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試写状

フェリシアの旅

FELICIA'S JOURNEY

1999年イギリス=カナダ 監督・脚本アトム・エゴヤン 撮影ポール・サロシー 出演ボブ・ホスキンス/アルシネ・カーンジャン/エレーン・キャシディ ●116分 日本ヘラルド映画配給 2000年3月18日よりシネマライズにて公開予定

恋人を探すため、アイルランドから旅に出た17歳の少女。彼女は、大きな邸でひとり贅沢な晩餐を料理する男と出会う……。ウィリアム・トレヴァーの小説を、『スウィート・ヒアアフター』のアトム・エゴヤン監督が映画化したサスペンス。

STORY

 故郷のアイルランドでジョニーという青年と恋におち、妊娠したフェリシア(キャシディ)。彼がバーミンガムの芝刈り機の工場で働いているという手がかりを得た彼女は、ナップサックひとつでフェリーから降り立ち、ジョニー探しを始める。が、芝刈り機の工場など、どこにも見当たらない。
 そんな彼女と、自分の働く工場の前で出会ったヒルディッチ(ホスキンス)。翌朝、フェリシアのホテルを訪ねた彼は、隣の町の工場へ車で送ってやると申し出る。「自分は病院に入院している妻を見舞いに行くついでがある」と、言って。だが、実はヒルディッチには妻などいなかった……。

SHIMIZU ★★★(99/12/06 ヘラルド映画試写室)

まずは、古いTVで、料理番組を見ながら料理(ラムの王冠型ローストとプレスにあるが)を作り味見をする小太りの中年男。『モナリザ』のボブ・ホプキンス演じるヒルディッチ氏。お次は俯瞰で捉えられたフェリー上の少女(17歳だが)。エレーン・キャンディ演じるフェリシア。これは、ふたりの孤独な「子供」をめぐる物語だ。

物語の発端は、フェリシアから。アイルランドに住む彼女にはジョニーという恋人がいたが、彼は英国のバーミンガムに旅立ったまま音信なし。そんな状態で彼女は妊娠中と判明。彼が勤めたという芝刈り機メーカーを訪ねてみようと思い立ち、父の反対を押して「旅」に出たというわけだ。一方、ヒルディッチ氏はそのバーミンガムでケータリング会社のスーパーアドバイザーを勤める身。会社を出たところでヒルディッチ氏は、か弱い少女に目をとめ、芝刈り機会社の道をを教えてやるのがふたりの遭遇のはじまり。クルマのミラーごしにヒルディッチ氏はフェリシアの姿をとらえる。彼のファンタジーのはじまりのように、50年代のヒットポップス「マイ・スペシャル・エンジエル」が高らかに鳴り響く。

この「マイ・スペシャル・エンジェル」の楽曲とともに、見ている側は彼の古い邸宅へと案内される。この曲は、彼を過去へ誘う小道具。一瞬、ボビー・ヴィントンの「ブルー・ベルベッド」をダークな思いで塗り込めたデビッド・リンチの『ブルー・ベルベット』的な曲の引用を思い、妖しいダークな思いが渦巻き始める。ヒルディッチ氏は会社の仕事にも厳格で、実に規則正しく生きている普通の常識人(にみえる)。料理三昧の趣味人という風情。彼がフードプロセッサーを使おうとすると壊れている。別の部屋へ行くと、なんと綺麗に箱に入ったフードプロセッサーの山。ちょっと尋常じゃない雰囲気が漂い始める。不気味なほど広い邸宅で、彼はひとりで食卓に向かい寂しいディナーとなる。そんなヒルディッチ氏がやがて金のないフェリシアを言葉巧みに誘い込み、邸宅へ引き入れることになる。

『エキゾチカ』『スウィートヒア・アフター』など、入り組んだ「時制」を巧みに操り、独特の世界を綾なすエゴヤン監督。従来の幻惑的なエゴヤン調に比べたら、意外にすっきりした「時制」で、実にとっつきがいい。英国の作家の原作で、その佇まいに多少のなじみも感じさせるためだろうか。見やすい。洗練されたウェルメイドな作りだ。映画はヒルディッチ氏の壊れた生活を次第に明らかにしていく作劇。彼はクルマにビデオカメラを仕掛け、乗せた女をビデオに撮り収集しているサイコなお人。クルマのなかでしゃべる女たちを捉えたビデオ映像が、ヒルディッチ氏の世界をかたちずくる幻想と現実を感じさせる意匠として有効。フェリシアを撮ったビデオに“アイルランドの瞳”をネーミングするあたり不気味なコレクターぶり。ヒルディッチ氏はミラーごしに後部座敷の「獲物」を見つめ舌なめずりし、次々に仕留めていく。孤独な狩人とでも申しましょうか。

ヒルディッチ氏の壊れた精神をかたちづくっているはなにか。そのあたりの謎解きがこの映画のポイントで、決して監禁した少女救出のため、『羊たちの沈黙』のクラリスのような捜査官が登場するわけじゃない(ま、おじゃま虫のような宗教活動家のおばさんたちが彼の悪事に終止符をうつきっかけにはなるけれど)。実はこの映画の最大の面白ポイントは、エゴヤン得意のフラッシュバックで語られるヒルディッチ氏とフェリシアの家庭事情。

父に疎まれているフェリシアの事情もさることながら、ヒルディッチ氏と母親の関係が不気味な面白さ。冒頭、彼が見ていたTVの料理番組とは、料理研究家の亡き母親ガラ(監督夫人でもあるアルシネ・カーンジャン)がホスト役だった50年代の料理番組のビデオ映像とわかる。子供の時の彼、ジョーイ少年は母親と一緒に番組に出演していたのだ。つまり、ヒルディッチ氏にとっての現在は、この母親との「過去」のままでとまっているという構図(艶やかなモノクロ映像で)。ヒルディッチ氏が料理を作り続けるのは、母親に関心を向けさせようとする子供の心のなせる技。しかも、その心はかなり疲弊し、妖しい悪い子の領域に浸食されている。

カラー映像で、少年時代の「秘密」がでてくるシーンも印象的。彼は庭で母親のサイフを拾い金を抜き取り土をかけて隠すのだ。男の行方がつかめず泣く妊婦のフェリシアにヒルディッチ氏が「母とは厄介なものだ」とつぶやき、「君の気持ちが痛いほどわかる」と言う。母親と見たリタ・ヘイワースの映画(サロメか)の記憶がヒルディッチ氏の脳裏をかすめる。妖しく魅力的で邪悪な存在。番組で肝臓を食べさせられノドにつまり死ぬ思いをしたそばで平然「ジョーイ」と声をかけていた母親の記憶。ヒルディッチ氏の七面鳥などを料理する手つきは、明らかに母親の妄執だ。その妄執から逃れられないヒルディッチ氏のメンタリティは、ちょっとヒッチコックの『サイコ』に通じるものがあるかもしれない。ま、いまの時点では例の「新潟少女監禁事件」との符号も感じさせるかもしれませんね。

ヒルディッチ氏は連続殺人鬼だが、徹底した凶悪犯には見えない。彼は過去に凍結された自分の「楽園」で母親への妄執と闘いながら、生きながらえてきた。しかし、皮肉にも死んだ母親は「生きつづけていた」が、すでにヒルディッチ氏の心は「死んでいた」。その「救い」の幕引きをフェリシアがした、と見るのはどうだろう。フェリシアは少なくても彼の「孤独」の領域に入り、親に対するある種の感情を共有し、天使として彼を見届ける役割を担った。そう感じると、この映画の全体は「すべてを理解することはすべてを許すことである」という、ある種の救いを求めた映画として光り輝くのではないか。「君は僕の特別な天使だ。楽園からやってきた天使だよ。瞳には天使がいる」と歌われる「マイ・スウィート・エンジェル」が一層、癒しの音楽にもきこえるくるshimizuめなのです。それにしても、この映画でも使われた「マントバーニ」の音楽は、ある種の昔の家族の価値観をノスタルジックに、あるいは皮肉っぽく語る面白いアイテムかも。『アメリカン・ビューティ』でも、使われていたので、それはまたの機会に言及しようか。

YAZAKI ★★★(99/12/21 ヘラルド映画試写室)

前作『スウィート・ヒアアフター』では、ラッセル・バンクスの原作のなかに「ハメルンの笛吹き」を見出したアトム・エゴヤン監督。今度はウィリアム・トレヴァーの原作に「美女と野獣」(あるいは「赤頭巾ちゃんと狼」)の要素をみつけ出し、一編のブラックな御伽噺をつむいでいます。

この映画の「美女」は、恋人を探してアイルランドからバーミンガムへやって来た少女フェリシア。「野獣」は、バーミンガムの町で小市民的な生活を営むヒルディッチ。彼は、『サイコ』のノーマン・ベイツが入り混じっているマザコン男で、母親が出演していた料理番組のビデオを見ながら、いまも黙々と豪勢なフランス料理を作り続けている。少年時代から母に対して抱き続けた「愛されたい」という願望が、母亡きあとは食べ物へのオブセッションにすりかわった格好。さらに、母との生活のなかで性の欲望を抑圧され、ゆがめられてきた彼は、家出少女を誘拐して殺すことに、憎悪のはけ口を求めるようになった。いわばヒルディッチは、「オヤジの外見をした幼児」とも言える男。彼の心の成長は、'50年代で止まっちゃってる。それを表すのが、ボビー・ダーリンのレコードや、旧式のミキサーなどの生活小道具。それらを通じて、ヒルディッチの内部時間の停止具合を物語っていく演出が、映画に独特のムードを醸し出しています。

いっぽうのフェリシア。彼女もまた、アイルランドの典型的なカソリックの父親の抑圧下で生きてきた人間。イギリスを敵とみなす父は、フェリシアがイギリス軍に入隊したジョニーの子を妊娠したと知るや、「敵の子をはらむとは! 地獄へ行け、娼婦」と、鬼のようなののしり言葉をあびせかける。そんなフェリシアに、親に拒絶された者同士の匂いを嗅ぎ取ったヒルディッチは、彼女の財布を盗み、自分に頼ってこざるをえない状況を作り上げていきます。

フェリシアから妊娠していることを打ち明けられたヒツディッチが、「母親になるのか?」と、露骨に嫌悪感をあらわにする場面が印象的。彼には、自分と同じ「恵まれない子供クラブ」のメンバーだと思っていたフェリシアが、「子供を疎んじる母親クラブ」の仲間入りをすることが、ガマンできない。だから中絶をすすめ、病院への付き添い役まで買って出る。

そうしたヒルディッチのマザコン心理は『サイコ』の影響が強く、また劇中には、『断崖』の有名なミルクの場面を引用した部分(ヒルディッチが睡眠薬入りのココアを運ぶ)も見受けられたりする。エゴヤン監督の意外なヒッチコック・マニアぶりがわかるところは、この映画のおもしろさのひとつ。

ただし、「殺人は喜劇」をモットーにするヒッチ先生流のイギリス風ブラック・ユーモアは、エゴヤンの持ち味じゃないようで。劇中の最も喜劇的な場面は、ヒルディッチ宅を訪問した説教師の女が、いきなり自分の罪を告白しだしたヒルディッチに怖れをなして逃げ出すシーン(神の救いを説く人間が、ほんとうに救いを求める人間を救えない)だけど、ここを境に、話は「ヒルディッチの魂がいかにして救済されるか?」という方向に進んでいきます。

その展開が、私にはどうしてもなじめず、「殺人者の中にも魂が宿っていた。苦痛は洗い流され、癒しが訪れる」という分別臭いフェリシアのモノローグでしめくくられるラストに、どうも釈然としないものを感じてしまった。ヒルディッチがいかにしてフェリシアに魂を救われ、それがどのようにフェリシアの中にフィードバックしていったのか? そこんところのツメが甘いので、「癒しが訪れる」という結論がずいぶん飛躍したものに感じられてしまったわけ。

で、こういうテーマに密接にからんだ部分を把握しきれない映画は、私にとっては★★☆にカテゴライズされるのだけど、今回は「You are my sweet angel」や「It's a wonderful world」の音楽を配した映画の質感の醸し出し方、そして「切り裂きジャックとクマのプーさんがミックスしたような男」(プレスにあるホスキンスの弁)に見事にハマったボブ・ホスキンスの名演が魅力的だったので、☆を追加。素直に「好き」と呼べないけど、妙にひかれるものを持っている――これは、そんな映画でした。

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