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淀屋辰五郎実伝記


淀屋辰五郎イメージ
1.淀屋三郎右衛門、豪富となる

 才知があり、どんなに優れた武人であっても、おごりたかぶりや油断がある時は国家を滅ぼし、また、巨萬の富を誇る豪商であっても、何もせずに遊びほうけていれば、落ちぶれてしまうものである。
 その昔、山城の国、淀の郷に岡本三郎右衛門という者がいた。天正年中(1573-1592)、豊臣関白秀吉公が京都聚楽に城を築こうとするとき、竹木土石運送の人夫の取締りを勤め、その後、伏見桃山の城建築のときにもこの命を受けて、運輸や人夫の手配をし、大いに家を富ませた。
 慶長元年(1596)、岡本三郎右衛門は大阪船場北濱の地に住居を設け、ここに移転して「淀屋」と号し、材木の売買を始めた。これが大阪豪富といわれた淀屋の祖先である。
 さて、三郎右衛門は豊臣家に召し出され、豊臣の旗下へ兵糧米運輸の役を命ぜられた。三郎右衛門はこれをありがたくお受けして尽力し、材木売買についても勉強して大いに富を増やしていった。また、種々の請負商業にも精を出し、徳川家にも出入りして、その御用を請け負った。
 そして、慶長19年(1614)の冬、豊臣家と徳川家が不和となり、合戦に及ぶこととなった時、三郎右衛門は茶臼山岡山の陣家を作り、これを徳川家に寄進。家康父子が、この陣家に着陣すると、家康は淀屋を召し出して褒賞を与え、平定の後は山城八幡の山林田地三百石と御朱印書を贈った。三郎右衛門はありがたく頂戴し、恩謝して帰った。
 その後、元和元年(1615)夏、五月の上旬、大阪落城の際、三郎右衛門は、多くの戦死者が放置されている戦場の後片付け掃除を請願し、徳川氏はこれを許すことになった。三郎右衛門は直ちに人夫を集め,隊長を定めて四方に分けて戦場の掃除をおこなった。このとき、戦死者の武具、甲冑を売却し、これがさらに大金を儲けることなり、加えて山城八幡の三百石の地主となり、時の豪富の一人となった。この時、三郎右衛門の年齢は60歳であった。そして子どもの三郎兵衛に家督を譲り、二代目三郎右衛門と改名させ、その身は隠居して常安と名乗った。
 かくして二代目三郎右衛門は家父のおかげで徳川幕府の台命を蒙り、内国諸候の廻米を引受け、売買することを許されたばかりか、帯刀を持つことも許されることになったのである。


2.淀屋、大阪戦争後に店を建てる


 豊臣太閤が薨去の後も内府秀頼公が在城し、諸侯の屋敷、士卒の居宅、工商に携わる者の家が建ち並び、特に玉造の地は日々市がたって賑わい、近国からも旅客が訪れた。しかし、港には船舶の入出港も絶え、戦によって民は四方の他郷に逃げ、家屋は兵火によって灰燼と化してした。
 乱世は既に治まり平定したとはいえ、未だ民は恐怖を避けて住んでいた土地に帰る者は少なく、ほうぼうたる荒野のようであった。それは、枯木には鳥が集まり、白昼には野キツネが走り回っていることにも見て取れた。また、水路も埋まって平地のようになり、河川も浅瀬ができて舟が行き交うのに難儀する状況であった。
 このため元和二年(1616)、徳川(二代)将軍秀忠公は大阪城の守衛と市民を大切に育てることを大和郡山城主、松平下総守に命じたのであった。
 下総守は大阪城に出張して守衛及び市郡区画の編成をおこなった。また、社寺再建等に尽力し、争乱を避けることに力を注ぐとともに大阪を離れた民を再び呼び集め、大阪市中の家に住まわせたことで、我も我もと家を建てるようになった。
 淀屋三郎右衛門も船場の旧宅があったところに、以前よりも広い土地を求め屋敷を建てることになった。建築にあたっては金銀を惜しまず、大工、手伝、石工、泥匠等数多く雇い入れ、百間四方、二千坪の地に三百八十坪の家を建て、五十畳の正座敷、三十畳の客間、その他十五畳より八畳の後堂、便房、小室などいくつも作り、台所は寺院の庫裏のようで、玄関、廊下、店頭を何間にも分け、外周は塀を巡らせ格子もつけた。前庭も数箇所作り、ここには名木、珍草を植栽し、奇岩異石を配し、築山、泉水、花園を設け、浴室、厠も所々に建てた。また、背門の地には二十四間の梁行の土蔵を四十八個作り、これに「いろは」の番号をつけて、地所の周囲は土塀、あるいは子舎を建てた。そうして半年ほどをかけ、やっと家作が整った。その立派なこと、まるで大名の屋敷のようだと世間の人々は口々にいった。
 かくして完成した屋敷で淀屋三郎右衛門は大宴を催し、親戚や縁者、友人、出入りの者まで美酒、山海の珍味でもてなし、その来客は二百人にも及んだという。また、家族も以前より増えて五〜六十人となった。
 淀屋三郎右衛門は、このように巨額金を費やし、店と屋敷を建築したことで日々の入出費も以前に比べれば多くなったが資金に困るようなことはなく、大阪市中においては第一の富豪であった。この淀屋に次ぐ者といえば、当時幕府より市中支配租税地子銀取りまとめの役を勤める糸割賦町人の天野屋九郎兵衛、安井九兵衛、中村左近右衛門らで、この各人は銀百貫目以上の資金を所有する最古の大阪町人であり、これらの人を元締衆と呼んだ。(この呼び名は後に改称されて「惣年寄」とされた。)


3.淀屋二代目三郎右衛門、珍宝を求める

 豪商淀屋の祖、常安は、新しい家を建てた後、老いによって亡くなった。
 二代目三郎右衛門をはじめ、家族一門の悲しみはとても大きく、金銀を惜しまず葬送の式を執り行い、菩提所には立派な石碑を建立した。しかし、三郎右衛門は、これを契機にして驕奢の心が日々増長し、愛妾を抱え、居宅の中で意に添わない所は建て替え、衣服も美を尽くし、種々の古物・珍器、名画、墨跡など高金を出して求め、京都の呉服商、堺の骨董商が毎日のように出入りした。また、魚売り、八百屋も鮮魚・珍物を携え来ては厨房で料理をした。茶師、歌人、連歌師、画工、法師などもよく出入りし、三郎右衛門は商いのことはすべて支配人に任せ、それら師について技を学び、遊び興じて日々を過ごした。
 話は変わるが、元和五年(1619)、徳川二代将軍秀忠公の上洛があり、参朝を首尾よく済ませ、大坂城代の松平下総守を本国へ帰らせ、内藤紀伊守をその任に就かせた。また、大阪東西町奉行の役所を建てさせ、水野河内守島田越前守の両人に町奉行の役を命じ、東西役所に遣わせて市民の保護と訴訟の裁判に当たらせた。これが大阪城代町奉行を置く初めだという。将軍は、これを見とどけ、江戸へ帰っていった。
 さて、東西の奉行は、大阪市中の区画を改め、支配取締の名を廃して惣年寄と改称し、その担当する地を定め、南船場は安井九兵衛、北船場は天野屋利兵衛、天満郷は中村左近右衛門に命じたのであった。


4.淀屋三郎右衛門、米商いを始める

 淀屋三郎右衛門は、酒色のために天命を縮め、元和八年(1622)に四十歳で黄泉の客となった。そして長男の三治郎が淀屋の後を継いだが、わずか三年で亡くなった。その後も代々の主人は若くして死に、家督を継いでからわずか五年、あるいは七年、あるいは十年というように、わずか三十年の間に六代を過ぎ、承応元年(1652)に與右衛門が継ぎ、七代目の戸主、淀屋三郎右衛門となった。
 七代目は天性賢く、少しずつ家が衰えていくのを嘆き、自らは奢りを慎み、質素倹約して商いの道に専念し、大阪市中のいたる所に土地や家屋を購求してこれを抱屋敷とした。また、近国の田圃を買得し、千石、千五百石の海舶を作り、諸国へ荷物の運送を行い、年々資本金を増していった。米商いの工夫をしたのも明暦年中(1655-1658)ことだった。
 ある日、三郎右衛門は支配人の勘助、手代の定兵衛を呼んで言った。
「私は先日より深く考えているのだが、大阪で町人が米商いをしようというものがいない。これを願い出て、許可を得、自宅の濱で日々小売りすれば衆人から喜ばれるのではないだろうか。また、淀屋の資本も増やすことができると思うのだが、どうであうか」
 と相談した。これを聞いて勘助、定兵衛の両人は、手を拍ち膝を鳴らして主人の考えに大いに感心し、「それは衆人の喜びとなることでしょう」と応えた。
 そこで、三人は願文の内容について相談し、それが決まると筆者を呼んで願書を書かせた。勘助はこの願書を奉行所へ差し出すと、奉行は願書に目をとおし、「追って沙汰に及ぶ」と、淀屋が出願の旨が江戸へ伝えられた。
 江戸では、時の老中による評議が行われ、その後、月を重ねて御朱印を押した「米商い免許状」が淀屋の元に下された。このことに三郎右衛門をはじめ、勘助、定兵衛、甲幹(てだい)、小僕、周徒の仲士まで小躍りして大いに喜んだ。勘助は直ちに大工を呼び寄せ、濱地に十五間の米売り場を建てさせ、落成を待って米商いを初めれば、これを聞いて日毎に集まる人はあたかも潮の満つるが如く、大いに繁盛し、淀屋の富を増していった。
 かくして延宝元年(1673)に一子の與太郎に家督を譲り、三郎右衛門と改名させて八代目の戸主とした。そして七代目の三郎右衛門(與右衛門)は、山城八幡の所有地に新宅を建てて隠居して風流を楽しんだという。


(淀屋の世代について  淀屋は、14代説、9代説、7代説、5代説などがありますが、この「淀屋辰五郎実伝記」は、明治21年初版、同25年再版の『淀屋辰五郎実記』(柳澤武運三著)を底本にしているため、原文のまま淀屋九代説を採用しています。しかし、今はこの中で淀屋5代説が最も有力な説となっています。昭和18年に刊行された『日本商人伝』(物上敬著)では次のように解説しています。
 「『淀屋顛末略』は「淀屋三郎右衛門此時十四代目」といい、『史料通信叢誌所収文書』は「淀屋三郎右衛門九代相続」といい、『棠大門屋敷』は「七代相続きたる分限」という。三郎右衛門という名は、淀屋代々の通称である。(中略)この淀屋が14代目という説は、ほとんど物にならない。なぜならば、淀屋の元祖常安は、徳川の初世、すなわち初代家康と二代目秀忠の時代に活躍した人で、それからの年数を数えて、寛永二年の闕所処分までに十四世を経たとは考えられぬ。幕府の方を見ても,当時は綱吉の世であって、綱吉は五代将軍である。それならば、七代か九代か、まずこのあたりであるが、明治になって岡本撫山という人が考証された「岡本家系譜」と「淀屋橋家系」は、過去帳と墓碑とを参照して拵しらえられたものだけに、最も信憑すべきものであり、これによると淀屋は五代である。」と。)



5.淀屋、洪水で甚大な被害を被る

 大阪の大富家といわれた淀屋も、六代目の三右衛門の時になって少し衰えをみせたが、その子、與右衛門が七代目の戸主となると、生まれながらの英才をもって商いに励んだことで財産を増やし、家父の代よりも店は繁盛した。その後、自らは隠居し、子の三右衛門を八代目とした。
 しかし、八代目は家父の與右衛門のように活発ではなく、商いを支配人の定兵衛に任せ、自らは風流の道を好み、茶の湯を嗜み、あちらの茶事、こちらの書画会というように日々遊ぶこと多かった。さらに、祖先から種々の名器などを集め、これらは倉庫に充ちあふれていたが、なおも高金を使って茶器や書画のたぐいを買い求めて楽しんだ。
 延宝二年(1674)の夏の頃からの風雨は、秋になっても続き、このため河川は水位を増し、水の勢いが激しくなって堤を崩し、山城、河内、摂津、和泉国の田圃の多くは浸水した。また、作物は流れ、あるいは沼と化し、村の民家をも流し、溺死する者も少なくなかった。大阪の市中も低い土地であったから家屋は水に浸かり、川岸に建つ土蔵は破損し、押し流れる家も多く、橋梁も落ち、石垣も崩れた地も所々に見られた。
 この水害によって淀屋が所有する田圃も多くを失い、川沿いの抱屋敷も壊れ、多くの損害を受けた。それだけでなく、八幡の里に住んでいた與右衛門夫婦も水害で溺れ、命を失った。この災害で淀屋の家は、上を下への混乱は甚だしいものがあった。


6.柳澤保明の出世

 当時、頭角を現し始めた人があった。その人の名は柳澤弥太郎保明といい、江戸の半蔵御門外片町という所に住んでいた小禄の幕吏であった。
 弥太郎は俊才英智があり、弁舌にも優れ、鏡に影を映し見るかのように相手の心を捉えることができ、親交を深めた人は心を奪われてしまうというような人であった。
 妻のおさめは、松並春三という医師の娘で、その容貌は艶麗しく、かつ賢く良人劣らぬ才知ある女性であった。
淀屋辰五郎実記01  弥太郎はいつも出世を望んでいたが、ある時、随高坊という弥太郎の遠縁の人がやってきた。弥太郎は喜び、随高坊を客室に招き入れて世間話をすると、随高坊のいうことには、「私は牧野備州殿の屋敷で、館林綱吉公を拝顔したが、この人は天下の主となる相をもっていた」と。弥太郎は「これは出世に繋がるかもしれない」と思ったが、我が身の身分では大家に目通りもかなわないと思い、むなしい月日を過ごした。ある時、随高坊が大老の屋敷に行くと聞いて、弥太郎は「なにとぞ同伴くだされ」と頼めば、「それは容易いこと」と随高坊が承諾。次の日、弥太郎は随高坊に同行して牧野備後守の屋敷に向かった。
 あいさつが終わり、よもやまの世間話になると、弥太郎の弁舌はさらに爽やかになり、その才知の非凡さを備後守は感じとり、その後も、度々弥太郎が来る時は対面が許され、談話を楽しんだ。
ある時、牧野備後守は館林公に「しかじかの者、拙者方へこの頃参り候が、学才ある者に候」と言上すれば、「それは余がかねて好むところの者なり」と弥太郎を百五十俵に二十人扶持の近臣として召し使わされることになった。これが柳澤の出世の糸口になったのである。その後、主君の御意にかなえる様、万事に配意してご機嫌をとり、このことでご寵愛は深くなり、「弥太郎のようなものは他にいない」と喜ばれ、弥太郎は五百石の秩禄をいただくことになった。
 延宝八年(1680)五月、徳川四代将軍の家綱公が薨去した。しかし、実子がないために御三家を始め、大老、老中の面々による評議がもたれた。そして、ついに館林綱吉公が家督を継ぎ、徳川五代将軍となったのである。これによって柳澤弥太郎保明も御側役に命ぜられ、秩禄千五百石賜わった。
 また、同年のうちに三千石の秩禄と成り、出羽守を任じ、翌天和元年(1681)に五千石となり、また五千石の加秩があり上総国讃岐一万石を賜わって城主となった。元禄七年(1694)には武蔵川越藩七万石の城主となった。
 元禄七年(1694)十二月に老中格となり、元禄十一年(1698)には大老格となり、元禄十四年(1701)には松平の姓と綱吉の一字を賜り「松平美濃守吉保」と改め、大和郡山の城主となった。その威勢は他に肩をならべる者はなく、二十余年間でこのように出世する人は稀であったといえる。


7.淀屋三郎右衛門、茶碗を買い求める

 さて、淀屋三郎右衛門は天災で父母を失い、その上、所有の地所家屋を洪水に押し流されるという意外の損失に心を痛め、しばらくはふさいだ気持ちで暮らしていた。しかし、いつしか、その悲しみも癒え、また茶事に心をとらわれて珍器を買い求めはじめた。
 天和年中(1681-1684)のことであるが、ある日、骨董商の眞八という者が古い桐箱に入った茶碗を持ってきた。眞八は「このような茶碗が手に入りました。ご覧くださいませ」と差し出すと、三郎右衛門は手に取り、見ると蓋書きに「月老」の二字が書かれていた。
 しばらく黙って見て考えていた三郎右衛門は、”茶碗に銘が付いているのは珍しいことだ”と蓋を脇に置いて茶碗をさらによく見るのだが、いかにも高麗焼の古物ではあるけれども、これと同様の物は何個もある。よほどの古物というのであれば買い求めてもいいのだが・・と思い、「いくらなのか」と聞くと、眞八は頭を下げ、「それはありがとうございます。値段はお安くございまして金五枚を願いとう存じます」と答えた。
 三郎右衛門は、「値打ちがあるような茶碗に見えないし、箱書付も誰が書いたか分からない。また、”月老”の二字には、どんないわれがあるのか」と眞八に問うと「それは私も不思議に思っています。しかし、月老は”なかだち”と読むそうに御座ります」という。
 三郎右衛門は「いかにも月老は縁を結ぶ神の名なれば、さもあらん」と納得するが、「この茶碗の銘には似合っていないように思う」というと、二人は押し黙って再び考え込んでしまった。
 そんなとき、これも淀屋に出入りしている清水澄斎という医師がやってきた。
 客室に通された澄斎は、三郎右衛門、眞八に挨拶をするやいなや、茶碗を見て突然手を拍ち言うことには「これはこれは珍しき品を拝見させていただいた。かねがね月老という茶碗のことは聞いていたが、見るのは今日が始めてだ」と。
 これを聞いた三郎右衛門は、澄斎に「この歳になるまで月老という名物があるというようなことは聞いたことがないぞ」と言うと、澄斎が応えるには「いやいや、名物には違いないが、この茶碗についていわれがあることを、さて、御主人はご存知御座らんか。骨董商の眞八も商売品なのに知らないのか。それならば、この茶碗にまつわる物語をお聞かせ申しましょう」と、澄斎は言い、ズイッと膝を進めたのであった。


8.土の大黒天、娘の縁を結ぶ

かくして清水澄斎は、もの静かに語り始めたのであった。

 いつの頃だろうか、その昔、江戸・神田のあたりの裏家に住まいする年老いた浪人がいた。その浪人には十七歳になったばかりの娘がいて、すこぶる美人、いたって孝行者であった。貧しい生活をおくっていたが、浪人が病を患ったことで、生活は更に困窮し、日々の食事にも事欠く状況であった。
 その浪人は古道具を売って日々を送っていたが、ある日、土でできた大黒をわずかの価格で仕入れた。それを荷の上に置いて、浅草のほうへ売りに行く途中、ある邸で呼び止められた。浪人は仕入れた土の大黒を百文で売ったのだが、これを求めた人が三野田という武士で、いたって古物好きだった。
 三野田は、買ったばかりの煤けた大黒を濡れ布巾でしきりに拭くと、いつしか湿りが移って土大黒は二つに割れたではないか。すると、中に紙包みが見える。これを開いてみれば、なんと小判であった。三野田は驚き、数えてみると、五十枚もあった。いよいよ驚愕し、「これは大黒を売った人も、またそれを買った古物商も知らないことだろう。しかし、私がもらうわけにもいかない」と、その後、古物商にそれを伝えるために浪人の家を聞き、その家を訪れた。
 三野田は、浪人に「しかじかの事があって、この金があなたから買った大黒から出てきました。これはあなたの金だから、収めてください」というと、浪人は、「これはあなたが授かった福です。私がその大黒の中に金が入っていることを知っていれば、何で売ったりしましょう。ですから、あなた様が授かるべきものです」と、二人の正直者同士は金を下において「受けとれ」「持って帰れ」と、とうとう口げんかが始まってしまった。
 この騒ぎを聞きつけ、何事があったのかと隣に住む人がやって来た。
 そして二人を押し鎮めていうことには、
 「このままでは二人とも争いが果てないではないか。この金五十両は、老爺殿が持っていた大黒の中にあったものであるから、老爺殿が受け取られよ。それをお持ちくださったお武家様へは、そのお礼に何か品物を差し上げればいかがか」といえば、三野田は手を打って「これは妙案だ」と喜んだ。しかし、老夫は困ってしまった。というのも、我家には五拾両の金に代わる品物はないと、はなはだ当惑の様子。三野田は、この老夫の心を察し、「何も心配することはありません。五拾両の値打ちが無くとも、何でもいいのです」と、傍を見ると茶碗が目についた。
「これこれ、この茶碗を頂戴します」と手に取るやいなや、老夫は「その様な汚い茶碗を渡すわけにはいかない」と押しとどめた。しかし、三野田は「いやいや、これを」と懐に入れ、別れを告げて家に帰っていった。

 次の日のこと、出入りの骨董商が三野田の邸に来ると、三野田はこの茶碗を出して「これを見てくれ。汚い茶碗であろうが」と笑いながら見せた。すると、骨董商はつくづく見て感心し、「これはお求めになられたのですか」と問うと、「いやいや、この茶碗は貰ったものだ。如何ほどの値打ちのものか」と三野田。骨董商は、再び茶碗を見て、「金五拾両の品かと思います」と答えた。
 三野田は大いに愕然。骨董商が帰った後、三野田は急いで浪人の家に行き、挨拶もそこそこに、「昨日の茶碗は金五十両の値打ちのあるものであった。この品を申し受けては先の五拾両を私が手にしたものと同然。しかしながら、この茶碗は私の所蔵品といたしたいのだ。代金をお渡しいたしたことで、再び他の品を代わりにくださることになったとしても、あなたの気休めとなるなら、それもよかろう。まずは、茶碗の代金をお受け取りくだされ」と、五拾両を差し出した。しかし、浪人は受け取る気配もなく、三野田はいろいろと思案を巡らし、浪人の娘を息子の嫁に迎え、この五拾両を結納金としようではないかといい、ようやく老夫もこれを承知して婚姻の式を行ったという。
 ここまで、一気に語った清水澄斎は、「このことから、茶碗の銘「月老(なかだち)」と名付けたという話を聞いていたが、私もその宝物を見るのは今日が初めてだ」と結んだ。
 これを聞いて三郎右衛門は大いに喜び、「これは誠に世に珍しき物だ」と眞八から月老の茶碗を買い求めた。


9.9代目淀屋辰五郎の誕生

 貞享元年(1684)三月、淀屋三郎右衛門の妻、阿豊が男の子を産んだ。三郎右衛門は言うに及ばす、家内中の者が大いに喜んだ。親族、支店、出入りの者まで、これを聞くや否や、お祝いのためにやって来たという。この子の名を祖父の幼名を用いて「辰五郎」と名付けられた。
 日々を重ねると、辰五郎の容貌は婦女児かと思えるほど美しく育ち、まるで名玉のようであった。四月の初宮参りの衣服は、高官の公達対君の若君にも恥じない結構なもので,傳母は辰五郎を抱き、腰元三人、甲幹二人、下僕など供をなして産土御霊神社に詣でさせ、その日は朝から宵まで祝宴が全美を尽くして開かれた。辰五郎は、寝たとき以外は傳母、腰元により代わり替わり手から手と受け抱きかかえられ、その前後ろに傳母、腰元が付き添い、大切に育てられた。
 かくして端午の佳節には、門前に大幟りを建て、正座敷の床の間に家宝の楠正成の鎧を中央に飾り、左文字正宗の太刀、粟田口吉光の短刀を刀掛けに掛けて傍らに居え、虎の皮、豹の皮を敷きつらね、弓矢、槍、薙刀、鉄砲等何れも名ある品を並べ、家の紋を染め入れたる精巧の旗、縮緬の幟、猩々緋の馬印を台に立て、前栽の築山を賤ケ嶽になぞらえ、羽柴秀吉、加藤清正、片桐且元、福島正則、加藤嘉明、平野、脇坂、糟谷、佐久間などの人形を彼方此方に置かれた。また泉水を宇治川と成し、梶原、佐々木の先陣の偶人をおき、その他、座敷の床の間に名画の武将勇士の像、あるいは猛虎、雲竜の掛け軸をかけ、菖蒲、映山紅の挿花をおき、ちまき、神酒を供え、この日も美酒佳肴をもって酒宴を催し、初の神事、食初祝、どれも賀宴が盛大に開かれた。
 平日の衣服や玩具にも金銀を惜しまず、辰五郎が成長すると読書、習字、謡、礼法、茶の湯、生け花、香などを学ばすにも、時の名家を選んで教えを受け、それに用いた書籍その他の器財も佳品を求めた。また、師は家に招き、その家に行くときは駕籠に乗せ、丁稚二人が付き添った。このように大切に育てられたことから、辰五郎はおのずとわがままとなった。丁稚、手代、腰元など、辰五郎の若気に逆らうと、罵り、打ちたたいた。三郎右衛門はこれに理非を正さず、反対に使用人に暇を出した。
こうして元禄六年となり、辰五郎十歳の夏、家父の三郎右衛門は亡くなり、その跡を母の阿豊が継ぎ、支配人となる半七が後見人となった。


10.淀屋辰五郎、学問に精を出す

 家父を幼年にして亡くした淀屋の一子、辰五郎は慈母の教育を受けて成長した。12歳になると聖賢の教えに感じ入り、師に就いて一途に学んだ。他の芸事は一切好まず、一日中、部屋で書を読みふける生活をおくったことから、一年も経たないうちに患い、顔色も衰えた。慈母の阿豊は驚き、辰五郎に読書をやめさせ、医者を招いて医薬を請い、1カ月ほどで、ようやく快復の兆しが見えてきた。
 阿豊は医薬の効果があったことを喜び、医師に手厚くお礼をし、辰五郎には引き続き医薬を勧め、保養をさせた。けれども、他に好きな事もなく、辰五郎はまた机に向かって読書を楽しみ、部屋から外へ出ることもなかった。
 慈母の阿豊は心を痛めた。思うことは、学問は悪いことではないから、止めさせるのもどうしたものか。しかし、根気が尽きて、また病で命も縮めるようなことになれば、綿々と続いてきた淀屋の血脈も絶えてしまいかねない。そうすれば、他人に家督を譲ってしまうことになって、後悔することになってもつまらない。あとは、15歳で元服させ戸主となるのを待つしかないのかと悩んだ。
  阿豊は辰五郎の後見人である半七を呼び、どうしたらよいものかと相談するが、学問の道を止めさせ、他の芸を勧めるにも申す不行状な導き藝は勧められず、どうしたものかと半七も心を痛めていたが、いい答えが見つかっていなかった。しかし、阿豊には「お心を痛めないで私にお任せください。悪くは計らいませんから」と言って安堵させた。そして、いろいろと思案を巡らせ、支店を任せている者たちに相談して、辰五郎を遊山、川狩あるいは芝居見物などを勧めた。辰五郎は、外に出ることは珠にしかなかったが、それでも14歳の春の頃より、本を読むこともなくなって、心の許す手代、丁稚あるいは周徒の者などを引き連れ、花見、川狩、蛍狩り、能、狂言や演劇場の見物、家にあっても戯れ遊ぶようになって、陽気な事を好むようになった。
 慈母の阿豊は嬉しく思い、半七も大いに喜び、安堵した。こうして元禄11年の正月に辰五郎は15歳になり、家督を継ぎ、淀屋の戸主と成り、慈母の阿豊が喜び、奉公する者たちも淀屋の栄えを祝った。


11.河村瑞見のこと

 話は変わって、老中・松平美濃守吉保の威権は、まるで朝日が輝くようであった。それは才知・能弁を使って力ある者に媚びへつらい、また好色を使って心を惑わせ、三家国主の名家をも侮り、他の諸侯も見下し、我意を振った。そして老中列座も上席となり、やがて大老職に就いて甲府の城主となった。
 さて、尾張国の河村という所に河村瑞見という人がいた。
 瑞見は英知に優れ、特に土木事業に優れた能力を持っていた。幼い頃から立身出世の望みを持ち、百姓を嫌って15歳の時に国を脱走。京都に来て大工の弟子となった。その後、白川村の石工として雇われ、木こりや土掘りなどの仕事についた。そして20歳の年に大阪にやって来た。
 大阪では塵捨て場や道路に落ちている竹の皮を拾い集め、これで下駄の端緒を作り、市に出すと、人々は「珍しいし、しかも安い」と、こぞって買い求めた。
こうして、少しの間に、わずかではあるものの資本金ができた。これを機にいろんなものを発明しながら諸国を回り、ついに江戸へやって来た。


12.瑞見、徳川家御用達となる

 さて、江戸にやって来た河村瑞見は、神田紺屋町の若狭屋宗兵衛が所有する九尺二間の裏家を知人の仲立ちで借り受けた。
 そして、始めたのは、この頃には江戸になかった物や飲み物や食べ物を創っては、これを雑踏で売り出した。他の者がこれにあやかろうと偽物を売り出すと、瑞見は直ちにその販売を中止し、また新たな物を創り出して稼いだ。
 大勢の人は、その珍しさを誉めたたえて買い求め、瑞見は思いのほかの儲けを得て資金を増やし、数年で若狭屋が所有する表の借家へ転宅した。そして、妻を娶るとともに、職工・人足を養い、破損修理のほか、難しい仕事も知恵を働かせてこなした。また、安い価格で棟瓦の修繕をしたり、大きな釣り鐘が落ちれば、これを架け、多種多様な仕事を請け負っては人を驚かせた。その評判は江戸中に広がり、近隣諸国へも伝わった。
 ある時、若狭屋宗兵衛が上杉家の下屋敷の修繕を請け負ったが、その落成にあたって、担当役人らが私欲にからみ、「営繕は手抜きが多く、かつ粗末なものだ」と難癖をつけ修繕料を払わなかった。宗兵衛は大いに困り果て、瑞見に相談すると、「これは殿様に直かに訴えるほかはない。それにはこのようにやればよい」と知恵を授けると、宗兵衛は「それはとても妙案だ」と大いに喜び、早速、菓子折をもって上杉家の下屋敷へ出向き、愛妾へ進上し腰元衆などにも気に入る品を贈った。
 かくしてその後、上杉家の殿様が下屋敷へ来ると、愛妾も腰元も口を揃えて「若狭屋宗兵衛は心を込めて営繕をなされました」といい、殿様もそのとおりだと感じ、宗兵衛を召して、「営繕よく出来たり」と賞賛した。そして担当役人を呼び、「宗兵衛に褒賞の金を与えよ」との命を下すに及ぶと、役人等は返す言葉もなく、営繕料を残らず宗兵衛に渡し、その上へ少々の褒美の金をも与えた。これによって、宗兵衛は大いに喜び、河村瑞見の才知があったからこそと、いよいよ懇切にした。
 河村瑞見の頓才英知が老中の松平美濃守に伝え及ぶと美濃守は瑞見を屋敷に召し、本当に聞きしに優る才人であることを知ることとなった。美濃守は推挙して瑞見を徳川家御用達町人に取り立て、旗本格と帯刀を許した。これより瑞見は一層奮起して幕府の土木の用をなし、万民のために尽くして名を末代まで輝かそうと大和川の掘割や大阪の川の開削などを計画。その仕法書を大老松平美濃守へ差し出した。これが将軍へ言上され、将軍の許しを得て美濃守は瑞見を川奉行に任命したのであった。
 こうして瑞見は急ぎ準備をして大阪にやって来た。そして淀屋が所有する家を旅宿とし、ここに滞留しながら、堺・津、河内の地を見て回り、河内から堺、津の北の水路を開削して海に接する一條の川を作った。この川を「大和川」と名付けた。この工事を終えると、瑞見はさらに大阪市中に小川を作り、川ざらえ等に取りかかった。


13.瑞見、大阪島津邸へ杭をうつ

河村瑞見安治は、大和川の掘割工事で大いに自信をつけ、その権威を振っては大坂市中の小川の掘割工事を進めた。
その工事は、改修する水路の両側に先ず掟杭を打つのだが、大坂の島津邸の地にその工事が及んだ際、島津の邸内に杭を打たなければならなくなった。しかし、瑞見は少しも恐れることもなく、邸内に杭を打とうとした。島津の家臣は怒り、邸内に杭を打つ事を拒んだ。すると瑞見は「これは私事にあらず。天下の御用である。万民の便益のための工事であり、島津邸だけを除くことはできない」と言うと、島津の家臣は大いに怒って、松平薩摩守のいる江戸屋敷に早使いを立て、このことを知らせた。
江戸では、薩州公がこれを聞いて大いにいきまき、「不承知成り」ときつく断るべきと言い、早使いを大阪に帰した。島津の臣、このことを河村に伝えたのだが、瑞見は承諾せず、「水路は地理によって成すものであるから、止めることはできない」と答え、容赦なく邸内に杭を打った。このことが江戸に聞こえると、薩州公は大変怒り、瑞見の暴挙を「家にきずを付けられた」と将軍に直訴し、瑞見の身柄を自分に預けて欲しいと願い、大紛糾となった。

14.瑞見と養軒が自らの命を絶つ

 この事件に大老の松平美濃守は才知を巡らし、薩摩守に書状を書いてなだめ、瑞見の仕事が終われば引き渡そう」と約束することで少しは怒りを鎮めた。
 大阪の瑞見は、江戸でのこの裁定を伝え聞くと、これは一大事と驚き、川の掘割工事を進めている途中ではあったが、これを打ち捨てて京都に上った。そして、丸太町に寓居を借り、「私の運命も尽きる時がきたようだ。島津の手に捕らえられ、罪に問われるのは、何とも口惜しい」と舎弟の養軒と刺しちがえて瑞見は死んでしまった。
 これによって、島津の怒りも解けて紛糾も止むことになった。瑞見が開削した川の下流の名を「安治川」と名付けられたが、これは瑞見が諡(いみな)の安治を用いたものと口碑に伝えている。また、その川の河端に土砂を上げて大波を防ぐために作った小山があるが、これを世俗に「瑞見山」と呼んだ。

15.手代勘助、辰五郎を八幡に伴う

淀屋辰五郎は15歳で淀屋9代目(現在では、闕所になった淀屋辰五郎は5代説が一般的だが、本書の底本にならって、原文のまま9代とした)の戸主となって、以前よりも遊興にふけった。日々、付添の手代勘助、宗兵衛らは種々に工夫して辰五郎の機嫌を取り、出入りの医師玄哲も供をして、勘助や宗兵衛を手伝った。
その年の2月のことである。手代の勘助は、辰五郎に言った。「若旦那様には八幡にお持ちの地に一度お越しなされたことがあるそうですが、京都御遊覧はまだされていないようですね」
辰五郎はこれを聞いて、「いかにも。八幡へは10歳頃に家父に伴われて行ったが、よく覚えていないし、京都については行ったことがない」と言った。 すると宗兵衛は、「それならば、今年、是非とも行きましょう。八幡にいる者も旦那様をさぞ拝したく思っていることでしょうし、京都を知らないということになれば、他の笑い者となりましょう。ほどなく、桜の花も咲きましょうから、私たちや玄哲もお供仕り、名所古跡をご案内いたしましょう。」というと、玄哲や丁稚もお供したいと申し出たのであった。
淀屋辰五郎実記01 こうして勘助、宗兵衛、玄哲の3人は日々密談し、辰五郎はというと慈母の阿豊に相談、阿豊は「とても良いことではないか。しかし、余り派手にならないようにするのがよろしいですよ」と仔細を推し量り、戒めた。
支配人の半七には、手代の勘助が申し入れ、八幡行きのみで京都遊覧については言わず、「八幡に行きたい」と辰五郎が望んでいることだけを伝え、計画を練った。かくして勘助らは、その準備に取りかかり、かねて用意させた船を修復させるとともに、出入りの仲士、船人、魚舗、八百屋の亭主らを呼び、「しかじかであるから、その準備しておくように」と申しつけた。また、八幡の別荘守をしている権六、幸右衛門へは勘助、宗兵衛から詳しく書面にしたため蝶じ合わせをして、桜花の咲き初めるときを待った。
そうして3月の初旬となり、淀屋の前栽の桜花雨露の恵みは蕾の色が見え、春の白駒の暖和に、早や1、2輪づつ咲き始めると、勘助、宗兵衛は「御出途の時が来ました」と辰五郎に告げた。
辰五郎らは、川舟の左右に世に稀なるビイドロ障子をはめ、家の紋の幕を張って絞り上げ、中にも毛氈、虎の皮を敷きつらね、種々の手道具も積み入れ、この舟には辰五郎、勘助、宗兵衛、玄哲のほかに丁稚が3人乗りこんだ。このほかの舟は、割烹舟、荷物船、供人足船など都合四艘であった。淀屋の濱につなぎ止めたこれらの舟の元綱を解き、京へ進ませ、竿をさして淀川筋を八幡へと至った。一行は舟から降りると、借りておいた橋本屋という旅籠で衣服を着替えて、八幡の地の別荘に赴いた。

16.辰五郎、八幡の別荘に至る

かくして勘助、宗兵衛らは、辰五郎に徳川家から家父・三郎右衛門が拝領した黒羽二重に三つ葵の紋が付いた小袖と麻上下(あさかみしも)を着させ、腰には大小の刀、それはそれは諸侯の若殿のようであった。
また、その乗物は網代長棒で、周徒の者には背の高いものを選んで六尺とし、乗物をかつがせ、勘助、宗兵衛は家老、用人の姿となり、玄哲は御医師の姿、その他、供徒、周徒者には、その容貌にあわせて近侍、小性、若党、奴僕と各人定めて、それ相応の衣服を着せ、脇差をささせ、槍を持たせ、挟み箱をかたげさせ、候家の若殿が社参をするが如く行列をして男山八幡宮(石清水八幡宮)に詣でたのであった。
これを見た者は、大阪町人の淀屋辰五郎だと気付く者は誰一人となく、「いずれの若殿だろう」と口々に言うのを聞いては、勘助は心の中で大いにほくそ笑んだ。そして男山を下って淀屋所有地に来ると、権六、幸右衛門は麻上下を着て出迎え、先に立って別荘に案内した。この様子は、淀屋代々の戸主がこの地に来たときとは大いに違い、この行列の威厳あることをみて、里の人々は大いに肝をつぶし、みな戸外に出てうずくまったり、あるいは低頭平身する者、あきれかえり、黙って見る者もあった。 かくして別荘の玄関へ乗物をかつぎ入れ、辰五郎、勘助、宗兵衛、玄哲は客室へと通り、他の供徒は厨所に休息することになった。
権六、幸右衛門は、勘助から言われるがままに、「明朝、皆々献上物を持参してお目見に出るように」と供人に通達した。これも、これまでなかったことであったが、別荘の持ち主の旦那であることや、別荘支配人の権六、幸右衛門の言い渡しであることから、みな「如何ともしがたい」とつぶやきながら、進物を用意した。中には、あまりの奢りの甚だしさを誹謗する者もあって、「これでは淀屋も永くは続くまい」などという者もいた。
その夜は、お供させた料理人に割烹をさせ、酒宴に興ずる辰五郎は、大いに喜んだ。 翌日の朝になると、里の人々は礼服を着て、各々品物を携え来て、拝礼して立ち帰る。その時、辰五郎を上座に座り、丁稚を小性にして左右の後に座らせ、勘助、宗兵衛、玄哲、権六、幸右衛門等はるかに下がって左右に列座。供人には一人づつ来れるよう順次を定め、拝礼させること、まるで大名のようであった。こうして進物は山のように一室に積み上げられた。勘助らは大いに喜び、京都では、もっと旦那を楽しませるために、我々はこうしよう、ああしようと密かに計画を練った。
そのような密談をしているとき、淀屋支配人・半七の使いとして、三人の淀屋の手代がやって来た。そして、辰五郎には慈母の手紙が届けられた。その内容は「早々に帰宅するように」とのことであった。辰五郎らが八幡に着いて三日目のことであった。これは、このたいそうな行列を半七に告げた者があったからで、阿豊は大いに驚き、使った金の大きさはとがめないものの、槍を立てて候家の行列に似せることは、もし、誰もとがめずにおけば大変なことになると阿豊に伝えられたことで、にわかに迎えの手代が差し向けられたのであった。
辰五郎に宛てた手紙にはこう書かれていた。「阿豊、発病して臥たれば、急ぎ帰りたまえ」と。半七からの口上も同様の事であった。
また、勘助、宗兵衛へは「半七、至急面談することがあるので、帰帆あれ」とあり、皆興ざめて即時別荘を出立し、大坂へと立ち返ることになった。
かくして慈母は言和やかに辰五郎に説諭して、「今後は、官家、候家の真似などを他に出てすることは謹むように。もしも見とがめられた時は、その方の大事となるであろう」と言い含めた。
一方、半七は、勘助、宗兵衛をきつく叱り、一か月ばかり出勤を差し止めた。この勘助という男は與右衛門の代に勤めていた勘助の子で、宗兵衛というのもこの時の手代であった宗兵衛の子である。


17.辰五郎遊興にふけって金を費やす

勘助、宗兵衛が傍に付き添わなくなったことで、辰五郎の遊興はしばらく止み、家の中で香、てん茶、花、謡曲などで月日を送っていた。
その年の秋のこと、幸野喜左右衛門という小鼓の師が淀屋邸にやって来た。辰五郎は喜左右衛門を師として小鼓の技を習い、月日を重ねると、すっかり小鼓にはまってしまった。そこで、大工に命じて15畳敷の客間をことごとく板の間に変えさせ、能舞台を作ってしまった。さらに、庭の樹木を取りはらって松を植え、橋が架かる鏡の間を作り、小能師を招き、笛、鼓、太鼓の技を持っている者を集めて、月々家の内にて能狂言試舞一調などの会を催した。
また、これを業とする者や好める者などが日々、淀屋邸に来ると酒飯を勧め、観客には宇治から取り寄せた露茶(よきちゃ)と、当時京都で作られた塩瀬饅頭を添えて各人へ与えた。さらに割烹人に命じては、弁当を作らせるなど、もてなす費用は半端ではなかった。しかし、豪商であるし、成人した戸主がすることだからと、誰も止める者はなかった。
この遊興もわずかに1〜2年で止むと、次は就鞠の遊びと変わった。辰五郎は、この遊びのために土蔵2箇所をこぼって、その跡へ鞠のかかりを作り、四方に樹木を植え、外面に塀で囲うとともに、就鞠の師を淀屋家に泊めて、毎日これを習った。元禄13年のことで、辰五郎17歳の時であった。
しかし、これも長くは続かず、次は乗馬が好きになると馬を高金で求め、高橋弥五八という浪士を淀屋家で養って学んだ。このために、辰五郎は背門の外には厩を建て、馬場を設けては競馬をしたという。
また、剣術、柔術など弥五八に教えを受け、舶来の名鳥を飼い、珍木奇草を求めて植え、あるいは連歌、俳諧を学び、騒々しいものを好むかと思えば、閑静なことも好んだ。年若い辰五郎にいろんな遊びを教える者が出入りし、勧めれば、「それは面白い」と辰五郎。定まった遊びをすることもなく、ましてや辰五郎を止める者はなく、いろんな遊びに多くの金を費やした。
このように様々の遊人が毎日のように集まったが、廓通いをすることはなかった。そこで、この頃に出入りするようになった笹屋傳兵衛、目薬屋正右衛門らが、勘助、宗兵衛、医師玄哲と算段して辰五郎に供をして新町廓の九軒町にある吉田屋喜左衛門という揚屋へと伴なった。
揚屋では、芸妓10人、舞妓3人、太鼓持ち5人を呼び寄せて酒宴を初め、廓の名妓を集めて辰五郎に見せると、当時、全盛の扇屋「吾妻」と呼ばれる太夫が気に入り、これを辰五郎の傍に座らせた。勘助ら5人も相方の太夫を定め、これより糸曲舞踏の大騒ぎ。花麗な沈魚落雁の容貌をもった美婦が側近くに座って、辰五郎は大いに興じた。辰五郎は、心の中で「今までこのような遊びを何故しなかったのか」と、大いに浮かれ、楽しみ、惜しげもなく金銀を捲き散らしたのであった。


18.南都蓑屋久兵衛のこと

   辰五郎の目にとまって愛された扇屋の抱え太夫「吾妻」は、容貌美麗にして心優しく、諸芸にも通じ、糸竹の曲和歌や俳諧などの書わざにも秀でていた。また、茶の湯、生け花、香道、裁縫の技のほか、花結び等も心得ていた。
 その吾妻は18歳で廓に出てから、5年にもならなかったものの、眉目がよい上に芸達者であり、勤めもよいこともあって通客が多く、いつの間にか吾妻全盛と呼ばれた。この吾妻の履歴はというと、大和の南都に住いする「蓑屋」というサラシ布の商人であった。
 蓑屋は、もとは伊賀の国、藤堂候の藩士で三野田隼人といい、高禄をいただく武士であったが、同士の裏切りによって主君の怒りを買い、妻の小枝、息子の久五郎、娘の吾妻とともに南都に移り、隼人は「蓑屋久兵衛」と改名してサラシ布商となった。
 その後、業に精をだして繁盛し、家がこれから栄えようとする時、火盗、妻の病気、商業の存亡などの災いが重なった。その上、兄の久五郎は賭博好きの放蕩者で多くの金を失い、家父の金を奪って行方知れず。にわかに蓑屋は貧しくなって寵愛の娘、吾妻を揚屋に勤めさせたのだ。
 さて、淀屋には三右衛門が骨董商の眞八から買い求めた「月老」の茶碗が伝わるが、この三野田隼人の父、左内こそが、神田に住んでいた浪士から「月老」を買い求めたその人であり、また、吾妻の母というのは、その浪人の娘であり、「月老」の茶碗が再びたいへん不思議な縁を結んだのであった。
 かくして辰五郎は、その後たびたび新町に通い、吾妻に惚れ込み契りを重ねた。


19.松平美濃守が運上金を取り立てる

 さて、話は変わって徳川の大老職であった松平美濃守吉保は、欲に限りがなく、金銀を貯えようと企んで、江戸、京都、大坂やその他天領と定める幕府管轄地に「公儀御益」と称して布告を出し、徳川家の御用を勤める家具商、申楽装束師職、表具工、筆墨商、時計匠、印判匠、袋物匠、小道具匠、晒布商、書物商、染物匠、布商、箔匠のほか、諸色御用達からも運上金を出させた。
 これのみならず、大坂日本橋、南詰に住居を構える菱屋孫三郎という男に美濃守が用達を申し付け、酒商、材木商より商い高五割の運上を取り、色町の茶屋市中の割烹舗及び新地空地の地代、罪科人の科料、闕所金などで大金を集め、なお、大坂の富有の町人へ用金を命じて巨金を借り受け、また古金銀の通貨を新貨と引き替えた。


20.淀屋辰五郎、小遣い金額を限られる

 かくして淀屋辰五郎は手代の勘助、宗兵衛、周徒の傳兵衛、玄哲、庄右衛門等を伴って、新町吉田屋で吾妻を揚げ、芸妓、舞妓、幇間を呼び、派手に酒宴を催しては金銀を費やすこと、2年余りにも及んだ。
 慈母の阿豊や支配人の半七をはじめ、親類、支店の戸主など、度々辰五郎をいさめたけれども、少しも聞くことなく、意見をするとことでかえって金を遣うなど、烈しくこれに対抗した。
 阿豊は親族、支店、支配人と協議して、辰五郎が使う小用金を一か月百両限りと定め、半七がこれを担当し、辰五郎の実印を慈母の阿豊が預かることになった。時に元禄15年、辰五郎19歳であった。こうして新町に通うこと少なくなった。


21.話は変わって大阪名物の虎屋饅頭のこと

 元禄15年といえば、大阪船場高麗橋3丁目に虎屋伊織という者が菓子舗を開業し、饅頭をこしらえて商いを始めた。これが大阪における饅頭屋の初めで、京都の名物老舗饅頭に習って作ったという。
 そもそも日本において饅頭を始めて作ったのは後醍醐帝の御宇、延元元年のこと。しかし、この時の饅頭は、今作られている饅頭とは異なるものであろうが・・・。その後、星霜を経て大和国奈良の里人が饅頭を作って稼ぐこと数十年。これを京都の老舗がこれに習い、京都において開店したことで名物となったのだ。
そして老舗の饅頭として名を馳せることになったのだが、虎屋が作る饅頭はそれに劣らず、衆人はこぞって買い求め、開店の日から繁盛して、その評判は四方に響いて、大阪名物の一つとなった。そして国内中に値段が安く、味わいがとてもよいことが評判になると、旅人これを必ず家への土産にと買って帰った。
 この饅頭が他の饅頭と比べて勝っているのは、日数を経てもカビを生じないことだ。餡は日数が経っても、その日に作ったようで味わいが変わらない。その作り方を聞くと、これは全く精製することでできるもので、小麦粉はすこぶる佳品を用い、水は河水の良水を汲取ったものを用い、小豆は和泉の国産なる日根野村の大納言といわれる大粒の物に限って他の物を用いずに餡を作り、砂糖は支那の上等品を選び、それも幾度もアクを取り、そうして餡に合わせ、薪も雑木を用いることなく、檮の木を燃やして作るという。
 なお、饅頭のみならず、蒸饅、乾菓子、羊羹など、どれも精製して作るため高貴に召され、豪富家に愛され、虎屋大和大椽伊織と記せる看板を掲げ、二百余年も綿々と続いている。


22.美濃守、淀屋辰五郎へ用金を申し付ける

 松平美濃守は、おさめの方と密かに企んで、将軍綱吉公から甲斐国山梨巨摩八代の三郡を賜わり、甲府城主たるべき御朱印の御墨付きを頂くなり、にわかに大阪・高原町に邸宅を造った。ここに近頃召し抱えた能弁邪智の浪士、横田團右衛門を留主居とした。そして、平田軍八、岩淵平馬、谷口林造、山崎五良太夫を遣わして、京都、大阪、堺及び近国の幕府領に住む富豪家を邸宅に召し寄せ、あるいは富豪家に出向いて用金を申し付けた。その権威は、圧倒されるばかりだった。
 まず、淀屋辰五郎宅へ使いが遣わされ、柳沢邸に来るようにと伝えられると、淀屋支配人の半七は「これはきっと用金の借り受けを依頼されるもの」と推し量り、「主人の辰五郎は病気のため、代わって私が伺います」と、半七が代人となって、美濃守の蔵邸へ赴いた。そこには平田軍八、谷口林造が出迎え、半七を広間に誘い、留主居の横田團右衛門も出席して各人丁寧に挨拶を交わした。そして、横田は、「今日、その方を呼び寄せたのは私の用ではない。我が主君、美濃守様には御昇進され、近々甲府表へ国入りなされることに相成り、用金が必要になった。しかし、この時節柄、お手元の用金が少なく、主君にも御苦心遊ばされている。辰五郎はかねて裕福に暮らし居るのだから、この費用三万両を用達を申し付けよと拙者へ命ぜられたのだ。」と、辰五郎へ申し聞かせ、早々に当邸宅へ金子持参を申しつけた。
 半七は、少しも恐れた顔色も見せず、「辰五郎儀は未だ若年のうえ、今は家中においては全て私に任せていただいております。恐れながら、主人辰五郎への申し聞かせはご不要でございます。私より早速ながらお答えを申し上げたく存じます。私どもへ御大老様より金子調達の儀、仰せつけをいただいたことは家の面目、ありがたいことでございますが、私方、先代三右衛門の死後、これまで損失が多く、あわせて若年者の戸主であることから手元金融もまかり成りません。よって、三万両という大金の御用達の儀はご勘弁くださいまし」と頭を下げた。
  團右衛門は「それは道理のかなった答えのようではあるが、その方の勝手というものだ。金を融通せよと主君からその方へ御依頼遊ばされるのは、今回が初めてのことではない。また、三万両が大金だと驚くのは小商人等の言うことだ。淀屋辰五郎といえば日本国中において屈指の長者だと主君もご存知だからこそ、用金を仰せつけらているのだ。淀屋が代々大阪に住居できるのも、神君より上様の御影、かつ主君美濃守の御影ではないか。その恩恵も忘れて、勝手をいうのはその方、甚だ不届き至極」と声高く言い放った。
  そして、その側から軍八、眉を逆立て、眼怒らし「こりゃ、半七。よく承わるのだ。ただ今、この大役を申し聞くとおり、その方、三万両が大金と言っても、辰五郎の身代にあっては、わずか三万両の金を調達できないことがあろうか。その上、頭を下げて頼んでおるのに、とやかく申すのは何事だ。献金の仰せがあることに、主君への報恩のためにも、ありがたく献上いたせ。それにその方、あれこれと申し立ててはいるが、辰五郎の代理人ではないか。立ち返って辰五郎に申し付けよ」と声荒らげた。
 團右衛門は言葉を和らげ、「平田が言うように、辰五郎へも申し聞かせよ。また、親戚どもにも相談致し、明日出頭して承ることを申し上げよ。今日はまず引き取るがよい」というと、軍八は半七を睨み付け、「明日も辞退いたすようなことがあれば、江戸表へ言上することになるぞ」と言うと、半七は当惑しながら立ち返り、辰五郎、阿豊に詳しく語り、親戚、支店の戸主とも相談するのであった。


23.半七、賄賂を贈って用金調達を延ばす

かくして淀屋支配人の半七は、その翌日、金五百両を持参して、横田、平田両人に面会を求めた。
「昨日、仰せつけられましたことを、立ち返って辰五郎へ逐一申し聞かせました。また、親類も呼び寄せて相談いたしましたが、昨日も申し上げましたとおり、金融不都合の時であり、三千両は言うに及ばず、千両も調達することが難しい状況ですが、近々貸付金を受け取ることになっており、その金が用意でき次第、いかようにも御用を承りたく存じます。」と、辰五郎はじめ、親戚からもこのように申しつけられてきたという。
 横田、平田は、これに顔色を変え、言葉を発しようとしたとき、すかさず半七は持ってきた五百両の金を白木台に載せて両人の前に置き、「これは甚だ些少ではございますが、辰五郎儀をお見立てに預かり、御用金の調達の儀、仰せ付けられましたことは、大変光栄に存じます。つきましては、肴を求めて献上をと思いましたが、好き嫌いもございましょうから、失礼ながらこの品にて、献上いたしたく存じます。なにとぞ、御受納くだされば、かたじけなき次第」と、低頭平身して申し述べるのであった。
 すると、團右衛門、軍八は目と目を合わせ、片頬に笑み、言葉を和らげて、「半七、それは気の毒なことだ。しかし、折角の心配、辞退しても迷惑になるであろう。かたじけなく受納致すぞ。元来、我々も魚類はとんと好まぬ。しかるに肴など持参されては甚だ困るところであった。また、昨日至急に御用金を調達致いたせと申したが、三千両の金、如何に長者にても早速用達の事は出来るものではない。いつでも用意でき次第、持参するようにいたせ。辰五郎にも良きに伝えてくれよ」と横田、平田の両人は、これまでとは手のひらをかえすような挨拶・・。
 そして軍八は、玄関まで半七を見送った。これには半七、心おかしく、微笑みながら淀屋邸に立ち返り、阿豊にも親戚支店にも「斯くの如くなり」と話をすると、各人は安堵の胸をおろすのであった。
 さて、かかる事件があったにも関わらず、辰五郎は半七が帰るのを待たず、吉田屋へ行き、大酒宴をして遊びほうけていた。この頃、阿波の島屋吉郎兵衛という富豪が大阪・新町へ通い、全盛の吾妻に馴れ染め、しばしば来ては吾妻を揚げていた。そうすると、辰五郎の意のままにならないことから、時々短気を起こして怒るのだが、金で身を売る遊女ならば、しかたないことと、代わりに芸妓遊びをして帰ることが多くなって、口惜しい毎日を送っていた。


24.淀屋と島屋、吾妻の身請けを争う

 島屋吉郎兵衛は阿波国第一の豪商であり、四国に所有する田圃、山林、地所も多く、金銀もおびただしくあり、これを国元から取り寄せては新町に遊び、辰五郎と張り合っていた。
 ある日、島屋は吾妻を身抜きして国に伴って帰りたいと扇屋へ声をかけたことを辰五郎が聞きつけて、「吾妻を島屋に取られては、わしは生きておられぬ」と狂気のように、勘助、宗兵衛、玄哲に言うのであった。
 傳兵衛、正右衛門も吾妻太夫を辰五郎旦那に身請けさせなければ、我々の面目もないと昼夜集まっては密談するのだが、これという良い案も出ず、辰五郎自身も淀屋には金が充分にありながら、自分の自由にならず、みんな「こうすれば・・」「このようにしたら・・」と密談だけをする日を過ごしていた。
 一方、島屋吉郎兵衛も「身請け金は二千両」と言われ、裕福な吉郎兵衛ではあったが、今、その金は手元になく、国に使いを遣わせて取り寄せるには時間がかかる。これに遅れて、もし淀屋が身請けをするようなことになれば、一分立たず・・とお互い争う日が続いた。そのような日を過ごすうちに、かの浪士、高橋弥五八は勘助らにも言わずに「吉郎兵衛を人知れず斬り殺せば、辰五郎旦那の気も安まろう」と暗殺の策を練っていた。
 ついにある夜、弥五八は新町へと出向き、島屋吉郎兵衛が揚屋から出てくるのを身を隠してうかがっていた。すると、仲居、太鼓らから送られて出てきた垂れ駕籠を見て「これは吉郎兵衛と疑い無い」と駕籠の後から忍んでついて行った。駕籠は担がれ北へ北へ・・・。
 「これは、かねて聞く立売堀の平野屋という問屋だな」
平野屋で用を済ませた駕籠が帰り道、阿波橋に近づいたとき、往来に人が途絶えた。
「これ幸い」と、弥五八は刀をスラリと抜きとり、駕籠に近づいた。これを見た駕籠かきは仰天、駕籠を捨て逃げ出した。
 「これは泥棒か」
 放り出された駕籠の中から出てきたのは島屋ではなく、見上げるような大男。弥五八は「間違った!」とためらううちに、駕籠の大男は刀を抜いて斬りつけてきた。弥五八、これを受け流し、白刃と白刃が打ち合う光は、月影の雲間にきらめく雷光のようで、互いに手練れてあることから、その打ち合う戦いは、相当危ぶなかしいものであった。
 この大男は、島屋がひいきの角力取の鬼鹿毛荒五郎という元浪士で、剣道の心得があったことから、弥五八もなかなかかなわず、逃げようとしても、少しもすきなく、しばらく東に西に追いつ追われつ争った。そこへ、先に逃げた駕籠かきが知らせたのか、鬼鹿毛の子分らしい五、六人。
「荒五郎殿、そこに御座るか。泥棒はどこに居るぞ、打ち殺してくれん」
と異口同音に駆けて来ると、弥五八は「これはかなわぬ」と荒五郎が打ち込む所をはずして一目散に逃げていった。
 話は変わって勘助らは、「一日も早く辰五郎殿に吾妻の身請けをさせ、島辰の奴の鼻をあかしてやろうではないか」と悪企みを辰五郎に勧め、慈母の阿豊が辰五郎から取り上げて預かっている実印を盗み取らせ、宗兵衛に弥五八、傳兵衛と謀り、淀屋の家に祖先から伝わる「黄金の鶏」を密かに土蔵から盗みだして、偽物と入れ替え、その抵当で五百両を藤屋市兵衛から借り受けたのだった。
 では、泉州堺津の小西源右衛門という薬屋商を騙って、その実印の贋を造り、上町の富家小池屋四郎兵衛から二千両の金を借りて吾妻の身請けしたことを次に説き明かそう。


25.辰五郎、偽印の証書で金を借り吾妻を身請けする

前に述べたように堺の津に住まいする小西源右衛門は、代々、綿々と薬種問屋を営み、その資本金も相当なものであった。そして、その家族も多かった。
 先年、小西源右衛門が淀屋で為替金を借り受けたとき、勘助がこれを受け持ったことから、源右衛門の実印もよく知り、印鑑の印影もあることから、その偽印を彫らせ、もって笹屋傳兵衛を支配人に、目薬屋正右衛門を支店の戸主に仕立てて、勘助とともに小池屋を訪れた。
 小池屋支配人の金兵衛に面会して勘助は「堺津小西源右衛門殿には、長崎に遣わす薬種の代金二千両が至急必要となり、私の店へ借用を頼まれたのですが、この頃は諸家様方へ貸付金のご返済もありませんし、御為換金の上納や御大老様への用金などが一時に重なってしまい、用立てできなくなりました。つきましては、こうして支配人と支店戸主とが参り、お願いに上がりました。淀屋とは古くから懇意にしている家柄であります故、見捨てることができぬと主人の辰五郎も申されて、主人の請け判を押して参りますので、金二千両を小西にお貸し与えくだされないでしょうか。詳しいことはこれなる両人より御聞き取りくださいませ」と前口上を勘助がもっともらしく述べると、それに続いて傳兵衛と正右衛門は、小池屋の支配人に向かって誠らしく言葉を尽くして述べると、金兵衛は承知して三人をしばらく待たせ、小池屋主人の四郎兵衛に相談するのであった。
 しばらくして、金兵衛は、勘助に「小西という人を私は知りませんが、淀屋様の御請判とあれば承知仕りました」また、四郎兵衛も「証文御持参いただければ、いつでも金子の御調達をいたします」といった。これを聞いて三人は大いに悦び、小池屋から立ち返って辰五郎に告げると、辰五郎は詳細なことに気がつかないまま、吾妻の身請けの出来ることに大喜びし、急いで玄哲に証書を書かせ、贋造した小西の印、そして辰五郎もまた印を押し、明朝、金を受け取る手配をしたのであった。一方、扇屋へは宗兵衛が行って、吾妻の身抜きを相談し、そして前祝いだと言って、吉田屋で大酒宴を始めるのだった。
 かくして、そのあくる朝、勘助、傳兵衛、正右衛門は小池屋を訪れ、証文を渡して二千両を借入れて急いで帰り、吾妻の身請けをした。そのあと、すぐに髪結いを呼び寄せて、吾妻を町風の髪に結わせ、衣服もかねて整えおいた紋付の小袖を着せ、吉田屋で新町中の芸妓、舞妓、太鼓を総あげして大酒宴を催すのであった。宴席では勘助、宗兵衛をはじめ一座の者は吾妻を「御深ぞう様」と呼んだ。
 島屋吉郎兵衛はこれを聞きつけて、地団駄をして嘆いたが、どうすることもできず、怒りながら阿波の国へと帰っていった。



26.辰五郎、白無垢小袖を着て罪人となる

 淀屋辰五郎は、吾妻を身請けしたあと、その名を「阿光」と改めさせ、下女三人を添え、万事吉田屋より気を付けるように命じた。その後、辰五郎が新町へ行く時は、阿光とともに吉田屋で酒宴を開いた。
 ある日、辰五郎が新町から垂駕籠に乗って自宅へ帰る時、駕籠の両方の簾れを巻き上げ、「酒の気で暑い」と言って上衣を片袖脱ぎ、下衣の白無垢を出して、黄金延煙管で煙草をふかし、西横堀の河岸を北へと向かった。時の大阪城代土岐豫州候の目常役の役人、これを見とがめ、家来に「奴は何者だ」と問うと、「側に付いているのは医師の玄哲で、駕籠に乗っておりますのは淀屋辰五郎にございます」と答えた。
 役人は、町奉行の松野河内守に報告すると、直ちに河内守は辰五郎を奉行所に召し寄せた。辰五郎は、召された理由が白無垢のことと分からず、その日もこれを着し、紋付の衣服、麻上下にて河内守の前に出れば、河内守は威儀正しく、「その方、白無垢、小袖を着用しておるが、どなたから御免を蒙っておるのだ。白無垢着用のことは知らないのか」と問われて、辰五郎は低頭赤面した。河内守が重ねて言うには、
「僧侶は格別、武家においても御旗本の面々、役儀を勤め諸太夫についても白無垢着用に相かなわず。大名、公家の家臣、高禄を領するも決して着用してはいけない。これは御公儀御制禁である。にもかかわらず、町人の身分で白無垢、小袖を着用することは言語同断の振る舞いである。上を恐れない罪は軽くはないぞ。吟味中は、留め置くものとする」
と言い渡された。
 辰五郎は驚愕して、一言も出ず、付添の者は嘆願するけれども聞き届けられず、辰五郎は檻倉に入れられた。
 これによって淀屋の騒動は大変なものであった。多くの者は上を下へと騒ぎ立ち、阿豊の苦心は言うまでもなく、半七は手を組み黙して沈吟し、手代等は神に祈り、仏に誓いて主人の無罪放免を願った。小僕、下僕等の中には水をあびる者や裸足で神社へ詣でる者もあった。腰元等は泣き叫ぶ者あれば、恨む者も・・。一門の各々も様子を聞いて男女とも馳せ参じた。その混雑は火事場のようであった。
この事件が大阪市中に聞こえると、さまざまな巷説が流れることになった。



27.勘助らによる謀書偽判が暴かれる

 かくして淀屋辰五郎が罪人となったことは、誰も知らない者はなく、小池屋四郎兵衛方では、淀屋の請判で小西源右衛門に二千両を貸し与えたことから、まず淀屋へ掛け合うことにした。
 対応した淀屋支配人の半七は、「辰五郎の印には相違ないけれども、まったく知らないことだ」と言い、小池屋に頼みに来た勘助は、逃亡して家におらず、半七は大いに困難して「聞き及びの如く主人の辰五郎は不在なれば、事実が分かりかねるので帰宅の時までお待ちくだされ」とひたすら頼むと、小池屋は仕方なく、淀屋への談判をあきらめ、堺津の小西方へ証文を持参して返済を申し出ることにした。
 しかし、小西源右衛門は「いっさい覚えがない」という。ならば、証文があれば知らないとは言わせない・・と、小池屋の手代が証文を出して源右衛門に見せると、源右衛門はつくづくとこれ見て、印判を他の紙に捺して比べ、そして小池屋の手代に差し出した。
「これを見られよ。証文に捺したのは何奴の仕業か知らぬが、これはまさしく偽の判だ。また、他家から金子を借用するときは、必ず証書に自書をしている。この証券には何奴が書いたものか、我が書いたものではない。あなたは大阪においては富家であるから、諸方への貸付金も多くあるだろうに、印判も合さずに淀屋が請判を信じ、大金を貸し与えられたのは、貴家に似あわないではないか」
 源右衛門のけんもほろろの対応に、小池屋の手代も呆れかえり、早々に立ち返って告げると、金兵衛は大いに驚き、主人の小池屋四郎兵衛もこれを聞いて「これは打ち捨てておくことはできない」と、出訴に及んだ。
 この訴えに、松野河内守は小西源右衛門と小池屋四郎兵衛を対決させ、辰五郎の吟味に及んだが、辰五郎は「わたくしには、いっさい覚えがございません。これは手代の勘助という者の仕業でございます」と言上。勘助が捕らえ糾明されると、勘助は恐れてことごとく白状した。
 これにより宗兵衛、傳兵衛、正右衛門、玄哲、弥五八も召し捕らえ、吟味のうえ囚獄された。一方、辰五郎も捺印の罪は免れないと、役人によって家財は残らず封印が付けられ、家を閉ざされた。そして、町奉行から江府老中に淀屋の処分について伺いが立てられることになった。



28.淀屋没落、辰五郎追放になる

 淀屋辰五郎の重罪の件が松野河内守より江府表へ注進されると、大老松平美濃守、老中の諸侯と評議をした。
 そうして、「辰五郎の罪料は軽くはなく、死罪に処するものではあるが、淀屋三郎右衛門より代々御用を相勤め、功労も少なくはない。これにより辰五郎が罪を寛典の処置しかるべし」と決議された。
 これが大阪町奉行に伝えられると、辰五郎の重い罪を軽罪とし、江府、京都、大阪三箇の津御構いにて追放し、所有する物全て没収。勘助、傳兵衛、玄哲の三人は大坂追放。宗兵衛、正右衛門、弥五八は無罪放免と決まった。それぞれの処分は、河内守に召し出され、申し渡された。寛永二年のことであった。
 こうして、淀屋の家へは役人が赴き、家屋、地所、家財を残らず没収して、公儀の倉庫へ物品を収めることになった。この事件の発端となった小池屋四郎兵衛が貸した二千両は損出となり、藤屋へ抵当に差し出し黄金の鶏も公儀に没収となり、五百両については市兵衛の損失となった。こうして、綿々と続いた大阪の有名富家も、奢侈(しゃし)淫事にふける辰五郎の過ちによって没落してしまった。
 このとき、没収となった淀屋所有の物品はつぎのようなものであった。

◎百軒四面の居宅地(一箇所、この坪数は二千坪、うち三百八十坪が建物である)
◎二十四間梁行の土蔵四十六戸(これ初代より八代に至り、四十八戸あって、いろは蔵と称したが、うち二戸は辰五郎が取り壊した)
◎八幡山林田地三百石
◎大阪抱屋敷大十七箇所、中十六箇所、小五十六箇所、都合八十四箇所
◎京都抱屋敷三十五箇所
◎伏見抱屋敷十七箇所
◎堺抱屋敷十一箇所
◎尼ケ崎別荘一箇所
◎堺別荘二箇所
◎八幡別荘一箇所
◎田地都合二千石(ただし、八幡を除くの外)
◎船舶十八艘あり

また、什寶の類は、

◎八幡山林田地拝領御朱印の御墨付
◎米商免許御朱印御墨付
◎黄金鶏雄雌一つがい(この目方、八貫目づつ)
◎同雛十二羽(この目方、五匁より八百目まで)
◎徽宗皇帝の筆鷹の絵の軸
◎東坡の竹の絵軸
◎名筆の掛け軸三百四十幅
◎定家卿の筆、小倉の色紙三枚
◎小野道風の筆、富士山の詩
◎紫式部自筆の物語本
◎豊太閤の唐冠り
◎楠正成の鎧
◎正宗の作刀脇差し十三本
◎三条宗近の作刀一本
◎粟田口吉光の短刀
◎刀剣名作百十五本
◎長三尺六寸二分枝珊瑚
◎珊瑚珠すだれ
◎千枚分銅(豊太閤より拝領)
◎黄金仏三十体
◎金銀細工物
◎金の碁盤
◎堆朱椀五十人前
◎同盆百枚
◎槍・薙刀三十七
◎馬具三通り
◎名作の鼓
◎金銀の香炉
◎高麗国焼の茶碗種々
◎茶の湯道具種々
◎虎の皮
◎豹の皮
◎大毛氈、小毛氈
◎衣類入りの箪笥百棹
◎長持七十棹

このほか、珍寶、名器、尋常の家具、雑具、名画、墨跡の屏風、襖、衝立の類、唐木の障子など悉皆く記すにいとまあらず。

◎有金十六万両余り、有金八万五千貫目余り
◎御用金八万両の証券
◎国々諸侯貸付証文(金銀高不詳)
◎町人農夫へ貸付証文(この高不詳)
このように口碑に伝えた。淀屋が没落した時の家族七十五人であった。


29.辰五郎、南都に移住する

 辰五郎は祖先の餘光によって死罪を免れ、玉造から河内の地へと追放された。
 辰五郎のスゴスゴと歩く姿はというと、顔色はなく、頭髪は乱れて額にかかり、月代(さかやき)の髪は黒くのび、眼はくぼみ、頬も細り、手足身体も垢づき、痩せ、古着の上にへこ帯を締め、みすぼらしい有り様は、見るも哀れであり、往来の人も袖をぬらさない人はいなかった。
 玉造村には親族、支店の主、周徒者など心ある者が集まって、茶店、農家で待ち受け、辰五郎を見送った。役人が帰り、その姿が見えなくなると、借り受けていた家に辰五郎を伴い入ると、辰五郎は人目も恥じずに声をだして号泣した。これを見て皆も涙にむせぶのであった。
 しばらくして半七は、つつがなきを喜び、辰五郎に湯浴みをさせ、新しい衣服を着せ、髪月代(さかやき)を剃った後、食事を進め、休息させた。そして半七は、ここに来た者達を辰五郎に面会させた。辰五郎は「南都へ移り住みたい」と半七に語ると、半七は承諾し、駕屋を呼び準備させた。
 そして半七は、辰五郎に密かに言うのだった。
 「御母公様には私共がご不自由のないようにいたしますのでご安堵下されませ。南都でのお住いはご不自由になることは申すまでもないことではありますが、しばし、ご辛抱くださいませ。私共が時をみて嘆願し、また大坂へ帰れるようにいたします。また、六郎兵衛は近々に吾妻殿をご同道し、参上致しますと申されております。ついては、この度の処分もあり、駕籠で南都へお越しくださいませ。そこでは知る人もいないでしょうから、恥らうことも無いでしょう」と、忠誠の半七が心尽くしの親切を辰五郎も喜び、呼び寄せた駕籠に辰五郎が乗り込むと、篭屋はすぐに担ぎあげ、奈良街道を南都めざした。
 駕籠の後には、支店の主、周徒人十人ばかりが付き添い、たそがれ時に南都の里の吉野屋という旅籠に着き、皆々は、今宵はここに宿をとることになった。  こうして辰五郎は、吉野屋に滞留し、付添の支店の主たちは、市街を巡って空き屋を捜し求め、ようやく小さな家ではあるが、美しく勝手のよい住居が見つかり、これを借り受け、なお、営繕して家具を整えた。それから五日を経て、この家に移った辰五郎は大いに喜んだ。そして、辰五郎を大坂から送って来た者達を、次の日に帰らせた。


30.六郎兵衛、阿豊が慈愛、半七が忠誠を語る

 六郎兵衛に伴われて阿光がやって来た。辰五郎は、再会とお互いの無事を喜び、去年から逢えなかったことから、恋しかりし話など二人の話題は尽きることはなかった。時をうつして泣き、そして笑った。
 その後、阿光は故郷を離れて早七年にもなることから、父母が懐かしく、しばらくの暇を請って、下女の阿鹿を伴い実家の蓑屋へと出かけた。辰五郎は六郎兵衛を自分の近くに呼び寄せ、阿光を伴い来たることを厚く礼をいうと、こう切り出した。
「私は囚人となって牢舎の中につながれることになり、吉田屋の夫婦に頼んで、一年ばかり阿光を新町に住ませたが、親族でもない阿光を一年以上も吉田屋が養ってくれるはずもない。どのようにして阿光は月日を送っていたのだ。久々に逢って、阿光はただ喜ぶだけで語ってくれないので、不審に思っているのだ。誰が阿光の力となって、日々の暮らしを今日まで助けてくれたのか」と問うた。
 六郎兵衛は、頭を下げ、「そのご不審はごもっともでございます。去る年、あなた様の不慮のことで囚人となられた後、後室様の仰せを請け、吾妻殿と面会し、実家の南都の里に来たのです。知る人に蓑屋について聞くと、元は藤堂侯の御家臣で、三野田という代々続いた御用人の家柄ですが、その後、しかじかの事あって、今は、零落の身となられたと聞き、この由を後室様へ申しあげると、聞きたまいて驚愕なされ、辰五郎が契りを結ぶ吾妻は、賤しい者の娘と思っていたのと違い、三野田の娘であったか、さては吾妻の祖父の左内様といわれる方は、妾が叔母のつれ合いと従兄同士と幼いとき、家慈の話説に聞いたことを覚えている。しからば繋がる縁もあり、辰五郎が罪を受けた元はといえば、吾妻が原因であるが、これも吾妻が企んだことではない。勘助らがしたことで、愛妾よとあれ、辰五郎に連れ添う女娘婦にふさわしい・・と密かに吾妻殿と面会し、その後、半七、私に相談があって、後室様が吾妻殿へ日々の賄いをお送りしていました」と語る。
 これを聞いて、辰五郎は涙を流し、「ああ、もったいなや、家慈の慈悲、不幸の私を憎み申さず、なお、縁が繋がるにせよ、阿光を憎いと思わず、慈しみをもって計らい、親なればこそ、このように私のみならず、阿光まで・・」と、嬉し涙にむせびつつ、手を合わせて伏し拝んだ。
 また、辰五郎は六郎兵衛に向かって「その方が今回持ってきた千両はどうしたことだ。淀屋の財宝は、全て役所によって封がつけられ、没収されたのに、どうして千両という金があるのだ」と問うのに答えて、六郎兵衛は「この千両の金は・・」といいつつ、あたりを見回し、声を小さくして「これは半七と相談し、家財が没収になる前に用意し、密かに取り置いたお蔵の金で、千両はあなた様へ、また千両は半七が預かり、後室様へ差し上げたものです。しかし、この千両は、申すまでもありませんが、以前の十万両とも思ってください」といいふくめた。
 辰五郎は「その方といい、半七といい、また、私を送ってくれた忠兵衛、そして清助のこころざし、私は死ぬまで忘れはしないぞ。親族、支店、幼いときから仕えている者も多いが、おまえ達の様に思ってくれている者は他にいない」と大いに喜び、辰五郎は、その後、なんでも六郎兵衛に相談して、彼に任せた。
 この六郎兵衛は、既に齢五十を過ぎていて、家督を息子の六兵衛に譲り、嫁も娶らせていて、隠居の身になっていた。そして、自らは南都に留まり、その千両を預かり、辰五郎夫婦の後見となって忠誠を尽くした。
 ほどなく阿光は父、久右衛門を伴って帰ってくると、辰五郎は久右衛門を客室に誘い、丁寧にあいさつをすると、久兵衛も同様に応答をして、その後は心打ち解け、婿と舅の話に、六郎兵衛も一緒に加わって、過ぎし日のことなど、時間が経つのを忘れて語りあった。



31.天罰

 淀屋の勘助、笹屋傳兵衛、医師玄哲の三人も大坂市中御構いの身となり、町はづれへと追放された。勘助は難波村へ、傳兵衛は天王寺村へ、また、玄哲は北野村へと別れ別れに放たれた。
 勘助は難波村にいる由縁の者に頼んで住まいを設け、母の阿常を呼び寄せ、かねて私欲で貯えた金をもって新町で馴染みの小夏という芸妓を妻とし、ほどなく商売を始めた。
 淀屋で心得た米の駄売り、小売りのために、淀屋米方だった手代の豊造を雇い入れ、市中や近村に米を売り、村の農夫あるいは商人に小金を高利で貸付けた。
 その年も暮れて、寛永四年の春、如月の頃であるが、笹屋傳兵衛が来て言うのには、「この頃、豊後の国、佐伯近辺に銅山を開こうと企てる者が多いのだが、しかし、多く金が必要になるため、大坂にその資金を出してくれる人を探して、私の知人がやって来たのだ。大金が儲かる話だから、私も金毘羅神社への参詣を兼ね、その山を見に行こうと思う。手筈は仕法書のこの通り・・」と、懐中から帳面を出して、勘助の前に置いた。
 勘助は、これを手に取ってよくよく見て、「これは儲けになりそうだ」
 欲に眼のない勘助は、母の阿常、妻の小夏に旅の留守を任せ、また、雇い入れた豊造が実直に商いに励んでいることから、商用は豊造に任せ、二月下旬、勘助と傳兵衛の二人は豊後の国へと向かった。
 しかし、勘助が船に乗った翌日に、母阿常は脳卒中を発症し、言葉が出なくなった。ただ、ゴウゴウといびきを発するのみだった。小夏は慌てて、医者、そして親族を呼んだ。介抱したものの次第に阿常の病状は悪くなり、一日一夜苦しんで死んでしまった。
 小夏は大いに驚き、勘助に知らせようと思ったが、海路の旅だから何処にいるかも分からず、親族らは話し合って阿常の遺体を近くの千日寺に葬った。
 一方、勘助と傳兵衛の乗った船は、伊豫のあたりまで来ると、にわかに暴風となり、逆波が起こって船が転覆しそうになった。船長や水夫は大いに慌て、陸地に船を寄せようとするのだが、大波に遮られてなかなか寄らない。乗客は異口同音に「助け舟よ、助けよ」と叫ぶ。そのうちに船は転覆して、勘助、傳兵衛は海に投げ出されて死んでしまった。
 このことは、日を経て大坂の勘助宅に知らされた。
 また、勘助が留守宅を任せた豊造はというと、実直ではあったが、阿常が死んだ後、いつの間にか小夏と密通して、勘助や阿常がむさぼり集めた金銀家財を、ついに自分のものにしてしまった。
 それはさておき、医師の玄哲は、摂津尼ヶ崎の城市に住まいし、大坂から家族を呼び寄せ、医業をして榮えたが、三年の後、盗人に斬り殺されて死んでしまった。
 そして、宗兵衛、弥五八、正右衛門は、淀屋の没落の後は、度々災難にあったという。



32.辰五郎の妻、阿光が出産

 淀屋辰五郎は、その身の不行状から、代々続いた家を失ったことで改心し、南都に移住の後は、大いに謹み、些細なことも忠誠を尽くす六郎兵衛と協議して事を進めた。
 六郎兵衛も半七、忠兵衛らに時々相談して尽力した。また、阿光の父、蓑屋久兵衛が時々辰五郎の動静を問い、母小枝は日々相談にのって阿光を助け、行状を正しくさせれば、阿光の"廓の気"も薄れていった。
 こうして南都移住の宝永3年の冬、辰五郎23歳、阿光は24歳の時、阿光は妊娠し、あくる4年9月、玉のような美しい女児を産むと、辰五郎の喜ぶこと限りなく、蓑屋夫婦にとっても初孫であるから、末の栄えをしきりに喜んだ。この女児は「阿徳」と名付けられた。
 さて、六郎兵衛は、辰五郎と相談し、阿光の父母、久兵衛と小枝が誠意をもって辰五郎に尽くしてくれる報いとして、彼の貯え金の中から、200両を久兵衛に貸し与えた。久兵衛は厚く感謝して、サラシ布の仕入れをし、一層商いに励んだ。そして商売は年々繁盛し、3年も経たずに元の身代となり、家を広くし、家族も増やした。
「これも辰五郎の助力のおかげ」と、久兵衛夫婦は辰五郎を主人のように勤めた。



33.八幡300石の御朱印を賜る

 宝永6年の冬、辰五郎は京都八幡の山林、田地の御朱印地の返還を希望し、阿光、阿徳を六郎兵衛夫婦に預け、供1人を連れて江戸に赴いた。
 辰五郎は、三ケ津御構いの身であることから、縁つながりの米津出羽守の屋敷に着いて、その門長屋に身を置き、嘆願の便りをもとめることとなった。このとき、中川内膳正の家臣、瀬川左平太にはからずも出会うことになった。
 この中川家には、淀屋祖先より出入りしていることから、懇命する辰五郎を瀬川が哀れみ、主君内膳正に仔細を告げると
「ふびんな事だ。汝に委任するから、辰五郎を何年でも面倒をみてやれ」と命じられ、瀬川はそれより7か年間に渡って、辰五郎主従2人の賄いを米津の邸宅へ送り続けたのであった。
 これによって、辰五郎は安堵し、奈良、大坂へは時々書簡を送っては近況を知らせ、年月を送った。  正徳5年。この年は、徳川家康公の百年忌を時の将軍、徳川7代家綱公により執り行なわれた。これによって日本一統大赦があり、老中の井上河内守奉書をもって淀屋辰五郎が召し出され、古来から城州八幡にある田地山林300石の御朱印を河内守の手によって辰五郎に下された。
 辰五郎は天にも昇る心地で、再拝恩謝して米津の邸宅に帰り、すぐに中川内膳正の邸宅に赴いて瀬川左平太に面会し、7か年にわたる賄いをいただいた御礼披露を頼み、左平太も厚く謝し、米津邸宅の寓居に帰っていった。
 米津屋敷に着くと、出羽守はじめ、米津の家族に感謝し、大阪・南都へは、これを知らせる書状をだすとともに、「今は晴天白日の身になった」と、勇み立ち、旅の準備を始めるのであった。そして、4月下旬に江戸を発ち、足を速めて東海道を上った。辰五郎32歳のときのことであった。



34.淀屋家の再興

 かくして辰五郎は、正徳5年5月上旬、南都に帰り、阿光、阿徳、六郎兵衛、蓑屋の家族らと再会し、お互いの無事と御朱印の返還を喜んだ。
 その翌日、辰五郎は六郎兵衛とともに大坂に行き、まず老母に面接して頂戴した御朱印を見せ、半七の家では、忠兵衛、清助を呼び、家の再興について話し合った。支店の者は、祝宴を設け、辰五郎と阿豊をもてなした。
 一方、八幡の地の住まいを改築し、同年7月、阿光、阿徳とともに、辰五郎はこの新宅に身を移し、名を岡本三郎左衛門と改名、300石を領した。このとき、阿徳は9歳となっていた。
 享保六年、阿徳が15歳になったとき、京都所司代の与力、安藤久右衛門の次男で文十郎を阿徳の夫に迎え、年を重ねて家を継いだ。
 ちなみに、淀屋與右衛門、延宝元年に免許をいただき、自宅の濱地で始めた米商いも寛永没家の後、その市場を堂島に移し、(堂島の地は元禄元年に開発された)柴屋長右衛門、備前屋権兵衛の両人免許を得て、米売買を始めた。これ、堂島米市の濫じょうにて、年々歳々繁盛して、仲買等も増し、享保11年になって紀伊国屋源兵衛、大阪米会所の設立を請願した。役所からこれを許され、源兵衛が堂島の地で建築したのが大阪米会所の始めである。
 しかし、事故があって廃止となり、その後、享保15年になって米仲買の田邊屋藤右衛門、尼崎屋藤兵衛、加島屋清兵衛の3人が仲買惣代となって、江戸へ赴き、米商い免許を出願した。これが大岡越前守殿の評定で聞き届けられ、米商いが再興された。
 大阪米仲買に株札を下された数は450枚にのぼったが、その後も株札の数も増し、享保16年には大阪奉行所から加島屋久右衛門、升屋平作、津軽屋彦兵衛、俵屋喜兵衛、久寶寺屋多兵衛の五人が召し出され、米商い年寄役を命ぜられた。こうして米商いは年々盛んになり、今のようになった。(おわり)



※この現代語訳で表記した『淀屋辰五郎実伝記』の底本となっているのは明治21年に出版された『淀屋辰五郎実記』という本です。この本の詳細は以下の通りです。
明治二十一年十一月十九日 印刷
明治二十一年十一月二十三日 出版
明治二十五年一月十三日 再販

発行者 大阪市南区順慶町通り四丁目百七十九番屋敷 此村庄助
    大阪市南区安堂寺橋通り四丁目二百四十二番屋敷 田中太右衛門
著作者 大阪市東区龍造寺町十八番屋敷 柳澤武運三
印刷者 大阪市南区鰻谷西之丁二百五十三番屋敷 南谷新七



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