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試写状

ワンダーランド駅で

NEXT STOP WONDERLAND

1998年アメリカ 監督ブラッド・アンダースン 脚本ブラッド・アンダースン/リン・ヴァウス 撮影ウタ・ブリーゼウィツ 出演ホープ・デイヴィス/アラン・ゲルファント/ヴィクター・アーゴ ●96分 アスミック配給 1999年11月より銀座テアトル西友にて公開予定

孤独をみつめながら愛を探す女と、しがらみに縛られながら自分自身の道を模索する男。人生の迷いの時期にいるふたりが、何度かすれ違いを繰り返しながら運命の出会いを果たすまでを、ボサノヴァのメロディにのせて描いたヨーロッパ・テイストのラブストーリー。98年のサンダンス映画祭で注目を集め、同年のドーヴィル映画祭でグランプリと観客賞を受賞した。


STORY

 エリン(デイヴィス)は、ボストン在住の看護婦。活動家の恋人ショーン(フィリップ・シーモア・ホフマン)との唐突な別れを経験した彼女は、いま、自分をみつめなおす時期に来ている。いっぽう、同じ町で暮らすアラン(ゲルファント)は、父のあとを継いで配管工になったものの海洋生物学者になる夢が捨て切れず、35歳にして大学生になった男。ふたりは、アランがボランティアをする水族館の記念パーティに出席。共通の知人の紹介で出会いそうになるが、タイミングが悪く、出会えない。
 二度目の出会いのチャンスは、エリンの母親が招いたもの。娘に恋人がいないのを心配した母が、新聞に恋人募集の広告を出したのだ。最初は迷惑顔だったエリンも、応募者のボイス・メッセージを聞き、彼らと会うことに。そのなかに、彼女とのディープ・キスを賭けの材料にした、アランの弟ケヴィン(サム・スィダー)たちのグループもいた。が、アランはこの賭けに参加しなかったため、またもや出会いのチャンスは失われる。
 そのころ、アランは、落ちこぼれの級友ジュリー(カーラ・プオーノ)に迫られ、成り行きでデートをすることに。かたやエリンも、予防注射を受けに来たブラジル人のアンドレ(ゲルファント)に情熱的に口説かれ、一緒にブラジルへ行こうと誘われる。
 アンドレの強引さに根負けする形で、地下鉄で空港に向かうエリン。その同じ車両に、水族館から帰るアランの姿があった……。

SHIMIZU ★★★(99/08/16 メディアボックス試写室)

いきなりネタばらしになるけど、見る前、最後で男女が「運命的な出会いをする」と聞いていたので、ルルーシュの『マイ・ラブ』を一瞬想起した。で、本編を見ると、モロにアメリカン・インディー映画なのですが、その下地にはヨーロッパ系の映画センスが感じられる作りになっています。全編ボサノバの音楽を使ったセンスといい、手持ちカメラでドキュメンタリー調で捉えるショットといい、やはり最初予測したルルーシュ的な(たとえば『男と女』)手法も感じました。また、「運命」によって綾なされる男女の配置が、どことなくポーランドのキェシロフスキふうでもあるのです(たとえば『トリコロール/赤の愛』や『ふたりのベロニカ』)。

この映画はヒロインの物語といっていいでしょう。最初、僕はタイトルの「ワンダーランド駅」は架空の駅だと思っていましたが、これが実際ボストンにある駅なんだって。洒落た駅名だね。ワンダーランド駅は地下鉄ブルーラインの東行き(EAST BOUND)で終着駅。この駅名はそのまま恋のフックとして生かされていて、恋が成就する最終地点という感じのマジカルなメタファーになっている。

ヒロインは看護婦をしているエリン。彼女は同棲していた政治活動家ショーン(これがいま注目の個性派フリップ・シーモア・ホフマン)に捨てられ、ひとり身になる。精神状態は思わしくない。彼女の心は強い自己主張を始め、他人を寄せ付けず、「孤独」を抱え込んでしまう。頑なに自分を変えない女が、孤独過敏症になってしまった。そんな彼女の心の鍵を開けてくれる男は誰なのだろうか。

彼女の心はフリコのようで、あっちにふれたりこっちにふれたり。「運命なんて信じない」と言っているくせに、自分なりに「未来」は知りたいとも思う。本屋の主人から、本を開き、そこに必ずためになる言葉があると諭される。本が落ち、開かれたページには「孤独とはなんて優雅でおだやかだろう」。以来、彼女は自宅の本棚に「心は家を求めてる(HEART NEED HOME)」なる詩集を置き、未来占いのようにページを開き適当に言葉を指さす。たとえば「Soon(すぐ)」とか、「リノリウム」とか、その都度、その言葉が彼女を導くマジカル・ワードになっていくファンタステックな味が、僕はヨーロッパ的な洒落た感覚と思った。

正直、ホープ・デイヴィス演じるエリンは、男には御しがたいと思わす女。一見、ブロンドの美女で、男ならお願いしたくなると思うが、なかなか手強い。エリンの母親が彼女のため新聞に「個人広告」を載せ、恋人を探すようしむける。この広告を見た男どもが「ディープキス」に持ち込めたヤツが勝ち、という仲間うちの賭けを開始。彼女にアプローチをする。エリンがそれらの男たちと面談し、男たちをギャフンといわせるあたりのスケッチが面白い。男どもが必ず「頑固さは狭量なる心の表れ」と知ったかぶりで言うのだが、これは彼女の運命の人アランが引用したエマーソンの言葉の受け売り。本当は「愚かな頑固さは狭量な心の表れ」が正しく、最後のこの言葉がふたりの愛をつなぐ「呪文」のような言葉になっています。

映画はエリンと運命の人アランをいろんなすれ違いで見せていく。地下鉄の電車とホームとか、水族館の水槽の中と外とか、それぞれ距離をもった配置がなされている。エリンが彼を見て時、アランは見ていなかったり、その逆だったり。お互い見知らぬ同士が、お互いの知り合いを通じて、知らぬ間に繋がっている状態だ。それを当事者は全然気付いていず、観客だけが彼らの運命を見守るポジションにおかれる。ちょっと、すれ違いにやきもきしたり、そこじゃない、こっちだ。と、おせっかいなキューピット気分になっていきます。

物語の中盤以降はエリンがブラジル人と海洋学を学ぶアランが同じ教室の女の子とカップルになりそうになる展開。それを船の上のアランと同級生、その船が眺められる岸辺でエリンとブラジル人という具合に距離感を計り、ふたつの関係を対照化する演出。ふたつの恋がよじれて、最後には新しい恋のマジックが生まれますが、ブラジル人の男がこの映画のスパイスといっていいかも。彼が持ち込む恋の気分は、「孤独な心」を開放してくれるのにぴったり。彼がボサノバの歌詞の意味を英語で聞かせ、恋心を説明し口説くあたり。ブラジル人の恋の達人ぶりに感嘆すること暫し。しかも、ボサノバは、哀しみと歓びがいりまじった「サウダージ」という感覚。メランコリーという言葉に通じるということ。このへんの情感が映画全体にこだまして、心の陰影を感覚的に見せてくれるセンスは、ちょっとアメリカ人の監督では見かけない才能です。なにか単なるロマンス映画というのではなく、人間の「運命」を自在に紡ぎ出す、魔法のような心理ドラマという印象です。

ボサノバ・ギターに一時凝り、半音進行とシンコペーションのうねりに魅せられたことのある僕ですが、この映画の奥の深い「ボサノバの心」に、人生の一片を教えられたような気分です。

YAZAKI ★★★☆(99/08/03 メディアボックス試写室)

この映画の特筆すべき点は、ヒロインの心象風景が驚くほど繊細に描かれていることです。同棲中の恋人が、「君と別れる6つの理由」のビデオをつきつけて去って行ったあと、ヒロインのエリンは、否応無しに「ひとりぼっち」の状況と向き合わざるをえなくなる。

彼女には看護婦の仕事があるし、友人もいる。生活面では、きちんと自立している。ただ、「1日にひとつ美しいものを見ると心が豊かになる」という亡き父の言葉を思い出すとき、美しいものを見た感動を分かち合う相手がいないことに、キュッと胸をしめつけられるような寂しさを感じてしまう。

彼女が、無意識のうちに探し求めているのは、心の豊かさを共有できるソウル・メイト。でも、自分がソウル・メイトと呼べる人間と巡り合える保証はどこにもない。その不安から、「私は運命の出会いを信じない」と、強がってみせたり。その実、心の奥底では運命の出会いを強烈に待ち望んでいる――そんなエリンのモンモンとした心境が、おまじないのように本のページから指針となる言葉を探し出すエピソードなどを通じて、実にセンシティブに描かれていきます。

そのエリンのソウル・メイトとなるべき相手のアランは、バクチ好きの父親というしがらみを背負って生きる男。海洋生物学者になる夢を捨て切れず、35歳で大学に通う彼は、自分の手に人生を取り戻そうとひたむきに頑張っているものの、現実と夢のあいだで苦しい葛藤を強いられている。

アランもエリンも、流される生き方に抵抗を感じるタイプの人間。劇中には、「(愚かな)ガンコさは、狭量な心の表れ」というエマソンの言葉が何度か引用されるけど、このふたりは、ガンコさも大事であることを知っている。つまり、人生の根本的な価値観が似ているわけで、そんなふたりの生活の断面を切り取っていくエピソードを通じて、我々観客は、彼らがパーフェクト・カップルになりえることを確信させられていくわけです。

でも、ふたりはなかなか出会わない。水族館、地下鉄、パーティ、バー、レストラン、電話線の向こうとこっち。何度も同じ空間を共有するが、すれ違ってばかり。とはいえ、運命の出会いを予感させる暗示(サイン)は、確実に彼らのもとに送られている。たとえば、アランが新聞の上に酒をこぼすと、酒がしみこんだ部分からエリンのスナップ写真を掲載した面がスーッと浮き上がってきたり。

この場面に漂うのは、『ふたりのベロニカ』や『トリコロール/赤の愛』のクシシュトフ・キェシロフスキ監督のテイストで、私がこの映画に惚れ込んだポイントの部分でもあります。キエシロフスキの映画は、「人生にはいくつかの魔法が隠されている」と感じさせてくれるけど、この映画から受けるのも同じ感触。本人たちは気づいていないが、エリンとアランは目に見えない絆で結ばれている。それを暗示する魔法が、出会いの奇跡に変わる瞬間を、期待して見守りたいという気分にさせられるのです。

映画の冒頭、エリンが活動家の恋人(『HAPPINESS』の未公開が惜しまれるフィリップ・シーモア・ホフマン)に三行半をつきつけられるところを手持ちカメラでドキュメントふうに撮影した場面や、エリンやアランの仲間たちの雑談シーンなどには、ちょっとウディ・アレンっぽいノリも感じられる。最後、めぐりあったふたりが海を見ながら語りあうところは、『マンハッタン』のクイーンズ・ボロ・ブリッジの情景を連想させたりね。そして、『マンハッタン』がガーシュインの音楽ぬきに語れないように、この映画もボサノヴァを抜きには語れない。アントニオ・カルロス・ジョビンの軽快にして憂いを含んだ歌声が、ハイ・トーンの映像と溶け合い、実にいいムードです。

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