●下馬碑
下馬とは、そこより先の乗馬を禁ずることで、下馬碑はその場所を示す碑をいう。江戸城にあっては、下馬所で大名や役高500石以上の役人、高家、交代寄合等の「乗輿以上」の格を有した者以外は、馬や駕籠から降りなければならず、乗輿以上の格であっても、下馬所より先は供連の人数を制限された。寛政12年(1800)の規定による供連の人数は、10万石以上、国持大名の嫡子という身分の大名でも13人、それ以外の大名では石高に応じて10〜11人であった。史料的には明暦3年(1657)正月24日に、桜田口門及び和田倉門外に「下馬牌」を立てて従者の人数を制限したのを最古例とする。また、下馬にある「下馬」の文字は、足利将軍家以来の伝統的な筆法で記される秘儀とされ、はじめ足利義昭の家臣であった曾我尚佑がその任にあった。この秘儀の伝法には時の将軍の認可を必要とした。(『徳川幕府事典より』)