正法寺
正法寺地図
しょうぼうじ
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正法寺

所在地:八幡市八幡清水井

正法寺は旧高野街道沿いの八幡清水井の地にある。もとは天台宗であったが、中世末期に浄土宗に改めた。寺は建久2年(1191年)に、清水(静岡県清水市)の高田蔵人忠国が源頼朝の幣礼使としてこの地に居住し、新清水と称したことに始まる。

ここは、元京極局(円満院阿闍梨の一女子)の私領であったが、忠国が直銭230貫文で買得したものである。三代目宗久は、石清水の「清《を避けて志水と改め、嘉暦元年(1326年)、本格的な堂舎、仏閣を営んだ。第11代持住伝誉上人が天文16年(1547年)、後奈良天皇に法談を行ったことによって勅願寺に補せられ、「徳迎山正法寺《の勅額を賜った。また、慶長年中(1596〜1610年)には、宗清の娘亀女(号=相応院)が徳川家康の側室となって尾張藩主となる義直を産んだ。宗清も八幡宮の社務職を辞し尾張藩に仕えたことによって、寺も同藩の庇護を受け、朱印地500石(7塔頭分を含む)を有するようになった。江戸時代を通して八幡領が検地を免除され、守護上入の特権を得られたのは、亀女の働きによるところが大きかった。そのお礼として、八幡宮は毎年、将軍家に菖蒲草を献上するようになった。

現在の建物は、寛永7年(1630年)に再建されたもので、本堂・方丈・唐門・鐘楼など七堂伽藍を備えている。寺宝の本尊阿弥陀三尊像は、平安時代末期の作品で、中尊は来迎印を結んで結跏趺坐し、観音菩薩は両手で蓮台を持し、勢至菩薩は合掌して、それぞれ趺坐する来迎形式をとっている。絵画では、高麗時代(918〜1392年)の「絹本著色釈迦如来像《があるが。これは説法印の釈迦立像を描いたもので、昭和52年(1977年)に重要文化財に指定された。

男山の麓を取り入れた庭園は、ツツジの吊所であ。近年になって、本堂前の松は樹齢400年を数える京都の吊木のひとつになっていたが、松食い虫の被害で枯死したのは残念なことである。

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