ロールプレイとセッション

私が青春時代に行っていたTRPGは、D&D2ndT&Tなどで、主にダンジョンにはいっていき、モンスターを倒し、マップを作り、財宝を得るといういわゆる探索型の初期のゲーム形態であった。その後の10年の空白で、再び、現在のTRPGのルールブックを購入して、シナリオやリプレイ(私がやっていたときはリプレイというものはなかった)を読んだりするうちに、全く別物のゲームになっていたことに気づく。セッション、アクト、ストーリーテラー等。私が行っていたロールプレイとは何であったのだろうか。

D&D2nd
におけるロールプレイとは、キャラクターを上手く育てて強くしていくことが、長くプレイすることにつながる。シナリオの中でキャラクターが後付に背景やドラマを内在していく。また、プレイヤーのNPCとの絡み方によって、マスターが微妙にやりとりを変えることはある。また、性格は3通りあり、邪悪な性格とした場合は、それらしく、と大まかであった。また、職業でも、自分がイメージするように戦士らしくとか、盗賊らしくといった程度で、勝手気ままに振る舞えることが出来る(部分が多い)。シナリオの位置づけも事件ははじめからあって、それを解決するためのプロットは限られていた。そこには、成功すれば多くの経験点、失敗すればなしとか少ない経験点となる。よって、マスターのシナリオは、解決すべき事件やダンジョンそのもののゲームソフトであった。キャンペーンは、事件の連続を通して、目的を達成させるドラクエのようなものであった。
ゲームブック的といえばそれまでだけど、そうすることが私の青春のTRPGであった。

しかし、現在のTRPGは明らかに違う。ある意味、ロールプレイをするためにセッションを行うという意味合いが強い。要するに、舞台をマスターが設定して、プレイヤーが様々な役付けがあって、それに沿ってプレイヤーがキャラクターを演じ合うという意味合いが強い。よくたとえられるのが、ドラマのシナリオである。しかし、ドラマの台本がないのがTRPGであると。即興演劇に近いのかも知れない。

例えば、はじめに、演出家があなたは郵便屋で、あなたは受け取る人で、実は郵便屋は間違った手紙を渡してしまう。そのやりとりを行って欲しいと言われる。そこで、演出家は、短いやりとりしかできないプレイヤーに、こう言ったけど、郵便屋さんは何か言うことや行うことはないだろうか、もし、受け取る人が、郵便屋の対応が悪くて怒りだした場合は、郵便屋はどう対応するだろうか、そこを通りかかった人(別のプレイヤーを割り込みさせて)は、どういう反応をするのだろうか、とアドバイスをする。そこで、喧嘩になってしまうかも知れないし、実は郵便を偽った犯罪かも知れない(プレイヤーがそう設定して)、まわりが喧嘩を止めようとして大きな争乱になるかも知れない。または、ちょっとした日常の一こまになってしまうかも知れない。それは、その演じた人達の選択で変わってしまう。

よって、起こりうることを事例的に並べるのではなく、筋書きを大まかにスケッチをして、そこにマスターが演じるべきキャラクターを配置して、対応次第では、何も起こらないこともあり得るのである(これは、昔もあったが、反応表と画一的であったし、性格によって3種類におおざっぱであった。また、キャラクターの特性は、戦闘のための数値化であったが、現在では様々な行為に対する特性も数値によって決められている。時には、キャラクターが持つべきストーリーすらも。もちろん、ルールの持つ世界観に沿ってであるが。)

TRPGの場合は、ルールによって行わないといけないことがある程度明確にされている。
ブレカナ
では、殺戮者のとらわれた聖刻を解放すると言うことが前提になるし、深淵では、はかない命を美しく生きることを目的となる。そうした趣旨を無視してプレイすることもできるだろうけど、システム的にそれは許されていない。(場合によっては逆らうこともできるだろうけど)
そして、それはキャラクターにも反映されている。様々な数値の組み合わせの中から、出来ることと出来ないことが区別される。この辺は、D&D2ndやT&Tでも決められているが、現在のTRPGでは、生い立ちから因縁、イメージ、背景がかなりの部分を占められている。また、シナリオによっては、自作のキャラクターが使用できなく、マスターがあらかじめ制限する中で作成することすらある(あらかじめキャラクターを渡される場合もある)。あくまでも、シナリオに適した配置としてである。

シナリオは、状況の説明からである
。今、こうした場所にいて、プレイヤーたちはこうした状況に陥っていると。昔は、ここにいるという説明であったが、すでに状況にあると言うところがみそである。すでに、ドラマに組み込まれたアクトなのである。そこで、プレイヤーはどうロールプレイをするのか、どのようなセッションを行うのかは即興である。
ある程度、コントロールしないといけない場合は、マスターが演出家となってNPCを割り込ませて、事件を起こしたりするし、状況をがらっと変えたりする。天羅万象(零)では、状況によって登場するキャラクターを別々にするし、割り込みを申請したり、許可したり、禁止したりして、シナリオをコントロールする。こうしたシナリオでは、戦闘では、シーンの一部とされる。現在でも重要な要素であるが、たとえ、マスターがコントロールできない場面になっても、マスターが即興で乗り切って、別のシナリオになるよりも、プレイヤー同士で演じ合って、セッションを乗り切ることが重要である。よって、シナリオの失敗は、キャラクターにある。(当然、見え見えのおもしろくないシナリオを作って、白けさせるのはマスターの責任であるが)
要するに、何が起こるかわからないけど、シチュエーションがおもしろいとか、ドラマ性があるとか、割り振りされるアクトレスが独特で感情移入しやすい状況であるとか、そうしたことが重要なのである。

もちろん、そのルールの世界観とかドラマ性とかはあらかじめ決められているので、そのルールを選んで、行うセッションは、そうしたテイストを考慮されたものである。D&Dで蓬莱学園風のシナリオを行うことには無理があるように、ルールにドラマを演出することが重要である。幸せなのは、プレイヤーもマスターも合意の上で好きなルールを手にとってプレイするのが良い。もっと良いのは、プレイヤーが知らないルールで、徐々におもしろくなってはまってくれたらなお良い。
その時でも、基本は、主役はキャラクターが演じ合うということ。である。マスター、次なんなのとか、どうしたらいいのとかというプレイヤーとしての発言はしないこと。この作成されたキャラクターは、こうした状況ではこう行動するだろう、こう発言するだろうとロールプレイをすることが重要である。当然、ルールや状況によってである。上手くロールプレイをすればさらに表現が増えるスキル(経験点)がもらえる。

セッションとは、ロールプレイの積み重ねの中で生成されるプレイヤーの中でのドラマである
。ドラマと置き換えても良い。シナリオは、決められた状況、演出である。状況は決められているのだから、どう解決するのか、と同時に、どうロールプレイをするのかを楽しむゲームといえよう。よって、豊かにロールプレイするのも、素っ気なく解決させてしまうのもプレイヤーのロールプレイとセッションへの意気込み次第といえる。下手でも良いけど、的外れでも良いから一生懸命ロールプレイすることが重要である。役になりきって、状況を自分なりに解釈してアクトを行う。それぞれのプレイヤーがそうして楽しもうとすることがおもしろいセッションとなる。 

その後、ブレカナのリプレイ集「ロード・オブ・グローリー」で要約されているので、大雑把に記述すると、
ダンジョン内の移動はそのまま、物語に直結していた
その後、広い世界へと旅をすることを望み、SLGの手法をまねて、ヘクスシートを使って世界を旅するようになる。年齢を重ねたり、目的地に達するまでにモンスターに遭遇したりとしていた
物語の表現の拡散から、マップやヘクスシートは敬遠されるようになった。
よりドラマチックな表現を!

シーンからシーンへの移動へ

ブレカナの物語はシーンからシーンへの以降によって表現される。ドラマティックにシーンを演じることで、進行することで、より印象的な物語が生み出されるのである。

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