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シーズ・ソー・ラヴリーSHE'S SO LOVELY 1997年アメリカ=フランス 監督ニック・カサヴェテス 脚本ジョン・カサヴェテス 撮影ティエリー・アルボガスト 出演ショーン・ペン/ロビン・ライト・ペン/ジョン・トラボルタ/ハリー・ディーン・スタントン/デビ・メイザー ●96分 アスミック配給 1998年3月よりシネマライズにて公開予定 故ジョン・カサヴェテスが20年前に書いた脚本を、息子のニック・カサヴェテスがメガフォンをとり映画化したラブストーリー。主演のショーン・ペンが、カンヌ映画祭主演男優賞を受賞した。 |
STORYモーリーン(ライト・ペン)とエディ(ペン)は、深く愛し合っているカップル。だが、モーリーンが妊娠して以来、エディの夜遊びは激しさを増し、家に帰らないこともしばしばだ。そんなある晩、モーリーンはアパートの隣人キーファーに誘われるまま酒を飲み、犯されそうになる。抵抗した彼女はしたたかに殴られ、顔に大きな青アザを作った。翌日、アザを見て驚くエディに、「つまづいて転んだ」と嘘をつくモーリーン。だが、彼女が廊下で顔を合わせたキーファーに毒づいたことから、エディは事情を察してしまう。彼は拳銃をつかむとキーファーの部屋に銃弾を撃ち込み、留守とわかるや表に飛び出した。心配したモーリーンは、精神病院に通報する。病院の職員が駆けつけたとき、エディは酒場にいた。捕らえようとする職員に銃を放ち、酒場の窓を破って逃げ出すエディ。茫然自失でバス停にたたずんでいるところをパトカーに包囲された彼は、そのまま強制的に入院させられる。 10年後、エディは退院を許された。その間、モーリーンは裕福なジョーイ(トラボルタ)と再婚し、エディとのあいだに生まれた長女を含め3人の子供の母になっていた。しかし、彼女が最も愛しているのはエディだった。そんなモーリーンの気持ちを理解しきれないジョーイ。彼は、長女を連れてエディに会いに行き、物事をはっきりさせようと彼を夕食に誘う。モーリーンを取り戻すつもりで、ジョーイ宅を訪れるエディ。ふたりの男と子供たちのあいだで、モーリーンの気持ちは激しく揺れ動く。 |
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SHIMIZU ★★☆(98/02/10 シネセゾン試写室) インディー映画の教祖、カサヴェテスの最後の脚本の映画化。息子のニックが監督し、カサヴェテス映画に欠かせない女優で彼の母親ジーナ・ローランズもカメオ出演。カサヴェテス・ファンには気になる企画であります。 結論から先にに言えば、この映画はカサヴェテスであって、カサヴェテスでない世界。そもそも、カサヴェテスはググィッと俳優を追い込み、そこから生まれる「即興」を大切にした人。だから、彼は「脚本」の作家でなく、あくまでも「映像」の作家という点です。要は彼にとって「脚本」は単なる見取り図という感じだったのではないか、と思うのです。 息子のニックは「見取り図」を頼りに、カサヴェテスの世界をなぞろうとします。カサヴェテスお得意の超クローズ・アップはないけれど、俳優たちをクローズ・アップで切り取る演出は父親を意識したタッチ。が、そうすればするほど、なにかカサヴェテスの形だけがのこっていくような感じです。これはニックが偉大なインディー映画作家に捧げたオマージュと見た方がいいかもしれません。 お話はモーリーンとエディをめぐる「純愛」です。ふたりはカサヴェテス特有の「こわれゆく男女」。さて、なにか心がヒリヒリしたような関係が始まります。 身重の妻モーリーンは3日間、家を留守にしている夫のエディが気になり出す。でも、彼女は自分の不安を見せれば、エディがキレることを知っていて、必死で耐えた状態。そんな状態で、モーリーンは同じアパートの男と酒を飲んだ末に、強姦されてしまいます。もどったエディは彼女の腫れ上がった顔を見る。彼女は道で転んだと嘘をいうが、エディは事態を察知しキレてしまい、結果、人を危めて精神病院行きとなる。それから10年。と、物語はいきなり、2分されるところで、この映画がシンメトリックな構成であることが分かります。 再婚して子供を設けていたモーリーンが、10年ぶりにエディに再会する。前半と後半ではモーリーンとエディの関係が逆転します。前半、モーリーンは心に不安を抱えたエディを守ろうとするガーディアン・エンジェルのような存在。それが、後半、エディは10年間もじっと彼を待ち続けたモーリーンを守る立場になります。互いを補完しあう関係。もう、君なしでないられない「運命」の関係です。(前半でモーリーンが、後半でエディがそれぞれブロンドの髪にして、「色分け」されているのも狙いかな。とくに後半、エディは退院後、美容室にいって髪をブロンドにされる図はこの映画で初めて見られる笑いのポイント) ま、これは前半「悲劇」、後半「喜劇」と考えた方がいいかも。酷い状態が次第に癒される感じは、いまいち緩い感じがするのが玉に瑕。再婚相手の男役のトラボルタなど素人なのか、ヤクザなのかわからん設定で飛躍しているからね。主演のふたり、ペン夫妻がこの映画の要なのだけど、ロビンはほとんどジェシカ・ラング状態、ペンはほとんどペン。まともを装う演技にはついていけるが、お互いの錯乱演技は過剰に見えて食傷気味。 僕がニック監督に好感を持ったポイントは大人のなかに、子供の目(『ミルドレッド』でもそうだった)を持ち込み、映画に弾みをつけるところ。それが妙に新鮮な視点がある。夫婦の喧嘩をみながら、ビールを飲む訳知りの娘の図もおかしかった。 ニック監督には今後も期待したい。雨のなかの男女の情景などのスタイリッシュな映像はカサヴェテス譲りというより、親父を私淑したスコセッシ監督の影響を感じた。ガンバレ、ニック! |
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YAZAKI ★★☆(97/11/27 シネセゾン試写室) エディが施設に送られるまでの第一章と、施設から出たエディがモーリーンの新しい家庭に踏み込んで行く第二章。全然テイストの違う映画を2本つなぎあわせた印象の作品。で、第一章は★★★、第二章は★☆、あいだをとって★★☆というのが私の評価です。 「あんな男のどこがいいわけ?」なんて人から言われても、ソイツのことが好きなんだからしょうがない。第一章は、そんな「愛は理屈じゃないのよ」的世界に生きる男と女の有り様のスケッチ。ちっとも家に帰って来ない夫エディを、バーへ探しに行くモーリーン。アパートの隣の男に乱暴されるわ、どしゃぶりの中で車はエンコするわと散々な目にあったあげく、ようやく彼女は、バーでノホホンとヨタ話に興じるエディをみつける。こういうとき、私なら、キレるね。「人の苦労も知らないで」と、エディを殴りつけてやると思う。 ところが、モーリーンの怒りは決してエディには向かわない。自分の顔の傷を見たエディが逆上するんじゃないかと、そんなふうに彼のことばっか心配しているわけよ。相手のこんなところが好きとか、この部分に惚れましたとか、そういう条件がいっさいつかない丸ごとの愛。世の中、それだけじゃ生きていけないことがわかってるだけに、そのピュアな愛の有り様が切なく胸に響くのです。 エディが、シブるモーリーンをダンスホールへ引っ張って行くエピソードがとってもステキ。文無しで入場券が買えない彼は、入場係の女の子から金を借りようとする。「免許証も持ってないのに人から金を借りるなんて」と、あきれ顔の女の子。するとエディは、「免許証はないけど愛がある」と答える(このとき、ショーン・ペンが見せる捨てられた子犬みたいな表情は、彼の十八番であります)。その言葉にうたれた女の子は、エディに入場料と20ドルを貸してやるの。 つまりね、エディとモーリーンの世界は、お互いへの愛を中心にまわっているんだよね。愛があればやっていけるって、ものすごく純粋なの。で、人はそういう世界に触れたとき、胸がキュンとなるような感動を覚えさせられるわけよ。ダンスホールの女の子が金を貸してやったのも、このあと出てくるイタリア料理店の夫婦が夜中にわざわざ店をあけて文無しのふたりに食事を出してやるのも、ひとえにそうした気持ちから。ベタベタに抱き合ったエディとモーリーンのダンス・シーンも含め、彼らのピュアな関係を切り取った一連のシークエンスには、私の胸もキュンキュン鳴りっぱなしでした。 という第一章の宝石のようなテイストが、まとまりのないシチュエーション・コメディに転じてしまうのが第二章。トラボルタ演じるモーリーンの再婚相手が、エディの娘を連れて安ホテルに乗り込んで行き、「貴様と決着をつけるから家へ夕食を食べに来い」と戦闘モードで挑発するところから、なんか話が破綻している感じ。そもそも、トラボルタのキャラクターが、エディと同じショートテンパー系ってのが私には解せない。 エディとモーリーンの純粋さは、言うなれば子供の純粋さ。そこに割ってはいる3人目の人物は、当然オトナであってしかるべきだと思うんだけど、トラボルタのキャラはまるで子供なんだよね。オレの女房を取られてたまるかって、ほとんどお菓子の奪い合いの世界。まあ、そういう子供オトナの3人が繰り広げるスッタモンダを、モーリーンの10歳の長女がオトナのまなざしで見るってところに、後半のドラマの勘所を持って来ようとした意図は読めるけど。 でも、それを物語るには演出が舌足らずすぎ。酒をふるまいながら銃をちらつかせるトラボルタ、ビールを飲む娘、落ち着かないエディ、バスルームで自殺を図るモーリーン。全員の「居心地の悪さ」をネタに笑いを取ろうとしたシーンも、ただの段取りに終始。誰の気持ちも浮かびあがって来ない劇を見ながら、前半の輝きは何だったんだろうと思わずにはいられませんでした。デビュー作の『ミルドレッド』では、人間描写の繊細さが最高に光っていたニック・カサヴェテスなんだけどね。偉大なオヤジの脚本が逆に足枷になって、自分の物語として語れなかったもどかしかさを、きっと本人も感じているんじゃないかな。 |