真実はいつの時代も…/エッセイ

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 ■第26話/真実はいつの時代も…■

 もう半年ほど前になってしまうが、メル・ギブソン監督の「パッション」という映画をレンタルビデオでレンタルし見た。じつはこの「パッション」という映画は公開当初から、かなり気になってはいたのだが、見る機会を逸してしまい、レンタルビデオショップでもレンタルしようと思いながら、「貸出中」であったりタイミングがなかなかあわず、映画通の方からすれば「今さら」とお叱りを受けてしまうかもしれない。

 この「パッション」というのはイエス・キリストの処刑までの12時間を克明に描いた作品…というPRコピーで、それからしても、それまでのいわゆるイエス・キリストの生涯を描いた伝記的作品とは異なるイメージを感じていた。それまで、キリスト教を題材にした映画は数本見ていたが、中でも「偉大な生涯の物語」はお気に入りの作品であり、DVDも購入した。この作品はチャールトン・ヘストンが預言者ヨハネを演じ、ジョン・マックスフォンシドーがイエスを演じているもので、それこそイエス生誕前から処刑・復活までを描いたイエスの生涯を描いている。イエスの生涯を知る上では非常にわかりやすく、かつ感動的でスケールの大きな作品だと思う。

 それに比べると「パッション」はかなり異質である。確かにPRコピーで謳われている通り、イエスが処刑されるまでの12時間が克明に描かれている。イエスの生誕前後を含めた生涯をこの「パッション」のペースで紹介していったとしたら何時間の映画になるのだろう…と思えるほど、その12時間に焦点を合わせた作品である。筆者がこの映画でまさしくパッション…つまり衝撃を受けたのはとりわけ人間の残虐な面の描写である。イエスが12使徒の1人であったユダに裏切られ、捕らえられてしまうことは有名であるが、そこから処刑に至るまでの経緯は、せいぜいゴルゴダの丘まで、イエス自ら十字架を担がされ、そして十字架にはり付けにされ、その生涯を閉じる…という描写である。
 ところが、この「パッション」では、捕らえられたイエスが受ける拷問のむごさが強烈に描かれている。何故そこまで…、そこまで人間は同じ人間(イエスを人間と表現していいのか定かではないが…)に対して残虐になれるのか?と思えるほど凄まじい描写である。目を背けたくなるほどに鞭打ち、それでも容赦なくさらに鞭打つ兵士…。そのむごさはもちろん映画である以上、演じている役者の演技が見事なのかもしれないが、画面に向かって「もうやめろ!お前はそれでも人間か!」と制止したくなるほどである。
 そして、ゴルゴダの丘で自ら運ばされた十字架にはり付けにされるシーン。手足にクギを打ちつけられるのだが、このシーンも、それまでの映画ならその恐ろしいまでの苦痛はあっという間に通過するのだが、この「パッション」ではそんなシーンまでも克明に描いている。手のひらに太く大きなクギが打ち込まれることが、どれほどの苦痛か、それをまざまざと見せつける。

 では、この「パッション」というのは残虐シーンを中心に描かれた作品なのか…というと決してそうではない。確かにそうした人間の奥底に潜む「残虐性」がクローズアップされている。メル・ギブソンという人気俳優が監督としてこの映画で何を最も表現したかったのかは筆者のような映画評論家でもない単なる「視聴者」にはわかるはずもないが、感じたことは「真実」に対する人間の醜さや残虐性である。

 筆者はいわゆる学歴としては文学部のキリスト教学科卒業であるが、クリスチャンではなく、誇れるほど勉学に励んだわけでもなく、キリスト教に精通しているわけではない。が、歴史としての意味で、イエス・キリストが行ってきた行動や言動にはなにひとつとして「迫害」されたり、処罰を受けるものがあったわけではないことは事実である。ユダヤ人を導いたことは事実ではあっても、いわゆる「犯罪行為」はない。もっとも歴史上では「神の子」を主張したことが、「神の冒涜」という罪に問われたことになるのだが、これはあくまでも宗教上での見解であり、一般的な「犯罪」では決してあり得ない。イエスはあくまでも「真実」を主張しただけのことであるはずである。

 この文章はキリスト教の解説などではなく、イエスの正当性を主張するものでもないが、筆者として言いたいことはこうした「真実」がいつの時代にでも必ず「迫害」を受け、考えられないような人間の残虐性をまともに受けてしまうことである。何故なのだろうか?何故、人間はそこまで残酷になってしまうのか?
 「真実」はある意味では「脅威」なのである。「恐るべき」ものなのである。まともに直視するのは多かれ少なかれ裏表があってしかるべき人間にとっては怖いものなのではないだろうか?「真実」を認めることには勇気が必要なのではないだろうか?
 それはその個人の利害関係が絡んでくると一層巨大な「脅威」となるものである。
身近な例で思い当たる人も多いのではなだろうか?「真実」がそこにあっても、それを認めることが自分にとって明らかに不利になるのであれば、それでも「真実」を「真実」として認めることができるだろうか?心の奥底では認めていても、後ろめたい気持ちを持ちつつも、ひたすら「真実」を隠し、その上に自らが造り出した「真実もどき」を重ね塗りしてしまうのである。そして、その「真実もどき」を「真実」だと周囲に吹聴し、自らも信じるように思い込み、カムフラージュするのである。

 「メッキが剥がれる」とか「化けの皮が剥がれる」…などという表現がある。この表現はその内容の通り、上塗りしたものはいつかは剥がれてしまうということである。「真実」もまさにその通りだと筆者は思うである。例え、巧妙に「真実」を闇に隠したとしても、必ず「真実」の光はほんのわずかの隙間からでも輝きを現すものである。「真実もどき」が慌てて、その隙間を塞ごうとしても時間の経過とともに、「真実」の光はさらに輝きを増して、その隙間を大きなものにしていくのではないだろうか。
 「出る杭は打たれる」という表現もある。これもある意味では、人より抜き出てしまう存在はその頭を押さえつけられ、打たれて、へこまされてしまうという意味である。しかしこの表現の真意は「それでも出る杭は出る」という表現が続くものと、筆者は解釈している。「出る杭」は「真実」なのである。「真実」だからこそ、いかにへこまされてもいつか必ず出るのである。

 「真実」という光が、杭が、眩しいばかりにその全容を現すまでには長い年月を要することもあるだろう。いや、むしろ長い年月がかかるものと言うべきだろう。「パッション」という映画で表現されたイエスの処刑までの12時間に受けた「真実のひた隠し」から来るむごいまでの残虐性は、気の遠くなるような長い年月を経た今に至っても事実キリスト教という宗教として信仰されているではないか。「真実」は必ずその姿を現すものなのである。まがい物が自然淘汰される過程においても、本物は必ず残り、受け継がれていくこのなのである。これは宗教に限らず、身近な物においてもそうではないか。

 なにやら「パッション」という映画の解説もどきから、話がいろいろと紆余曲折してしまった感があるが、「真実」というものが過去の歴史を見ても、常に「迫害」を受け、打たれて、へこまされて、屈辱を受けて、潰されて、鞭打たれ…それでもいつか必ず「勝利」を納めるものだということを筆者は訴えたかったのである。
 決して自分を偽らず、自分自身に正直に、「真実」を持って生きている素晴らしい人たちへ、「歩んでいる道は今は厳しくとも、必ず大きな光に包まれる道」だと拙い文章を通して言いたかったのである。


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