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地球は女で回ってるDECONSTRUCTING HARRY 1997年アメリカ 監督・脚本ウディ・アレン 撮影カルロ・ディパルマ 出演ウディ・アレン/ビリー・クリスタル/エリザベス・シュー/ヘイゼル・グッドマン/ボブ・バラバン/ジュディ・デイヴィス/デミ・ムーア ●96分 松竹富士配給 1998年10月より恵比寿ガーデンシネマにて公開予定 アカデミー脚本賞のノミネート回数で、ビリー・ワイルダーを抜いたウディ・アレン監督&主演作。アレン演じる作家の心象風景を、現実と作中人物のエピソードを通じて再構築する。 |
STORYハリー(アレン)は、自分の私生活をネタにベストセラーを書いていてきた小説家。仕事のスランプに悩む彼は、別れた恋人のフェイ(シュー)が友人ラリー(クリスタル)と結婚すると聞き、またまた大ショックを受ける。母校で行われる表彰式にフェイを同行しようと思ったものの、断られてしまったハリーは、仕方なく娼婦のクッキー(グッドマン)を雇ってNYを出発。旅には、親友のリチャード(バラバン)と息子も同行したが、途中でリチャードがあの世行きになる事件が発生。さらに、息子を誘拐されたと前妻(アレイ)に訴えられたため、ハリーはブタ箱入りするハメになる。その危機を、フェイとラリーに救われたハリーだが、やはりふたりの結婚は面白くない。自宅に戻ってタイプライターに向かうハリー。やがて彼の頭には、新しい小説のアイデアが……。 |
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SHIMIZU ★★☆(98/07/31 松竹第一試写室) まずは、男の読者のみお集まりを。以下の分で、女性には不快な下ネタになるやもしれず、警告警告。この映画の冒頭シーンを見て、アメリカ人はこの手のジョークが好きだよな、と思うこと暫し。「BLOW JOB」、つまり「不適切な関係」の、あのお方も大好きフェラチオ・ネタでありますね。ハイ。 ざっと挙げるだけで、『ポリス・アカデミー』で演壇に隠れた女の「BLOW JOB」で校長が演説中にヒイヒイ。『ガープの世界』では若い学生と不倫中の妻が車を駐車場に止めて「BLOW JOB」し、帰宅した夫の車が衝突してお口で愛のコリーダ状態。かと思うと『痩せゆく男』では車を運転中のデブの夫を、妻が「BLOW JOB」し、絶頂とともに人を跳ねてしまう。てわけで、「BLOW JOB」はドジの始まり。 ここではウディ先生。冒頭、NY。タクシーから急いで降りアパートに入る女のFAST CUTSの連続。それが一転、のどかな田園。庭で一家がピクニックでバーキューの用意をしている図。カメラはその光景を見ている台所の夫に移り、不倫中の妻の妹と台所でいたそうとする。嫌がる妹も彼のジッパーを下ろし、「BLOW JOB」体勢。夫はチャックでナニをはさむやら大慌て。と、そこに祖母が登場する。彼らはもちろん、見ている観客もドキッ。が、祖母は目を患い視力なし。それをいいことに「BLOW JOB」を続行。祖母にはマティーニを作っているところと思わせる。メル・ブルックスの『ヤング・フランケンシャタイン』での口のきけないフランケンと目の見えない隠者との出会いを思わす、サイトギャグを思い出した。 さらに話は脇道にそれるが、この義理の妹役は最近終わった超ヒットドラマ『サインフェルド』のコメディエンヌで有名なジュリア・ルイーズ・ドライファス。彼女がこの映画に出演したいきさつがおかしい。ウディの映画に出演することは、俳優たちの勲章。 で、彼女も出演依頼の電話をもらった時は大喜び。ところが日程があわない。ウディは日程をあわせよう、と破格の待遇。これででない手はない。ところが自分の出演場面だけの脚本を受け取ってびっくり仰天。そんな演技はとても出来ない。断ろうとした彼女にウディが映画には現実と非現実の設置で「このシーンは非現実部分(小説のなかの設定)。あと裸もないし、不快なセリフだったら言わなくてもいい」と説得されて、おそるおそる出演したそう。劇中ではたしかに彼女は男の下半身の彼方に消えて、主人公役のR・ベンジャミンの顔のみで、それと想像させる。 今回のウディ映画は、従来にないほど、下品でワイセツなウディが登場します。この歳になったら、怖い者なしの谷崎潤一郎状態か。凄い好色だ。老いて盛んな、ウディが羨ましいSHIMIZUであります。さて、主人公は、私生活の性遍歴を小説に転用するベストセラー作家ハリー(一説にはこのモデルはユダヤ人作家フィリップ・ロスの部分もあるとか)。話が進むにつれ、冒頭のタクシーの女(J・デイビス)が、くだんのBLOW JOBの妹で、ドライファスのシーンは小説部分を再現したシークエンスとわかる。つまり、今回は作家ハリーの作品部分と現実部分がパラレルに進行していく構成なのですよ。たしかに、この手のスケッチは手慣れたもので、おかしいことはおかしい。 今回の女への執拗なアプローチはフェリーニのムードでありましょうか。自らの体験を斬り売りしている作家の告白という趣向は、アメリカでウディ版「81/2」と形容する向きもあります。 ここで描かれるウディ演じる作家と女たちのの愛憎渦巻く関係はウディの過去の作品群(『ハンナとその姉妹』など)とシンクロし、ウディ・ファンのお楽しみポイントになることは確かでしょうが、いずれにせよ、お話の芯になる「ハリーの災難」に面白味がないわけですね。私めが気付いたのは、怒る女、泣く女らハリーに恨みつらみのある「女たち」の狂態だけが強烈で、ハリーは受けにまわる一方で、全体に彼が作りだした状況の中心で全体をコントロールしている交通整理役。 作家の手の内を見せているんだ、とでも言いたいのでしょうが、その手法が物語を停滞させ、潤いや弾みを失わせている感じです。ユダヤ人をさかなにしたりする持ち前の笑いもあるけれど、定番化の笑いという感じがした。 後半では、ベルイマンの『野いちご』を意識したのか、母校で名誉賞を受けるため黒人娼婦や幼い息子らを伴ってクルマで出かける小旅行も軽いスケッチも付け足しみたいにみえる。 やはり、前作の『世界中がアイ・ラブ・ユー』に続き、ウディを信奉する俳優たちがわんさか出演しているのが、見どころといえば見どころか。大勢のスターのために、こんなパラレル構造にしてダブル・キャストにしたんじゃないかと思うほど。なかでも、のちに熱心なユダヤ教徒となる精神科医だった2番目の妻が面妖でおかしい。小説版のデミ・ムーアと現実版カースティ・アレー、ともに怪演であります。僕がワンポイントだけどおかしかったのは、ピンボケの俳優役のロビン・ウィリアムス。愛している人だけにピンのあった顔が見えない設定で、ロビンが画面のなかで特定できないほど顔がピンボケになっている演出には笑った。 |
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YAZAKI ★★☆(98/04/27 松竹第一試写室) ウディ・アレンのファンには至福の楽しみを与え、そうじゃない人には「なんじゃ? このオヤジ」と思わせる映画かも。 「Deconstructing」(再構築)という原題のとおり、これは、ウディがウディ自身をバラバラに解体して、自分の世界に解読をほどこしたセルフ・パロディ映画。これ1本見れば、彼の全作品の意味が明確になると言っても過言ではない、「ウディ・アレンの読み方」のテキストなのであります。 私は、なぜ娼婦買いがやめられないのか。私は、なぜ妻の姉妹にひかれるのか。私は、なぜ宗教(ユダヤ教)より精神分析に救いを求めるのか。過去に、『ハンナとその姉妹』『ニューヨーク・ストーリー』『誘惑のアフロディーテ』などで展開させてきたモンモンたる思いを、今回、ウディは集大成的に見せていきます。 映画の主人公ハリー=ウディの世界は、基本的に、セックスの欲望と、人生全般にまつわる不安の上に成り立っています。彼は、入手困難なものを見ると追わずにはいられない性癖の持ち主。そのくせ、欲望がかなえられるどうでもよくなっちゃうところがある。でもって、そんな彼に愛想を尽かして相手が去って行くと、今度は逃がした魚の大きさに気がついて、またまた追っかけずにはいられない。「身から出た錆」と「覆水盆に帰らず」の繰り返し人生……というのは、私めがプレスに書いた言葉でありますが、そういう堂々巡りの人生を、このハリーという男は送っている。 だから、彼は悩む。自分はちっとも成長しない、と。自分は煩悩にふりまわされて、1ヵ所をクルクルまわっているだけの男なんじゃないか、と(イメージとしては、回転リングの上を走ってるネズミのイメージね)。で、自分の一生はそれで終わっちゃうんじゃないかと思うと、ますます不安になってしまう。 さらに言えば、彼のなかには、そういう不安を誰にも理解されないという思いがある。行き着くところは、孤独。そして、人間であるかぎり避けられない死。とにかく、つきつめればつきつめるほど、ハリーの現実はペシミスティックな色に塗り込められていくのです。 ただ、そんな彼にも救いがある。それは、彼が「アーティスト」であること。映画のラストシーンで、ハリーは、自分の創りあげた小説の登場人物にスタンディング・オベイションで迎えられることになるけれど、それは、彼が創造物によって報われることを示している。逆に言えば、彼が満たされるのは創造の世界だけで、現実の世界では幸せになれないってことですね。 そこでハタと気づいたのが、『ブロードウェイと銃弾』との符合。あの映画の冒頭で、「アイ・アム・アーティスト」と叫ぶ劇作家のジョン・キューザックは、劇の最後で「アーティスト」であることをやめ、恋人と田舎に帰って行く。そこには、平凡な家庭の幸福と、アーティストとしての幸福は、相容れないものであるというセオリーが成り立っているわけで。 今回、『地球は女で回ってる』を見て初めてそのポイントに気づいた私は、これがウディの偽らざる心境なんじゃないかと思った。現実の彼は、ハリーと同じように不安でいっぱい。そんな彼が心から幸せだと感じられるのはアーティストであるとき、つまり映画を作っているときだけで、だからこそ彼は映画を作り続けている……と。「実」のなかに「虚」が混ざり合っていく趣向をとったこの映画を通じて、ウディはそのことをいちばん言いたかったんじゃないかという気がします。 そういえば、『カイロの紫のバラ』のミア・ファローも、「虚」の世界でしか幸せになれない女だった。彼女は、映画の観客という受動的な立場で、今回のハリーは作家という能動的な立場で、「実」の世界の苦悩を味わい、「虚」の世界に救いを求める。なんてことを考えれば考えるほど、やっぱりこの映画は、アレン作品の総集編という思いが強くなる。ハリーが、表彰式に出席するため旅に出るという設定は、ウディが大好きなベルイマンの『野いちご』のパロディに思えるし。 という具合に、ホント、ウディの映画をこよなく愛する人には、数多くの発見をもたらしてくれる作品。ただ、基本的には「僕は幸せを求めて映画を作ってます」という自己セラピー映画であることには変わりないので、ユダヤ人でもなく神経症の中年男でもなくニューヨーカーでもなくアーティストでもなくウディのファンでもない人間は、共感のツボを求める地点が見出せずにとまどうかもしれません。 私の場合は、ウディ映画の解読テキストとして楽しんだけれど、ウディの精神分析につきあわされるのは、いささかウンザリという感じ。ただ、いつもながらウディが「自分自身を笑う」というコメディアンの立場を貫き通している点には、心から敬服いたしますが。 |