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エンド・オブ・デイズ
END OF DAYS 1999年アメリカ 監督ピーター・ハイアムズ 出演アーノルド・シュワルツェネッガー/ガブリエル・バーン/ロビン・タニー ●122分 ギャガ=ヒューマックス=東宝東和配給 ●オフィシャル・サイト● http://www.end-of-days.net 千年紀の終わりに蘇るサタン(バーン)と、彼の花嫁に選ばれた娘(タニー)。地球の運命は、娘を守るジェリコ(シュワルツェネッガー)の手にゆだねられる……。シュワちゃんが、『バットマン&ロビン』以来2年ぶりにスクリーンに復帰した、オカルト・サスペンス&アクション。 |
| SHIMIZU★☆商売上手のシュワちゃんが「ミレニアム」(千年祭)にひっかけただけの、ノベルティーぽいお手軽アクション作です。趣向はミレニアムに悪魔が地底より甦り、生まれた時からキープされていた悪魔用の「花嫁」とFUCKすれば、この世は地獄と化すというオカルト調。原題は悪魔によってもたらされるかもしれない「滅びの日」(原題)を意味しているわけです。宗教的なテーマに触れる内容のわりには、有名な悪魔の印「666」(『オーメン』で出てきたやつ)が実は逆さにした「999」が正解で、これに「1」を加えた「1999」が悪魔到来を示す暗号みたたいな、未だかつて聞いたことのない「珍説」が飛び交う悪魔映画なのです。 その悪魔はまず、ウォール街の銀行家(役名はザ・マンと名無し)に憑依するかたちで登場します。悪魔に憑依されたザ・マンを演じるはガブリエル・バーン。得意先の夫婦をレストランで接待中、トイレで憑依されたその男が、席にもどるや夫婦の妻の方ににじり寄り、オッパイをもみながら人妻陶酔のディープキスをお見舞いするシーンからして笑っちゃう。悪魔の小技はこの程度。レストランを出る男の後ろで、派手にレストランがドカーンと爆破。さて、悪魔は街に放たれた。 今回のシュワちゃんは悪魔に憑依された男を護衛するセキュリティ・ガード役。心臓手術後、初のアクション作だけにシュワちゃんはどんなアクションを見せてくれるのか、ファンには興味のポイントだと思うけど、このアクションがパワー不足。ギャングに妻と娘を惨殺された過去を持ち、そのトラウマから銃で頭を撃ちぬきたいという自殺願望の図は『リーサル・ウェポン』のメル・ギブソンのキャラと同じ。アクションをカバーするためちょっと心理演技をもちこもうとしたのかもしれないが、それはシュワちゃんには無理。すべてが手垢のついた二番煎じ大会です。 前半で、ビルの屋上を逃げる、ザ・マンを狙ったバチカンからの「刺客」をシュワちゃんがヘリにぶら下がり、追跡する図は、どう見ても『ダークマン』には及ばない(余談だが、最初の監督はその映画のサム・ライミだったが、『ラブ・オブ・ザ・ゲーム』のため降板した)。地下鉄構内での列車を使ったアクションも『スピード』に比べたら、屁みたいなもん。ま、カーアクションも然り。まったくアクションはB級以下。では、お話のディテールはどうか。ダークなルックスで天井に磔にされた男の体に刻まれた暗号文(?)から「花嫁」を探る図は『セブン』のマネ。しかも、この暗号文が「CHRIST IN NEW YORK」(NYのキリスト)なのに、「CHRISTINE YORK」という「花嫁」の名に符号するとわかる設定は、スペルからいって都合のいいこじつけ。 では、と「スーパーナチュラル」なポイントに目を転じても、透明のゼラチンが動くような「悪魔」は『プレデター』のまんま(VFXが同じスタン・ウィンストンで使い回しの印象)。悪魔が「花嫁」をはらませようとする展開は『ディアボロス』か『ローズマリーの赤ちゃん』か。それがどれも先の映画の水準やアイディアにも到達していない。最後は予想通りの「悪魔」との対決。デカイ翼を持った「悪魔」(ラドンか?!)の姿も迫力なし。シュワちゃんにとっては『T2』の善良版みたいなキャラで、これも新鮮味に乏しい。ちなみにシュワちゃんのギャラは製作(1億ドル)の4分の1にあたる2500万ドル。て、わけで、映画が「滅びの日」だけじゃなく、ヒット街道まっしぐらだったシュワちゃんにとってもエンド・オブ・デイズの危機をはらんだ世紀末の珍作となりました。ジャンジャン。(99/11/25 日劇) YAZAKI★★ピーター・ハイアムズといえば、かのジャン=クロード・バン・ダムのお抱え監督。その彼が、シュワちゃん主演のアクション映画を撮るというのは、ハイアムズのステージが上がったと見るべきなのか、それともシュワ氏のステージが下がったと見るべきなのか? ま、多分に後者の気配が濃厚なこの映画、事前にさんざんな悪評をインプットされて見たせいか、B級オカルト・アクションとしては、そこそこに楽しめました。 おもしろかったポイントは、3ヵ所。ひとつは、レストランのトイレでサタンに憑依されたガブリエル・バーンが、いきなり女の胸をわしづかみにしてキスする場面の悪魔付き変身演技。もう1ヵ所は、バーンの命を狙った狙撃手を、バーンの護衛を依頼されていたシュワちゃんがヘリで追い詰めていくアクション・シークエンス。ビルの屋上を逃げる犯人をとらえようと、ヘリから命綱をつけて降下したシュワちゃんが、犯人をビルの端まで追い詰め、宙づり状態でキャッチ――というアクションは、多分にジャッキー・チェン・モードが入っている感じ(ただし演じているのはスタントマンだけど)。 3番目のポイントは、サタンの子を宿す宿命を負った乙女(ロビン・ターニー)が、バチカンの騎士集団から命を狙われるという、善と悪、正と邪が矛盾しあう設定。ただし、これは、この映画の弱みにもなっている。つまり、自分はサタンの花嫁に選ばれたと知った女が、自己犠牲にめざめ、とっとと自殺しちまえば話は簡単にすむわけで。そんな単純なことにも気づかないのか、はたまたよっぽど命が惜しいのか、ただ受け身にまわって逃げ回るだけのターニーのキャラは、正直言って、ヒロインの魅力ゼロ。ここんとこがもうちょっと何とかなっていれば、「バン・ダム級映画」のレベルから抜け出せたかも、とも思うのだが。 ただ、これ以外にも、「バン・ダム級」と思わせるような穴はボコボコあいている。たとえば、サタンはなぜ、ガブリエル・バーンを選んで憑依したのか? そのサタンに、なぜボディガードが必要なのか? ウド・キアーをはじめとする悪魔崇拝者たちは、どうやってロビン・ターニーのキャラが生まれる病院をつきとめたのか? 考えても答えの得られない珍問疑問が、ボロボロとわいてくる。 ま、そういうことも、「バン・ダム級」(しつこい?)と割り切って見られる心の広い人には、この映画はおすすめ。ターニーの義母(ターニーをとりあげた看護婦)とシュワ氏の格闘シーンが、『007ロシアより愛をこめて』のパロディに見えるところなど、「お笑い系」という意識を持てば、それなりの楽しみが発見できると思うよ。(99/12/03 ギャガ試写室) | |
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御法度
GOHATTO 1999年日本 監督大島渚 出演ビートたけし/松田龍平/武田真治/浅野忠信 ●100分 松竹配給 ●オフィシャル・サイト● http://www.shochiku.co.jp |
| SHIMIZU★★★「あいつ、その気があるな」。たけし演じる土方歳三が「その気」という言葉を頻繁に使う。「ホモっ気」のことをぼかした言い方。そのニュアンスが「御法度=タブー」をかいくぐる感じの、諧謔的な暗号のようであり、ちょっとふざけて人を揶揄したようでもあり、はたまた甘美な憧れでもあるような。不思議で曖昧な「キーワード」。その曖昧さが、この映画に「謎」をはらませます。大島渚監督の、病後の新作は、緊張した中に洒脱な軽さを感じさせるスタイリッシュな快作となりました。 物語の核は18歳で新選組の隊員になった加納惣三郎(松田龍平)。まだ「前髪」をおろしたままで、その色白のルックスは多分に隊員たちの「その気」をそそる存在。彼に接近したのが田代彪蔵(浅野忠信)と湯沢藤次郎(田口トモロヲ)で、3角関係が展開していく。 惣三郎の布団に潜り込み田代がバック責めをする即物的なシーンもあるけれど、大島ワールドではそれはある種の耽美的な儀式のような装い。独特の美意識として「その気」が援用されている。おすぎはTVでこの映画は惣三郎が「絶対な美男」でなければ成立しないお話と否定的な意見を言っていたけど、僕はこれは別にホモのお方の基準をなぞる種類のものではなく、あくまで惣三郎は「触媒」すぎないという考えだ(ま、僕も松田龍平に「その気」は感じないけれど、ね。IZAMとは違って?!)。 実は物語のポイントは、たけし演じる土方歳三にあるのではないか。この物語の語り部というか、物語の謎めいた心象を語るのは実は土方なのですよ。土方の心持ちを借りて、誰しももっているタブーへの向かい方、その心の奥にある謎めいた道を覗いてみる、ちょっと自分が試される映画じゃないだろうか。 彼らの中でわきあがるリビドーのようなものを、劇中では「衆道(しゅうどう)」(こんなコトバ、初めて知った)と表現する。なにか、人の心を妖しく浸食するウィルスのような響き。この映画にはそうした、ある種の「クラス」を意識させるような世界が構築されていく。その感覚が僕には面白い。最初、構えて見ていた僕も、次第に「衆道クラブ」(そんなものがあるわけじゃにけど、新選組自体がすでにメンズ・クラブという意匠)のメンバーカードを手にした気分になり、「その気」に親しみを覚えはじめる。笑いも感じる。 そう、これは堅苦しく構えた映画ではなく、存分に笑いながら、「粋」と「艶」という世界に身を投じる心持ちを狙ったのではないか。「粋」と「艶」とは、ある意味で大島ワールドの大前提。つまりは「粋」はやせ我慢の美学、反体制の心意気。「艶」はこれまた人間を語るアナーキーでヒューマンな有り様。ふと、僕得意の(?)飛躍で言えば、タイプは違うけど、同じ幕末の人間群像を描いた日本映画の至宝にして、僕のお気に入りである川島雄三監督の『幕末太陽伝』の関西版という感じが、チョロリとしたのであります。 僕が楽しんだのは、すべての俳優の「垢抜けした偉容」。近藤勇の崔洋一を、田代の浅野忠信を、沖田総司の武田真治を、そして土方のたけしを。すべてに好ましい「艶」を感じたのであります(俺ってヘン?)。みんな日本映画のなかで、伸びやかに、自然に存在を主張していることが単純に心地よいのです。 コメディリリーフ的なトミーズの雅演じる山崎までが生き生きしていて、僕は好きだな。女を知らない惣三郎を「島原」の廓に連れていこうとする山崎が、途中、惣三郎の鼻緒が切れてすげてやる。そこで肩に手を置かれた山崎が「衆道」に目覚めそうになって、「こりゃ、いかん」という表情をするあたりも可笑しい。雅って好きじゃなかったのだけど、これでいいな、と思っちゃった。沖田の武田真治がこれまた「艶」がある。この物語では彼が『クライング・ゲーム』でいうオチのような存在で、土方が終盤でその「謎」に心惑うあたり、僕はこの映画は最終的に心理ミステリーに昇華したという思いにかられました。間もなく土方が「衆道」にかられ、惣三郎と同種の「狂人」と化すやも知れません。 我らの栗田豊通の映像の素晴らしさも語らなくては。黄ばんだ光を取り込み、あるいは靄の立ちこめる青白いルックを使いながら、ここで表現された世界は、ある種の夢幻的なあやかしの世界。時空を超えて心の奥を覗くような世界。劇中、『雨月物語』の「菊花の契り」をニードストーリーとして援用しながら、命を捨てても守ろうとする男同士の契りこそ、「衆道」のお手本であると示すあたり、ある種の「性と死」をからめた大島渚の「遺言」のような境地を感じてしまったSHIMIZUめなのでした。(99/11/08 徳間ホール) YAZAKI★★映画の完成前に松田龍平君にインタビューしなくちゃならなかった関係で、先に脚本を読んでからの鑑賞。というのが、今回は裏目に出たかも。どうしても、脚本がどう映像化されたかというのを、追っちゃったところがあったもので。だからもう一度見ると、評価がまた違ってくるかもしれません。 脚本を読んだとき、最初に気がついたのは、ほとんどのシーンが、ふたりの登場人物で構成されていること。新選組という集団を扱っていながら、群像劇のスタイルをとらない。そこに、ひじょうにユニークなものを感じた次第です。 さて、肝心の映画。新選組の入隊試験の場面から始まるドラマは、松田君演じる美貌の剣士、惣三郎に、隊員たちが熱い胸騒ぎを覚え、隊の空気がかき乱されていく過程が綴られていきます。惣三郎自体は、ひじょうにミステリアスな少年で、何を求めて新選組に入隊してきたのか、言い寄る男たちに対してどんな気持を抱いていたのか、最後までわからない。 むしろ大島監督が描写のポイントに据えているのは、惣三郎に対して隊員たちが抱く「熱い胸騒ぎ」の部分。たとえば、同時に入隊した田代(浅野忠信)と惣三郎を前にした近藤勇(崔洋一)が、「田代なんか眼中にない」という感じで、惣三郎の顔にうっとり見とれる場面。あるいは、惣三郎に女を教える役目をおおせつかった監察の山崎(トミーズ雅)が、惣三郎のゲタの鼻緒を直してやり、手を握り合う局面に遭遇してムラムラっとくる場面。「そのけ」とはまったく無縁だった男たちが、惣三郎の魔性にフーッと引き摺りこまれていく瞬間を、大島監督はニュアンスたっぷりにとらえています。崔洋一&トミーズ雅の演技も素晴らしく、このふたりのキャスティングは、まさに監督の慧眼。 ただ、そういうニュアンスがニュアンスのまま放置され、エロチックな情感が個から集団に蔓延していくドラマと熱くからみあっていかないところが、私には不満に思えた点。最後の「雨月物語」の引用にしても、たけしの演じる土方が言う「惣三郎は男前すぎた。男どもになぶられているあいだにバケモノが住み着いたんだろう」という結論めいたセリフにしても、「よくわからないものがエロスなんだよ」と言われ、「さようでございますか」と答えるしかないような感じ。理解したくてもできないもどかしさを感じさせられたところは、作家のみの了解事項が多いフランス映画を見たときと同じ印象で、「さすがオオシマは日本のヌーベルバーグだ」と、妙に納得したりね。 物語の展開が、字幕、ナレーション、土方の独白の3パータンで説明されていくという語り口の生硬さも、私には気になった。あと、音楽。『戦メリ』と同じ坂本龍一教授の担当だが、まるで60年代の松本清張サスペンスみたい。この映画の完成が遅れたのは、坂本氏のスケジュール待ちだったという話を聞いていただけに、ガッカリ度は高かったです。(99/11/08 徳間ホール) | |
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カーラの結婚宣言
THE OTHER SISTER 1999年アメリカ 監督ゲーリー・マーシャル 出演ジュリエット・ルイス/ダイアン・キートン/ジョバンニ・リビージ ●129分 ブエナビスタ配給 |
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軽い知的障害を負った24歳のカーラ(ルイス)は、全寮制の学校を出て、家族のもとで暮らし始める。技術専門学校でコンピュータを学ぶ彼女には、同じハンディを持つダニエル(リビージ)というBFもできた。彼がアパートで暮らしているのを知って、自分も独立したいと言うカーラ。そんな彼女の身を案じる母親(キートン)は、ダニエルとの結婚を夢見るカーラと対立してしまう……。ハンディを負った女性の旅立ちを、『プリティ・ブライド』のマーシャル監督が爽やかに描いたヒューマンなラブストーリー。 ●オフィシャル・サイト● http://www.movies.co.jp | |
| SHIMIZU★★この手の「知的障害者もの」をハリウッド映画でやれば「この程度」という印象。どの程度かという、と。ヒロインはIQも低く「社会への適合性に問題がある」といわれたスローなカーラ。彼女は裕福な家の生まれで、私立の全寮制学校での教育を終え、家に戻るところから始まります。彼女は24歳。自立の道を模索する時期。ところが、カーラの行く手を邪魔するのが母親のエリザベス。彼女はカーラを必要以上に、障害者としての枠にはめようとしている感じ。表面はいい母親だが、どこかカーラそのものを見つめていない。「世間」に彼女を解き放つのが怖くて仕方ない。そんな表層的な母親像をダイアン・キートンが極めてハリウッド的に「上品」に演じております。されに母親の頭痛の種として、カーラの姉がレズでその相手との関係を認めてと迫るあたり。いまは流行りの「みんな違って、みんないい」の精神がドドっと軽薄にてんこ盛りになっているのも、ハリウッド的じゃないかな。 一方、カーラ役は若手の演技派ジュリエット・ルイスで「スロー演技」で技を見せます。僕にはこの演技がちょっとわざとらしく見える瞬間が多々ある。表面的な表情がスローでも、心模様はノーマルという微妙な心理を求めるのは、ハリウッド映画じゃ無理か。といいながら、同じ障害者の男このと愛を貫くため、「なぜ私を見ようとしないの。こんな私でも出来ることがある。人を愛することよ」と決然と母親に言うシーンには、少々ホロリとさせられました。僕自身、スローな子の父であるだけに、今後はこの映画のような結末を望むけれど、こんな安直な展開は現実には無理だろうな、と思うこと暫しであります。(99/12/16 ブエナビスタ試写室) YAZAKI★★軽い知的障害を負ったヒロインが、独立→自立→結婚にいたるまでを、母親との確執をポイントに描いた作品。ダイアン・キートン演じる母親が、異様に息苦しい存在。寄宿生活を送っていたカーラが帰宅して早々、「ナプキンは膝に」「食卓でセックスの話はするな」とマナーについてまくしたて、カーラが進学の話を持ち出そうとしても「みんな疲れているんだから」と、話を切り出せなくさせてしまう。 普通、大人が子供と会話するときは、自分が姿勢を低くして子供と目を合わせようとするもんだけど、この母親に限ってはそういう気配が見られない。そのくせ、カーラを家庭で育てきれず、寄宿学校に入れてしまったことに罪悪感を抱いていたり。ずいぶんと独善的、かつ、偽善者っぽいこの母のキャラクターが、私には終始うっとおしく思え、映画を好意的に見ようという気持が萎えてしまった。カーラのキャリアウーマンの姉がゲイで、恋人を家族の一員として認めてくれない母と対立しているというエピソードも、なんだかとってつけたみたいだし。 『プリティ・ブライド』のゲーリー・マーシャルの演出は、白鳥の扮装をしたカーラと小犬の着ぐるみを着たダニー(『プライベート・ライアン』のジョバンニ・リビージ)のファースト・キスや、ふたりが教則本のイラストを参考に「合体」の勉強に励む姿を、「微笑ましい」と感じさせようとするノリ。が、その作意がミエミエになるほど、こっちの気持はシラけていくばかり。 『レインマン』から10年たって、ようやく女性を主人公にした知的障害者の話が作られたってところに意味があるのかもしれないけれど、そう考えれば考えるほど、ハリウッドって世界はなんて「スロウ」なところなんだろうと、思わずにはいられなくなります。(99/10/26 ブエナビスタ試写室) | |
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SLAM
SLAM 1998年アメリカ 監督・脚本マーク・レビン 出演ソウル・ウィリアムズ/ソニア・ソン/ボンズ・マーロン ●109分 KUZUIエンタープライズ配給 |
| SHIMIZU★★☆「SLAM」とは、ポエトリー・リーディング、スポークン・ワードとも呼ばれる新しいパフォーマンスなのだそう。プレスによれば、MTVのアンプラグドやロラパルーザなどのオルタナティブ・ロックのツアーに参加するほど、パフォーマンス自体が強く支持されている。ま、正直、この映画を見るまで、この手のパフォーマンスがあることは知らなかった。自分の身辺雑記的な「ラップー」と違い、「SLAM」はより高度に自分の内なる心情をぶつける芸術という印象。マーク・レビン監督がSLAMを「次世紀のアート」であり、「コトバのカンフーと音の合気道」といっているのが面白い。 舞台はワシントンDCにある典型的な低所得者住宅ドッジ・シティ。ドラッグとギャングの抗争が蔓延している場所だ。主人公のレイこと、レイモンドは「詩」の才能に長けた若者。地元のストリート・ギャングのボスが「女のために詩を書いてくれ。R・ケリー(黒人のバラード歌手)ほどじゃなくてもいいから」と詩作を所望する図も面白い。彼は路上詩人だ。レイはレコード・レーベルを始めるのが夢だが、いまは路上でマリファナを売りながら時間を食いつぶしている身。そんな彼が警察につかまり1万ドルの保釈を払えず刑務所暮らしが始まる。 映画は自在にカメラが動き廻る。レイについて実際の刑務所のなかに入り(カメラがガラスに映り込んでも平気)、ドキュメンタリー出身監督らしいドキュメンタリー映像の連続。レイが刑務所で受刑者に迫られても、得意の「詩」をまさに「コトバのカンフー」の如く発してたじろがせるあたりも面白い。 さて、お話の芯はレイが刑務所の更正プログラムで詩を教えていた女性講師ロレーインとの出会いから、「詩」の方向付けがなされていくこと。ロレーインは詩のなかに「自分の痛みや不満を吐き出す」ように教え、レイは自分の「ニガー」としてのアイデンティティを確認しながら、「内なる自由」に目覚めていく。そんな感じだ。とにかく、後半は「詩」を介在させながら、レイとロレーインが愛に至るまでの、心のせめぎあい。ふたりの熱い「ディスカッション(?)」の図はマイク・リー系の、即興的なコーフン。僕にはこのあたりの濃さにゲンナリする部分もありましたが、ラップ系の好きな人にはハマる映画じゃないかな。 レイの詩は実際彼の作品なのだそう。たとえば、「黒人はどう生きる? だからキミが刑期を送るのに忙しい間 ボクは月とシンクロする キミが太陽なら逃げる間 子宮の生命 銃だらけの環境 月の崇拝者 ボクは太陽 ボクはパブリック・エネミー・ナンバー・ワン」(アメジスト・ロックより)てな具合ですが。(99/12/06 映画美学校試写室) YAZAKI★★☆詩やラップになじみのないYAZAKIにとっては、正直、ひじょうにとっつきにくい世界でした。 主人公は、やり場のない怒りを抱えながらマリファナの売人をするレイ。理不尽な罪に問われて刑務所に送られた彼は、中庭でガンをつけてきたギャングを「言葉」の機関銃で撃退したことをきっかけに、暴力さえも制する「詩」の力を発見。求めていた「自由」は自身の心のなかにあると気づき、ポエトリー・スラムの世界に触れて真の解放へと導かれていく。その過程が、ここではドキュメンタリー仕立ての真摯な映像を通じて描かれていきます。 刑務所の独房。テーブルをたたきながらラップを歌いはじめた隣の男の言葉を、レイが引き継ぎ、芸術の香りを感じさせる詩にまとめあげていく場面が、最高に素晴らしい。レイの体内から沸き上がってくる詩のリズムには魂のほとばしりが感じられ、不思議な高揚感をかきたてられずにはいられません。ここで彼が口にする言葉は、単に頭で考えられたものではなく、身体全体から、もっと言えば人生のすべてから、沸き上がってくるもの。「言葉が肉体化している」とでも言いましょうか。それだけに、そういうダイレクトに体感すべき言葉を、字幕を読んで頭で理解するというワンクッションおいた作業をしなければ飲み込めないことが、とても歯がゆく思えてしまうのです。 おそらく、字幕を読む作業が必要ないほどの英語力があれば、レイの放つ言葉のパンチに、もっと素直に身を委ねられたはず。それが、私にはひじょうに口惜しく思えた映画です。(99/11/10 メディアボックス試写室) | |
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ファンタジア/2000
FANTASIA2000 1999年アメリカ 製作総指揮ロイ・エドワード・ディズニー 出演スティーブ・マーティン/クインシー・ジョーンズ/ベット・ミドラー ●75分 ブエナビスタ配給 ●オフィシャル・サイト● http://www.disney.co.jp |
| SHIMIZU★★☆昔、TVの三菱ダイアモンドアワーで「ディズニー」を楽しみにしていた程度のディズニー・ビンボー(?)のSHIMIZUめですが、「ファンタジア」でミッキーがやって「魔法使いの弟子」は強烈に覚えております。今回の「2000」ではそれも出てきて懐かしかったけど、やはり、これを巨大画面のIMAXシアターで見たってのが、なんたってコーフンもの。IMAXは初体験。この手の音楽と映像の実験といって感じのイベント映画にはぴったりの劇場だよ。 映画は8つの部分から出来ていて、各パートの前にスティーブ・マーチン、クインシー・ジョーンズ、ベッド・ミドラー、ジームズ・アール・ジョーンズ、アンジェラ・ランズベリーらホストして登場し曲を紹介する構成。冒頭の蝶々から鳥に姿を変えていく図形的デザインからしてファンタスティック。「交響詩ローマの松」ではローマでも松でもない「クジラ」の舞が表現されている。海まで体感できるような、めまいを覚える3Dアニメ。これ、すごい。 「ラプソディー・イン・ブルー」では、太い線でデフォルメした作画で知られ舞台の俳優達の顔も描く風刺漫画家のアル・ハーシュフェルドを起用、彼の描くキャラが自在に動くあたりのセンスがすごくおしゃれ。ま、最後まで、内容豊富。このアニメはとにかく体感する「大人のアニメ」という感じであります。(99/12/22 東京アイマックス・シアター) YAZAKI★★☆1作目の『ファンタジア』(40年)は、(1)世界初の全編ステレオ・サウンド作品。(2)そんな贅沢なものを戦時中に作りあげた――という2つの意味で、ディズニーの打ち立てた数々の金字塔のひとつに数えられる一編。私は、もちろんオリジナルではなく何度目かのリバイバルで見たのですが、「くるみ割り人形」のユーモラスなキノコのダンスや、カバのバレリーナが登場する「時の踊り」は、いまでも深く脳裏に焼き付いています。 もともとミッキーを主役にした「魔法使いの弟子」の短編を製作しようというところから出発した『ファンタジア』の企画。その背景には、「子供たちにクラシックの楽しさを伝えたい」というウォルト・ディズニーの熱い意向が感じられます。そのウォルトの甥ロイが製作総指揮をつとめ、オリジナルを60年ぶりにリメイクした今回の『ファンタジア/2000』。曲目ごとに異なる作画タッチを用いた点では、『ファンタジア』のポップス版ともいうべき『メイク・マイン・ミュージック』に近いノリの作品です。 ベートヴェンの「運命」を背景にした1曲目では幾何学的にデザインされた蝶の群れが善悪の戦いを繰り広げ、「ローマの松」ではモノトーンを基調に描かれたクジラの親子が宙を舞い、「ラプソディー・イン・ブルー」では、アル・ハーシュフェルド調のカリカチュアをほどこされたキャラクターたちの生活ぶりが1930年代のNYを舞台にスケッチされる……という具合に、曲のタイトルにとらわれず、旋律からかきたてられるイメージを自由にふくらませていったアニメの世界が展開していきます。 シンバルの音に合わせて星がまたたくなど、「クラシックとアニメの幸福な出会い」を物語る芸の細やかさは、ここでも健在。ただ、どの映像もある程度のオトナっぽさを意識して作られているためか、はたまたCGを使った3D映像が多かったためか、環境音楽ならぬ「環境アニメ」を見ているような印象。「ラプソディー・イン・ブルー」、フラミンゴがヨーヨーをする「動物の謝肉祭」、アンデルセンの「すずの兵隊」をモチーフにした「ピアノ協奏曲第2番」、旧作から再録された「魔法使いの弟子」以外のエピソードには、ニューエイジ的な抹香臭さがつきまとい、それが私はいまひとつ好きになれませんでした。 「威風堂々」の曲に、ドナルド・ダックを主人公にした「ノアの箱船」の物語を合わせたのは、『プリンス・オブ・エジプト』でミソをつけたドリーム・ワークスへのあてつけ? なんて、思ったりも。(99/12/22 東京アイマックス・シアター) | |