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シン・レッド・ラインTHE THIN RED LINE 1998年アメリカ 監督・脚本テレンス・マリック 撮影ジョン・トール 出演ショーン・ペン/ジム・カヴィーゼル/ニック・ノルティ ●171分 松竹富士配給 1999年3月下旬より丸の内ルーブルほか松竹・東急洋画系にて公開予定 |
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『天国の日々』のテレンス・マリック監督の20年ぶりの復帰作。第二次世界大戦中のガダルカナルを背景に、生と死、正気と狂気、善と悪の境界線をみつめた哲学的戦争ドラマ。原作は、ジェームズ・ジョーンズの小説。カメオ出演のジョン・トラボルタ、ジョージ・クルーニーをはじめ、スターたちがノー・ギャラに近い条件で出演を希望したことでも話題を呼んだ。そのうち、ビル・プルマン、ルー・カス・ハースらの出演場面がカット。ビリー・ボブ・ソーントンのナレーションも、出演者たちのものと差し替えられた。 |
STORY1942年のガダルカナル島。日本軍のたてこもる丘を攻略する任務を帯びて、トール中佐(ノルティ)率いるC中隊が上陸する。ケック軍曹(ウディ・ハレルソン)とウェルシュ曹長(ペン)に率いられた先発隊は、ジャングルから丘陵地帯へと進軍するが、手榴弾の扱いをミスしたケックが戦死。さらに、前線ではたくさんの兵が犠牲になった。その惨状を目の当たりにしたスタロス大尉(エリアス・コーティアス)は、部下を守ろうとして敵陣突破を命じるトール中佐にさからい、両者には険悪なムードが流れる。が、結局戦局は好転し、ガフ大尉(ジョン・キューザック)率いる部隊による攻撃が成功。中隊は、日本軍の陣地を攻め落とす。 ベース・キャンプに戻り、束の間の休日を過ごす中隊の面々。だが、なかには戦場よりも厳しい現実にさらされる者もあった。唯一の心の支えだった愛妻から、離婚を要求する手紙を受け取るベル二等兵(ベン・チャップリン)。命令違反をおかしたことから転属を命じられるスタロス大尉。そして、脱走の常習者ウィット二等兵(カヴィーゼル)も、かつては楽園に思えた原住民の村に争いの影が射しているのを知り、空しさを覚える。やがて中隊に、再び前線行きの指令が下る。 |
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SHIMIZU ★★★★(99/02/04 渋谷パンテオン) ついに見た。今日まで生きててよかった。私が愛してやまない伝説の人、テレンス・マリックの20年ぶりの復活作は、期待に違わぬ、素晴らしい芸術作に仕上がっていた。ワンシーン、ワンシーンが永遠の詩のような感じで、瞬きをするのももったいない。75年にマリック作に出会って以来、日本で一番のマリック・フリークを自認するSHIMIZUめとしては、後光が差して見える本作に「へへへっ!」とひれ伏したい感じであります。かのアルメンドロスが言った通り、彼は年を経ても、まぎれもない「真のアーチスト」でした。 マリックが明らかに他の監督と一線を画すのは「自然」と「人間」との関係が、距離感をもって語られる点。鳥瞰するような視点といったらいいでしょうか。『バッドランズ』ではサウス・ダコタの「荒れ地」に、連続殺人犯カップルを放ち、原初的な「自然」に彼らが吸い込まれる神話を創り出した。英語で素晴らしいという表現に「STUNNING」という形容がある。息が出来なくなるくらいの想い。文字通り「気絶的」という情景を教えてくれたのがマリックであります。青空からの日差し、月の光、風の音、虫の声など自然という大いなるメカニズムのなかから、彼は人間をとらえようとしてきた。彼の人を見つめる時の純化された視点はまるで子供のようだ。『天国の日々』では、太陽が沈んだ後のわずかの明かりをとらえら「マジック・アワー」と称される薄暮の青白い光で自然をとらえた。土のなかから、植物が芽を出す姿を高速度カメラで捉えるという、彼独特の気絶的なショットをインサートした。 『シン・レッド・ライン』は、先の2作品の延長線上でとらえた、マリックならではの映画になっています。ジェームズ・ジョーンズの原作はほんの借り物という印象。先の2作でもストーリーがないと指摘するむきが多かったけれど、今回もストーリーのなさを欠点であるかのごとく言われそう。が、これはスピルバーグの『プライベート・ライアン』のような「お楽しみ」を用意した物語とは違います。NYタイムスのジャネット・マスリンはふたつの違いを『プライベート・ライアン』は「キャラクター」を語る映画、『シン・レッド・ライン』は「スピリット」を語る映画と書いています。この映画は『プレイベート・ライアン』のように、人間にググッと寄り、その肉声に迫り、戦争自体にメンタリティを塗り込めようという万人向けの濃い映画じゃありません。 『シン・レッド・ライン』は万人受けしないだろうけど、自由で独創的な映画です。米軍兵も敵対する日本兵も、戦争という器を共有している「自然界の生き物」として等しく描かれています。国家、あるいは人種を大きな自然の一部として、大いなる視点から見つめた世界なんです。兵士たちが語る「心の声」は、いつもなにかに向かって囁かれている。それが時には生の不滅であったり、時に死の恐怖であったり、愛であったり、悔恨であったり、孤独であったり。兵士たちがそれらの散文的な心象を語る場合の「あなた」が、僕には大いなる「自然(NATURE)」であるという感じがしました。しかも、マリックの脚本にはかなり意図的に「自然」の暗喩が隠させているのです。 最初のほうで「Where does Nature contend with itself」(戸田さんの字幕では“なぜ自然と闘う?”)とあります。どう猛なワニのショットもあります。舞台はソロモン諸島・ガダルカナル島。そこでメラネシア系原住民の村落で、脱走兵のウィットが村人たちの姿を眺め、ゆったりとした時間の流れに身をまかせているところから始まります。ウィットが物語の語り部的存在。マリックの前2作は女のこによる一人称語りでしたが、ここでは兵士のウィットを中心に時間が流れていきます。彼が原住民の子供たちと海中を泳ぐシーンがインサートされ、まさに彼の存在が自然の一部と実感させます。彼が銃を持ちジャングルを行軍する途中、原住民とすれ違い、自分の置かれた立場の違和感を示すあたりの、さりげないショットも印象的です。彼が戦場という空間で、自分の居場所を求めている感じが独特です。 彼の不安定な態度に、心をくだくショーン・ペン演じる曹長が、もうひとりのキーマン。彼は戦線で孤高を保ちながら、人間的な焦燥感を感じている。ウィットから「寂しい時はいつ?」と聞かれ「人が周りにいるときだけ」とうそぶきながら、孤独に耐えるためには「自分を“島”にすることだ」という言葉もすごい感動的。僕は思わず「I AM ROCK、I AM ISLAND」というポール・サイモンの歌の一節を思い出しちゃったよ。 さて、C中隊兵士たちの戦いは敵陣を破壊するだけでなく、自然を破壊する行為。強いては自分たちに唾するような愚考です。前半はニック・ノルティ演じるC中隊を率いる中佐が、重火器を装備した丘の上の要塞突破を命じ、兵隊たちがばたばたと倒れていく。その戦闘シーンが延々と続く感じだけど、この戦いのシークエンスにわくわくさせられた。というのは、兵士たちは背の高い草原を走り、草の葉陰に滑りこんで身を隠す感じなのです。それをカメラが波打つ草原を舐めるように兵士と一緒に移動し、カメラも葉陰に滑り込む。過激なシーンなのに、このしなやかな律動感。それが日本兵の要塞を殲滅したあと、ジャングルの懐に兵士たちが吸い込まれていくことの助走のような感じです。 兵士たちが「熱帯雨林」に足を踏み入れ、ますます自然の一部と化していく展開です。戦況は切迫しているはずなのに、ジャングルでの兵士たちは、すごく人間的な優しさに満ちている。なにか純化されていく感じです。心動かされたのは、ベン・チャップリン演じるベン二等兵が、妻のことを思う魅惑的なフラッシュバックです。サマードレスを着た妻が、柔らかな日差しが差し込む寝室のベッドで、まどろむ姿。あるいは、ブランコにのりながら天地が逆になるような心地よい揺れ。その切れ切れのイメージが随所にインサートされ、映画全体のイメージのなかに甘く、ふくよかな官能を放ちます。これがただ一兵士の妻というだけに止まらず、妻が体現する、幻影にも似たイメージは「自然」そのもののメタファーとして僕は感応しました。だから、ベンが妻から「いい友達になりましょう」と別れの手紙をもらうあたりのセンチメンタルな余韻には、心揺ゆぶられるものがありました。 ジャングルのなかでは、敵も味方も同じ。森に差し込む光の輝きを受けながら、断末魔に自然の一部である人間本来の輝きを感じることになります。鳥が、花が、草が、川が、そして風さえも感じられような、さりげないショットが逝く兵士たちの姿に呼応します。米兵であろうが、日本兵であろうが人間が最後には自然の一部にかえっていく、人間の魂をある種の高みに到達させるような神々しい映画です。戦争はすべての夢をうち砕き、過去の「美しい光」さえ奪ってしまう。それでも、なおも兵士は問うてみる。「今も美しい光を信じるか」。最後、日本人に殺されたウィットが原住民の子と海で泳ぐ姿がインサートされる。もちろん、どんな時にも、どんな人でも自然の奥懐に抱かれ、パラダイスを夢見ることができる。そんな魂の声が聞こえてきそうな余韻がします。 言えば言うほど、ああ、なんかいい足りてないなという想い。川本三郎さんはマリックの作品を「若者たちが地平線に向かっていく映画」とプレス原稿のなかで書いていますが、地平線は天と地を分ける一線。つまり生と死の境目。地平線のむこうに、夢のようなパラダイスが待っているような気分にしてくれるマリックの世界は、とても透明で、奥が深いのです。 僕が人生の幕を閉じるときは、絶対マリックの3本の作品を携えて逝きたいと思うほどで、ますます、マリック教にはまったSHIMIZUめでありますが、嬉しいことにマリックの次回作は何十年も待たなくてもよさそう。すでに2、3本の作品アイデアがあり、その1本はノルティとペンを再度起用しての作品とか。とにかく、それまでは本作をくりかえしてみたいところです。ジョン・トールの撮影、シシー・スペイセクの夫ジャック・フィスクの美術、ジマーの音楽にも拍手。 戦場で狂ってしまうジョン・サベージ演じる軍曹の言葉を最後に。「人間はつちくれ、人間は雑草」。 |
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YAZAKI ★★★★(99/02/04 渋谷パンテオン) 1月にNYで見たときは、ナレーションにわからない部分が多かったんだけど、字幕付きで見て納得。これは、全編、神(=宇宙の創造主)に対する問いかけの映画なのね。その意味では、戦争映画というジャンルに入らないかもしれないと思うくらい。『2001年宇宙の旅』が、SFというジャンルを超えて存在するように、この映画もまた、生の根源を問い詰めていくような、ひじょうに哲学的な命題をはらんでいます。 それをわかりやすく説明するには、多分、『プライベート・ライアン』と比較してみるのが、いちばん手っ取り早いと思う。『プライベート・ライアン』は、まず、「第二次世界大戦は、栄光に満ちた正義の戦いであった」というアメリカ人の価値観をひっくり返すところから始まり、どの戦争にも存在する残酷さを描きながら、後世に残されていく命の尊さを謳いあげたヒューマニズムの映画、だと私は思う。 いっぽう『シン・レッド・ライン』はどうかというと、「アメリカ人にとっての第二次世界大戦」という意識的な前提がまるで無い。ここではアメリカ兵たちが主役をつとめ、敵側として日本兵が出てくるけど、両者が入れ替わっても話はまったく同じように成立する。もっと言えば、背景がベトナム戦争だろうが、南北戦争だろうが、近未来の架空の戦争だろうが大丈夫だし、人間が死と直面するシチュエーションであれば、戦争じゃなくたって状況設定はOKってところがあるのです。 つまり、人間も動物も植物も含め、この世に生命を作りたもうた神が、なぜ生ける者を戦わせ、苦悩の試練を与え、死に向かわせるのか。そもそも、なぜ神は生命を創造したのか。この宇宙全体がどんな摂理で動いているのか。そういうひじょうに壮大な「どーなの、そのへん?」という問いかけを、戦争をモチーフにして描いた映画なのであります。 私がいちばん強烈な印象を受けたのは、人が死ぬ場面の描写。誰かが死ぬとき、必ず映像が死んで行く人間の「見た目」に切り替わるのです。彼の目に映るのは、ジャングルの木々の狭間から射す太陽の光だったり、宙を舞う鳥だったり。いわゆる「生命を感じさせるもの」。生から死へ、人が「シン・レッド・ライン」を踏み越えて行く瞬間に、生命の神秘を意識するという、その描写のしつこいまでの美しさに、心奪われずにはいられませんでした。 同じような生死のみつめ方は、激戦シーンでも同様で、砲弾にバッタバッタと人が倒れていく壮絶なカットの狭間に、卵の殻から出たばかりの雛の映像が挿入されたりする。あるいは、最初の戦闘シーンの前に、サーッと草原がなびいて太陽の光にあたり、草の色が命の輝きを帯びたように変化したり。必ずと言っていいほど、死のイメージが生のイメージと抱き合わせに語られている点が、この映画のミソ。劇中、ひとりの兵士のナレーションに「俺たちの死が、地球の糧になるのか?」というのがあるけれど、まさしくこの映画は、映像全体で、その問いかけを発しているのです。 ドラマ的にも、『プライベート・ライアン』のように、「生死不明の二等兵捜索」というようなハッキリしたストーリー・ラインがあるわけじゃない。むしろ、それぞれのキャラクターが、テーマを語るうえでのシンボルとして扱われている印象です。 新人のジョン・カヴィーゼルからベテランのニック・ノルティ、そしてカメオ出演のトラボルタやジョージ・クルーニーまで、ここに登場する兵士たちのキャラは、ひじょうに大雑把に分けると5つのカテゴリーに分類されます。田中真紀子流に言うと、「軍人」「凡人」「哲人」「聖人」「狂人」の5種類。 軍人の代表は、出世の野心を遂げるため戦場に出て、「何が何でも敵陣突破せよ!」と強硬な命令を下すトール中佐(ニック・ノルティ)。凡人代表は、妻の愛を心の支えに勇気を奮い起こして戦い、出征前と同じ自分を保ったまま帰還したいと願っているベル二等兵(ベン・チャップリン)。哲人は、自然と一体化した生き方を求めながら、生と死の神秘について神の意志を問い続けるウィット二等兵(ジョン・カヴィーゼル)。聖人は、上官ではなく神の従僕であることにプライオリティを置き、トールに逆らって部下の命を守ろうとする民間人将校のスタロス大尉(エリアス・コーティアス)。狂人は、部下を失ったトラウマが狂気に転じたマクローン軍曹(ジョン・サヴェージ)。そして、彼らすべてをつき混ぜたキャラクター、つまり、最もリアルな人間として、ショーン・ペン扮するウェルシュ曹長があるという位置づけ。 彼らを分かつ境界は、まさに「シン・レッド・ライン」と呼べるほど紙一重であり、また、それぞれが倫理的な「シン・レッド・ライン」の上を綱渡りしている。それをとくに象徴的に描いているのが、軍人トールと聖人スタロスの対立をめぐるエピソード。部下を犠牲にして己の目的を遂げようとするトールと、どこまでも命を守ることに固執するスタロス。これが平常な状況であれば、誰もがスタロスに正義があると考えるでしょう。が、戦場という極限状況にある場合はどうか? というと、必ずしもスタロスが正しいとは言えない。彼の「正気」は「臆病」に、トールの「狂気」は「勇敢さ」に、置き換えることが可能になってくるわけです。 このエピソードを通じて語られるのが何かといえば、我々が生きているのは「絶対的な正しさ」のありえない世界であるということ。もっとぶっちゃけて言っちゃえば、この世に「絶対的なもの」はありえないってことです。人間にとって唯一絶対的なものは、「死」である、と。そこまで言うかあ!? というくらいのことを、言っちゃってるんですよ、マリック先生は。 というように、この映画は、ホントにマクロ的な視野を持つ映画なのです。その物の捉え方は、ヨーロッパ映画のテイストに近いニュアンス。まあ、はっきり言ってアメリカ人は苦手でしょう。なんたって、自分たちに身近に感じられるテーマを扱った即物的な映画じゃないから。でも、逆に、ヨーロッパ映画を見慣れている日本人には、『プライベート・ライアン』より感覚的に馴染めるんじゃなかろうか。 何はともあれ、マリックのファンは必見です。決して失望しないと保証します。それ以外の人でも、映画ファンを自称するなら、入場料分の価値はあると感じられると思います。たとえ前半、少々眠ってしまっても大丈夫。「僕の目を通して、あなたの作ったものを見るがいい。すべての輝ける物を」――というショーン・ペンのナレーションまでたどりついたあかつきには、ドドーンと打ちのめされたような感慨がお腹の底からわきあがってくるはずですから。 |