南山焼・鳩の香合" ■浅井周斎
(あさいしゅうさい)

享保5年(1720)〜寛政12年(1800)

浅井周斎は、短賢・鳳州園と号し、八幡の地に生まれた幻の焼き物「南山焼(なんざんやき)」を創始した人です。
徳川吉宗の時代、享保5年(1720)に生まれた周斎は、大坂で鉄を扱う商人として2万両ともいわれる財をなしましたが、晩年にこの家業を捨て、男山の麓に居を構えました。八幡での彼の生活は、法華経を唱えて修行し、その他茶の湯、詩吟にも通じていたといいます。特に彼が没頭したのは作陶活動で、八幡南山に窯を作り、そこで焼く器の底には「無」の字を刻し、これが「南山焼(なんざんやき)」といわれました。その作風は「高雅にして韻致あり、陶業界に一機軸を顕し・・・」と高く評されたといいます。
周斎の人物像も、きわめて清廉、欲のない人であったようで、その財産は、作陶活動や貧しい人の救済に当てられ、また、円福寺(挿絵)の建立にあたって3万坪の土地を寄進しました。そして、寛政12年(1800)、80歳で亡くなったときの所持金は、200文にも満たなかったといいます。

南山焼き復活にかける人々

南山焼は、周斎没後に忘れられていくのですが、明治時代の終わりに、清水焼の陶芸師、帯山与兵衛によって再興されました。その作品は、明治43年(1910)4月15日の京阪電車の開通によって増え始めた観光客に、お土産品として人気だったといいます。しかし、今は、再び消滅し、残念な結果となっていますが、これを憂いた八幡市文化協会の陶芸部長だった故・竹本建造さんらを中心に復興に取り組まれてきたことで、明るい動きが生まれています。


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