば、それは全
体主義とでもいうべきものであって、一般大衆は自分の頭で考える
ことなんてしなくて、受け取ったものをそのまま鵜呑みにするもの
だ、と考えていることにもなりかねない。きちんとした価値判断が
固まっていない児童や青少年くらいまでならともかく、大人相手に
もそう考えているとしたら少し問題がある。

今回検討されている「情報通信法(仮称)」では電波放送やネット
の扱いがクローズアップされているけれど、「広く一般的に普及し
ている」という意味での媒体は、ネットやテレビのような通信媒体
だけじゃなくて、紙媒体もあれば、口コミもある。

発行部数が減ってきているとはいえ、新聞や週刊誌だって、「広く
一般的に普及している」という意味では、まだまだ社会的影響力は
持っているし、特定政治団体の機関紙なんかは思いっきり「政治的
に」偏ってる。

たとえば、どこかの団体の機関紙かなにかが、各家庭、各世帯に一
軒残らず配られることになったとしても、読みたくない人はゴミ箱
に直行するし、くだらないテレビ番組だと思ったらスイッチを切る
だけのこと。この選択の自由こそ保障されるべきもの。これさえき
ちんとしていればいい。

もし、紙媒体や各種団体が規制されずに、ネットだけが規制される
ような動きになって、それが利権がらみであったとしたら、紙媒体
や各種団体が自分達の影響力が低下することを恐れての、ネットへ
の攻撃と見えなくもない。



4.中立とは何か

政治的立場もそうだけれど、情報に中立性を求めるのはそもそもに
して難しい。

まず絶対的な中立の基準からして決められない。価値観や伝統です
ら、時代と共に変遷してゆくもの。仮に決めることができたとして
も、右や左の人からみれば、それこそが偏ってみえるし、右や左の
どちらかが多数派を占めると、以前は中立だった考えが途端に異端
扱いになる。

だから、中立って、どの意見にも与さないか、どの意見も全て等し
く賛成するかのどちらかの立場しかとれない。

たとえば、テレビの政治系番組で、どの意見も言ってはいけないか
らと、「総理が10時に官房長官と面会しました。」とか事実だけ
をひたすら伝えて、キャスターのコメントもなく、コメンテーター
もいない番組をやったとしても、視聴率はほとんど期待できないだ
ろう。

逆に全ての意見を紹介しようとして、100人のコメンテーターに
一分づつ全員に喋らせたとしても、決して完璧にはなり得ない。1
01人目のコメンテーターだっているだろうし、視聴者の意見の中
には、数が多い分だけもっと違った意見もあると考えるのが自然。
視聴者FAXを全部紹介していたら日が暮れる。

また、週刊誌や書籍に中立性を求めることは、もっとナンセンス。
事象を分析する切り口の鋭さや、著者の見識の高さによって、商品
として成り立っているのだから、中立な立場にはなり得ない。

だから、中立性を保つというのは、中立という情報がある訳ではな
くて、様々な方向に偏った情報の山の中から、視聴者や読者が自分
の立場で、自由に選択できて、その内容の価値判断もその人に完全
に委ねられる環境を保障するということになる。受け取る側のニュ
ートラルな立場を守るということ。

この情報しか読むな、考えるな、と縛り付けたら、その瞬間から中
立ではなくなる。それは全体主義への最短距離。



5.自由と公平

新聞や本、ネットでもそうだけれど、読む人が情報を得ようとする
とき、まず見るのは見出しや題名。現代人は忙しいから、全部の雑
誌の全部の記事を丹念に読むことなんて殆どできないし、しない。
だから各社は読者の気を引こうとして、刺激的な見出しをつけて、
少しでも読んでもらおうとする。

ネットでも新聞社のHPがあるから、そこを何の気なしに読むとい
うのもあるけれど、中には、詳しく読みたい記事もある。それにつ
いてはそのHPだけじゃなくて、他の新聞社のHPや関連するブロ
グの記事なんかも読んでみたくなる。

そんなとき威力を発揮するのが検索エンジンと呼ばれるもの。

検索エンジンとは、キーワードを入力すればそれに関連した情報を
ネット内のあらゆるコンテンツから検索して、表示してくれるツー
ルのこと。

検索エンジンにはいくつかの種類があって、どの情報をどうやって
検索してくるのかが一番の急所。企業秘密の部分。検索エンジンを
提供している各社はそれぞれ、エンジンの性能や精度を上げようと
鎬を削ってる。

なぜかというと、検索した結果、該当する記事が何万件もあった場
合、検索結果を表示するページだけでも何百ページにもなる。忙し
い現代人はそんなに暇じゃないから、最初の数ページだけ見るのが
普通。一説には検索順位で上位10位以内にないと殆ど読んでもら
えないとも言われている。

だから、情報を出す側は、自分の情報を広く読んでもらいたければ
、検索結果で上位にランクされることを望むし、検索エンジンを提
供する側はなるべく、公平中立に検索順位を決めたい。

公平中立という言い方は少し語弊があるかもしれないけれど、要は
使った人に満足してもらえるような検索エンジンを作るということ
。たとえば、あるエンジンの検索で上位にくる情報は、いつも質が
高く、多くの人の支持が得られる性能の検索エンジンと、上位くる
情報はつまらないものばっかりで、検索結果を何ページも後ろにい
って、ようやく見るべき価値のある情報を検索してくる検索エンジ
ンがあったとすると、多くの人に使われる検索エンジンはどちらに
なるかというのは言うまでもない。

だから検索エンジンは、単にネット内の情報を無作為に検索してい
るわけではなくて、如何にして価値ある情報を抽出できるかでその
性能が計られていると言っていい。



6.情報価値のつけ方

検索エンジンの中で、急成長を遂げているもののひとつにグーグル
というのがある。

米ComScore社は、2007年8月における世界の月間検索
エンジン利用事情を調査した最新レポートの発表を行った。その結
果、グーグルは、世界で最も多くの月間検索利用を記録し、全検索
回数の実に60.8%と、圧倒的なシェアを確保してダントツ1位
を記録している。

グーグルの検索エンジンの中身は勿論公表されていないけれど、基
本となる考え方は示されている。それはリンクの数とペイジランク
という考え方。

リンクの数とは、文字どおり、対象のサイトがどれだけ他のサイト
からリンクして貰っているかの数。他の人の支持がどれくらいある
かの指標。

ペイジランクとは、グーグルが開発した、WEBページの重要度を
ランク付けする仕組み。ペイジランクは0〜10で表示され、数値
が大きいほど評価が高い。

コンテンツに対して、「多くの良質なページからリンクされている
ページは、やはり良質なページである」という再帰的な関係をもと
に、全てのページの重要度を位置づけている。

グーグルの検索は、これらリンク数やペイジランクなど様々な指標
を総合的に判定して、最終的に評価の高かったページを検索の時に
上位に表示される仕組みにしている。 

これらの考え方は実に民主的であって、いってみれば、先ごろ自民
党総裁選でやったような党員投票に近い。リンク数は地方票で、ペ
イジランクは良質なものに対する重みづけをしたものだから、ちょ
うど議員票に相当するだろうか。

つまりグーグルは、検索対象の情報価値をネット利用者が持ってい
る「選択の自由」という中立性を使うことによって判定している。
情報の価値の付け方そのものを民主化して公平な検索を実現してい
る。

もし、どこかの団体の息の掛かった検索エンジンがあったとしたら
、それは、その団体の宣伝文句ばっかり検索するに決まってる。だ
から、グーグルの検索方法は公平性や中立性を保つという意味にお
いて、とても優れているように思える。

検索エンジンのように、自らのコンテンツを持たない存在は、コン
テンツを持たないが故に、その検索の中立性が大切であるのは言う
までもない。



7.2ちゃんねる

ネットにはグーグルと同じく、自らのコンテンツを持たない存在も
ある。その中で代表的なものは、1000万人が利用しているとも
言われる2ちゃんねる。

2ちゃんねるにはテーマごとに数百の掲示板が用意されていて、そ
れぞれの掲示板はさらに話題ごとに閲覧者が作成した「スレッド」
と呼ばれる小さな掲示板に分かれている。

2ちゃんねるは「匿名掲示板」だけど、中には特定のハンドルを名
乗る投稿者もいるし、発言者をシステム的に厳密に識別できる仕組
みも用意されている。

スレッドに参加者が、それぞれ自由に発言を書き込む匿名掲示板は
、書き込まれた内容がコンテンツになるわけであって、2ちゃんね
る自身が独自のコンテンツを持っているわけじゃない。

だから、そのコンテンツの良し悪しは、書き込まれた内容そのもの
や発言数に依存する。いきおいテーマやスレッドごとに、その内容
・質・量ともに物凄く差がつくこともある。

2ちゃんねるは、匿名性が問題だとか、便所の落書きだ、とかいっ
た批判もあるけれど、匿名ゆえに権威が発生することがなくて、書
いてあることの内容そのもので勝負される。個別の発言内容が吟味
される。スレッドの中に優れた内容があった場合、それをみた多く
の人が支持し、情報価値が決まってゆく。

いつも有益で質の高い発言をする人が特定のハンドルを名乗って発
言を続けていくと、その内容が支持され、その発言者も支持され、
カリスマ化していくこともないことはないけれど、それでも変な内
容にはその内容について批判できる自由があるし、実際そうなるこ
ともある。

2ちゃんねるも情報の価値の付け方という意味ではグーグルと同じ
く、民主的な価値決定プロセスをとっている。



8.ロングテール

オンラインショッピングの世界でよく取り上げられるビジネスモデ
ルとして、ロングテール・ビジネスモデルというのがある。

ロングテールとは、商品売り上げのグラフの縦軸を販売数量、横軸
を商品名として販売数量順に並べると、あまり売れない商品が、恐
竜の尻尾のように長く伸びることから、この長く伸びた部分を「ロ
ングテール」という。

ロングテールに含まれる商品は、販売数量が低い割りにアイテム数
の多いことを示し、従来のオフラインショッピングのような一定数
以上の在庫を持てない小売形態では、切り捨てられていた部分。

オンラインの小売店は、在庫をそれほど用意しなくても良く、また
物流もうんと安くすむようになった。それに伴い、今まで切り捨て
られていたロングテールの部分の商品を扱うことで、小さな売り上
げを積み上げるビジネスモデルも成り立つようになった。このビジ
ネスモデルをロングテール・ビジネスモデルという。

情報の世界も同じで、よく検索される情報を縦軸に、情報の内容を
横軸にとれば、同じようにロングテールが発生する。

普通、極端に偏った内容であるとか、あまりにも公序良俗に反する
ような内容は、表には出されにくいし、出してはいけないものだと
いう暗黙の了解があるから、そういった情報は、大抵はロングテー
ルの部分に存在することになる。

また、中立を謳うあまり、どこの意見にも与さないという情報は、
全くのマイナーな存在になるので、これもロングテールに所属する
ことになる。

唯一、逆の意味で中立、どんな意見も全部賛成するような情報だけ
が、検索上位にヒットする可能性があるけれど、他のどこかのコン
テンツでも同じことが言われている筈だから、いわゆるその他大勢
の意見を列挙して纏めただけ、というコンテンツになる。

ネットはテレビと違って、情報発信媒体が何百万とあるから、各種
意見の列挙とまとめだけでは、「広く一般的に普及している」とい
う意味では影響力はあるかもしれないけれど、それを見た多くの人
が、列挙された全部の意見に納得することはあり得ない。

なるほどそのとおりと納得する情報は、その中に列挙してある、ど
れかひとつかふたつの意見に対してだけ。

またロングテールには、中立とは別の観点で、新しい時代を切り拓
くような価値情報、天才が発信する時代を超えた情報も含まれてい
ることがある。

だけど、時代を超えすぎた情報は、大多数の人々には普通は理解さ
れないものだから、なんども検索され、使われる情報にはならない
。だから天才の発する情報もロングテールに埋もれてしまうことが
多い。



9.万人の秀才とひとりの天才

コンテンツ自体は何がしかに偏ったものしかありえないと言ったけ
れど、政治的内容とか、公序良俗だとか、その他優れた考えなんか
が同じ人から発信されている場合も当然ある。

その人の思想が政治的にも、公序良俗的にも、全体の思想体系とし
て構築されていると、抵触しているここだけ削除、なんて分離でき
ないことだってある。無理強いすれば、表現の自由を束縛し、天才
を凡人に変えてしまうことにもなりかねない。

だからコンテンツそのものを、中立性が守られているかとか、公序
良俗に反していないかといった観点だけで規制してしまうと、その
人の価値観や能力全て、要するにロングテールに含まれるコンテン
ツ全部をちょん切ってしまう可能性が出てくる。

しかも一番肝心な、しっぽのどこから切ってしまうかの裁量は、担
当役人の匙加減ひとつ。

つまり、中立性だとか、公序良俗だとか、天才の意見だとか含めて
、しっぽでない部分、生き残る部分の限界は、担当役人の価値観や
能力の限界によって決まる。

担当役人が天才をしっかり見極められるくらいの眼力がある場合は
いいのだけれど、そうでないと折角、将来世の中を震撼させるくら
い凄いコンテンツがあったとしても、それが少しだけ政治的に偏っ
ていたりだとか、公序良俗に触れるだとかいった理由でちょん切ら
れたとしたら、その損失は計り知れない。

社会を滞りなく維持運営していくためには、秀才がある程度の人数
以上いればいいのだけれど、世の中を一気に進歩させるのは、往々
にして、ごく少数の天才達。

場合によっては、たった一人の天才が世の中を変えることだってあ
る。

だから、コンテンツの内容の判断は民主的方法で行うのがいい。た
とえその時代では認められなかった情報であったとしても、発表の
場さえあれば、後世の人が発掘して評価を与えることもできる。発
表の場すら与えられないと将来の価値の芽を摘んでしまうことにな
る。

押さえておくべきもの、保障すべきものは「表現の自由」と「選択
の自由」。

そこで大切なことは、個人の判断の基準となる価値観の部分をどう
やって培っていくかの部分。平たく言えば、家庭を含めた教育の問
題。

ここをしっかりできれば、価値の低い情報、公序良俗に反する情報
は自然淘汰されていく。市場原理を情報の世界に適用すればいい。

物事の善悪きちんと見極められる人をしっかりと教育して増やして
いくこと。嘘を嘘と見抜ける人を増やしていくこと。それが遠回り
のようでいて、結局は一番の近道。

(了)


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