八角堂
八角堂地図
はっかくどう
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八角堂

所在地:八幡市八幡女郎花

八角堂は市立松花堂庭園の西側、八幡女郎花にある。
御堂は市内最大の前方後円墳である西軍塚古墳の円頂部に建っている。現在は正法寺の境外堂宇のひとつであり、本尊阿弥陀如来(一光千仏丈六阿弥陀と称す)が安置されているため、阿弥陀堂ともいう。
御堂はもと男山西谷にあったが、明治元年の神仏分離令によって八幡宮境内から仏教関係の堂舎・仏像などが撤去された際、正法寺住職が堂宇・尊像とも迎請し、この地に移したものである。 堂舎は順徳天皇の御願によって、八幡宮検校善法寺祐清が建保年間(1213〜1219)に建立したものであるが、後に大破した。次いで慶長12年(1607)8月、豊臣秀頼の御願によって尾張国小出大和守吉政が再建したとある。このことは堂上の桐紋を付した露盤に彫刻されていると『男山考古録』は記している。またこのとき、京に住む仏師康温が阿弥陀仏を修造して入仏したことが棟木に記されているという。それ以降ほとんど手を加えなかったため破搊転倒し、表六間、奥行二間の仮の板屋根で風雨を凌いでいたという悲惨な記録もある。
元禄11年(1698)7月、社務の善法寺央清は四方に勧進を募り、堂宇を再興した。その時の奉加者の吊が堂内の垂木や瓦の裏などに記されている。今は正法寺の宝物殿「法雲殿《に安置されている木造釈迦如来坐像 (重要文化財)で、かつて八角堂内に安置されていた。制作は鎌倉時代初期のものであり、中品中生の説法印を結び、十三体の化仏を配した大きな光背を後に付している。そのために本尊と化仏を対比して「一光千仏《といわれている。ちなみに像の手の指の間に膜のようものがあるが、これは八幡神の遷座を慕って仏像が海を泳ぎ渡ってきたときの水掻きであるという里俗の伝説の根拠となっている。
流転を経て色あせた八角形の異形は、なぜか周囲の雑木と竹林にみごとに調和している

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