おぼえていろよおおきな木

おすすめの1冊看板

おぼえていろよおおきな木


■第54回/おぼえていろよおおきな木

おぼえていろよおおきな木表紙 佐野洋子さんと言えば「100万回生きたねこ」という方が多いだろう。この「独断でおすすめの1冊」でも第15回にそのベストセラー絵本をご紹介しているが、今回ご紹介するのはその佐野洋子さんの作品でも「ねこ」は登場しない。タイトルからしても「おや?なんだろう?」と思わせる作品だ。「おぼえていろよ おおきな木」である。「おぼえていろよ」…とくれば、だいたいにおいていわゆる「捨てゼリフ」である。悪者が突然登場した正義の味方にこっぴどく痛い目に合わされ、そそくさと退散する際に悔し紛れに残す言葉がこれである。…ということは、このお話もそんな内容なんだろうか?まぁ、それは実際に読んでみてのお楽しみである。

 …しかし、それでこの絵本の紹介を終わらせるわけにはいかないから、例によって簡単な内容紹介をすると、まずそれはそれはとても立派な大きな木があり、そのそばの小さな家に一人のおじさんが住んでいた。ところが、おじさんはどうにもその大きな木が気に入らないようである。なぜなら朝は、その大きな木に小鳥が集まってきて鳴くから、その鳴き声がうるさくて眠っていられないからである。だから、おじさんはねまきのまま飛び起きると、その木を蹴飛ばして言うのである。「おぼえていろよ」

 そのおじさんは、大きな木の下でお茶を飲むのが好きだったが、お茶を飲んでいると、その木にとまった小鳥のフンが落ちてくるのである。すると、おじさんはまた木を蹴飛ばして言うのである。「おぼえていろよ」

 夏になって、おじさんがハンモックをつって昼寝をしていると、おじさんの上に大きな木からぶらさがった何匹もの毛虫がいた。驚いて飛び起きたおじさんは、またしても木を蹴飛ばして言うのである。「おぼえていろよ」

 秋になり、その大きな木にたくさんの赤い実がなると、今度は近所の子どもたちに盗まれた。冬になり、雪が降れば雪かきをするおじさんの上に大きな木に積もった雪がドタッと落ちてきた。頭にきたおじさんはやっぱり木を蹴飛ばして言うのである。「おぼえていろよ」…蹴飛ばして衝撃でさらにたくさんの雪がおじさんの上に落ちてきた。とうとう切れたおじさんは、斧を持ち出して「おぼえていろ!!おぼえていろ!!」と叫びながら大きな木を切り倒してしまった。

 おじさんはスッキリした気分になった…はずなのだが、朝になると今までうるさく聞こえていた小鳥の鳴き声が聞こえないから、おじさんは朝になったのがわからずに朝寝坊してしまった。お茶を飲んでも今まであった木陰がない。昼寝をしようとハンモックを出しても、それをぶらさげる木がない。おじさんは自分で切り倒して残った切り株の上に倒れて大声で泣いた。泣き続けた。そしてよ〜く見ると、その切り株から、小さな新芽が出ているのを見つけた。おじさんは、その新芽を大切に育てた。そしてその新しい木はぐんぐん伸びていったのである。

 …最初、おじさんは大きな木の存在が気に入らなかった。本当は、その木があるおかげであることがあったのだが、それを認めず、マイナス面ばかりを見つけ出しては八つ当たりして木を蹴飛ばしては「おぼえていろよ」と言っていたのである。そしてプッツンしてしまい、その勢いで木を切り倒してしまうと、そこで初めてその大きな木のプラス面を認識するのである。自分が感情にまかせてやってしまったことを後悔しても「時すでに遅し」である。そんな時、見つけた新芽。おじさんは朝は早く起きてせっせと水をやり、大切に世話をするのである。その甲斐あって、新しい木はすくすくと成長していくのである。そこで、このお話はエンドである。

 「おぼえていろよ」と言っては木を蹴飛ばすシーンには季節ごとの状況が描かれている。そして切り株だけになってしまってからのシーンが同じように季節ごとに描写されている。それはまったく左右対称である。だから、その「違い」が小さな子どもにも非常にわかりやすいだろうし、おもしろい。「おぼえていろよ」と、木を蹴飛ばしていたシーンを思い出して、それがなくなった時に、おじさんがどんな状況になったか、そんな想像する楽しみもある。そして最後は思わず、「よかった」と心がポカポカしてくるようなエンディングである。

 お話としては、日常的であり、展開としてはシンプルである。理屈抜きでもまったく抵抗なくお話に入っていけるし、例えば読み聞かせでもすれば、きっと子どもは切り株だけになってしまってからのおじさんの行動や気持ちの移り変わりをいろいろに想像するだろう。取り立てて難しいことを言うわけでもなく、この絵本の意図するところを分析するつもりではないが、実は非常に意味深いお話である。もちろん、絵本は楽しみながら読めばいいのだから、そこから何かを学び取らなければいけない…などと堅苦しく考える必要などない。しかし、このお話はとっても大切なことを教えてくれていると思わないだろうか?

 自分自身の身の回りに、当然のことのように存在するからその「ありがたみ」などまったく意識せずに、逆にその「アラ探し」ばかりして不満に思っていることはないだろうか?例えば電気はどうだろうか?スイッチを入れれば明るくなる電球が切れてしまったら暗闇で困るだろう。テレビにしろ、冷蔵庫にしろ、いろいろな電化製品は普段まったく意識せず、当たり前のように使っているが、いざ停電したらどうだろう。「健康」はどうだろう?普段、どこも具合が悪くなければ、それが当然だから健康であることのありがたみよりも、日常的な不平不満ばかり気にする。ところが病気にでもなって寝込んでしまった時、誰だってその時「健康が一番」などと改めて認識するものではないだろうか。

 その存在がなくなってみて初めてわかること…そうしたことはあまりにも多い。しかし、そうした「気づくこと」は決して愚かなことではない。「気づく」ことが大切なのである。意識しなかったことを意識し、その価値を認識することが重要なのである。誰だって人間である以上、失敗はする。失敗することは決して恥ずかしいことではない。愚かなのは、その失敗を認識しないことである。気づかないことである。過ちを認めることは、その時点で真実を知ったことなのである。最悪は気づいてもそれを認めないことである。認めなければ、確実に同じ過ちを繰り返す。気づかなければ真実を見出すことは出来ない。

 このお話の主人公であるおじさんは、何度も「おぼえていろよ」と言っては木を蹴飛ばした。そして切り倒して、その存在をなくしてしまった。そして、なくなってみて初めてその木の存在価値を見出したのである。泣き続けて、見つけた新芽はまだまだ小さいもので、以前のような大きな木に成長するためには、きっと長い年月を要するだろうが、おじさんにとっては以前の木に勝るとも劣らないほど「大きな木」なのである。日常の様々なことを再認識するためにも是非読んでみていただきたい1冊である。


おぼえていろよおおきな木
●作・絵/佐野洋子●講談社刊●880円(税込)●サイズ/22×15.5cm●48ページ
表紙
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