『物語としての家族』
(マイケル・ホワイト、デビット・エプストン)
金剛出版。1992


コメントあるいは思考のメモ
物語理論(ナラティブ・セラピー)における原書というべき書籍である。
フーコーのパノプティコン、ベイトソンのサイバネティックへの言及
文脈など
構造主義からの脱却、ユニークな結果への誘い。

目次

ストーリー、知、そして力
問題の外在化
ストリーだてる治療

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ストーリー、知、そして力

ベイトソンの解釈法
生態系の出来事を説明するのに、直線的因果論を適応することの妥当性に挑戦するために、ベイトソンは私たちが客観的現実を理解することは不可能であると出張した。コルジブスキーの格言である「地図は領土ではない」を参照して、彼は、出来事に対する私たちの理解や私たちが出来事に付与する意味は、出来事を受け取る文脈、すなわち、私たちの世界の地図を構成する前提や予測のネットワークによって決定され拘束されるのである。彼は、地図をパターンにたとえて、すべての出来事の解釈は、どのくらいその解釈が出来事の知られているパターンに適合するかによって決まると出張し、それが「部分が全体のコードになる」と呼んだ。彼は、出来事の解釈は、それを受け取る文脈によって決められると述べただけでなく、パターン化され得ない出来事は、生き残りのために選択されないと出張した。つまり、そのような出来事は、私たちにとって事実として存在しないのである。
すべての情報は必然的に「差異の知らせ」であるとか、生体系におけるすべての新しい反応のトリガーとなるのは差異の需要、変化の探知にとっていかに本質的であるかを提示した。
この解釈法が提案するのは、家族の中に潜む何らかの構造とか機能障害が家族のメンバーの行動と相互作用を決定するというよりは、メンバーが出来事に対して付与する意味が家族の行動を決定するという考え方である。
問題が生き残るために要求してきたものとこれらの要求が人々の人生や人間関係に及ぼす影響に関心を抱いてきた。私は問題が要求するものに対する、家族メンバーの協同的だが不注意からくる反応こそが、問題と手を取り合って、問題の存続維持システムを作り上げているのだと提案した。

アナロジー
意味を仮定するいかなる表明も解釈的であること、つまり、これらの表明は、私たちの地図とかアナロジー、またはゴフマンが名付けたように「私たちの解釈枠組み」によって決定された質問の結果にすぎないことが、今や一般的に認められることとなった。
私たちの用いるアナロジーが、私たちの世界から引き抜くまさにその区別を決定しているのである。
私たちが、自分たちが採用するアナロジーをどのようにして選択したり、決定したりしているのであろうか?私たちがあるアナロジーを他のものより好むのは、イデオロジカルな因子とか流行している文化的実践などを含む多くの決定因子の積み重ねの結果である。

テクスト・アナロジー
ギアーツ「最も広範で最新の社会思想の再比喩化」
人生を理解する努力として、人々は、彼らと周りの世界に関する首尾一貫した説明が得られるような方法で、自分たちの経験を時間軸の上に順序よく配列させるという仕事に直面することとなる。直線的シークエンスの中でつなぎ合わせないといけない。この説明が、ストーリーとか自己物語として言及されうるものである。
この物語の成功が、人々に人生における連続感と意味を与え、日常生活の秩序とさらなる経験の解釈の基盤となる。
物語の組立には、私たちとそれ以外の人々が私たちに抱いている優勢なストーリーにそぐわないような出来事を私たちの経験から除外する選択過程が含まれている。つまり、必然的に、いくら時間がたってもストーリーされず、決してささやかれたり表現されたりすることもない、生きられた経験の在庫が多く残る。それらは、組織化もされず、無形のまま残るのである。
人々が経験のストーリングを通じて組織化し、経験に意味を与えること、並びに、これらのストーリーの上演によって駆られの生きられた経験の選択的側面を表現することを認めたならば、これらのストーリーが構成的、すなわち人生と人間関係を形作っていくことが了解されるであろう。
このことから、人々が持ちこたえているストーリーや物語が彼らの相互作用や組織化を決定するのであり、人生や人間関係はそのようなストーリーや物語の上演を通じて生まれるのだとする考えを、テクスト・アナロジーが進めていくことが理解されるであろう。
ストーリーの上演を通じた人生や人間関係の展開は、すべてテクストの「相対的非決定性」と関連している。暗黙の内の意味や、ある出来事についての異なった「読者」の様々な見方、それにそのような出来事の描写に有効な様々な種類のメタファーの存在により、すべてのテクストに曖昧さが加えられる。
ストーリーには、それが上演されるために人々が満たさなければならないギャップが多くある。これらのギャップは、生きられた経験と人々の想像力を求めている。すべての上演に、人生の再著述は付き物である。人生の展開は、再著述の過程や、人々がストーリーに入り込み、それを引き継ぎ、自分なりに仕立てていく過程ににている。

テクスト・アナロジーと治療
人々が治療を求めてやってくるほどの問題を経験するのは、彼らが自分たちの経験を「ストーリング」している物語と、または他者によって「ストーリーされて」いる彼らの物語が十分に彼らの生きられた経験をあらわしていないときであり、そのような状況では、これらのドミナント(優勢な)・ストーリーと矛盾する彼らの生きられた経験の重要な側面が存在するであろう。
もし、上述の仮定を適切であると考えるならば、人々が治療を求めてやってきたときの容認しうる結果として、オルタナティブ(代わり)・ストーリーの同定と誕生ということになるだろう。これこそ、人々が新しい意味を上演することを可能にし、望ましい可能性、すなわち、人々がもっと役に立ち、満足のいく、幅広い解釈を許すものと経験するであろう新しい意味をもたらすことを可能にするのである。
ドミナント・ストーリーの外側に組み残された生きられた経験のいくつかの側面が、オルタナティブ・ストーリーの創世と再創世にとって豊かで肥沃な材料を提供することになる。
ゴフマン:「ユニークな結果」〜ユニークな結果は、いつもそのような変化に有利なように無視されている。というのは、ユニークな結果はある社会カテゴリーの各面バーに対して別個にもたらされているものの、それらは、その都度彼らにとって基本的でありふれたものとして捉えられるのである。

経験の再ストーリングには人々の経験の再組織か、つまり「ありとあらゆる可能性のパターンに文化因子を自由に再統合させること」(ターナー)に彼らを積極的に巻き込むことが必要である。これが、再起的な文脈を提供する。
つまり、人々がからら自身の上演において役者であると同時に聴衆でもあるような過程について気づきを与え、それが誰の産物についての誰かの産物にすぎないという意識を生む活動に従事するように人々を誘い込むのである。
この文脈が、人々、他者、それに人間関係の著述について、新しい選択を生み出すのである。

優勢な知と力の単位としての優勢な物語
構成的なものとしての知と力

力/知

オルタナティブ・ストーリーと文化的に有効なディスコース

人々が服従させられ、彼ら自身を服従させ、他者をも服従させている力のテクニックの細部が明らかになるのである。
いったん、これらのテクニックが同定されると、人が自分自身や他者をこれらのテクニックに服従させながらもそれを拒否した機会を調べることによって、ユニークな結果は存在を与えられる。その後、人々は、ユニークな結果にまつわる意味の上演に携わるように誘導される。
これらのユニークな結果が同定されれば、「正常化する判断」−優秀な「真実」に沿った人々と人間関係についての評価と分類−のテクニックによる征服は巧みに挑戦され、「従順な身体」は「いきいきとした魂」となる。
オルタナティブ・ストーリーの創生であり、これらのストーリーが代わりの知を取り入れる限りにおいて、これらの知の上演のための空間の同定と準備が治療努力の中心課題であると主張されうる。

口述の伝統と文書の伝統:その区別
スタッブは、「思考をおおいに促進する新しい知の資力」

文書の伝統に頼る治療が、ローカルで人気のある知の公式化、正当か、継続を促進し、人々の独立した権威、並びに新しい発見と可能性の出現のための文脈の創造をも促進するという、彼の提案を支持していることが分かる。
文書の伝統が時の次元の上に経験をマッピングすることを促進する限りにおいて、それは、治療と規定される活動に多くの実りをもたらすと思われる。
書き言葉は、「焦点意識の限られた時間と情報能力」による拘束から人々を解放するだけでなく、そこで私たちは「注意を多くの情報に向けさせ、言葉の資力のもっと慎重な組織化に注意を捧げる時間」をもつのである。概念単位の情報内容が大いに増加可能で、これらの概念単位が異なった、「依存の関係」において再組織化されうるような仕掛けをも供給するのである。


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問題の外在化

外在化とは、人々にとって耐え難い問題を客観かまたは人格化するように人々を励ます、治療における一つのアプローチである。問題は、人々や人間関係の比較的固定された特徴と同様に生来のものと考えられているが、その固有性から解き放たれ、限定された意味を失っていく。
問題の外在化に関連した実践の文脈においては、人も人間関係も問題ではない。むしろ、問題が問題となる。つまり問題に対する人の関係が問題なのである。
人生の経験は言説よりも豊かである。物語構造は経験に意味を与え組織化するが、必ず優勢な物語によって十分には包み込まれていない感情や生きられた経験が残る。

影響相対化質問法
問題の影響のマッピング
質問は、人々が彼らの人生や人間関係における問題の影響をマップできるように導入される。これらの質問は、行動、情緒、身体、相互作用そして態度といった領域における問題の影響を確認することができるように人々を援助する。
これは、家族の人生における問題のしみこんだ描写を取り扱うことになるが、それは、問題そのものの描写より遙かに広範囲にわたっている。
問題の人と問題との関係に質問を限定するよりも、問題と様々な人々、問題と様々な人間関係との間というように、様々な局面にわたる問題の影響を明らかにすることが大切であろう。
人々の影響のマッピング
問題の「存続」に対する、彼らのそして彼らの人間関係の影響をマッピングするように人々を誘い込むことを特徴とする。
人生における問題のしみこんだ描写と矛盾するため以前は速やかに無視されていた「事実」についての新しい情報は、人々にとって重大に受け止められなければならない。
先に述べた、問題の影響のマッピングが重要性の成立に一役を買うことになる。

外在化すべき問題の決定
状況の一般化を避けて、すべての状況の特殊性を心に留めながら、行動の特別なつながりによって引き起こされそうな結果を先んじて思い描くことが大切である。
「専門家の」定義から「普通の人の」定義へ
相互に了解可能な問題の定義を促進すること。
ユニークな結果は、問題に対する人々の影響を歴史的に振り返ることによっても明らかにされうる。ここで人々は、彼らの人生と人間関係における問題の影響と矛盾する「事実」や出来事を思い出すように励まされる。
そういった出来事は、その時点で、人々によって経験されたものであるが、大抵、そういった経験に対する新しい意味づけは、彼らの人生のしみこんだ物語によって排除されている。
現在のユニークな結果の直接性のために、人々は思わずつり込まれて新しい意味の上演に導かれていく。
ユニークな結果は、未来にも同定されうる。それは、問題の影響から脱しようとする人々の意図や計画性を振り返ったり、問題から人々の人生や人間関係を自由にするための彼らの望みを調べることによって明らかになる。
想像力は、問題の外在化の実践上大変重要な役割を果たす。特に、ユニークな結果の同定のための状況の促進と、それらに関する意味の上演において重要である。
問題の外在化の実践が、問題から彼ら自身と彼らの人間関係を引き離す際に、この実践は、問題の存続に関与している責任の大きさから人々を引き離すものではない。
事実、これらの実践は、彼らが、問題と彼らの関係に気づき描写することを手伝うことになるので、まえもってはどうすることもできない事柄である問題に対して責任を負うことが可能になる。

文化的文脈
人々は、客体として構成されており、人々は、自分自身や身体、そして他人に対しても、客体として適応するように励まされている。
個人主義、自我。
問題の外在化の実践は、人々や人々の身体、そしてお互いの「脱客体化」に彼らを従事させる対抗実践と見なすことができる。

パノプティコン
個人を服従強制の状態を保つためには、実は絶えず見られているという事態、常に見られている可能性があるという事態である。
従順な身体−容易に変容させ、使用できる身体−として効率よく「偽造」するための空間的な組織化または配置の理想的なモデル。
評価と生活の固定化
パノプティコンによる人々の空間的配置は、人々が、組織の構成する規格によって分類され、適格化され、比較され、鑑別され、鑑定されるための条件を整える。これによって、人々が個別の症例として考えられていると信じ込ませることができる。さらに、この空間は一は、人々を規格に沿って訓練し修正する理想的な条件を提供する
それゆえ、個室の人々にとって経験される間断なき視線は、実際には、「正常化する視線」となる。これらの人々は、自分たちが組織の特徴的な規則と規格に沿って絶えず評価されているように経験する。
要求されたレベルに到達しないことまたは課題を遂行できないことが罪なのである。規格と規則に背くすべての行いは懲罰に値する。
権力のこの近代機構は、人々と人々の身体を客体にするだけでなく、人々を自ら服従させる積極的な役割に従事させ、組織の規格や特殊化に沿って、彼らの生活を管理する積極的関与を促した。
人々は、自分たちが絶えず監視されていると仮定して、自分たちの存在の中にのみ安息を認めることになる。自己評価は社会の規格に沿うように身体を従順に偽造し、自己監視を行う。
パノプティコンは、人々の人生を作り上げ形作る。この権力を通じて、我々は、人々人生と人間関係を形作る。
規律・訓練は人々の特色を示し、分類を行い、特定化する。ある尺度に沿って配分し、ある規格のまわりに分割し、個々人を相互に比べて階層秩序化し、極端になると、その資格を奪い取り、相手を無効にする。
そこでは、評価が拷問に取って代わり、社会性御意、つまり、身体、集団、知の制御に関する司法部を浸潤してきたのである。
地位と結びつけられた個人化の類型と、地位そのものの両者から自由になるためである。何世紀にもわたって私たちに押しつけられてきた、このたぐいの個人性を拒否することによって、主体性の新しい様式を促進させなければならない。



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ストリーだてる治療
ブルーナー:論理科学的思考モードと「物語」的思考モードを対照させる
認知機能には、2つのモード、すなわち2つのモードがあり、各々が経験の秩序化や現実の構成に関して際だった方法を提出する。前者は、議論が真実を確信させるのに対して、後者はストーリーは現実そのものであると信じ込ませる。
前者は、一般的な原因を扱い、その確立のためには、立証されうる参照枠を保証し、実験的な真実をテストするための手続きを利用する。その言語は、一貫性と矛盾しない事という必要性によって制御されている。。
後者は、経験についてのある特別な事柄に注意を向けている。時間軸の上での出来事を繋いでいくのである。物語モードは、確かさではなく、様々な見方を導くのである。この物語の世界では、直接よりはむしろ、仮定法の方がまさっているのである。
仮定法の誘発:暗黙の意味を創造することである。
主観化:ストーリーの中にいる主人公の意識のフィルターを通して、現実を叙述すること。
多様な見方:同時的に捉える一組のプリズムによって世界を見据える。
私たちの人生は絶えず、物語によって織り合わされている。その物語とは、私たちが話し、語られるのを聞き、私たちが夢に見て、創造し、語りたいと望むストーリーである。それらはすべて、エピソードとして、時々は半ば意識的に、しかし実際には解釈されていないモノローグにおいて、私たちが、私たち自身に語る私たち自身の人生のストーリーによって再生されるのである。私たちは物語の中に深く巻き込まれている。自分たちの過去の行動の意味を説明し直してみたり、再評価してみたり、未来の計画の結果に思い悩んだりしながら、まだ、完結されていないいくつかのストーリーの狭間におかれているのである。

実践
究極的には、人生の物語の自己が足りに導く、文化的に作り上げられた認知と言語学的過程が、知覚の経験を作り、記憶を組織化し、人生の真の「出来事」に向けた目的をたてて区分するための力を達成するのである。                              

対抗文書
カルテの軌道に二つの転写過程が挿入されると、ある種のずれがおこる。そこでは、訴えの意味が本質的に失われるのである。二つの転写の後で患者の言葉に戻ると、元々の訴えの形跡を同定することが、しばしば困難であることが分かる。

賞を与えることによる、オルタナティブストーリーの証明
定義的な祝祭、それらを私は、他の場面で有効とされないような解釈を聴衆に向けて宣言することを特に意図した集合的な自己定義である。

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