2838.地方政権としての出雲大社



12月29日から31日、出雲大社に行って来た。  Fより

青春18切符が3枚あったので、行き帰りも鈍行列車で出雲大社に
行くことにした。今回は息子も付いてきた。東横インを事前にイン
ターネットで予約して出雲1泊、帰り京都で1泊した。

これは、宇佐神宮を調査して大きな疑問が沸いてきたためである。
白村江で負けた後、大和朝廷の日本化で出雲大社は宮司の変更があ
ったのか。なぜ、日本書紀に秦氏の神話がなく、「大国主大神」の
出雲神話は取り上げられているのか?だ。

宇佐神宮で秦氏を見ると、どうも663年白村江の戦いで百済・大和朝
廷軍が新羅・唐連合軍に大敗した後、大和朝廷はニッポンの日本化
をして、新羅・唐との戦に備えた。667年近江大津に都を移し、681
年から律令の編纂を開始して、701年に大宝律令が完成する。日本を
中国と同じ律令国家にして、倭国から日本に名称も変える。王を天
皇にした。中国圏からの独立である。

この過程で、秦氏は新羅からの帰化人であるために、信用されずに
宇佐八幡は天皇家の子孫である大神氏に取られて、秦氏は山背(山
城)と大隈に移されてしまう。

667年の日本化を開始する以前、朝廷は地方政権の存在を認めていた
が、唐と新羅連合軍の侵略を心配した大和朝廷は地方政権の吸収を
図った。この権力の吸収に抵抗したかのが出雲でしょうね。しかも
中国地方の大領土を朝廷に奪われることになる。出雲を押さえたこ
とで、朝廷は日本の豪族に国譲りを強制できたのだと見る。

大国主大神は、「豊葦原瑞穂国」を築かれたとあり、米作をこの地
に根付かせたことで経済が豊かになり、井沢元彦さんの「逆説の日
本史」によると、鳥取・兵庫・北陸の国を吸収して、大きな国にし
たようだ。それと大蛇に想定された斐伊川を治水して、米作ができ
る地帯にしたのでしょうね。出雲大社の本を読むとそう書いてある。
このため、天皇家の子孫が代々出雲大社の宮司になって大国主大神
の崇拝をして、かつ最初の国史でもある日本書紀に、出雲神話の一
部が挿入されている。

このように秦氏とはその待遇が大きく違うようだ。出雲と畿内では
文化圏が違う。九州・出雲を中心とした銅剣文化圏で、畿内を中心
とした銅鋒文化圏とは違う。出雲大社の宮司は就任するときに意宇
郡の熊野神社の承認が必要であるという。この熊野神社は、和歌山
の熊野三山とは別の神を祀る神社である。出雲も元は2つの国に分
かれていたことがこれで分かる。

大和朝廷内に帰化人の貴族と元からいる豪族の権力闘争があったよ
うに感じる。663年後、帰化人が優遇され、土着の豪族たちが抵抗し
て滅ぼされたか、国譲りをして貴族になったかでしょうね。

ここで思い出すのは、奈良郊外の三輪山は円錐形の山であり、古来
より大国主神(おおくにぬしのかみ)の鎮まりますお山、神体山と
して信仰されている。この神社は大神神社(おおみわじんじゃ)で
、日本最古の神社と言われている。この神社ができたのは5世紀以
前のことであろう。

ここで全体が繋がる。九州・秦氏の宇佐神社に天皇家の系列である
大神氏が体制維持のために送られたのであろう。出雲大社と三輪の
大神神社は大国主神を祭ることで共通している。

古代の出雲大社は、縄文時代の様式である大きな柱で非常に高い建
物であったと伝承されている。このため、古い格式を持っていたよ
うだ。出雲を平定して後大和を支配した。一年に一回、各地の豪族
は出雲で会議をしたのだ。しかし、応神天皇か神武天皇の東征で負
けて出雲に戻った可能性もある。このため、天武天皇から国の没収
を言い渡された時に、抵抗したのでしょうね。

同じように、大隈の隼人族は朝廷の申し出を断って乱を起こし、大
伴旅人を大将とした朝廷軍が隼人を征伐することになる。このとき
、秦氏一族は二分されているが、一方が天皇家に着いたので生き残
った。

このように神社を調べると、日本書紀が書かれた7世紀の時代が分
かるようだ。
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出雲大社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

所在地 島根県出雲市大社町杵築東195 
主祭神 大国主大神 

出雲大社(いずもおおやしろ、いずもたいしゃ)は島根県出雲市に
ある神社である。式内社(名神大)、出雲国一宮で、旧社格は官幣
大社。近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。

祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。 古来より「国中
第一之霊神」として称えられ、その本殿は「天下無双之大廈」と評
された。

縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百
万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日〜17日)
。正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもた
いしゃ」と読まれる。

1.由緒
神紋(二重亀甲に剣花菱)日本神話によれば、大国主神が天津神に
国譲りを行う際、その代償として、天孫が住むのと同じくらい大き
な宮殿を建ててほしいと求め、造営されたのが出雲大社の始まりで
あるという。古代より杵築大社と呼ばれていたが、明治4年に出雲大
社と改称した。延喜式神名帳には「出雲国出雲郡 杵築大社」と記載
され、名神大社に列している。神階は貞観9年に正二位まで昇った。
江戸時代には社領五千石を有していた。明治4年(1871年)に官幣大
社に列格し、大正時代に勅祭社となった。現在は神社本庁の別表神
社となっている。

創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を
担ってきた。現在の宮司は84代国造千家尊祐で國學院大學を卒業後
太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格し平成14年宮司に
就任し翌年神社本庁より神職身分特級を拝受している。また、宮司
の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく
黒綾にご神紋である二重亀甲剣花菱の文様を練り込んだものであり
他に類を見ない。


2.創建伝承
出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られてい
る。以下はその主なものである。

大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の
様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただ
ければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の
「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造
った。(『古事記』) 
高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に対して、「汝の住処となる
「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱
を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命をに祀らせよう」と
述べた。(『日本書紀』) 
所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築
いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷) 
神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度
をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風
土記』楯縫郡) 
垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であ
ったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり
、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟
智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、
菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』) 
斉明天皇5年、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。
(『日本書紀』) 
注:熊野大社のことであるとの説もある。 
伝承の内容や大社の呼び名は様々であるが、共通して言えることは
、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮
が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によ
るものではなく、古代における国家的な事業として行われたもので
あることがうかがえる。

また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇
の時が第2回の造営とされている。


3.祭神の変化
出雲大社の祭神は大国主大神であるが、寛文6年(1666年)毛利綱広
が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」
とあり、この当時には祭神が素戔嗚尊とされていたとみられる。

4. 本殿
現在の本殿は8丈(およそ24m)で、これも神社としては破格の大き
さであるが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16
丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられる。そ
の伝承より想定される形は大変不思議なもので、空に向かって延び
た何本もの柱の上に社が建つというものであった。この想定は東大
寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より巨
大であったとされる。これは平安時代に源為憲によって作られた「
口遊」で数え歌に歌われている(雲太、和二、京三=出雲太郎、大
和次郎、京三郎[1])ことを元にしている。

平成12年(2000年)、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際
し、境内からは勾玉などの他、巨大な柱(1本約1.4mの柱が3本束ね
たもの)が発掘された。古代社殿の柱ではと注目を集めたが、中世
の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の成分分析からも宝治2年
(1248年)造営の本殿の可能性が高まった。

・ 『雲太、和二、京三。今案、雲太謂出雲国城築明神神殿。和二謂
  大和国東大寺大仏殿。京三謂大極殿、八省。』 
・ その後に続く数え歌を考慮すると、高さの順を表したものではな
  く、神社(神)、寺院(仏)、住宅(人)の順との説もある。 

出雲大社

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