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グリーンマイル

THE GREEN MILE

1999年アメリカ 監督・脚本フランク・ダラボン 撮影デビッド・タッターソール 出演トム・ハンクス/マイケル・クラーク・ダンカン/デビッド・モース/ダグ・ハッチソン ●180分 ギャガ=ヒューマックス配給 2000年3月下旬より日劇ほか東宝洋画系にて公開予定


スティーブン・キングのベストセラーを、『ショーシャンクの空に』のフランク・ダラボン監督が映画化。癒しの力を持った死刑囚が巻き起こす奇跡と呪いの物語。
●オフィシャル・サイト● http://www.gaga.co.jp

STORY

 1935年アメリカ南部のコールドマウンテン刑務所。ポール(ハンクス)が看守長をつとめる死刑囚舎房に、双子の少女殺しの罪に問われた黒人の大男ジョン・コフィ(クラーク・ダンカン)が送られてくる。いかつい外見とは裏腹に、暗闇を怖がり、涙ぬ濡れた目をした彼は、不思議なヒーリング・パワーの持ち主だった。
 そんな彼の力で持病の尿路感染症を治されたポールは、コフィが本当に罪をおかしたのかと疑問を抱く。やがて真実を知ったポールと仲間の看守たちは、自分たちの果たすべき義務と、人間としての正しさのあいだで葛藤を強いられることになる。

SHIMIZU ★★★☆(00/01/27 日劇)

原作と映画の関係。これはどこまでも交わらないパラレルな関係にあるのかもしれません。昔の角川の宣伝コピーじゃないけど、「見てから読むか、読んでから見るか」ということは、僕の引き裂かれるポイント。でも、映画を見る場合、原作を意識すると映画の鮮度がおちる、と勝手にきめこんでいる僕は、大体、原作を読まないで映画に臨みます。もちろん、映画の前にプレスも読まない。予断が入ると、どうもそちらに引っ張られる(とはいえ、米国の新作の評価はどうだったとか、その手の情報はちゃっかり頭に入れているのだから、実はしまらないけど)。

でも、スティーブン・キング作品は気になり、「読んでから見た」クチでした。この全6冊からなる原作は、物語の興味をつなぎながら、連続して小説を出版していく、昔ディケンズがやった連続出版小説形式とのことでしたが、僕は一気に読みました。さすがキングという感じのストーリーテリングの妙がある原作。何度か、涙したのも確かです。それを『ショーシャンクの空に』でキング作品を手掛けたダラボン監督がどう映画化するのか、という興味がふくらみました。

まず、正直な感想は、原作を読まないで見たほうが、よかったかもということ。前作の『ショーシャンクの空に』は短編の映画化で、物語のふくらみ、キャラクターの造形など原作にないポイントがいくつもあり、原作と映画が相関しながらも、別物の感動を生み出していました。ところが、今回は主人公が養老院にはいっている現代部分は、はしょられているものの、ほかの部分はほぼ原作通り。忠実な映画化といっていいでしょう。で、いきおい展開のキーポイントをわかっいるため、どう描くのかという興味が先行し、驚きの部分が薄らいでしまいました。これは別に映画のせいじゃなく、僕の鑑賞態度の問題。もって回った言い方で恐縮ですが、原作を読んでいない場合に感じるであろう、さらなる感動部分を考え、☆おまけした次第です。これだから原作ものは難しい。

この映画、俗なお楽しみ本程度なのに「文芸大作」のように設えたという批判の声もないことはない。でも、やはり「死刑」というシリアスな土台から人間の尊厳とはなんぞや、と静かに問う姿勢に、誰もが心を向けたいと思うのは人情というもではないでしょか。ここではうがった見方を提示するより、あるべきものを受け入れる優しさがまず問われるのではないか。それが、オーバーに言えばヒューマニティの原点である、と思うわけです。

さて、お話は看守長が死刑囚と出会った過去の記憶によって綴られた「生」と「死」のクロニクル。悪役は「2人」、そのほかは善人というわかりやすい構図。悪役その1は箸にも棒にもかからない唾棄すべき極悪犯。もうひとりは姑息に人生をわたるであろう知事の甥であり、死刑を目の当たりにしたいという邪悪な看守。ふたりの「悪」のベクトルによって、ここで「善」とはなんぞや、と思考する内容です。そこで援用されるのがキングならではの「裏技」。ミステリアスな「パワー」、奇跡といっていいかも。すべての邪悪なるものを吸い込み、すべてを浄化してくれる、極めて都合のいい癒し系の代物。このへんをつくとキングの世界は身も蓋もなくなってしまうので、それをよしとして話をすすめましょうか。僕がこうやって書きながら思うことは、ダラボン監督という人はすごい幸せな人だな、ということです。これほど悲惨な事件の連発のなかで、平気で「奇跡」を花火のように目出度い、至福の時として演出するなんて。悲観主義のShimizuめはただただ、そのご相伴にあずかりたい。その一心であります、ハイ。

正直、嫌な点がないわけじゃない。その最大のものは、『トップ・ハット』を見ながら、我らが「E.T.」とも呼べる愛すべき純化キャラの黒人の巨人がここでジンジャー・ロジャースの美麗なお姿に「天国」ではこんな「天使」がいる、と涙するシーン。最初に僕も、「ワーッ」と思うほどの心地よさ。前作の『ショーシャンクの空に』でもリタ・ヘイワースの『ギルダ』に受刑者が官能する素敵な場面がありましたが、この監督ならではの映画的ロマンとでもいいましょうか。映画が醸すファンタジー、『カイロの紫のバラ』を想起させるカイカンです。でも、おいおい、黒人のくせに「白人女」にそう思うか。とも思いました。でもダラボン監督って、そんな政治に一切、与しない幸せな人なのだよね、とも思いました。これがスパイク・リーなら、その瞬間、席を蹴っていてもおかしくない。とても、危ないシーンです。

余談だけれど、演じた黒人俳優ダンカンがこの役を得たのは、ひとえにブルース・ウィリスというのが「いい話」。彼がウィリスと一緒に『アルマゲドン』を撮影している時、「これぞ、君の役だ」と推薦してくれたのがウィリスなんだって。ウィリスって、一見我が儘なんんだけど、こういうところに愛すべき、苦労人の心情がでてくるんだよね。ダンカンは1度オーディショでナーバスになり失敗しながら、結果、この役を射止めることになった。ちょっとした黒人のアメリカン・ドリームじゃない。オスカーをとったら、まっさきに「ブルース」に感謝するとダンカンは言っているけど。

話はもとにもどって、この映画はそれらの足をひっぱりたいと思う部分を感じながらも、ついつい情感をくすぐられる映画です。スピルバーグの「4回」に及ばなくても最低「2回」は泣けるかも。泣けないわよ、とYazakiのクールな声が聞こえそうだけど。ま、私のごとき浪花節的なメンタリティの持ち主には、「馬鹿野郎、てやんで」と言いながら、しょっぱい汗がでること暫し。死刑囚ドラクロアが可愛がっていたネズミのその後を示す、「マウスビル」をめぐるウソの逸話も童心をくすぐるエピソード。ここは絶対泣けるんじゃいかな。米先住民インディアンの死刑囚も気の毒だった。この気の毒な人たちがマイノリティというポイントにも、なにか監督やキングの弱者に対する憐憫の情が渦巻く感じです。

それにしても、この看守長はなにものなのだ。金さん、銀さんか、とトム・ハンクスの分け知りの顔を見ながら思いました(ちょっと厳しいかな?)。彼は『失われた地平線』のシャングリラから逃げ出そうとする贅沢な「白人」の末路にも見え、少々、この世の侘びしさも感じる次第です。これから「老後」に突入する世代が、これをある種の「寄りよりどころ」にするのか、「倚りそわず」という気分になるのか。いまの時点での僕の答えは、かくのごとき惑いの★評価となりました。

YAZAKI ★★★(99/11/21 L.A.ワーナー・ブラザース映画試写室)

「生きるってのは、なんてしんどいんだろう」。これが、映画を見終わったときに真っ先に出てきた言葉。「希望ってのは、いいもんだ」という超ポジティブなメッセージを放っていた『ショーシャンクの空に』と違って、この映画は「人生の裏表をすべて見せます」的なノリを持っている。希望があれば絶望があり、愛があれば憎しみがあり、善があれば悪がある。それらはコインの裏表のように人生を彩り、ときとして後者のパワーのほうが前者に勝る場合が多い。だからこそ、人間は「理不尽」「不条理」といった思いにかられ、「なぜ正しい者が報われないのか!?」という憤りと悲しみを覚えることになる。この映画がシンパシーをかきたてるのは、そうした憤りと悲しみの部分。キングの原作にあった「邪悪なものが聖なるものを凌駕する」という構図から、その情感をグッと引き出したダラボン監督は、「死の暗闇のなかで光を放つ命の輝き」を強調する演出で、ドラマに宿る切なさを感動へと高めていきます。

映画の事実上の主役は、『アルマゲドン』のマイケル・クラーク・ダンカン扮するコフィ。生まれつき不思議なヒーリング・パワーを持っている彼は、他人の苦しみや憎しみが、自分の痛みとして感じられてしまう十字架を負った男(満員電車に乗ったらさぞやつらかろうね)。だから、子供のように暗闇を怖がり、いつもその目は涙で濡れている。そんな彼が本当に殺人を犯したのか? という疑問を、コフィに持病を癒されたポールが解明していく形で、物語は進行していきます。

これは言っても鑑賞の妨げにならないと思うから書いちゃうけど、コフィは本当は罪を犯していない。双子の少女の死体を発見し、持てる癒しの力で治そうとしたがかなわず、絶望にかられているところを追っ手にみつかり、人種偏見に満ちた裁判にかけられて死刑を宣告されてしまっただけ。ポールと仲間の看守たちはやがてそのことを知り、「神の力を持った無実の男」をどうにもできない無念さと、自分たちの無力さをかみ締めることになります。

というところで浮かび上がってくるのが、この物語に仕掛けられた「救済をめぐるパラドックス」。普通、コフィのように冤罪に問われた人間を前にしたとき、我々は、何とか無実を立証できる方法はないものか、彼の命を救う方法はないものかと考える。ポールたちも、しかり。ところが、生きている限り、世の中の悪いものをすべて自分の痛みに感じてしまうコフィにとっては、死ぬこと以外、魂を救われる道がないのです。そう考えると、彼が死刑になるのは、逆に神が彼に与えた恵みのようにも思えてくる(ジョン・コフィのイニシャルJCが、人間の罪を背負って十字架にかけらえたジーザース・クライストと符号することは、原作の出版当時指摘されたこと)。

死が、コフィの得られる唯一の救いであること。それは、この物語に宿る「絶望的な悲しみ」の源泉であります。そして、いままでずっと他人に癒しの力を与えながら何ひとつ報われることのない人生を歩んできたコフィが、死の間際になってようやく自分を理解してくれるポールたちとめぐりあったこと。それは、「絶望の暗闇に差し込む一筋の光」であります。その光の尊さ、残されたわずかな時間のなかでコフィに与えられる一瞬の生の歓びを、刑務所の天窓にきらめく星やホタルの群れといった自然描写に託して描いた演出が、私がこの映画で最も好きな部分。

きわめつけは、『トップ・ハット』のダンス・シーン。処刑前夜、「一度も映画を見たことがない」というコフィの最後の望みをかなえてやろうと、刑務所で上映会を開くポールたち。『トップ・ハット』のアステア&ロジャースのダンス(もちろん「チーク・トゥ・チーク」のナンバー)を見たコフィは、「あの人たちは天使だ、天国にいる天使だ」と、目を輝かせます。このときの至福の思いに包まれながら、彼は死の世界に旅立って行くんだ、と。そう解釈することで、ポールたちも一抹の救いを得られるんだ、と。そんな「藁をもすがる思い」があふれ出たこのシーンは、劇中いちばん涙がチョチョ切れるパート。

ちなみに、キングの原作には『トップ・ハット』は登場せず、逆にこの映画を使いたいがために、ダラボン監督は原作の時代設定(1932年)を3年後にズラしたとか。彼いわく、「『トップ・ハット』は大恐慌という絶望の時代に、ハリウッドが人々に提供した夢の象徴である」。つまり、この『トップ・ハット』の存在自体が、「絶望の暗闇にさしこむ一筋の光」という『グリーンマイル』のテーマを物語るものになってるわけですね。

果たしてコフィは本当に処刑されてしまうのか? 原作を読んでいない方のために、それは見てのお楽しみとしておきますが、ひとつだけ、「救済をめぐるパラドックス」の仕掛けが、ラストにも用意されていることは一言申し上げておきましょう。コフィの手で病を癒されたポールと、同じくコフィのヒーリング・パワーで死の淵からよみがえったネズミのミスター・ジングルズ。彼らの身に起きた奇跡が、同時に呪いでもあったことが判明するラストでは、生と死のコインの裏表関係が浮き彫りにされます。死ぬことはつらい。でも邪悪なものがはびこる世の中で、孤独に耐えながら生き長らえることは、もっとつらい。タイトルの『グリーンマイル』(死刑囚が最後に歩く廊下)が人生のメタファーに見えてくる幕切れ、その距離の長さがズシリと胸にのしかかり、試写室を出たあとの夜空に向かって「ハアッ」とタメ息をついちまったYAZAKIでありました。

この映画のプレスを書くためにLAで試写を見せてもらった私は、20分という短い時間でしたが、ダラボン監督にインタビューすることができました(詳しくはロードショーの5月号を読んでね)。ムービーライン誌の記事のなかに、撮影所の守衛さんまでが「あの人はいい人だ」と言ったというのがあったけど、そのとおり、実際のダラボン監督も、思わず「嫁にして!」とお願いしたくなるくらいのデキたお方でした。別れぎわ、「オスカーを受賞なさることをお祈りしてます」と言ったら、「授賞式のときは、日本のみなさんのおかげですとスピーチしましょう」と答えてくれた彼(フジサンケイ・グループがスポンサーとして参加してます)。脚本部門での健闘を期待しましょう。

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