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試写状

スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス

STAR WARS EPISODE I : THE PHANTOM MENACE

1999年アメリカ 監督・脚本ジョージ・ルーカス 撮影デイビッド・タッターソル 出演リーアム・ニーソン/ユアン・マクレガー/ナタリー・ポートマン/ジェイク・ロイド ●132分 20世紀フォックス配給 1999年7月10日より日劇ほか東宝洋画系にて公開予定

ジョージ・ルーカスが22年ぶりにメガフォンをとった、壮大なるサーガの第一章。前3部作の悪役ダース・ベイダー(アナキン・スカイウォーカー)の少年時代のエピソードを、彼を発見したジェダイの騎士の活躍と共に描く。

STORY

 遠い昔、はるか彼方の銀河系で…。クイーン・アミダラ(ポートマン)が統治する平和な惑星ナブーは、貪欲な通商連合によって交易ルートが断たれるというピンチに遭遇していた。その調停役を頼まれたジェダイ・マスターのクワイ=ガン・ジン(ニーソン)と、弟子のオビ=ワン・ケノービ(マクレガー)は、通商連合との交渉に赴くが、彼らの介入に危機感を強めた通商連合はナブーを攻撃し、侵略を開始する。
 その騒乱の真っ只中からアミダラを救い出したクワイ=ガンは、一路、銀河共和国の首都コルサントを目指す。が、宇宙船の損傷が激しく、砂漠の惑星タトゥイーンに不時着。そこで、奴隷の少年アナキン(ロイド)と出会ったクワイ=ガンは、アナキンがフォースにバランスをもたらす運命の少年だと直感し、ポッドレースに勝利して奴隷の身分から解放された少年を、ジェダイの騎士として育てようと旅に同行させる。
 まもなくコルサントに到着したアミダラ一行は、通商連合の卑劣なやり口を法廷に訴え出るが、迅速な解決は得られなかった。もはや自国の民を放っておけないと、危険を覚悟で帰還を決意するアミダラ。いっぽう、タトゥイーンで遭遇したシス(フォースのダークサイド)の使い手の調査を、ジェダイ評議会のヨーダから命じられたクワイ=ガンとオビ=ワンも、アミダラと共にナブーへ向かう。

SHIMIZU ★★☆(99/05/26 日劇)

いきなりですが、まず、自分自慢を。私めのキャリアのなかで、わずかに胸を張れる出来事のひとつが、『スター・ウォーズ』であります。実は、『スター・ウォーズ』を日本で最初にグラビアで紹介するきっかけになったのが私なのですね。驚いた? 驚かない。ま、いいス。当時、どの雑誌も狙っていた企画がスピルバーグの『未知との遭遇』でした。ルーカスのスペース・オペラ『スター・ウォーズ』なんぞは、ほとんど話題にも上らなかった。そんな中で私めが『スター・ウォーズ』に注目したのは、当時ロス在住で音楽評論を中心に活躍していたM氏からもたらされた1冊のグラビアのプレスでした。巨大なキャタピラー車と人間キャラやクリーチャーが一体となった構図は、まさに重量級。メジャーのSF映画は、およそ「ブリキの未来」と鷹をくくっていただけに、凄い迫力を感じました。「こりゃ、いける」と踏んだ私めは当時、映画欄を担当していた少年サンデーに話をもちこみました。その編集担当者が、小学館の名編集者のひとり、岩本氏でした。今から考えても、まったくの見ずてん状態で「グラビアを組もう」と英断した岩本氏には、恐れ入るという感じです。

その手口が凄いゲリラ的でした。普通はカラーポジを入手して掲載するのが筋ですが、岩本氏はプレスの写真(これがアート系の上質紙)から複写して使うという大胆さ。今じゃ、考えられない。で、『スター・ウォーズ』のグラビア特集を組んだ号が発売されたのが、なんと米国で『タイム誌』が特集号を出した1週間後、つまり'77年の5月下旬という驚異的な早さだったのです。質感を感じさせる「重量級の未来」てなことを原稿に書きましたっけ。してやったり、ざまみろの世界で、日本での『スター・ウォーズ』紹介に第1歩を記したのでした。ただし、唯一の残念がタイトル。当時20世紀フォックスの日本支社がつけていた仮題『惑星大戦争』にしたことであります。どうにもあか抜けないもんね。てわけで、『スター・ウォーズ』の業界伝説が、いまも約2名によって語り継がれている次第です。

私が『スター・ウォーズ』を見たのは、それから7か月後。ロスのチャイニーズシアターでした。すでにムーブ・オーバーに次ぐムーブ・オーバーで大ヒット中。それでも当時は日本の試写で見るより早かった。なんたって『スター・ウォーズ』の日本公開は全米公開から1年くらい経っていたもんね。チャイニーズシアターでは、もう、お祭り騒ぎ。冒頭クレジットだけで、拍手と歓声。もう、ノリノリのイベント状態でした。

さて、今回の『スター・ウォーズ エピソード1』は、米国の批評が芳しくないと聴いていても、期待が膨らみました。冒頭は例の「A Long Time Ago, in a Galaxy Far, Far Away」とお馴染み遠近法で見せる前口上。おお、帰ってきた『スター・ウォーズ』と暫し感動であります。今回の私めの興味は、新しいキャラがどう動き、どんな物語を紡ぎ出すのかという点。なんたって、前3部作の妙味はキャラの融合。ルーク、レイア姫、ハンソロという3巴の青春キャラが芯にあって、その周りにユーモラスなロボット・コンビや毛むくじゃらのチューバッカ、タシケンレーダーもいい味だったし、ね。そして極めつけはダース・ベイダー。つい、キャラを見比べてしまう。それがそもそも間違いのもとなのかも。

見る前から興味津々だったのは、旧作組のキャラが新組キャラとどうリンクするのかという点。まず、若き日のオビ=ワン・ケノービとそのメンターにあたるジェダイ戦士のクワイ=ガン・ジンが巨大な通商連合に脅かされる小さな惑星ナブーに遣わされる出だし。その惑星で若きクイーン・アミダラを救う展開だが、冒険の途中、砂漠の惑星タトゥーインでふたりの騎士は子供時代(9歳)のダース・ベイダーことアナキン・スカイウォーカーと出会い、アナキンに「強力なフォース」を感じ、将来のジェダイ戦士にスカウトしようとする。て、わけで今回のエピソード1は、今後の2作を掘り起こすための「前史編」。単なる挨拶程度。ワンセットで行動するクワイ=ガン・ジンとオビ=ワン・ケノービの師弟コンビがどう熟成されるか、アナキンと彼の間にルークとレイアを設けるクイーン・アミダラの恋の予感があるか。そういった各々のキャラを進化させる展開がまったくないわけね。ローリング・ストーン誌のピーター・トラヴァースが書いていた「俳優は壁紙」状態ってのも、否定できない感じ。

ただ、彼らの出で立ちは興味を引かれる代物。クワイ=ガン・ジン役のリーアム・ニーソンはポニーテイルの素浪人ふう(ニーソン自身は『七人の侍』の志村喬ふうの武士魂を表現したかったみたい)。ジェダイ戦士と戦う棒術のダース・モールのメイクは京劇ふう。なかでも、クイーン・アミダラ役のナタリー・ポートマンはパリ・コレのショーにでも登場しそうな、派手な出で立ち。日本髪ふうのヘアースタイル、口元は舞妓ふうの、おちょぼ口の口紅。さんまのブラックデビルふうの耳当て付き帽子とかキモノ・ルックとか。全体に東洋趣味あふれるものばかり。そう、このエピソード1は、ルーカスの「クロサワ化」がさらに進化した感じで、無数の兵隊ロボットが整然と行軍するシーンは『影武者』や『乱』の行軍を思わせます。

ルーカスが今回、熱中したのは最新デジタル映像によるビジュアル化。その手のものが好きな人には目を見張る映像ばかりじゃないかな。とくにファミコン・ゲームにはまっているような人には、ワンシーンワンシーンが快感と興奮かも。中世の宮殿みたいな都市とか、背景も自由自在のファンタスチック空間。でも、前作に比べ、全体が「バーチャル」のみで「リアリティ」が失われた印象。多少、画面が荒れた質感のほうが、リアリティを感じるけどね。それでも、アクションシーンでのスピード感は見もので、砂漠の惑星タトゥーインで展開するポッドレースは『ベン・ハー』の馬車レースを思わす映画の白眉。とにかく、メカ系のキャラやクリーチャーが絡む映像はルーカスの独壇場で、彼のおたくぶりが窺えます。

今回のクリーチャー系のキャラでは、へんな英語(ジャマイカ訛りとか)を話すコメディリリーフふうなポジションのジャー・ジャー・ビンクス(眼が飛び出て、一見まぬけな恐竜ふう)などが登場するけど、面白さはイマイチ。それより、画面にチラチラ登場するジャバ・ザ・ハット、ヨーダ、そして未完成でスケルトン状態のC−3POやR2D2(ふたりの出会いのエピソードなんぞは旧ファンにはたまらない)のカメオ出演に目がいってしまった。いずれにしても、新シリーズは、ゲーム世代の子供たちの扉を開くシリーズ。旧作命の人には、満足度は半々ってところじゃないかな。といっても、これは参加することに意義がある今世紀最後の「イベント映画」。1度は見て、次回の展開に思いを馳せるのも一興。私めは早くも、成熟したクイーン・アミダラのナタリー・ポートマンと青年アナキン(次回はディカプリオか?)とのラブロマンスを期待する次第であります。

YAZAKI ★★☆(99/05/26 日劇)

最初に、★の数について言い訳しておきます。というのも、映画を見る前から、この作品を通常の映画と同じ物差しで計っていいものだろうか? という疑問が、ずっとくすぶっていたから。そもそも「イベント映画」なる概念が誕生したのは、『スター・ウォーズ』の1作目が公開された22年前のこと。そして今回、新シリーズの幕開けとして公開される『エピソード1』は、「この映画を見に行くこと自体がイベントになる」ことが、企画の段階から約束されたものになっている。

で、これは、もはや映画というよりも、ディズニーランドなんかのアトラクションに近いもんじゃないかと思うわけでして。たとえ誰かに「スプラッシュ・マウンテンって、思ったほど面白くなかったよー」と言われようが、一度は乗ってみなきゃ気が済まないという。実際に自分で体験することに、意義があるという。

つまりですね、観客が『エピソード1』にいちばん期待していることは、「映画としてよく出来ているか」よりも、「アトラクションとして楽めるか」ってところだと思うわけですよ。その意味から言うと、「乗り物」としての『エピソード1』は、かなりいい線行っていると思います。アトラクションとしての満足度を★で評価するなら、最低でも★★★はカタイと思う。

そのいっぽうで、これを通常の映画と同じ物差しにあてはめて考えると、★★がいいとこかな、と思える。それは、私の物差しが、キャラクターの描き込まれ方にいちばんの尺度をあてていることが、大きく影響しているのですが。というわけで、ここでの評価は、アトラクション評価★★★と映画的評価★★の間を取って、★★☆にさせてもらいました。

と、かなり前置きが長くなりましたが、実はこの『エピソード1』も、『エピソード2』『エピソード3』にいたる「前置き」の要素が強いのです。イアン・マクダーミドが演じるパルパティーン元老院議員、彼に失脚させられるバローラム最高議長(テレンス・スタンプ)、ヨーダの右腕っぽいジェダイ評議会の一員メイス・ウィンドゥ(サミュエル・L・ジャクソン)などなど、『エピソード2&3』でメインのエピソードに絡んでくるだろうと思われるキャラクターが、顔見せ興行的にたくさん出てきては、随所で思わせぶりな言動を見せます。そうやって張り巡らされた伏線が、のちのエピソードでどんなふうに発展していくのか? は、この3部作が完結する4年後まで待っててチョ、という雰囲気。

ユアン・マクレガーの演じるオビ=ワンにしても、今回のエピソードではまだ修行の身(クワイ=ガンの弟子)とあって、それほど出番は多くない。セリフのほうも「はい、マスター」が8割といったところ。単独で活躍する見せ場は1個所のみにとどまってます。ただ、最後のところで、このあとオビ=ワンがアナキン・スカイウォーカーのマスターとなり、アナキンをジェダイの騎士に育てあげていくことが暗示されますので、『エピソード2』では、ユアンちゃんもフォース使いまくりの大活躍を演じてくれることと思います。

というふうに、『エピソード1』のストーリー構成は、「きっと次はこうなるだろう」という観客の想像と期待を煽るような作りになっているので、何事も「中途半端はイヤよ」というキッチリした性格の人は、「ガテンがゆかぬ」と思ってしまうかもしれない。

私自身は、そういうストーリーの仕立てについてはあまり気にならならなかったのですが、やはりキャラクターの「薄さ」は気になりました。

『スター・ウォーズ』の旧三部作と『エピソード1』のいちばんの違い――それは、ハン・ソロが登場しないことです。と言っても、別に「ハリソン・フォード連れて来い!」と言ってるわけじゃないんですけどね。要するに、ハン・ソロに相当するワイルドで人間臭いキャラクター、すなわち、観客が最もアイデンティファイしやすいキャラクターが、『エピソード1』には欠けているのです。

『エピソード1』のヒーローは、ジェダイ・マスターのクワイ=ガン・ジンと、弟子のオビ=ワン・ケノービ。冒頭のシーンから、ライトセーバーを使った立ち回りをガンガン見せてくれる彼らは、文句なしにカッコイイ。ただし、ふたりはジェダイの騎士の修行を積んだ一種の仙人であるため、そのカッコよさにもどこか超然とした雰囲気が漂っている。ハン・ソロのようにズッコケた部分は皆無。文字どおり、「聖人君子」という言葉がぴったりなのです。

同じことが、クイーン・アミダラにも言える。8着の衣装をとっかえひっかえ着て登場する彼女は(命からがらナブーを脱出したはずなのに、なぜこれほどの衣装を宇宙船に持ち込めたのかは謎なのですが)、やはりひじょうに超然としたイメージの持ち主で、とても血の通った人間に見えない。ま、この点に関しては、クイーンの正体をめぐるオチが用意されているのであまり詳しく書けないのですが、いずれにしろ、「じゃじゃ馬娘」という明確なキャラクター付けがされていたレイア姫に比べると、ヒロインとしてのクイーン・アミダラのキャラは、きわめて弱いです。

残る主要人物はアナキン・スカイウォーカーですが、なんといっても今回の彼は9歳。「ケナゲでかわいい良い子」の少年に、オトナの観客がアイデンティファイしようにも、それは無理な話。

というふうに、ここで俳優が演じているキャラは、みな一様にアンチ個性的。その代わり、ジャー・ジャー・ビンクスをはじめとするCGのキャラが、ズッコけたりふざけたり、喜怒哀楽をあらわにしたりと、ひじょうに人間臭いノリを発揮します。

このように、「人間の演じるキャラに強烈な性格を与えず、CGのキャラを思いっきり人間臭く描く」というのは、偶然そうなったわけではなく、ルーカスがかなり意識的に狙ったものだと思います。つまり、彼は、「CGで作ったキャラに俳優以上の演技ができる」ことを証明したかったんじゃないか――ちょっとうがった見方をするなら、それが第一の目的で、この映画のメガフォンを自分で取ることに決めたんじゃないかと想像できるのです。

数千万ドルのギャラを取るスターなんか必要ない。デジタル・アクターだけで十二分におもしろい映画ができるんだ、と。それを実証するべく作られたような『エピソード1』は、3D−CGアニメとライブアクションの境目を埋める新ジャンルの映画の創造をめざした挑戦である、と、私には思えます。

ただ、そこで問題なのは、我々観客が、ルーカスをはじめとするクリエイターほど柔軟な頭の持ち主ではないという点。これがゲーム世代のお子たちであれば、登場するキャラクターが人間の俳優だろうがCGだろうが分け隔てなく感情移入の対象になるのかもしれないけど、悲しいかな、私めのようなオバサンは、いくらジャー・ジャー・ビンクスが人間味を発揮しようと、「マンガ」的な脇のキャラとしか感じられない。たとえ彼らが、人間の俳優を相手に、あるいはCGのキャラ同士でシリアスな葛藤を演じたとしても、そこに入り込むには多大な努力が必要になると思う。

で、結論。今回、のっぺらぼうなキャラの俳優たちと個性的なキャラのCGクリーチャーが、これまたデジタル処理バリバリの背景のなかで華麗なる共演を繰り広げるこの映画に対して、私が抱いた印象は「自分にはノレないゲームの世界」というものでした。CGのテクニックや、その進歩の度合いにはいちいち感心させられたけれど、ワクワク感を持続させたままのめり込んで鑑賞することはできず、ずっと俯瞰的なスタンスで映像を漫然とみつめていた……というのが、正直なところです。それはやはり、こっちがグッと気持ちを入れたくなる人間のキャラクターが存在しないことに第一の原因があるのではないかと思います。

そしてもうひとつ、鑑賞のシチュエーションにも原因があったと思う。アメリカのように、みんなが大騒ぎしながら見るという感じだったら、「イベントとしてノリノリになる」という気分が味わえたかもしれません。

ただし、俯瞰的なスタンスで見ていても、この映画には映画的な面白さがいくつも発見できます。よく言われるように、タトゥイーンで繰り広げられるポッドレースの場面は、デジタル版の『ベン・ハー』みたいだし、クイーン・アミダラと手を結んだグンガン人が通商連合のドロイドと決戦を交えるシーンは、黒澤映画の合戦シーンを彷彿させます。

ドラマの上では、アナキン・スカイウォーカーが処女懐胎で生まれたという、キリストを思わせる宿命の持ち主に設定されたのも面白い。その彼が、いかにしてダークサイドに落ちて行くのか? という部分には、すごく興味をかきたてられます。

いずれにしろ、この新『スター・ウォーズ』が「何物であるか」がハッキリするのは、次の『エピソード2』においてでしょう。『エピソード1』で振られた伏線がきちんとワークしてドラマにうねりを出すことができるのか、デジタル・アクターが感動や葛藤を作り出すことができるのか、ゲーム的な枠組みのなかに「人間」を描き取ることができるのか。それらが『エピソード2』で成功したならば、『エピソード1』には「偉大なる序章」のステイタスが与えられるだろうし、もしもそうでなければ「20世紀最後のイベント」というだけで終わってしまうと思う。

果たしてルーカスは、『エピソード2』でどう落とし前を付けるか? それを確認するには、やっぱし『エピソード2』も見なくちゃいけないことになるわけで、いやはやまったく、ルーカスのショーバイ上手には頭が下がりますですわい。

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