福祉サービスの公私関係(現代福祉学の構図 京極高宣 中央法規出版1990)
我が国の福祉システムは戦後、日本国憲法25条に基づき基点が定められたといわれるが、当初はGHQの指導が強く、いわゆる三原則

が、憲法制定前から影響力を持っていた。いうまでもなく戦後当省の主要な福祉政策は戦後羅災者を中心とする貧困者対策であり、社会福祉の公私関係についても戦前の「官民一体」による公的責任の曖昧化を払拭して、公的扶助における公的責任の確立が一義的課題となっていた。現在も残っている公的責任万能主義というイデオロギー(いわば化石)はこの時期に誕生したわけである。
しかし高度成長期に入り、社会福祉施設整備を中心とする福祉三法、さらには福祉六法時代には、民間社会福祉法人が誕生し、施設整備や市町村社協設置などが飛躍的に進んだ。この時期に主として民間委託という形態ではあるが、新しい意味合いで公私の役割分担に関する論議が従来の公的責任論と併存した。三浦氏の提案する公私役割分担論もこの時期からはじまったと言えなくもない。特に注目に値することは、福祉サービスの重点が施設福祉から在宅福祉に変わりつつある時期に地域福祉の推進や社協活動の見直しなどとの関連で、公私役割分担論が活発化したことである。公的扶助は別とすると福祉サービスの公立公営万能論にはサービスの質および効率性などで問題があることが認識されはじめてのである。三浦氏の公私分担論は先に述べたニーズの変化と並んで最低生活水準方式から福祉ミニマムへというミニマム設定方式の変化の必要性その他から構成され、従来の乱暴な公私関係論と比べて、福祉政策論的アプローチをより緻密化させたものであった。
その後、臨調行革の時期に入ると国の福祉政策においても民間活力の積極的な導入が重点課題となり、これまでの公私役割分担論とは基調をかえて公的責任にのみまかすというよりは、市民参加や民間委託、民間企業の利用などより民間性を発揮する方が望ましいという方向での公私機能分担論に席を譲ることになった。

社会福祉の水準設定で三浦氏のナショナルミニマム論についてはどうしても論及しなければならないだろう。というのも、公私役割分担の位置づけで、公的扶助はナショナルミニマムを設定しなければならず、また貨幣的ニーズへの対応として設定しやすいけれど、福祉サービスでは設定しにくく、いわば国の責任でのナショナルスタンダードとしての福祉ミニマムというべきものがナショナルミニマムに準拠してあてられる。
社会福祉関係では、かつての革新自治体でシビルミニマム論が幅を利かせていたが、ナショナルミニマムが非常に不十分な時代にはシビルミニマムがその引き上げのイデオロギー的論理として機能していたものの、本来的にはミニマムは仮に対象を所得保障から福祉サービスに広げたとしても、国のナショナルミニマムについてだけであり、地方公共団体の福祉水準を向上させていく努力目標はむしろローカルオプティマム(いわば福祉オプティマム)と捉え直した方がよいのではないかと思っている。あえて、福祉マキシムという言葉は、自助努力などによって、市民の福祉ニーズを最大限に充足させるプライベートの範囲に限定した方がよいとさえ考えている。

憲法89条との関連
では、民間社会事業への公金支出打ち切りという形で明確になると同時に、様々な民間社会事業に対して何らかの経済的な援助が必要だったのが出来なくなってくるということから、いわゆる措置委託制度というシステム、すなわち国の責任で本来行うのだが、それを民間の施設に委託するという形で措置費を支給する方式が確立されるわけである。
昭和26年6月に社会福祉事業法が制定され、一応の戦後社会福祉の総決算という形で、いわば基盤法として福祉三法を総括するようになった。中身は、社会福祉事業法を一種、二種にわけて列挙主義的に定義し、第一種は収容施設などを中心とするもの、第二種は通園施設を中心とするということで、最も国が緊急に対応しなくてはいけないものを一種という形で整理したものである。また、社会福祉の措置事務、つまり福祉にかけ足る人に福祉をあてがうということを決定する現業機関として福祉事務所を明確に位置づけ、福祉事務所の中に査察指導を行うことと、現任訓練を行うことを定めた。他方、福祉施設とか社会福祉協議会とか様々な民間の福祉現場があるが、そういう民間社会福祉事業を福祉団体に関しては社会福祉法人制度を定めて、措置費を支給しやすい公の支配に属する公益的法人として位置づけた。

戦後社会保障の形成 北野勉 中央法規 2000

戦後措置制度の確立
戦後はGHQの国家責任、無差別平等、必要充足の方針により、社会サービスの実施を公的施設で実施することが目指され、公的救済の分野から民間施設を排除することが意図された。しかし、
1.戦後直後には大量の福祉需要があるのに対し公的な救済実施体制が不足していたこと
2.民間施設が経営基盤として依存してきた寄付が集まらなくなったこと
3.公的救済予算が急増したことなどを背景にとして、多くの民間施設が旧「生活保護法」の保護施設や児童福祉法の児童福祉施設となった。同時に、戦前では収入源の一つに過ぎなかった公的機関からの措置委託費が、戦後は、その給付水準が高められたことや他の収入源が存在しないために、民間施設の経営に不可欠なものとなった。戦前と戦後では民間施設の経営の内容が不可逆的に変化したのである。

措置委託に伴う措置委託費の支払いは戦前と同じように、旧生活保護法制定の当初から認められた。しかし、民間社会福祉施設に対する設備費補助は1946年10月の「政府の私設社会事業団体に対する補助に関する件」や同年11月に交付された日本国憲法第89条により、一旦は禁止されていたものが、1949年の私立学校法で「公の支配」に服するという条件づきで認められたのを皮切りに、民間社会福祉施設に対する公的助成の規定が新生活保護法、児童福祉法の改正、社会福祉事業法に一定の制限を付して設けられた。戦前とほぼ同様な措置委託費制度、すなわち運営費(委託費としてであるが)および設備費の助成が再開されたのである。これを現在の措置費制度の萌芽と見る議論が多く見られる。しかし、このような公的助成制度は、すでに「救護法」において実現していたのである。戦後、「公の支配」に属する公益法人(社会福祉事業法成立後は、社会福祉法人)に、戦前と同様のシステムが形を変えて復活したのである。

最低費の創設
戦前の救護法では、給付すべき額の上限が決められていたが、要救護者を措置委託した民間の救護施設に交付される具体的な額は明かではなく、それによってどの程度の生活やサービスが保障されるかは明確ではなかった。戦後、GHQは、救済額に上限を設けることに懸念を示し、SCAPIN75で(中略)これをうけて、1946年3月13日に「生活困窮者緊急生活援護要綱」実施のために、第一回の生活扶助基準が設定された。
私設最低基準は、職員の配置基準と施設設備の基準からなり、社会サービスの無いよう・水準を具体的に規定するものであった。また、これを実現するための「措置費」が支払われることとなった。公的な財源の導入が期待できる公的施設と違って、措置委託費が主要な収入源である民間施設では、この施設最低基準の内容とその単価が施設経営上重要な位置を占めた。戦後の措置費の議論は、専ら私設最低基準と措置単価に集中したと言えよう。

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