A県社会福祉士会 青年部会 勉強会 2007年12月8日 kuma


問題の所在


援助者としての専門性や社会福祉士としてのあり方などは、施設で生活支援を毎日行っている上であまり考慮されないし、そのことで、悩んだり、不満を持ったり、自己批判とか施設批判をしてもあまり生産的ではないと思う。

それよりも毎日、見も知らない他者(利用者)に対してケアをし続けることに意味があることだと実感できることのほうが大切であると思う。それがあれば、毎日の仕事のモチベーションが保てると思う。

他者をケアし続けることの意味について、福祉の心とか思いやりのこころは大切で素敵なことだとよく言われる。または、福祉は倫理性の高い仕事=良い仕事と言われるが、実際、全然慰めにもならない。

某巨大掲示板では、介護=ウンコ取りとか、他人のウンコを取っていて楽しいの?とか、言われているが、ある面、それは事実を述べている(本気で取り合う必要はないけれど)。結局、そうしたことを仕事にしている以上、それに応えるだけの言葉をもつ必要があると思う。


報告


こうした問題の所在に対して体裁を整えて、8月に学会で発表する機会があったので、青年部会では、そのエッセンスについて簡単に述べてみたいと思う。


問題の所在から、以下の点についてまとめてみた。

1.そもそもケアとはどのような意味なのか。あるいは、どう考えられるのか。

2.そのケアの意味は、実際にどう現実に機能しているのか。

2と関連して、施設現場での利用者との関わりはどう捉えることが出来るのかであった。


1に関しては、一見当たり前のように考えられがちな、ケア=お世話とか心身の介護・支援だけではなく、他にどんな意味があるのか。あるいは、ケア→配慮とか気遣いというありきたりなとらえ方の他にどのような意味があるのかを考えてみた。

2に関しては、色々言われるケアの意味が実際の現実で働いており、納得できるのかについて。例えば、ケアする人がケアされる人に学ぶことがあるとか、ケアをするには共感とか受容が必要だとされるが、そうした必要性を学習することで、どうなるのかについて考えてみた。

 3については、これらの必要性やケアに対する真面目な取り組みをすることで、仕事上のつきあいでしかない利用者(他者)から何を学習し、自分にとって有益なモノが得られるのかを考えてみた。


8月の発表では、1〜3まである程度まとめて話し、9月に論文と提出した。一応、青年部会では15分くらいということで案内があったので、ダイジェストで述べてみることにする。詳しいことは、メールをくれればword文書で送付する。


1については、たくさんの切り口があるが、以下のA〜Cに分けてみた。


A.人がケアに向かわせる動機や心情(=要件)には、共通性や普遍性があるとされ、その要件の一つ一つを取り出して論究する。例えばケアの要件には、気遣い、配慮、慈悲、利他的行為、思いやり、憐れみの情(コンパッション)、信頼、共感、傾聴、専心、良心、献身、奉仕などがあるとされる。そして、その要件の本来的な意味を宗教・哲学・倫理学の観点から、語源の探求、あるいは、学問上どのように議論されてきたのかを考察していくものがある。共通して、これらの信条はケアは広く人間の本性として認められるものであり、なにかしらの(時には衝動的な)行動を伴うものと考えられている。

B.ケア行為を行うことで援助者は、ケアの受け手〜利用者から自己実現、人間的成長、自己充足、生の肯定、多様な価値観への気づき(豊かな感性の醸成)などの効用が得られるとされる。ケアの源泉との関連では、例えば、援助者は「本来的な気遣い」への考察を行い、実践することでケアの効用が得られると考えられる。あるいは、本来性を指向することの必要性(援助者の望ましい態度)が論究される。その上でケアは決して一方通行ではなく、ケアは人が互いに生きていく上で欠かすことのできない行為であり、その意味で、公共性や社会生活の基盤として位置づける必要性について論じられる。

C.ケア関係におけるシステムに関しては、ケア関係の具体的な、例えば、身体に触れる、あるいはケアを通じた非言語・言語コミュニケーションについての考察になる。キーワードとして、身体の共同性、相互浸透、共同体と異邦性(他者性)などが挙げられる。


2に関しては、思いっきり端折ってしまいますが、ケアの意味についてまとめると

A.ケアの根源には、他者の生を無条件で肯定する〜存在を世話がある。それは公共的にも人が人として生きていくためにも重要な意味を持つ。

B.なぜなら、他者への配慮や良心、いたわる気持ちは同時に自分自身にも向けられるがゆえに生の肯定や自己成長することが確認できるからである。

C.ケアは、常に具体的で直接的な関係の中にある。そして、ケア内容は利用者の要求に応えることから始まるが故に、ケアの主導権は利用者側にある。

D.ケアは具体的であるとはいえ、AとBは、その行為を通して、私的領域(個人対個人)に回収されずに社会に開かれていることを教えてくれる。

 

少し補足して、Aの存在の世話とは、そもそも人は一人では生きていけないという根本的な弱さに起因している。なぜなら、人は、誰かから服を着せてもらい、食べ物を与えられ、言葉を教えてもらった経験〜根源的に受動的な側面があるからである。この人の受動性とは、「無条件に存在を肯定された」ことのある経験と言う。例えば、「静かにして」とか「お利口さんだったら」と言った留保条件なしに、「乳首をたっぷり含ませてもらい、髪を、顎の下、脇の下を丁寧に洗ってもらった経験。相手の側からすれば、他者の存在をそのまま受容して為される「存在の世話」がケアの根っこにある」からである。

他者の生の肯定とは、自分もまた誰かから無条件に存在の世話をなされて生きてきたという事実から、他者から生の肯定を受けてきたことを意味する。そして、これらの存在の世話は個人対個人の出来事であっても、広い意味で人類や社会がなしてきた行為である。


 3に関しては、以下の点に絞って考えてみた。

A.日常業務上、ケア関係のシステムあるいは、相互性がどのように機能しているのか

B.福祉施設において他者にケアし続ける有意味性の具体的論拠について。


A.に関しては、援助者が利用者に服を着せるとき、利用者が袖を通す腕の動きを待ち、着づらそうであれば、着やすいように方向を変えたり手を添える。または、本人の能力に応じて、服を着せるときの着せ方や支援の仕方も千差万別である。あるいは、どんなに急いでいても、口を開かない利用者に食物を詰めたりはしない。やはり、咀嚼を確かめ、嚥下を待ち、口が開かれてからスプーンは運ばれるのである(中には加減の仕方が悪く、誤飲などの事故も起こりうるが)。それは一見当たり前のように行われるが、そこに人と人が生を支え合う根源的な関係が宿っていると考える。

なぜなら業務遂行や効率を考えた場合、利用者の動きを待つ必要はないし、むしろ全て援助者が行った方がよい。そうしないのは個別性尊重や自立促進などで利用者の動きを待たなければならないといった専門職としてのスキルや言説が用意されている。しかし、こうした日常的なケア行為では、専門職であることがあまり考慮されない。さらに言うと、この行為は専門職でなくても為される自然なやりとりである。そこには、相手を迎入れ、相手を気遣い、配慮するというケアの要件が入り込んでいる。

そしてケアは、利用者の状態によって個別的に加減され、調整される。さらに、その加減は一援助者と一利用者は相互の関係性の中で、承認・否認等々無数のコミュニケーションが行われ、距離感を模索し、構築される。


B.に関しては、福祉施設で働くとは誰かのケアをすることである。自分の知り合いが利用者でいるからではない。その意味で、そこに勤めるまで誰をケアするか分からない。援助者は確かに個別に例えばAさんをケアする。援助者はAさんの障害特徴や個性を把握し、ケアの内容をオーダーメイドする。とはいえ、ケアの関係においてAさんだからケアするのではない。援助者にとってケアに向かうべき人(他者)としてたまたまAさんが目の前に現れたのである。

援助者にとってAさんがいなくても生きていけるし、Aさんも特定の援助者がいなくても生きていける。もっというなら、たとえ、その施設が無くなっても、誰かがどこかでAさんをケアするだろう。その意味で、特定の福祉施設だけが、その人の生を支えているわけではないといえる。その上、援助者あるいは福祉施設は利用者という「対象」があって成り立つ。そこに施設生活者として規定される利用者のあり方は、社会的排除や管理あるいは貧困と重なる社会福祉の重要な問いに結びつき、単にケア関係では表現できない側面がある。

とはいえ、とりあえず重要なことは、今時点、Aさんは、その施設にいて生活をしていることである。そして援助者は、Aさんの生活を支えることを通じて、人が名も知らない他者の支えによって、あるいは広い意味で、社会の中でどんな形であれ、生きていけることを知ることである。言い換えると、例えば、子どもを育てるのは母親であるといった親密圏では説得力のある「無条件の世話」というケアの言説が、社会においても為されていることを援助者は体現しているのである。なぜなら、施設という空間の中でもっとも濃密な親密さが利用者と援助者の中にあり、それは、時に決められた業務以上に成立しているからである。無論、福祉施設自体が利用者本人の行動を抑制する管理的な面があることも否めないがそれでも、連綿と続く、生を支え合う関係は、仕事の衣をまといながらも援助者と利用者の間には確実にあるといえる。

そのような大切な役割を担っている援助者であるが、毎日利用者に色々と振り回され、時には割に合わないと思うことがある。そして、相手のことを思えば思うほど、日常のケア以外で相手を気遣い、悩み、気苦労は絶えない。さらに長期化するケア関係の中で距離感を見失って苦しむことが発生しやすい。つまり、こうした人間関係にまみれるのが福祉施設では日常的に起こりうる。しかし、それでも援助者はそこで働き続ける限り、そこから逃げず、その人間関係を畏れず、選び直し、他者と向き合うことが要請されている。その結果、何が得られるのであろうか。

それは他者を知ろうとし、相手から教わることを通じて自分という枠が広がっていく、その出会いがそこにあるからではないか。そして、その関係は、長期化することで一過性では得られない他者を知ることの奥深さをじっくりと考えることが出来るからである。そして、繰り返しになるが、他者をケアすることで他者から自己の生を肯定されるという贈与が為される。事実、それは何気ないケア行為を振り返り、意識することで得られる感覚である。この感覚は、私ではなければその人が生きられないと考えるのではない。その人が複数の他者のケアによって生きていること。その事実が、自分が社会の中で生きていることを実感するのである。言い換えると、人は自分自身のために生きていながらも、他者のために生きていることに気づくのである。


結論


 ケアの意味はたくさんあるが、根源的には人が人の世話をすることを通じて生を支えあうことにある。では、なぜ生を支え合うのかは、論者によって異なるが、そのことを通じて他者の生を肯定することになり、翻って自分もまた生を肯定されることにある。

 よりよいケアをすることが何故必要かについては、自己の生の肯定感を得るには、それなりの学習と訓練〜努力が必要である。その努力によって、自分が行うケアに深みが出て、肯定感をより強く感じることが出来る。

 施設で働き続ける事の意味は、2の要素を含みながら、自分がいなくても利用者は生きていけるけど、いまここで生活している利用者と関わっていることを通じて、自分もまた社会の中で支えられている事を知る。つまり障害があっても人は生きていけることを実証している。

 さらに障害者がオムツをしていて、それを援助者が当たり前のように介助する。そこには人は誰しも無条件で世話をされてきたのであり、そこに帰ると、一見当たり前にように見えるが、その行為は人としての生の根源に触れている。


おわりに


当たり前のように言われる、福祉の心とか周到に用意される耳障りの良い福祉に関する用語、自己成長とか倫理とかを鵜呑みにしても、実際に働いていると、それは机上の空論ではと疑うし、本当は疑う以前にあまり考えていないことである。実際、私も今回のきっかけが無く、まとめることがなかったら考えることもなかった。

さらに研修などに行ったりすると、利用者の生活の質とか援助者のモラルとかを考える場合、講師などに施設は閉鎖的だとか利用者本位のサービスをしていないと批判され、結局は自分のやっていることや施設での取り組みを否定したりして、最終的に自虐的に自己批判をしてしまう傾向があるが、それではモチベーションは低くなる一方である。

まずは自分のやっていることが意味のあることだというところから出発する必要があるし、そのためにはある程度の言葉を持つ必要があると思う。

とはいえ、私は日々の業務に流されがちであり、上記のようなことを考えても、毎日の仕事が嫌になることの方がむしろ多い。しかし、きっかけはどうであれ、今回まとめたことで、よりよいケアを目指すことは、決して無意味ではないし、そのことで得られることもまた多いことを少し分かったような気がする。

少なくてもなぜ見も知らない他者である利用者のためにケアをするのかが分かったような気がする。

2008.1.14

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