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ロゼッタ

ROSETTA

1999年ベルギー=フランス 監督・脚本リュック&ジャン=ピエール・ダルデンヌ 撮影アラン・マルクーン 出演エミリー・デュケンヌ/ファブリツィオ・ロンギオーヌ/アンヌ・イェルノー/オリヴィエ・グルメ ●93分 ビターズ・エンド配給 2000年3月下旬よりル・シネマにて公開予定

粗末なトレーラーハウスでアル中の母の面倒を見ながら、職探しに奔走するロゼッタ。ヒロインを演じたエミリー・デュケンヌがカンヌ映画祭の主演女優賞を受賞、同時にパルム・ドールも受賞した「痛い」青春映画。

STORY

 粗末なトレーラーハウスで、アル中の母の面倒を見ながら暮らす少女ロゼッタ(デュケンヌ)。突然工場を解雇された彼女は、自力で職を探そうと奔走するが、相手にしてくれる人間は誰もいない。そんなとき、行き着けのワッフル・スタンドの店員リケ(ロンギオーヌ)が、職場に空きができたと知らせてくれた。
 小麦粉の袋をかつぐ重労働に耐えるロゼッタだが、3日後、社長(グルメ)の息子に仕事を奪われてしまう。切羽詰った彼女は、リケがワッフルの数をごまかしていると密告。リケの代わりに仕事を手にするのだが……。

SHIMIZU ★★★☆(00/01/12 映画美学校試写室)

いきなり、廊下を早足で行く女の子がひとり。ドタドタした慌ただしさで動き回る。彼女は仮採用の身で、クビと宣告されたのだ。彼女はトイレに逃げ込み、職を死守しようとする。警備員が彼女をかかえ排除する。彼女がタイトル・ロールのロゼッタです。彼女の背後にペタリとはりついって、ほとんど彼女の気持ちによりそう感じで、カメラが息せき切って突進していくような、すごい前のめりのカメラの律動感。まず、その迫力に圧倒されたshimizめです。これほど被写体とカメラが一体化したような映像も、ちょっとお目にかかれない。すごいタイトな距離感で、この監督コンビは少女をとらえようとしている。ドキュメンタリー調というとレベルを超えた、直截で荒々しい生理を醸すカメラだ。

見ていて、気持ちがわるくなるくらい少女はちょこまかと動きまわる。焦燥感が映画全体を覆う感じで、観客が彼女を見続けるには、かなりの体力と我慢が必要かもしれない。彼女はキャンプ場のトレーラーハウスに母親と住んでいる。アル中の母親は酒代のためなら男とも平気で寝る、壊れ行く女。少女はそんなだらしない母親を早く病院に入れリハビリをさせようとする。そのためにもロゼッタに必要なものは「仕事」。仕事はいまの最低な生活から抜け出す唯一の手段という感じだ。とにかく仕事が欲しい。その一途な思いだけで、生きている不幸のどん底に身もだえしている様子です。

面白いと思ったのは、ロゼッタの不思議な行動パターン。彼女はトレーラーハウスの「自宅」にもどる時、キャンプ場の裏側の柵からコソコソと忍び込む。自分だけの抜け穴という感じで、てきぱきとすりぬけ、普通の靴から隠してある長靴に履き替える。キャンプ場がぬかるんでいる様子はないのだけど、まるで外の世界に比べ、自分の住むオート・キャンプは忌まわしい場所という感じで、神経質なほど境界を引いている。トレーラーハウスでは母親が寝ている姿を見て、「またビールを飲んだ寝ているだろう。入院だね」と言いながら、母親の植えた花を引き抜く。決して親孝行な娘でもない。かと思うと、ミミズを仕掛けたサカナ採り用のビンを池でチェックする。サカナが入っていても食べている感じはなく、まるで自給自足の世界を自分で鼓舞するかのような、おまじない的な行動にも見える。ふと、ゴミから「宝物」を探そうとゴミの山を築く、いまどきの日本の老女をも思ってしまう。とにかく、不思議な生活感を背負った「ホームレス」少女、それがロゼッタなのであります。

コマネズミのようにセカセカ走り回りながら、どこまでも冴えなく、どこまでも余裕がない。しかも、小賢しい。盗んだ服を雑貨屋に売り歩き金を作ろうとする。その金でワッフルとビールを買い、トレーラーに帰る。すきま風の入るトレーラーの窓に紙をつめ、風をしのぐ。寝ている間、生理痛なのか、持病の腹痛なのか、ドライヤーで腹を温めて痛みを和らげる姿もリアルだ。根なし草の彼女は、おいそれと定職をもてない。仕事を得れば、なにかが開けかもしれない。彼女は隙間のような人間なのか。ロゼッタは従業員がクビになったのを見計らい、ひとつの仕事にありつく。ワッフル屋の仕込みだ。これでオートキャンプの金も払える。が、母親は管理人と寝ている始末。母親を入院させようとするがロゼッタは、キャンプ場で管理人と格闘となり、河に放り投げられる。動く女プロレス、ロゼッタ。それを凝視するカメラ。タフな日常の連続だ。

ワッフル屋の兄ちゃんがロゼッタに声をかけ、彼女の気持ちを引き立てようとする。彼のアパートでビールを飲み、ダンスもする。甘い空気が一瞬が流れる。「私はロゼッタ。仕事も見つけた。友達もできた。まっとうな生活を送ろう。私はもう失敗はしないわ。私は失敗しない。おやすみ」と寝る前にロゼッタは自分に言い聞かせる。が、ワッフル屋のボスは自分の息子に仕事をさせるため、ロゼッタはクビになる。「まともな生活をしたい!」と思うばかり。なのにお腹は痛い。

ロゼッタは必死で「仕事」を探しつづける。そんな時、ワッフル屋の兄ちゃんが彼女のキャンプ場にやってくる。サカナの仕掛けをとりに行く。兄ちゃんが池にはまったはい上がれない。溺れかかる。このまま死んでくれれば、自分が彼の後がまにつける。そんな思いが頭をよぎるロゼッタも最後には彼に木の枝を渡し助ける。ワッフル屋の兄ちゃんは屋台で内緒でワッフルを売ればいい、とロゼッタに材料を提供する。ところが、彼女はそれをボスに言い、兄ちゃんが横領したとチクリ、後がまのポストを獲得する。

ロゼッタは実に非情で冷淡。生きていくためには人のことなど考えちゃいられない。その図太い生への執着心は、「いまのとりあえず生きています」みたいな脆弱な人間には、圧倒される強欲さ。いや、彼女はカミユの『異邦人』に登場する「ムルソー」の少女版とでもいいましょうか。その実存感というのは圧倒的なパワーを感じさせる。ほとんど映画の3分の2まではロゼッタの不貞不貞しさに「なんだ、こいつは」という思いが渦巻くのだけど、最初から加速してきた生のエネルギーを一気にスローダウンさせる終盤の「生の暗転」は、見ている側にかなりのインパクトを持って迫ってくること請け合いです。

ロゼッタは入院していたはずの母親がもどってきた姿に絶望を感じ、すべての回路を絶とうとするのだ。ここからはネタバラシになるので読まないほうがいいでしょう。

僕はここから幕切れまでの見事な切れ味にドドッと心が惹かれました。まず、彼女はワッフル屋の社長に仕事を辞めると電話をする。トレーラーハウスに入り、ガスの栓をあけ、ベッドに横になり、自殺を試みようとする。この淡々とした幕引きの、リアルなこと。とりわけ、ゆで卵を作り、それをむいてたべてから死のうとするあたり、逞しくも儚げな少女の実存こそが「少女ムルソー」がそそりたつ感じだ。ロゼッタの日常に張り付いた絶望感が静かに彼女を覆う。実に切なく彼女の存在を主張する感じがたまらない。しかも、ガスボンベは途中でなくなり、改めてガスボンベをえっちらおっちら抱えて外に出て、仕切直しをしようとする姿。これほどの屈辱、惨めさが映画のなかで描かれたことがあるだろうか。フェリーニの『道』さえも(ちょっと蓮見重彦ふうの誇張に反省しつつ!?)、これほどまでに惨めじゃない。

そこにバイクに乗ったくだんの兄ちゃんがやってきてロゼッタに出くわす。その時の初めて「人のぬくもり」を意識したような、ロゼッタの人間的な眼差しが、たまらなくいいのだ。涙ぐんだロゼッタの一瞥。見ている方も、この最後の一瞥だけで、全速力で焦燥と絶望のなかを駆けてきた少女のせつない実感と深く交われる。「生」のなんたるかを強く実感させてくれる名ラストシーンと思いました。この映画の全体は、ロゼッタの最後の眼差しに向かって突進していく感じで、「生の再生」を謳い上げた快作と見ましたが、どうでしょう。

YAZAKI ★★★(00/01/25 メディアボックス試写室)

嫌いな人はとことん好きになれない映画かも。なにせ、主人公ロゼッタのキャラが強烈だから。見ず知らずの他人に「仕事くれ」モードでブイブイ迫っていく彼女は、近寄られたら思わずひいちゃうタイプの女の子。私だって、個人的にはぜったいに友達になりたくない。そんなロゼッタの存在が全編を覆い尽くしている映画は、彼女の心情に入り込めず、傍観者的に見ていると、「この女好かん!」ってだけで終わっちゃうと思う。

私の場合はどうだったかっていうと、ロゼッタが工場の警備員とロッカールームで鬼ごっこを繰り広げる冒頭から、対象にググッと迫っていくカメラワークに圧倒され、否応無しに彼女の世界に釣り込まれてしまったって感じ。とにかく、彼女の発散する切迫感がすごいのよ。「いま仕事をみつけなきゃ、今日の食べ物にも事欠く」という雰囲気。で、その切迫ムードに同期しながら見ていると、「貧乏しても他人の施しは受けない」という彼女の潔癖さや、友達を裏切ってまで仕事を手に入れようとする卑しさ、そして、心に築いた高い壁の影に垣間見える癒しようのない孤独と絶望が、まるで自分の「痛み」のように感じられてくるわけです。

ロゼッタという少女は、他人に弱さをさらけだすことを恐れ、それゆえ、他人の優しさにつけこむ術も知らない人間。たとえば職探しをするときも、ちょっと世渡りの上手な女なら、女であることの弱さを武器に「おじさまぁ」とスリスリして仕事を手に入れようとするはず。ところが、「男たらしのアル中」の母を反面教師に生きるロゼッタには、そういう狡猾な手を使うことがガマンならない。だから、ひたすらストレートに「仕事くれ」と強引な態度で迫る。もう、すっごく不器用で正直。そういう、貧乏は貧乏なりのプライドを持って生きているところ、そして、本当は傷つきやすい自分を隠そうとするあまり他人に対して攻撃的になるところが、映画を見つづけるうち、だんだんといとおしく思えてくるのです。

胸を締め付けられるようなエピソードがふたつ。ひとつは、ワッフル・スタンドの店員リケが池に落ちたとき、「コイツが死ねば後釜に座れる」という思いのよぎったロゼッタが、助けようか助けまいかと逡巡する場面。そんなふうに邪心を抱くことは嫌悪すべきことだけど、「お前はそこまで切羽詰っているのか!」と、めちゃめちゃ切ない思いにかられてしまった。

もうひとつは、ロゼッタが自殺をはかろうとするラストのエピソード。自殺の引き金になったのは、いったん家出した母親がグデングデンに酔いつぶれて戻ってきたこと。この母という重荷を背負い、リケを裏切ってまで手に入れた仕事を続けていく「私の人生」に、この先何の希望があるんだろう? 他人と自分を傷つけ、ますますボロボロになっていくだけなんじゃないか? そんなふうに思ったロゼッタは、あれほどまで苦労してゲットした仕事を辞めると電話(その律儀さもまた悲しい)し、母を道連れにガス自殺をはかろうとします。

その前に彼女が食べる「最後の晩餐」は、塩もかけないゆで卵。なんかもう、貧乏が身にしみちゃう。そしてガス栓をひねり、静かにベッドに横たわる。でも、何かおかしい。そう、プロパンガスが切れてしまったのだ。ああもう、貧乏人は死にたくても死にきれないのか!……と、ロゼッタの胸に渦巻く情けなさと悲しさ、憤りが溢れ出るこのシーンは、劇中、もっとも「痛く」感じられる部分です。

憤然としてトレーラーハウスを飛び出したロゼッタは、ガスボンベを取りに管理人の小屋へ向かう。そして、攻撃モードの姿勢を崩さないまま、重いボンベをひきずってトレーラーに戻っていく。そこへ現れたリケが、ロゼッタの心の扉を開く鍵となり、彼女が「生きる」ことを違ったまなざしでみつめはじめたことを暗示するラストは、解放されたロゼッタの魂がフッと高みに上昇する面持ち。そんなところに、ダルデンヌ兄弟の前作『イゴールの約束』と同様、ケン・ローチ映画との共通点も感じられたこの作品、万人におすすめとは言えないけれど、我が愛するワーキング・クラス映画に共感を持ってくれている人は、ぜったい見て損はないと思うよ。

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